投稿元:
レビューを見る
「千夜千冊」の人の著作。
読売朝刊2017.11.28特集記事。模倣を大事にしないと、創造は生まれないが主旨。やや詩的すぎる副題がネックかも。
投稿元:
レビューを見る
芸術や芸能にとっては予想ほど不必要なものはない。芸術や芸能は「予想を裏切ってナンボ」なのである。世阿弥は「舞に目前心後といふこと」がある、目は前を見ても心は後ろに置いておきなさいと言い、「離見の見」に徹することを奨めた。すぐ前にあることばかりを見るのではなく、離れてみなさいと説いた。能仕舞があんなに省略が効いた所作と象徴の美に徹することができるのは、離見の見のせいだ。(p.51)
そもそも「歴史はこういうものだ」と言い出したのは、キケロからランケに及ぶヨーロッパの歴史家だ。かれらはヨーロッパの記述というより世界の記述をしているいう自負をもっていた。そのぶんお膝下をどう俯瞰しているかというと、イデオロギッシュになりすぎてきた。それでも、われわれはそのような歴史観を「世界史」として教えられてきたわけだ。(p.100)
ナチスのユダヤ人ホロコーストは、ゴルドンの優生学がアーリア主義にもとづく断種になだれこんだものである。この悪夢、誰ひとりとして止められなかった。ボリアコフは、次のように書いている。「ヒトラーやムッソリーニが神話を捏造したのではない。1500年にわたるアーリア・ゲルマン神話の過剰を、人文主義者や啓蒙思想家が食い止めなかったことが問題である」と。(p.121)
本を書くという行為には、古来のオーサリング・ステージから貰ってきたスタイルやコンテクストがいろいろ混じっている。その「混じり」を排除することは不可能である。なにより言葉や概念を使うということ自体がオリジナルな行為ではありえない。本というもの、「借りもの」でいっぱいなのである。(p.168)
面影が見えるとは、たんに記憶が再生されるのではない。たんなる思い出がよみがえっているものでもない。思い浮かべられた景色にこそ面影が見える。(p.219)
世界にも世間にも確定不能や予想不能なことがあるのは当たり前で、ちぐはぐになったりあべこべになったりするからといって鬼の首を取った気になるなと言いたかったのだ。世の中はカント的にはできてはいない。サンデル的にも片付かない。世界と世間を「かわる」と「がわる」のあいだに見ることで、そこに面影が出入りすることを景色にするほうが、ずっと大事ではないかと綴ってきたわけだ。(p.220)
発見や創発は偶発なのではない。偶発的に見えたとしても、そこには「隠れたもの」が内在していたわけだから、創発には偶発性ではなくて「偶有性」というべきものがひそんでいたことになる。この情報的偶有性のことを、この用語がとても重要なのだが、ぼくはある時期からもっぱら「コンティンジェンシー」として理解してきた。(p.257)
投稿元:
レビューを見る
社会の継ぎ目があって、この継ぎ目にかかわるところには人知をめぐるゆるみというものがあり、手続きの具合というものがある。この継ぎ目に首尾一貫を持ち込みすぎると、社会は次から次へと責任問題の所在判定とその処罰とで埋め尽くされていく。
投稿元:
レビューを見る
そういえば、沖縄で読了
ほんと、と、つもり、にはあんまり差がないようなところに擬の方法があって、見立てや本歌取りとして技術になっていく
そこにはコンティンジェンシーがある
他のようにもありうる、ということがある
投稿元:
レビューを見る
松岡正剛「擬」読了。昨今何かにつけ二元論で語られることが多い。例えば、善悪、文系理系、メリットデメリット等。しかし、著者はそれらの間の曖昧さ「擬」こそが重要であるはずだと説く。確かに科学や文化はそのような中から形成されると思う。世の中の見方に別の角度がある事を教えてもらった
投稿元:
レビューを見る
松岡正剛さんが77歳のお誕生日を迎えられたそうです。ここまで、大病もなさったようですが、喜寿なのですね。ファンとしては松岡さんの長寿を寿ぐ気持ちはだれにも負けない(ちょっと大げさ!)つもりなのですが、心配もひとしおです。
本書は、これが松岡正剛!とでも言いたい「カギ言葉」、「擬もどき」を繰り出し、千夜千冊で開陳された膨大な書物の群れを読み解く道筋の一つを思想史のストーリーとしてまとめにかかった好著だと思いました。
展開が刺激的なのはいつもと同じではあるのですが、興味深く引き込まれ、新しい読書へと促される読書でした。が、何よりも、松岡正剛の今後に期待し、彼の長寿を祈る気持ちでページを閉じました。
ブログにも感想を書きました。覗いていただけると嬉しいです。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202104060000/