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テレビ番組のテキスト
2020/06/02 15:25
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投稿者:ゆっくり - この投稿者のレビュー一覧を見る
濃縮された内容が知れる番組です。今回も良かったので繰り返し読めるように購入させていただきました。
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テキストは易しくあれば、優しい伴走者でもあります。
2017/05/24 07:20
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投稿者:青年知識人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「人生論ノート」は、大学生の頃、父の書斎で見かけた文庫本を失敬したのが出会いでした。難解でした。1~2行で段落が改まることが多かったり、静かに突き放すように語る文体が多かったりで、当時のアタマでは、読み進めるのがかなりの苦行でした。星霜を経て、Eテレで採り上げられるのを知り、毎回録画をして真剣に観ました。観て良かったと思いました。講師の解説は上品で、進行の二人も謙虚で見やすい番組でした。番組終了後に、テキストを購入し一気に読みましたが、当然、視聴だけでは得られない、三木清の背景やエピソードに触れられました。月並みな言い方ですが、知識人の苦悩を追体験できた気がします。名著とは言え、時代の相違から生じる理解の困難が立ちはだかる場合、それを乗り越える手助けとなる良心的なガイドブックで、懇切な伴走者になってくれる一冊です。そのうち再放送があれば、文庫版とこのテキストを併読してから視聴するのがおススメです。
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旅は過程
2017/04/01 17:05
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
NHKEテレの「100分 de 名著」は哲学者三木清の『人生論ノート』。
私が高校生大学生の頃、1970年代ですが、新潮文庫の100冊にもラインナップされていたとうっすらとした記憶にあるので、書名だけは知っていました。
残念ながら読んだことはありません。
今月のテキストによれば、三木清という人は岩波文庫の創刊にも関わった哲学者で
この『人生論ノート』が刊行されたのは1941年.
1954年には新潮文庫に入ったようです。
今回の指南役は、アドラーで一躍評判となって岸見一郎さんです。
岸見一郎さんは本来は哲学者ですから、うってつけの人選ではないでしょうか。
『人生論ノート』にこんな一節が
あるそうです。
出発点が旅であるのではない。
到達点が旅であるのでもない。
旅は絶えず過程である。
人生という旅も
また同じ。
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幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
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烏兎の庭 第五部 雑評 4.29.17
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto05/bunsho/note.html
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(2017.05.02読了)(2017.03.28購入)
「哲学入門」と「人生論ノート」を読んで、三木清に憧れたのでしょうか、そのあと配本の始まった「三木清全集」を申し込みましたが、読んだのは、第一巻と第十三巻のみで、残りは積読状態です。読みたいという気持ちはいまだにあるので、いつかきっと読めるでしょう。
全集物は、読めないものということがわかったので、「三木清全集」以後は、全集物には手を出していません。
このEテレのテキストは、『人生論ノート』の代表的な項目を丁寧に読み解いてくれているので、もう一度、『人生論ノート』に目を通してみようかと思います。
「三木清全集」では、第一巻に収録されています。
テキストでは、三木清の生涯についても簡単に触れています。
『人生論ノート』は、新潮文庫でながいあいだ版を重ねてきていますが、テキストの広告によると角川ソフィア文庫でも出版されています。岸見一郎さんの解説付きです。
【目次】
【はじめに】今、三木清を再読する意味
第1回 真の幸福とは何か
第2回 自分を苦しめるもの
第3回 「孤独」や「虚無」と向き合う
第4回 「死」を見つめて生きる
●成功と幸福(24頁)
成功と幸福は別物です。
成功は「直線的な向上」と考えられるが、幸福には「本来、進歩というものはない」。また、幸福が「各人のもの、人格的な、性質的なもの」なのに対し、成功は「一般的なもの、量的に考えられ得るもの」であり、純粋な幸福は「各人においてオリジナルなもの」だが、近代の成功主義者は「型としては明瞭であるが個性ではない」。
●虚栄心(44頁)
三木は虚栄心を、「自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッション」と記しています。
●怒り(55頁)
ひとは軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。
●旅の効用(100頁)
見たこともないようなものを見たり、発見したりすることも旅の楽しみの一つですが、三木はむしろ、見慣れたものが目新しく感じられることを旅の効用(利益)として挙げています。
●関連図書(既読)
「哲学入門」三木清著、岩波新書、1940.03.20
「人生論ノート」三木清著、新潮文庫、1954.09.30(1941年)
「哲学ノート」三木清著、新潮文庫、1957.09.15(1941年)
「語られざる哲学」三木清著、講談社学術文庫、1977.06.10
「三木清全集 第一巻」三木清著、岩波書店、1966.10.17
「三木清全集 第十三巻」三木清著、岩波書店、1967.10.17
「アドラー『人生の意味の心理学』」岸見一郎著、NHK出版、2016.02.01
「困った時のアドラー心理学」岸見一郎著、中公新書ラクレ、2010.09.10
(2017年5月3日・記)
内容紹介(amazon)
理想こそが現実を変える
哲学者・三木清の『人生論ノート』は、「死」「孤独」「幸福」など23のテーマについて綴ったエッセイ集として、刊行以来80年近く読み継がれている。ベストセラー『嫌われる勇気』の著者で、10代の頃から三木を意識し続けてきたという岸見氏が、その思想と波乱に満ちた生涯を平易に解説する。
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『人生論ノート』『哲学入門』、これら三木清の著作を以前購入し、冒頭だけ読んで放り投げてある。しかし、いまこそ読み直さなくてはならない。そう思わせてもらえる入門書だった。
「幸福」と「成功」の違い、孤独であることの大切さ、死との向き合い方。歳を重ね、三木が亡くなった年齢を超えた今だからこそ伝わるものがあるように思える。
言論活動に無言の圧力がかかる時代に、あえてその網をすり抜け、時代の潮流と異なることを表現しようとした三木の姿勢は、2010年代の日本でこそ、見直し見習わなくてはならないと思う。
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・「成功は量的なもの、幸福は質的なもの」
・虚栄(バニティ)は人間そのもの
1. 虚栄を徹底する
2. 虚栄心を小出しにする
3. 創造によって虚栄を駆逐する
人生とはフィクションを創ること
・英語のパーソン(人間)=ラテン語のペルソナ(仮面)
・愛と嫉妬は厳密には区別しづらい
・ひとは自分の想像力で作り出したものに嫉妬する。
<嫉妬の対象>
1. 自分よりも高い位置にある人
2. 自分よりも幸福な状態にある人
3. 特殊なものや個性的なものではなく量的なもの、一般的なもの
→平均化を求める傾向がある。
→自分や他社の個性を認めることが大切
・怒りはよいが、憎しみはよくない
→個人レベルで相手を認める
・異を唱えない人々=偽善者
たとえ自分が不利なことでも言うべきことをいう。
表現者としての責任を忘れてはならない。
言わなかったことも「責任」
「生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。」
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「人生という小説は…自分自身で書く(形作る)しかありません(p45)」なんていうのは既にアドラー心理学なんていう形容詞すら不要な岸見一郎さんの発言らしい。
似たキャラクター(+状況)をバーチャルに体験することで得られるものがあるのではないかと思ったけれども,それは上手くいかなければ,その差(大抵は物語特有の逆転可能な環境である場合がほとんどなのだが)探って嫉妬に転じてしまう。似ていなければ(絶対的な差がある,あるいは「共通のもの」がない)嫉妬が起こらないというものは正にそのとおりだと思う。それはデメリットであるけれども,理想を紡ぐときの参考にもなりうる。(参考にするということが重要なんだけど)
嫉妬する人は「幸福を成功と同じに見ている場合が多い」(p24)かと思えば,「一生仮装し通した者において、その人の本性と仮性を区別することは不可能に近い」」(p47)とも。自分とは何か,人生とは何か,幸福とは何か。焦らず,すぐに出る結論ばかり求めないで「絶えず過程」が重要な人生という旅を楽しんでいきたい。
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100分de名著は、NHK Eテレの連続番組。その名の通り、週1回25分、1ヶ月4回で1クール、25x4=100分で1冊の名著を読み解いていく。
本テキストは、三木清『人生論ノート』を取り上げた月のものである(放送は2017年4月(2018年11月に再放送))。
解説は哲学者の岸見一郎。
『人生論ノート』自体を丁寧に読み解いていくのはもちろんだが、三木自身の人生にも迫る。
三木は1897(明治30)年生まれ。京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、恩師の後押しで岩波書店の後援を受け、3年間ヨーロッパに留学して、ハイデガーの下で学んだり、パスカル研究に没頭したりする。将来を嘱望された才人であったが、帰国後、当人の要望に反して、母校・京大には受け入れられなかった(過去の女性関係が問題視されたという説もあるが真偽は不明)。
東京で私学で教える傍ら、岩波書店の編集顧問のような立場に付く。その後、共産党に資金を提供したとされ治安維持法違反で検挙・起訴(1930年)されたこともあって、教職を辞すことになる。以後は在野の哲学者・社会評論家として活躍する。
アカデミズムは離れたわけだが、一方で、一般向けの著述を多く世に出すことになった。『人生論ノート』も、そうして生まれた本である。
『人生論ノート』は、元々、雑誌「文学界」に1938年から41年に掛けて、中断を挟みながら掲載された連載エッセイである。
第二次世界大戦がひたひたと近付き、そしてそこに突入する、キナ臭い時代である。当局に睨まれてもいた三木が、摘発を免れるために、あえて持って回ったレトリカルな言い方をしていると考えられる箇所も多いという。
一方で、三木の言説には「希望」がにじむ。
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。<希望について>
困難な日々の中で、何事かを達成することに価値を置くのではなく、何事かを達成しようと真摯に努力することそのものに、希望を見出していたようにも思える。結果がすべてであるならば、目的を成し遂げられなかったとき、すべての努力には意味がなかったことになる。だが、人生が運命であり、不可知であるならば、生きていること自体が希望である。
力強い言葉である。
東洋思想というと禅がまずクローズアップされがちだが、三木は歎異抄に感銘を受け、親鸞に魅かれていたという。ソフィスティケートされすぎた禅よりも、庶民と共にあり、平民に寄り添う親鸞の教義。このあたりもなかなか興味深いところである。
三木はまた、温かな家族愛を示す人でもあった。本テキストには、戦時中の赴任先のマニラから日本にいる幼い娘に宛てた手紙も収録されている。特徴のある筆跡の手紙からは、細やかな心づかいと父親らしい教育的配慮が覗く。
戦況が進むにつれ、三木自身の人生も厳しさを増していく。論壇から締め出され、徴用されて外地に配属され、伴侶とも二度死に別れた。
ついには敗戦の年の3月、思想犯である旧友を一晩泊めたことを咎められ、疎開先で逮捕、投��される。そもそも当局からは色眼鏡で見られていたわけで、口実は何でもよかったのだ。
8月、獄中で終戦を迎えたが、直ちに釈放されることはなかった。その翌月、疥癬から急性腎炎に罹患していた三木は、寝床から転げ落ちて絶命しているところを獄吏に発見される。
当時、思想犯・政治犯は、政府の思惑で、獄中に留め置かれる者が多かった。戦争責任論が高まることを恐れたのだろうか。
三木は、「死ななくてもよい命」だっただろうと言われている。
末期の三木は、獄房の冷たいベッドの上で、何を思っていただろうか。
怒りだろうか。悔しさだろうか。悲憤だろうか。
だがそこに一抹でも希望もあっただろうと後世の読者が想像することを、『人生論ノート』を遺した三木ならば、おそらく許容してくれるのではないだろうか。