投稿元:
レビューを見る
現在も栄えている都市を世界から10個選び、その年についての歴史について、出口氏が解説しています。歴史というのは人が集まる都市を中心に営まれたものであるとすると、都市の歴史を知ることは、ある時代に覇権を得ていた文明の歴史を知ることにもつながります。
世界史を「都市の発展」の観点から見てみるのも興味深いですね。どの都市もある時代では世界の中心となっていた街です、その時から現代までどうなっているのか、それについての解説も面白かったです。同様に、日本の中の都市についても機会があれば勉強していたいと思いました。
以下は気になったポイントです。
・誰もがよく知っている世界の都市の素顔の中に、脈々と息づいている歴史の影響を見つめてみようと考えて、本書を執筆する動機となった(’p2)
・「人・本・旅」と言うように、たくさんの人に会い、たくさんの本を読み、机上で考えるだけではなくいろいろな現場に出向いて体験を重ねる旅をすることで、初めて人間は賢くなれる(p3)
・イタリア半島への諸部族の侵入が激しくなってくると、エジプトから輸送される小麦が略奪されるリスクが増えた、ローマ帝国の西側が貧しく、東側が豊かであった(p24)
・330年には、ビザンティオンをコンスタンティノープルに改名して、第二のローマにしようとした。城壁で囲み新しく宮殿を建て、ローマに残っていた元老院の貴族たちを全て呼び寄せた、官僚や軍人もすべて(p26)
・東ローマ帝国においては、宮廷や行政上の公用語がギリシア語に変わった、文化が東方文化とギリシア文化の融合となり、古代ローマ文化と異なっていったが、ローマ帝国自体は、自分たちの国は、SPQR(元老院とローマの人民)の名称で通した(p28)
・コスティニア工程は、西側の土地をもう一度取り戻そうと大軍勢を派遣して領土を奪回したが、この戦いで多数の兵力と膨大な財力を消失して国力は一気に衰微した(p29)
・西暦1000年の世界の三大都市は、コルドバ(後ウマイヤ朝)、開封(北宋)、コンスタンティノープルであり、東方の世界が西欧を圧倒していた(p32)
・キリスト教の5大教会は、ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・アレクサンドリア・エルサレムである。各教会のトップは、総主教だが、ローマとアレキサンドリアのトップは、教皇と呼ばれていた、16世紀末にモスクワは総主教座を手に入れ同格となった(p35、50)
・1054年に、両教会(ローマ・コンスタンティノープル)は相手を破門したので、西は「カトリック教会」、東は「正教会またはギリシア正教会」と自称した。一般呼称としては、ローマ教会と東方教会が妥当であろう(p37)
・スレイマン一世は、貧しい国に過ぎないフランスに「カピチュレーション」と呼ばれる外交上の特権(治外法権・帝国内での通商、居住の自由・関税自主権)を認めた(1536)、これに旨みのあることを知った、イングランド・ネーデルランドもこれを世界に広げていった(p43)
・スレイマン一世がウィーンを包囲したとき、彼の陣営からコーヒーが伝わり、そればウィンナーコーヒーの元祖となった、再度包囲したとき(1683)には大敗した、この代償として、オーストリアにハンガリーとルーマニア北西部分、ベネチアにクロアチア、ペロポネソス半島を割譲した、オスマン朝の初めての領土割譲(p44、46)
・二次にわたったバルカン戦争は、1913年に終結し、オスマン朝はバルカン半島の領土をほとんど喪失、翌年に第一次世界大戦に同盟国側に立って参戦、敗北(p55)
・現在のトルコ共和国では、突厥が、552年にモンゴル高原にて、柔然というモンゴル系遊牧国家を打ち破った年を、建国記念としている(p72)
・戦争の主力となる兵器は、重装歩兵からチャリオット(二輪戦車)、騎馬軍団、歩兵と銃、そしてタンク(戦車)へと変わっていくが、近代以前をリードした軍団は、トルクマンが主導した(p75)
・皇帝が反英のシンボルに担ぎ出されたムガール朝は、1858年に正式に滅亡、イギリス王国はこれを機に、東インド会社によるインド支配をやめて、国王の直接支配に切り替えて、名実ともに大英帝国となった(p103)
・大学の理想ともいうべき3つを開学当初から守っている、アル=アズハル大学は、カイロにある。それは、入学随時・出欠席随意・修学年限なし、である(p114)
・アイン・ジャールートの戦い(1260)は、不敗だったモンゴル軍がエジプトに初めて負けた戦いとして、歴史に名前を残している。
・ムルマーク朝の全盛期は、海の道を握った、ベネチア・マルムーク朝連合が、東西貿易をほぼ独占していた時代といえる。その繁栄の中心がカイロである(p131)
・1509年、インドの西海岸で戦われた、ディーウ沖海戦により、ポルトガルがムルマーク朝(グジャラート連合軍)を破り、インド洋はポルトガルの支配下となる(p133)
・スエズ運河が開通したとき(1869)、エジプトは財政難に苦しんでおり、スエズ運河の持ち株を売りに出した、これを購入したのがイギリス連合国、ロスチャイルド家に融資を依頼した(p139)
・シルクロードが日本では有名だが、東西交易の大半は往来が容易な海の道や、草原の道を通じて行われていて、シルクロードは商品ではなく、人や情報が行きかう道であった(p150)
・世界史に残る二大翻訳運動とは、1)中国における大乗仏教典の、サンスクリットから漢語、2)イスラム帝国における、ギリシア・ラテン語から、アラビア語への翻訳、紙を製造する最初の工場は、759年、サマルカンドに建てられた(p156)
・商(殷)は、BC16-11世紀まで栄え、周に滅ぼされ、BC256年まで続いた。古代の中国は「九州」と呼ばれていた、9つの文明があったということ(p179)
・五胡十六国時代(304-439)において、五胡とは、5つの遊牧民の名称で、匈奴・羯(けつ)・鮮卑・氐(てい)・姜(きょう)、この時から、中原の地から河北省を中心とする北側と、河南省から長江の南を拠点とする南側が対立する、南北朝時代となる、これは隋の統一まで続く(p182)
・隋や唐の前身は遊牧民なので、遊牧民とは友好関係を希求しているので、万里の長城は、この2国は関わっていない。関わっているのは「明」(p184)
・安史の乱によって唐は弱小国となったが、滅ばなかった。それはウイグル族の力を借りたので(p186)
・唐が滅んだ907年後には、5つの王朝が入れ替わり登場した、中央を除く周辺部分には、10カ国以上の国が、宋に統一(979)されるまで続いた。これを「五代十国」と呼んでいる(p189)
・燕雲16州を獲得したキタイは、広大な領土を5つの道にわけて、それぞれに都をおいた。北:上京臨こう府、東:遼東半島の東京遼陽府、西:西京大同府、南:南京析津府(北京)、中京大定府は北京の北にあった。一番南にある北京の地を、キタイでは、南の京、南京と呼んだ(p190)
・クビライが五代皇帝になったとき、モンゴル帝国は4つの国家に分かれていた、中国、ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルスであった(p195)
・人々の往来により病原菌の移動も容易になった、14世紀になって地球が寒冷化すると、食糧難から人々の抵抗力が弱まりペストの流行を招き、モンゴル帝国を滅ぼす大きな原因となる(p199)
・大航海時代とは、日本の学者のネーミング、船の大きさや航続距離を考えると、大航海とは言い難い。鄭和艦隊は、60隻、旗艦の大きさは2000トン、2万7000人、コロンブスの場合は、150トン・3隻・88名(p199、210)
・明を興した朱元璋が、北伐軍を大都に送ったとき(1368)、大元ウルスの軍勢が戦わずにモンゴル高原に去っていったのは、食糧ルートが尽きていたから(p200)
・朱元璋は、もしも宦官が文字が読めたら、自分の親書を読まれるかもしれないと考え、文字の読める宦官を全員誅殺した。この方法を一番勉強したのは、毛沢東と言われる(p207)
・永楽帝は、自分が正統な皇帝からその土地を簒奪したことは確かなので、南京を都にしたくなかった。1403年に、北平の地を「北京」と名付け、国都とした。遷都が完了したのは、1421年(p208)
・鄭和艦隊はインド洋に出没する海賊をほとんど撲滅した、寄港地での君侯同士の争いも、どちかに肩入れして子分にしていた。インド洋の大警察官であった。もしも鄭和艦隊が存在していたら、バスコダガマのインド到達がなかっただろう、艦隊の維持費と人件費、作戦行動にかかる経費を万里の長城の建設に使った(p211、212)
・先住民を追い払って支配権を確立した、ニューアムステルダムの入植者たちは、1652年になると独自政府をつくり行政全体を取り仕切り始める。これにより本国は公式に自治体として承認した(p228)
・第二次英蘭戦争の後、マンハッタン島は正式にイングランド所有となり、その代わりに、モルッカ諸島群の中のバンダ諸島(香辛料の産地:19世紀中頃まで、ナツメグなどの香辛料の世界で唯一の供給源)を得た、第三次英蘭戦争の後(1674)には、マンハッタン島はイングランド所有となり、その引き換えに、オランダは南米ギアナのスリナムを得た(p233)
・ニューヨークは、1783-1790まで首都、そして1800までは、フィラデルフィア、それ以降はワシントンとなり今日に至る(p239)
・南北の通りを、アベニュー、東から西へ、一番��、二番街と名付けた。東西の通りは、ストリートと呼び、南から北へ、一丁目、二丁目とした(p240)
・アメリカ・イングランド戦争(1812-14)は、ナポレオンがエルバ島へ流刑になったときに終戦となった、これは第二次独立戦争とっも言われ、アメリカ国家はこの戦争中に誕生している(p242)
・独立戦争が勃発したとき、フランスはイングランドと、欧州覇権をめぐって対立していたので、アメリカに味方した。(p248)
・イングランドは南アフリカ戦争(1899-1902)でネーデルランド系の原住民と戦った。勝利したが戦費はニューヨーク証券取引所で調達した。ロンドンでなかったことは、大英帝国の覇権が揺らぎ始めたことを意味した(p253)
・アメリカはアジアの戦略的パートナーとして中華民国の蒋介石を想定していたが、毛沢東が登場したので、パートナーを日本に変えざるを得なかった(p258)
・英国のノルマン朝は、1066年から今まで血統が途切れることなく続いている。ノルマン朝により、アングロサクソンのイングランド王国は滅亡し、ノルマン人の王朝となった(p271)
・国王が勝手に課税してはいけない、議会(貴族)の承認をとるべき、としたのが「マグナカルタ=大憲章」であり、最初の憲法となった(p282)
・ヘンリー8世は、1534年、王妃に男児が生まれないことを理由に離婚しようとしたが、ローマ教皇が承認しなかったので、国王至上法を発布、イングランド教会の首長は、国王であるとし、ローマ教会から離脱して、イングランド国教会を作った。新しい王妃から生まれたのが、エリザベス一世。6年ですべての修道院をつぶし、聖書を至上とするプロテスタントの信者がロンドンにやってきた。(p289)
・権利の章典(1628)により、国王や政府が勝手に税金を課すことを禁じた、その代わりに議会が国債を認め、そのチェック機関として中央銀行を設立するという現代の金融政策システムの祖形を成立させた(p296)
・ローマの人々は、ケルト人をガリア人(ガリー人)と呼んでいた、セクアナ河は現在のセーヌ川、ルテティアとは「パリ」、パリシィ族とはケルト人の中の一部族の名前(p309)
・どこの国にも国語、国家はなく、君主の住居や有力部族の集落が中心であった。唯一、知識階級の間で共通語となっていたのが、ローマ帝国のラテン語であった(p318)
・ミッテラン大統領は、ルービルに陳列する美術品を、1848年以前の作品に限定した、それ以降の作品は、ポンピドゥー・センターに集めた(p348)
・バロックとは、形のゆがんだ真珠の意味、自由で形にとらわれない華麗な造形美を形容した言葉(p400)
・ディオクレティアヌス帝はローマ帝国を東西に分割、次いで4分割すると、東の正帝として、ニコメディアに遷都、西の正帝の京都はミラノ、それ以降はローマは帝国の首都に戻らなかった(p401)
・戦争に勝って大国化したローマでは、ローマを支えていた平民層が落ちこぼれていき、みなが土地を手放していった。土地は大富豪の手にわたり、中間層は農奴化した(p408)
・ローマに存住していた貴族、官僚���商人はすべてコンスタンティノープルへ移ったが、ローマ教会だけは残った。日本も平城京から平安京へ遷都したとき、奈良の仏教寺院のボス的存在であった興福寺は残った。朝廷の実質的な支配者、藤原氏一族が、氏神様を春日大社に祀り、それは奈良に留まったので、奈良は古都になってしまったが、ローマはローマ教皇が頑張り、ローマを盛り上げた、しかし人口は100万と言われていたのが数万人程度となった(p418)
・1929年の合意では、ローマ教皇庁は教皇領をすべて手放す代わりに、バチカン宮殿と4つの教会がある区域をバチカン市国として独立を認め、その元首を教皇とするもの、教皇領の賠償金もかなりの額が、ムッソリーニから払われた(p442)
2017年6月18日作成
投稿元:
レビューを見る
異国人と宗教の話しをすることはタブーといわれていますが、世界で仕事をするには文化、人種、戦争、宗教など背景を知ることは大事だと思います。相互理解の一つ。
投稿元:
レビューを見る
ネット生保会社の創業者…と言うよりも、旅と読書をこよなく愛する著者による、世界10都市を軸にした文明史。イスタンブールから始まり、デリー、カイロ、サマルカンド、北京、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ローマと巡っていきます。
まず思ったのは、読書量が凄いということ。著者紹介には1万冊とあり、その教養が存分に反映されています。なお、「グローバル時代の必須教養」とは緊張感のあるフレーズですが、出張なんかで各都市を訪れた時に役立ちそうなちょっとしたネタという印象で、歴史の範疇を出た何か凄い知見を得られるようなものではないと感じました。
内容について、都市の世界史、と言っても都市だけを追っている訳ではなく、都市を軸にしながら時の国家の盛衰を述べていく感じです。(例えば、ローマの歴史は途中から教皇のエピソード集のような感じ)
個人的に都市のチョイスで意外だったのはサマルカンドとベルリン。各都市の章冒頭にある都市地図を見ると、この2都市がもっとも範囲が狭く、それだけ都市圏が狭いということかなと。ベルリンは東西時代の話がもっと厚いと思っていたけど、プロイセン建国に繋がる話がメインでした。
ちょっとユニークな言葉遣いもちらほら。イギリスのことはどうしても「連合王国」というワードを使うのは著者のこだわりか。
細かいところですが、図の構成や出てくるタイミングと、本文の内容との噛み合わせは改善の余地あり。
読んでいるとやっぱり現地に行きたくなる。ゆっくり滞在して、その都市について書かれた本でも読みながら回れたら最高だろうなぁ、と思わせてくれる本でした。
投稿元:
レビューを見る
歴史は新しい切り口を与えれば何度も見直すことができ、その度に新しい像を得ることができる。立ち読みしかしてないけど、この本でも改めてそのことが確認できる。
様々な運命を見守ってきたいくつかの中枢都市を取り上げ、街の成立から繁栄や衰退の繰り返しを経て現代までつなげる。文明や都市は周囲との関係の中で定義される訳で、ひとつの都市の歴史の中にも世界史が埋まっている。話はわりと簡素なので読みやすい印象。
投稿元:
レビューを見る
World history from Cities of point of view. This book encourage you to travel !(マサト)
投稿元:
レビューを見る
1.教授や研究員が書いているのではなく、社長が歴史の本を書くことが珍しいと思い、購入しました。
2.イスタンブル、デリー、カイロ、サマルカンド、北京、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ローマの10都市の歴史を知ることをコンセプトに書かれています。都市の歴史を学ぶことで、その国の文明の起源を学ぶことに通じ、ひいてはその国そのものを知ることができます。そのため、高校の世界史でも出てきたところがあるので、全てがわからなくなることはないと思います。各都市ごとに読めるので、どの章からでも読むことができます。
3.世界の各地域で栄えた都市を歴史として俯瞰することで、各地域の特徴が現代にも色濃く受け継がれていることがわかります。ただ、ヨーロッパに関しては、地域をまたいだ紛争が多い印象でした。私自身、世界史を覚えることが苦手なので、言葉が入ってこないという理由もあります。しかし、現代の都市として歴史を知っていくと、他の都市との歴史が混ざり合うため、わからなくなることが多々ありました。現代から学ぶ時には、1つ注意しなくてはいけないと感じました。
また、歴史が動くときは必ずと言っていいほど、金と政治への不満が原因となってます。ロンドンにせよローマにせよ、教会の持っている資金欲しさに手を出したがゆえに反発を生んだり、独裁がいきすぎたがゆえに反発を生んだり、権力欲しさに紛争が起こったりしています。このように、人間の欲望が歴史を動かす原因なのだと実感しました。
投稿元:
レビューを見る
歴史と本をこよなく愛する出口さんだからこその視点で描かれた本。本だけではなくその枠を飛び越えて実際に旅をして、その街のにおいを嗅ぎたくなる。特にサマルカンド。
こういう話が歴史教科書の副読本になれば、学生も関心を持つのではないかと感じた。
投稿元:
レビューを見る
地理+歴史のタテヨコシリーズ。前半の都市は行ったことがなく、生きてるうちに一度訪れなければ。後半の都市は行ったことありますが、こういう知識を得て再訪したいですね。都市、という切り口から、また世界史への興味が深まりました。