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互いに干渉し、影響を与え合う。
複雑に絡み合う生命の成り立ち。
そのリンクから解き放たれた独立したリアリティは現実足り得るのか。
生きる為の『食事』が、楽しむ為のものになり
いつか『食事』から生命維持の概念が消え去る。
総ての存在が娯楽になる。
意匠になる。
それは豊かさなのか欠落なのか。
ハギリが知見する未来の社会、Wシリーズ五作目。
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SFミステリーではあるんだけど、このWシリーズでも百年シリーズでも森先生は生きるということの意味を問うていると思う。
生命の生い立ちは、結局有機反応の複雑さにある。
ここまで複雑になる必要があったのか?。
自分の存在を意識できる能力、その複雑性が、すなわち生きているという意味だ。
しばらく前に読んだ哲学入門に我々の視覚も脳内の電気信号処理だとあった。皮膚の神経から信号、聴覚、味覚、三半規管からの信号、臭覚からの信号。過去の記憶、脳内神経間の無駄な信号。そんなものがごちゃごちゃになって生きているという幻想が生まれるのかな。ならば、電脳空間に電気信号を写し取れば我々はずっと生きられるのか。
しかし、この小説で描かれる仮想空間に魅力を感じないんだな。
僕たちは、もともと、そういうゴミに満ちた世界に生まれてのだ。
この言葉に納得しつつ、「人間は、いつか人間に決別することになるだろう。」という予言にも首肯する。
小説自体も面白かったけど、色々な示唆に考えることが多くかった。ハギリ先生とトランスファのデボラの会話はまだまだ続くかな。期待しよう。
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Wシリーズ、第五作。今まで見たこともない、閉じ込められ方をしたいつもの三人組。プラス羊攻撃。シリーズも佳境?に入り、だいぶ複雑になってきたけど——いったいどうなることやら?楽しみで仕方ない(^^ 最後のハギリ博士がデボラに嬉しいプレゼントは何か?という問いの答えにトランス・ファのとてつもない知能の高さを感じました。
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逃げたウォーカロン達がいる!という「富の谷」へ潜入するハギリ博士御一行(゜゜;)ほんわか楽しそうな世界だなぁ(^-^)と思って読んでいたけれど、途中から「もしかして、そこは真賀田四季ワールドなんじゃ…?」と恐ろしくなった(ToT)でも最後のハギリ博士とデボラの会話はほんわか(*´-`)
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S&Mシリーズの最後もバーチャルの中の話だったっけ…うろ覚え。10年以上経って、その設定がさらに洗練されて展開していたように思う。
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Wシリーズの5冊目。
今度は、ウォーカロンばかりが暮らしているという情報から、アフリカの南端の村を訪れるハギリら3人。
いつもはあまり何も起こらないシンプルな話の中で思わせぶりな考察が語られるのだけど、本作では『行ったが最後、誰も戻ってこない』と言われる謎めいた場所が舞台で、いつもとちょっと作りが違う。
そうした場所に囚われた局面の割にはハギリに緊張感もなく、敵の攻撃も長閑で、イマイチ緊迫感には欠けるのはこの本らしい?
一方、生命というものの概念について、『人の命はかけがえのないもの、この世で最も貴重なものだという信念が、本当なのか、どうしてそんなことがいえるのか、という危うい境界にまで到達した世界』で、『自分の存在を意識できる能力、その複雑性が、すなわち生きているという意味だ』と語りながら、行きつ戻りつ繰り返される考察が深淵。
『生きているものだけが、自分が生きているのかと問うのだ』、なかなか面白い。
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相変わらずハイペースでの出版で、他のシリーズと違って前の記憶が結構残ってるから話を繋げやすい
そして内容も面白い
一気に引き込まれるね
全シリーズ通してのこの時間はどのあたりになるんだろう。
100年シリーズと同じ?後?
次作も期待
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「では、彼がやられたところを、マグナダは見ていたのですか?」
「わからないけれど、その可能性が高い」
「水晶玉を使ったのですか?」
「使わないよりは、多少科学的な方法だ」
「怒っているね?」
「はい」
「言いたいことがあったら、聞くけれど」
「言いたいことは事前に申し上げました。問題は、言っても先生にはきいてもらえない、ということです」
「うん。いや、充分に理解はしているんだけれど、しかし、なんというか、好奇心が勝ったというか…」
「誘惑に負けたということですね?」
「ここは、まだなにか重要なことを隠しているように思う。そうでなくても、ここと緊密な関係を持つことは、将来的に有益だと思える。なんか、そういう感じがする」
「感じがする」
「しょうがない。論理的ではないが、研究者としての勘みたいなものだよ」
「みたいなものではなく、単なる勘ではないでしょうか?」
「そうだね。悪いことを考えるのは、みんな人間だからね」
『理念を打ち立てるほど、言葉だけの理屈を信じていない。ただ、問題を地道に解決し、障害を取り除くことで、少しずつ生きやすくなれば良いと、というのが基本にある。正解値が得られないならば、近似値で良い。誤差が小さくなる方向へ進めば、それは進歩なのだ。』
「私はデボラは生きていると思う ー 自分の存在を意識できる能力、その複雑性が、すなわち生きているという意味だ、と私は解釈しているから」
『成長するとともに、この人間社会の不合理に圧倒されることになるはずだ。人間も地球も無駄なもので汚れている。社会も間違いだらけなのだ。
そして、最も我慢ならないのは、自分の肉体が、そんな汚れた地球の一部であること、自分の躰の中に不合理で意味不明な、洗練されていない自然が残っていることだ。
彼らがボディを捨てた理由は、それだろう。』
『いつか、人間もボディを捨てる時代が来るだろう。
これは、確信できる。
そのあとには、脳もいらなくなる。脳だって肉体だからだ。
人間は、いつか人間と決別することになるだろう。』
『そうか…。
生きているものだけが、自分が生きているかと問うのだ。』
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今までのWシリーズとは少し切り離された感のある内容だった。
もちろん、登場人物は相変わらずのハギリ博士とウグイたちなのだけれど。
女王の百年密室の読後だからか、妙につながりを疑ってしまう部分もあって、色々考えを巡らせるのがとても楽しかった。
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Wシリーズも既に5冊目。あっという間ですね。
今回ハギリが訪れるのは、アフリカのとある村。ウォーカロン調査に趣いた場所で見たその光景に、ハギリたちはこの現代で「生きている」ことを考える。
この本での最大はテルグの町そのもの。これには衝撃というか、感動した。真賀田四季の頭脳は何所まで先に進んでいるのだろう。彼女の生まれた時代を思うと、そのとんでもなさに圧倒される。
前巻でもだんだんと見えてきていたが、最初はウォーカロン顔負けだったウグイも、どんどん人間味が出て来ている。森さん作品ならではの女性キャラクタの雰囲気が出て来た気がするのは私だけだろうか。感覚がまだ現代に近い所為か、彼女の持つ不安や嫌悪に安心した。
ウォーカロンも「人間はこう考える」「自分たちに欠けているものを人間は持っている、それを見つけたい」と葛藤するという。ならばウォーカロンという存在は「生きているのか?」
なぜ生きているのか? 私たちはそもそも生きているのか? 生きていることが尊いと思う現代でも難しい問いに、生きていることがそれこそ当たり前になっている世の中になると、そんなことすらあまり考えないのかもしれない。当然のように延命し、できる限り長く生きる。そんな世界で出した生きていることの答えは、きっと他にもあるだろう。
このシリーズは真賀田博士が問いかけていたこと、話していたことをいちいち思い出させる。それだけでもう、世界構築がなされている。
この時代ではなく今現在生きている身としては、人間が人間をと決別する未来を望めない。そんな私はデボラと友人にはなれないかもしれない。それでも、デボラの定義する友情を、愛おしく思えた。
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水槽の中の脳。
近いうちにこうなる、とは決して言えないけれど、限りなくリアルに沿った未来図なのではないかと思ってしまう。あり得ない、と切り捨てることができる技術ではもはやないのではないか。知識がないからなんとも言えないけど。
シンの目的が結局よく分からなかったな。どうしてハギリ博士たちを閉じ込めたんだろう。誰が人間で、誰がウォーカロンだったのか。シン(老婆)は人間、キリナバも?
ウォーカロンが人間に近づいていくこと、ほぼ人間と同化してしまうことによって、結局世界はどうなるのか。どうにもならないのか。ヴァーチャルの世界だけですべてが事足りる用になる未来がくるのだろうか。そうすれば今度はそこが「現実」になって、またさらにそこから見る「仮想空間」が生まれたりしないのだろうか。まとりょーしか。
ラスト、ハギリ博士とデボラのやりとりがめっちゃ好きです。
抜粋。
「持って回った言い方だね。えっと、ローリィが自分は生きていないと言った理由?」
「はい」
「面白い。教えて」
「理由は、彼が生きているからです」
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今回のテーマは、生きているとは?
人は考える葦である、と昔の偉い人が言ったとか言わないとか。
人は自由である。
人は思考する。
人は意志を持つ。
人は感情を持つ。
人は複雑である。
脳が、身体が、生かすのか。
夢と、現実は、違うのか。
テルグ……いい村だ。
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Wシリーズの第5巻:Are We Under the Biofeedback?~ウォーカロンだけの村があると聞いてハギリ博士が訪ねたのはアフリカの南端。警察も立ち入らない場所は富の谷と呼ばれている。案内人は遅れてやって来て行き倒れ、仲介の占い師が紹介したローリィはキャタピラ式のバイクを調達してきた。村長のシンという百歳の老人だけが人間で他のウォーカロンは肉体を持たず、バーチャル空間で生活していて、夢の中で卵というプログラムを作って利益を得ているというのだ。勿論、頭脳だけ身体から切り離すのは違法だが、利益を上げているので治外法権が認められているらしい。バーチャル空間に入ったハギリとウグイにシンはアネバネが喜ぶかも知れないと呼びに行き、アネバネも入ってきたが、シンは姿を消し、3人は出られない。教師だったというウォーカロンが協力者になって図書館で調べるがログアウトの方法は見つからず、ハギリが図書館でデボラを調べると、気に掛けているデボラは気が付いて、隔絶されている地下にデジタルラジオを持ち込み、太陽を採り入れているファーバーを媒体として介入し、村はデボラの支配下に入り、3人は救出された。占い師マグナダを脅すと、シンとキリナバに誘導されて仕事を引き受けたのだと白状した。シンは端数を集めることで富を得ていたのだが、3人を監禁して日本への亡命を画策していたのだ。解放されたことで計画が挫折したシンは研究所でハギリを襲撃するが、撃退される。デボラが協力してくれる謂われは「友情」だった~肉体という不自由なモノから解放される道もある…と
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Wシリーズの続きを読んでみたが、これがまた面白かった。
最近のスマホばかり見ている人が多くなっているのを見るに、
やっぱり体を離れて電子的な世界に行ったほうが
幸せなんじゃなかろうか、と思ったりもするけど、
この本では、そういった世界が書かれていて、
SFの面白さの一面を知ることができたと思う。
あと、本題の「私たちは生きているのか?」についても、
「自分は生きていない」という登場人物について、
「どうして生きていないというのか」という理由が
最後に出てくるけど、その理由がストンと納得できるもので、
とても良かった。
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『自分の存在を意識できる能力、その複雑性が、すなわち生きているという意味』
Wシリーズ第5弾。珍しく直球なタイトルと思ったらしっかりと英題の方で沈めてある。under the Biofeedback、つまり、意識的に制御されているか否か。生きているものだけが、生きているかと問う。寿命の概念がなくなった世界における倫理的な規範、そこに人間とウォーカロンの不合理性に対する認識の相違が表出している。