紙の本
湯殿山は存在の花である
2022/11/17 22:55
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投稿者:みずくらげ - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルのとおりである。それ以上でも以下でもない。湯殿山の麓で生まれた筆者は、呼び寄せられるまま湯殿山を語る。その過程を共に体験する一冊。
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神仏に対する筆者の考え方が分かりやすく、目から鱗だった。確かにそうだなぁと感じる。
敵対するもの同士が怨敵退散を祈願した場合、神はどちらの祈願に耳を傾けるのか。神仏が一つだけなら敵対する両方を叶える訳にはいかないから、正しい願いを聞くか、さもなければ無視するのが神の正しい選択である。
神仏が複数存在するとして、神仏間の戦いを認めるか、神仏は一つと考えて。人間の個別的祈願は神の意志を反映しないから、神は人間の祈願に対して個別対応はしないとする2つに1つの道が考えられる。
人間生活から距離が大きくなれば神本来の特質を取り戻し、人間生活に近づけば近づく程、力のある魑魅魍魎の類に堕ちてしまう。
神への祈願や契約とは、神を人間側に近づけ過ぎている事。神を人間の次元に引き下げておいて、人間であれば喜ぶであろうきょうおうをさしあげるというのは、里神や家神、屋敷神、歳神と言った人間らしい神には相応しいのかもしれないが、普遍宗教になった途端、神は人間らしさを失わねばならない。沈黙し続け、現世の営みにおいては一切手助けをしない、奇跡によって介入しない神こそ、真の神。
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スコラ哲学の研究者の山内士郎さんは、スコラ哲学にいわゆる中世の神学論争という感じではなくて、フーコーやドュルーズの議論も踏まえながらのアプローチしていて、今につながるなにかを見出そうというのが、面白い。
その山内さんの湯殿山の修験についての本?なんだそれ?と好奇心が動く。
といっても、いきなりこの本にひかれたのではなくて、コッチャの「植物の生の哲学」の解説で、湯殿山の話しをかいて、そこから入ったかな?
本の最初のほうで、「存在は花なのだ」というコッチャの議論に近い話しがあるのだが、いわゆる哲学の話しは、一旦、脇におかれて、湯殿山出身の著者の幼年期の回想とか、その歴史の掘り起こしが書かれつつ、「なぜ、スコラ哲学を研究するようになったのか」みたいな個人史の発掘がされていく。
スコラ哲学と修験、基本的には関係ない。無理に関係づける必要もないものなんだけど、たまたま著者の人生のなかで、たまたまくっついただけの個別のもの。その個別性が普遍を志向する西洋哲学と対立しつつも、統合されるというか、なかなか読み取りにくい(ウィトゲンシュタイン的には、語ることができない)関係への道筋が指し示される、みたいな感じなのかな?
本は終盤のほうで、千日行や即身仏といった過酷というか、現代の視点では反人間的な宗教行為、というか、考えることもできないことが、そんなに遠くもない過去においてなされていたことが買いてあり、ここは衝撃。
そして、最後にスコラ哲学とのリンクが再度貼られて、神秘主義の経験が語られる。
そのなかで、アッシジの話しもあって、フランチェスコ派は、清貧で、庶民的な感じなんだけど、有名なスコラ学者も排出していて、唯名論的な議論を展開したんだよなと思い出す。彼らは、きっと「このもの性」、「個別性」ということを語ることで、「個別」と「普遍」が神秘主義的に統合すること意図していたんだろうな〜。(が、結果としては、「唯名論」は、近代科学に繋がっていく)
最後に「存在の花」というテーゼが再度提示される。
内容的には面白かったけど、一つ一つの議論がもうちょっとボリュームをもって語られると面白いのになとか思った。
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湯殿山の縁起であり、その麓で生まれ育った著者の少年期の
思い出であり、東北の雪国の厳しい暮らしであり、長じて
研究することとなったスコラ哲学であり。それらが幾重にも
積み重なり結びつき形作っている現在の著者の、全存在を
かけた吐露、それがこの本だ─と私は受け取った。湯殿山と
スコラ哲学がどのように結びつくのかわかったようでわから
ないのにもかかわらず、読後、魂を揺さぶられるような感動
を覚えるのはそのせいなのではないか、と。