紙の本
心にじんと凍みる
2019/03/29 19:08
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久々に読み返したら、心にしみてくる感じがして、改めていいなあと思ったのでレビュー。瞑想的にかつより深く生きてみたくなります。
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「シャワリング ウイズアウト クラウズ」「こころで身体の声を聴く」以来、3冊目のOSHOの本。読めば読むほど、こだまが返ってくる。
今回の本で、いちばん印象に残ったのは「12年間あることに没頭したら、その後の12年間はまったく別のことをしなさい。するとあるときまた、ふとそのことをしたくなる。そのときこそ、そのことは本当に自分の一部となり、血となり骨となるときだ」というような記述。深い…
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何処から読んでも、「気づき」を与えてくれる本。
望みがたかくなればなるほど、良くなっている筈なのに苦しくなる訳も書かれている。
ーあなたが考えれば考えるほど、あなたは神から遠くなる。エゴとはあなたが過去に蓄積した思考そのものである。あなたがいなくなれば、神がいる-それが創造性である。
OSHOは看破している。頭の何処かで気がついていることがハッキリする。
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もし創造性を発揮しようと思うなら、自分の中にあるすべての条件付けを取り払わなければならない。さもなければその創造性は借り物に過ぎず、それは単なるカーボンコピーである。
人間は個人として存在しえたときにのみ、創造的になれる。集団心理の一部であったら創造的にはなりえない。
集団心理は非創造的であり、それは活気のない生である。それは機械的なものである。
創造的な人は多くの人が歩む道に従うことが出来ない。彼は1人で行かなければならない。彼は集団マインド、集団心理からの落ちこぼれでなくてはならない。
集団マインドはこの世で最も程度の低いマインドである。しかし集団であることは、それ自体に誘惑性がある。
集団的なマインドを破壊し、一人ひとりを自由に解放し、彼自身、彼女自身にする。
個人に対して自分自身になる自由、本当の自分自身になる自由、彼が生きたいように存在する絶対的な自由を与えない限り、人間性が存在するとは言えない。
誰もが他人に干渉するべきではない。
創造的な人間とは洞察力を得た人間である。今まで誰にも見えなかったものを見ることができる人間である。今まで誰も聞いたことがないものを聞く人間である。そのとき、そこに創造性がある。
仏陀のように瞑想的であり、クリシュナのように愛に満ち、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチのように創造的でなければならない。その3つをすべて同時に達成しなくてはならない。
今までの覚醒者たちは人類全体を変容させることはできなかった。人類全体の意識をあげることができなかった。私達はもっと多くの覚醒者、三次元的に覚醒した人間を必要としている。
論理はひからびているが、詩は生き生きとしている。
論理は愛することができない。愛について語ることはできるが、本当に愛することはできない。愛は非論理的に見える。
論理は冷たい。あまりにも論理的になれば人間性は消えてしまう。すると数字だけになり、もはや人間でない。それは置き換えのきく単なる数字である。
詩心、愛、感性が人に深みと温かさを与える。
リラックスして行動する。リラックスするとは流れるようなものであり、それを強制することはできない。
悪魔は次のように語る。「どうして時間を無駄にするのかね?なにかしろよー動けよ。人生は過ぎてしまう。何かしろよ!」
しかし、生の真理に目覚めた偉大な教師たちは誰もが空っぽのマインドがスペースを作り、そこに神が入り込むことを知っている。
人間のエネルギーの90%はアクティビティとして無駄に使われている。リラックスした人とはただ、強迫観念に取り憑かれていないだけのことである。
アクションは瞬発的である。前もって準備する機会はない。リハーサルもない。常に新鮮で若々しい。
物事が自然に落ちるにまかせる。それを意識的に起こそうとしてはならない。
観察し、注意深くなり、意識的になると奇跡的現象がやってくる。
もしある状況が起きれば、あなたは行動するだろうー���れが全てである。
「ねばならない」はリラクゼーションに反する。「ねばならない」がある時は必ずその背後に強迫観念がある。そしてそれは狂気を作り出す。
あなたの生に「ねばならない」がない時にだけリラクゼーションがやってくる。
全存在はこの瞬間に最高潮になっていて、この瞬間に集約されている。全存在はこの瞬間にすでに流れ込んでいる。あるもの全ては、この瞬間に流れ込んでいる。
覚醒した人は疲れることはない。彼は持っているものはなんでも与える、彼は溢れ出す。
思考がやってきては去ってゆく。そのままにしておく。超然としている。
完全に口を閉じ、動かず、下を上あごにつけ、沈黙し、思考に動かされず、空の竹のようにいる。すると突然、無限のエネルギーがあなたの中に注ぎ込まれ始める。
ただ竹になる。すると他のことはただ起こってくる。
与えるものは何もなく、受け取るものも何もない。すべては完全にありのままで良い。
創造性とは無行動からやってくるアクションのことを言う。老師の言う無作為である。空洞の竹になると、すぐに何かが起こってくる。人間の後ろに隠れている神があなたを通して出てくる。それが創造性である。
創造性とは、単にあなたが完全にリラックスしているという意味である。リラックスすることによって多くのアクションが生まれる。しかしそれはあなたが何かしているのではなく、あなたはただの乗り物に過ぎない。1つの歌があなたを通してやってくるーそれはあなたが創造したのではなく、あなたを超えたところからやってくる。
あなたがそれを作った時は、それは陳腐なありきたりのものである。あなたを通してやってきた時、それはとても美しい。それは何か、未知のものを運んでくる。
詩人が消えると、そこに創造の神がやってくる。その時、彼は憑依されていたのだ。神に憑依されること、それが創造性だ。
あなたはあなた自身を超えていかなくてはならない。そして、この超越はあなたを超えた何かがあなたにコンタクトした時にだけ起こる。
知恵の本質は自然と調和して行動することである。
動物は無意識でありながら自然と調和して行動している。人は意識的に自然と調和して行動しなければならない。
あなたは意識的に自然とコンタクトして、あなた自身を越えることができる。そして、それが知恵の本質である。自然と、宇宙のリズムと調和することだ。
無為自然、行動なき行動。至高の行動は至高のリラクゼーションを伴っているー表面では大きなアクションが起こっているが、深いところでは何も起こっていない。あるいは唯一、無が起こっている。あなた自身でない力に降参し、あなたを超えた力にゆだねることが創造することである。
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osho 師は語る。
創造性は瞑想からやってくる。
瞑想とは、ノーマインドのことだ。
それそのものに入り込み、自他の二元性が消滅した時、つまりバラの花が自分に入り込み、自分がバラの花に入り込み、二つが一つになった時、観察者と対象が一つになった時、瞑想は起こる。
そして瞑想が起こった時、神があなたに降りてくる。神が降りてきて、あなたの中を通り抜ける。その体験はすぐさま表現法を使って表現される。それが創造だと語られている。