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2017年5冊目。
遠藤周作の講演録。
作品を読むだけでは分からなかった著者の人柄(特にユーモア)がよく分かる。
映画となってまさに今上映されている『沈黙』。
原作を読み、映画も観に行ったが、タイトルの意味は、信者の苦しみに対する「神の沈黙」であると、そこで思考が止まっていた。
1966年に行われた著者の講演の中では、「神の沈黙」ともう一つ、むしろそれよりも先行して持っていた意味が語られていた。
それは、華々しい殉教者とは違い、汚点として葬られてしまった「踏み絵を踏んだ弱き人たち」に対する、「歴史・教会の沈黙」。
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歴史が沈黙し、教会が沈黙し、日本も沈黙している彼らに、もう一度生命を与え、彼らの嘆きに声を与え、彼らに言いたかったことを少しでも言わせ、もう一度彼らを歩かせながら彼らの悲しみを考えていくというのは、政治家でも歴史家でもなく、これはやはり小説家の仕事ですよ。(中略)彼らも人間である以上、私は彼らに声を与えたかったのです。彼らを沈黙の灰の中から呼び起こしたかった。沈黙の灰をかき集めて、彼らの声を聴きたい。(p.18)
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強虫ではなく、弱虫に対する眼差し。
美しいものにだけではなく、惨めなものにこそ向けられる愛。
遠藤周作が持ち続けたテーマが、掲載されている講演の中に色濃く映し出されていた。
もう一つの視点として、小説家の創作論として見てもとても面白かった。
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われわれ小説家は、みなさんと同じように人生がわからないでいて、人生に対して結論を出すことができないから、手探りするようにして小説を書いていっているのです。人生に対して結論が出てしまい、迷いが去ってしまっているならば、われわれは小説を書く必要がない。小説家は迷いに迷っているような人間なんです。暗闇の中で迷いながら、手探りで少しずつでも人生の謎に迫っていきたいと小説を書いているのです。
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自分の思想で登場人物を操らないこと。
自発的な登場人物の動きを通じて、著者自身が探求していることを追いかけて行くこと。
そのためには時に、アンドレ・ジッドが言うところの「デモーニッシュ(魔的)な力」の協力を必要とすること。
自分が惹かれた様々な作家の創作論を読んできて、共通することを遠藤周作も語っていた。
様々な作品が紹介されているが、どの紹介の仕方もとても興味が惹かれるもので、読んでみたいと思える作品がいくつも見つかった。