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「救い給へ」
2020/09/20 21:21
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投稿者:ワシ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ホサナ」とはヘブライ語である。
日本くるぶしによって指し示された「真のバーベキュー」、その向こうには比類のない栄光が待っているはずだったのだが…。
栄光に包まれていた作者は、ネット上でストーキングまがいの事をされ、詐欺同然に四百万円を出資させられ、犬芝居を仕込むもひょっとこの妨害に遭い、栄光と真実を求めて光柱の並ぶ外洋へと出帆する。
これではまるで『吾妻鏡』や『熊野年代記』にも出てくる補陀落渡海ではないか…。虚実ない交ぜながら、作者にしては珍しく救いのないお話。
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語り手が、飼い犬とともにドッグランでのバーベキューに参加したところ、人間を焼き尽くす光の柱の現出を幻視する。そして世の犬たちの苦しみと正しいバーベキューにまつわる成功と挫折に呑み込まれた末、顕現した光の柱により崩壊した世界に迷い込む―という、壮大でありながら馬鹿馬鹿しく、それでいて哀切の漂う長編小説。
愚かな人間が、それでも正しいことをしようと思い、しかし身のうちの自尊心や羞恥心、もしくは人間存在そのものの持つ矛盾や罪業のために、誤り、滅んでいく。町田康の他の小説に見られる構造があると同時に、本作は文体が常よりも整然としているからか、笑いよりもその虚しさや悲しさを感じる。
ありえないような不思議なことが、たびたび何の前触れもなく起こるが、その理由は解明されない。解説してくれる超越者は登場しても、その超越者でさえまた誤り、滅んでいく。聖書や仏説になぞらえたメタファーかと思える事項も多いが、意味付けは転変し、転倒していく。読んでいる間はただ、そのスピードとダイナミズムが心地良い。そして本を閉じるときは、救いも報いも、自力も他力も、すべてが無力であると知らされたようで、ただひたすらな無常に打ちのめされる。
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わたくしは一体何を読まされているのか。迫りくる光柱。日本くるぶしによる宣託。跋扈するひょっとこ。人語を解す犬。小動物化する淑女。毒虫の群れ群れ群れ。奇天烈な出来事の数々をどう解せばよいか。
ドッグランやバーベキューが何食わぬ顔して存すこの世界で、これら珍妙奇天烈な時に禍々しき出来事が次々と出来する。
この不可思議な作品のありように、今も現役かどうか定かではないものの、魔術的リアリズムなる語も想起した。魔術的リアリズム、その要諦はやはり現実世界への異化であって、思えばこの作品の成り立ちにも濃厚な影を残してるといえるような気がする、震災やその後の原発の人災、その放射能の散逸がもたらした災厄の来し方行く末は。そしてホサナの叫びはどこへ届くのか。
「で、考えて欲しかったのさ。狂ってるのは僕か、世界か、ってことを。」
「そして君はどうするのかな。この現実に適応して、ならば自分も狂おう、って言って狂って生きていくのか、それとも正気を保っていきていくのか。」
光柱によって国土軸が曲げられたこの国、この現実のなかで。
一読読了し終えた今、冒頭の問いは次のように変奏させられる。わたくしはどんな世界に生きさせられ、生きておるのか。
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半分ちょい読んで挫折。いや、時間と心に余裕があったら読んだかもしんない。言葉や言ってることは面白くってにやにやゾクゾク。でも半分でお腹いっぱいと思った。買うには高いから図書館で借りたのでした。返却日が迫ってきたのでした。
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半分で返却。町蔵節。栄光に包まれるって表現おもろいなと思うけど基本この人は変わってないのでまあ良きにつけ悪しきにつけ。。
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70年代のロックミュージカル、ジーザスクライストスーパースターにホサナ、ホサナとコーラスで歌う場面があった。救い給え、という意味らしい。
町田康の新作長編、ホサナ、600ページ。この筆者に馴染んでない自分にはハードルが高かった。人間の所作や言葉を厳しく抉ってくる文章は読んでいて疲れる。現実と非現実、超常現象が重なり神の救いに向けて話が流れるような流れないような、どこに彷徨うのか先が見えない。ひょっとこの作り方まできて断念。
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あえてなんだろうけど、いつもとリズム感が違う
愛犬家の集うバーベキューパーティがあれよあれよというまに救済をめぐる壮大でぶっとんだ世界にどーん。けど、救済って人が勝手に願う都合の良い形でもたらされるものとは限らない。そうであってほしいと人は願いがちだけどね、ていう。
ひょっとこ、怖い
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良くある郊外の風景。犬連れ、飼い主たちのバーベキュー。から一転、読み進めていくうちにいろんな場面を想像するものの、いち読者として正しく読めているのかな?と不安になる。 外階段でたくさんのひょっとこに追われているなんて怖い想像ですし。
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帯には、「『告白』『宿屋めぐり』に続く新たな代表作、ここに誕生!」という惹句が踊っているわけだが、結論から言うと、騙された。
町田康氏の著作に親しんでいる人なら容易に想像できるだろうが、大概な感じで実に700ページ弱、全体を通して、おそらくはほとんどの読者がほとんどの意味を理解できぬままに終わると思う。
ただ私も冒頭に挙がった2作なんかは大好きだったりするから、もちろん断片的に感銘を受ける箇所は多々あるし、正しいものと正しくないもの、言い換えれば善悪の二元論が慣習として罷り通っている世俗の常識というものに石を投げつけて破壊を試みている文脈はよく分かる。
私たちが日常で抱く名状し難い個人的あるいは普遍的な感覚、それもどちらかといえばポジティヴではなくネガティヴな感覚を上手く話の中に埋め込んで、ちゃんと言葉で表現しきっている才もさすがと思う。
しかしながら、例えばピカソの抽象画を観て、俯瞰的に看破した、と感じることがなかなかできないように、この作品を通読して、投影されたメタファーを悉く読解できた、と言うことは至難だ。
もし読み方の正解が1つしかなく、それは著者の意図を精密にトレースすることだというならば、その小説はもはや文学ではないわけで。
読書体験を通じて自分のこれまでの人生に何らかの思いを馳せたり、これからの生き方に何らかのヒントを感じたり、自己の内にある何らかのスウィッチが反応したりすることが文学観賞の神髄だとするならば、この作品は間違いなくその範疇には入る。
不思議なことに、論旨が徹頭徹尾壊れまくったメチャクチャな物語ではあるんだけど、実は最後まで読み通すことはまったく苦痛ではなく、素直に町田ワールドを楽しみながらページを追うことができた。
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駐車場の通過にはじまり、組織が乗っ取られ失い地位を失い、ドッグフィールドの光柱に襲われる?。日本くるぶしからの意味不明の指示があって、正しいバーベキューを行わせるために踝まで砕かれる。何もかも納得のいかない疑問符。不条理の嵐が吹き荒れ、果ては世界のどん詰まりに追い込まれる。ある種の極限状態の中ではじめて普遍的価値の本当の意味を知ることとなる。
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意味不明。こういう文章は技術以前の問題で、人に何かを伝えようという気持ちがない。ならば発表しなければいい。
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支離滅裂だとか、脱線しすぎて意味がわからないという評判。その気持ちはよく分かる。
でも私は意味や結論や啓蒙を求めていないから、また「面白い」と思えた。
コレがアレのメタファーで、アレはコレの伏線で...といった分析はナンセンスでしょう。
著者は巫山戯ているのではなくて、決して多くはない「伝えたいこと」を、ニュアンスごと表現するために、過剰なほど真面目に取り組んでいるだけだと思う。
受け取る人にはそれぞれの文脈があるから、そこにポンと結論だけ放り込んでも、真意が伝わらないことは多い。
時間と空間を隔てた相手と繋がることのできる現代は素晴らしいし、異議を唱える気は全くないけど、フロー型の情報氾濫の思考回路のまま、簡潔で分かりやすい言葉を期待するなら小説なんか読まなければいいと思う。
実生活でも、ユーモアやアイロニーや違和感や納得感は、ある程度の共通認識があって、文脈を共有した相手だからこそ伝えられるものだと思っている。
話して説明することすら難しいのに、文章ではなおさら難しい。
「誰が何を思い、何を言い、何をするか」の真意は、「誰がどういう経験を経て、どういう状況でどんなタイミングで」という認識を持たせて初めて、伝えられるものだと思う。
「そういう文脈」の元だからこそフッと笑ってしまうユーモアや、ふとしたところで自分の経験が並行するような感覚がいっぱいあって、そういうところが私は好きです。
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拝読中です。
オブラートに何重にも包んでいるようで、いずれの事象も核心を鋭く突いてきており戦慄してます。
問うように現れた「呪い」と「祈り」。それが表裏一体であるならば、「呪い」ではなく純粋な「祈り」として願いを願う為にわたしはどの様な心映えで在るとよいのだろうと考えてしまいます。
凄い作品です。
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町田康「ホサナ」。「告白」「宿屋めぐり」そしてこれも、町田康の長編はとにかく分厚い。本作も692ページある。中高で使う辞書並みに分厚く重たい故、通勤電車で読む、つう気分にはならない。従って休みの日にじっくり腰を据えて立ち向かわねばならんのだけど、自分自身ここ数ヶ月どうも精神が地を這うトリップホップみたいなモードでなかなか、よし読もう!とならず、長いこと中断する羽目になってしまった。そしてようやく本日読了。
なんつうか、どう生きるのが人として正しい道なんだろう、みたいなことって、誰しも皆考えるもんなのかしら?考えるとしてどれくらいそんなことを考えるものなのか。俺はしょっちゅうそんなことを考えて、考えすぎてどうしたらいいのかホントにわからん!てなって、考えるより実践だ!って色んなとこに飛び込んではああやっぱ違うよね、とか、どんな場所にいてもどんな集まりの中でも、招かざる客みたいな心持ちになってしまってと、だいたいそんな風なんだけど。町田氏もそういったこと、そういったキャラクターを真剣に文学に昇華させようとしている、ように感じる。そしてそれをエンターテイメントとして成立させようとしている人であるので、読むのは楽しい。楽しいが疲れる。でも読む価値はある。万人には薦めないが。帯のコピー(裏側)にはこうある『愛犬家が集うバーベキューパーティーが、全ての始まりだった。私と私の犬は、いつしか不条理な世界に巻き込まれていく。』何のこっちゃ、でしょ?気になった人は手に取ってみてください。
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宿屋めぐり、人間小唄など町田氏の他の長編と比べると、本作は比較的受け入れやすい地獄であった(告白は実話をもとにしているというのもあってちょっとまた別)。
上記2作はあまりの理不尽さに気分が悪くなってしまい、もう一度読もうと言う気にはなれなかったので。というか、もう麻痺してしまったので本書が優しく感じたのかもしれない。
彼の発想力にはほとほと驚かされるが、本書で一番すごかったのはやはり「ひょっとこ」という存在を生み出したことではないか。
大学で「ひょっとこの作り方」という講座を見かけた主人公は、ひょっとこなんか作ったって飲食店の看板にするくらいで、それも安手の和食系に限定されるし、わざわざこんな講座を開くなんてバカじゃないか、と、冷やかし半分で覗きに行く。
と、そこは「ひょっとこ」の恐るべき精製術を語る講座だったのだ(ちなみにこの教授の語り口調も面白すぎる)。
人権も感情もないが確かに生きているひょっとこ。あくまでこの時点ではサブ、という感じのエピソードなのだけど、ひょっとこがいる世界というのが少しずつ状態化し始め、しまいに「わ、こんなとこにも死にかけのひょっとこが入り込んでる!嫌だなあ」とか、まるで虫かなにかのように何気ないながらも独特の存在としてストーリーに溶けこんでいくところが好き。(虫と言えば、もっと恐ろしい虫も出てくるのだけど)。
そして、担当編集が主人公に送ったメール「先生の文章はいっけん、なにを言っているのかよくわからないし、もしかしたらこの人はなにも言ってないのではないか、なにも考えてないのではないか、と思うのですがよく読むといっぱい考えて、なにも言わないでおきながらすべてのことを言っているのでは?と思わせる、なにか、があります。そこが多くの人を引きつけてやまないところなのですね。少なくとも私はそう思いたいです。無理ですけど」これを読んで、ここまで自分の文章を客観的に正確に描写できる人がいるか?と吹き出してしまった。まあ、あくまで主人公に当てたメールで、作者自身のことを言っているわけではないんだけど、そうとしか思えない。
そうそう、延喜が歌った「おーい中村君」にも度肝を抜かれた。なにをどうやったらあの場面で「おーい中村君」が出てくるんだろう。もう耳について離れない(聞いたわけでもないのに)。
(と、思ったら!この歌は本当にある歌なのですね。私、てっきりいつもの創作かと思ってました。)