紙の本
本当に意地悪
2017/11/20 13:10
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ヤマキヨ - この投稿者のレビュー一覧を見る
意地悪であるためにはソフィステイケーとされている必要がある。「バカ」とか「ブス」とか思ったことがそのまま口に出るのは、児戯に等しいことである。こんなことを筆者らしく自由気ままに1冊書き連ねたのが本書ではないか。結論をはっきり言わずに、婉曲な言い回しにしたり、例え話で話をそらしたりするのは、実に意地悪である。
意地悪であることはこんなエネルギーがいることなら、平々凡々とおとなしく生きていこうと思った一冊だった。
紙の本
いったもん勝ち
2017/11/09 11:24
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「完全犯罪を計画するに人間は頭がいい以前に意地悪」と言っておきながら自分を意地悪だという作者。つまり、自称”天才”の他愛もない作品?
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この人の書いた新書だからと、気楽な調子で読み始めましたが、期待を裏切る意地悪さで面白かったです。気の抜けた様子で書かれていて、「あれ?」とよく理解できなかったところを読み返すと結構考えさせられることが書いてあります。相当意地悪な本です。著者が書かれている通りに「内容がない」のか、わかっていないのか、一度読んだだけの今は分かりません。でももう一回読んでおかないといけないと思わされるような、何かが書かれています。たぶん。
日本人と西洋人とは、悪の捉え方が違っていて、それゆえに世間一般の悪の考え方が、日本では違うニュアンスになっていると思います。そういうことや、悪を公然と行う「暴力」を行えない人たちは、意地悪を行う。そのためには頭が良くないといけない。頭が良い人はマイノリティだから、暴力という手段を取ることができないので意地悪を行う。といったような思考の迷路にはまりこんでしまうような本です。
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前著「知性の顛覆」で知性とモラルの関係について語り、今回も「暴力」と「意地悪」の違いから始まり、いつもの通りどんどん脱線しながら簡単に結論に行き着かない。この過程そのものが「巨大なる知性・思索」の結晶なのだけれど、自分にとっても、発達障害などの外来で子どもの行動分析にもとても役に立つ考察になっている。
「言葉がなくなるとキレて暴力に走る」はその通りで、学校で友達に手を出してしまう子の多くは、言語性のIQが低い。人を罵倒する言葉は得てして2文字で、短い言葉の方が衝撃度が高いからなんてのは独特の思考回路で面白い。だから、暴力を避けるための知恵は、なるべく言葉を長くすること、なるほど! 「死ね」→「死ねばいいのに!」ですか。つまり、暴力は単純で、意地悪はもっとずっと複雑な行為であると。知性の伴った表現で、相手に瞬時に意味がわからないようなものが「意地悪」である。
そして、意地悪は自分のしたことを隠そうとする方向性があり、社会の本流に属していない人が行う行為である。「社会の本流に属した人は暴力的になり、本流からズレたところにいるものは意地悪になる」
意地悪は、相手に考えさせる行為であるから、教育的な意味を含んでいる。生徒に「自分で考えろ」という導入だけして教えない意地悪な教師が教育的である。
そして、マスゾエ問題を通じて、知性とモラルが分離した現代の、モラルと離別した知性的な人間が下品になったことを説く。
勉強のできる優等生は、モラルより「勝ち負け」が大事で、不適切な状況に直面して「恥」だと思わない。
現代の知性人が捨てたモラルは、「自分の外にあって自分の利益を害するもの」で、そうするとエゴイズムをカッコつけて野放しにする方向にしか行かない。知性とモラルが同居していた頃は、内なるモラルが、外なるモラルの変質を修正する機能を持っていた。その発動形態の1つが「意地悪」であった。夏目漱石や樋口一葉。
現代は、意地悪の批評性が失われた時代なのである。
きっと落語家や漫才師、コラムニスト、一部の言論人も同様に感じているのではないかな?
知性を磨くだけでなく、知性を取り巻く「内なるモラル」に自覚的に、そしてつまるところ、他者への優しさとコミュニケーションにおけるユーモアを大事にしたいと思った。
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いとも優雅な意地悪の教本。橋本治先生の著書。意地悪は肉体的暴力や攻撃とは違う。意地悪は悪口や陰口、罵詈雑言とも違う。意地悪は本来は知的で優雅な行為。橋本治先生から優雅な意地悪の仕方を学べる良書。
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こういう日本的な感性が書き留めておかれるように外在化されないとまずいと橋本治が思ったということなのかなあ。これ自体げっそりするようなこの日本的感性がやせ細ってネット化することで現状の狭量な感性が出てくるのだろうけれど、こちらには圧倒的な共感の根がない、ということか。
読んでいてしんどくて、今からをどうするのかは何もないけれど、分析としてとても正しい。
くたびれた。昭和は遠い、平成は終わりつつある。
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「プラダを着た悪魔」のメリル・ストリープ、樋口一葉、夏目漱石、紫式部、サリエリ、岩藤までは「意地悪」話だったけど、映画の話になったら、もう収拾がつかなくなった(笑)。
文章自体は面白かったから、橋本節のお楽しみってことで私ゃ全然イイけどねー。
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【由来】
・図書館の新書アラート
【期待したもの】
・
※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
・
【ノート】
・
【目次】
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橋本治の文章を読むには、アタマにも体力がいる。
ちゃんと説明するには相応の長さ、回りくどさが必要なのだ。
その中に、見過ごせない言葉が入ってるのが橋本さんだ。
啓蒙というのはバカがいないと成り立たない、とか
モーツアルトに対するサリエリの嫉妬の内実、とか
今は正義のヒーローも金持ちで巨大組織にいるので、
悪の組織を率いる役人も「幼な馴染み」にならないと出番が得られない、とか、
論語は善は説いても、悪は考えないことになってるので
悪が規定されない状況では、善の拡大解釈が起こる、とか。
カッコ書きで視点を動かし、それくらい考えなさいとポンと連れていく。
単細胞は暴力的になるが、頭のいい人は意地悪になれる。
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残念でならない。つい先日、橋本治氏が亡くなられた。
その報に接し、長らく書棚に積まれていた本書を読んでみた。ここまで事の本質が見えると人生楽しいだろうな。それとも裏側が見えすぎて逆に楽しめなかったりするのかな?
いつものようにアチコチに話が飛んで、一言で『意地悪』がスッキリ解説されているわけではないが、最後まで通して読めばその周辺概念まで深く理解できるように巧妙に構成されている。なんと言う知性。
また一人至宝を失った。ご冥福を祈りたい。
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橋本治さんが亡くなりました。
いちどちゃんと著作を読んでおかなくてはと思っていたのに、それが亡くなってからになるとは。最近は思いがけない人が急に亡くなる。今日はドナルド・キーンさんの訃報にふれた。
で、この本。今読み始めたところだが、期待通りな予感。
そして読了。
前半がおもしろかったなぁ、意地悪って難しいんだ。憧れる。
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掴みからして面白いんですけど!
まとめたいけど、まとめられない!
莫大な知識量を惜しげもなく。
人は言葉が足りなくなるとキレて暴力に走る。言葉の数が少ない決めつけだからこそ強く響く。「バカ」は二音。言葉の数のセンテンスが長くなると人は一瞬自分が何を言われているのか分からなくなってカッとなる事が避けれる。言葉の数が多くなると暴力性は薄れる。
「死ね!」命令→「死ねばいいのに」願望→「なんで生きてるんだろ?」主語を曖昧に。それで物足りなければ「アァ!死ねばいいのに」と感嘆をつける。
《思しき事言わぬは腹ふくるるわざー兼好法師》言語化しないと体の中は欲求不満でパンパンになるので「不穏当な願望」であっても言語化した方がいい。
社会の本流に合致したものを暴力的になり社会の本流からずれたところにいるものは意地悪になる。
頭が良くなければ意地悪になれない。
単純な行為はすぐに伝播し暴力の連鎖を生む。意地悪は暴力と違って複雑。「誰がやったか」はもちろんすぐ分かってはいけないし、「何のことかよく分からない」というのが意地悪。
教師の仕事は生徒が自分の頭で考えられる様にすることで知識を与えるのはその一歩でしかないが、それだけしていると生徒は与えられるのは当然と思って自分の頭で考えることをしなくなり、甘ったれた「ほしがり屋さん」になる。だがストレートに出さない(笑)講義の漣が起きるから!その気にしておいて突き落とすのが意地悪。
不思議なもので人間は教えられなくても「馬鹿」とか「死ね」等の悪口を言う。きっと人間の脳みそのどこかには「人の悪口を言いたくなる回路」があるのだろう。でもこの「教えられなくても言う悪口」というのは単純なもの。これをとりあえず認めて「口から出やすい単純な悪口」を「複雑で頭を使う必要がある悪口を簡単に気づかれないような悪口」に変える訓練をする必要がある。
権力者が目下の者の悪口を言っているということがばれたら品性の問題に関わってくる。だからバレないように悪口を言う。意地悪の基本姿勢は完全犯罪です!端から見れば明らかに意地悪であっても当人的には清廉潔白で私が意地悪なことをしたという証拠は何もないと胸を張っていられるのが家意地悪の意地悪たる所以。意地悪というのは、いたって優雅な行為なのです。
意地悪な目がないと、性格描写や心理描写はできない。
意地悪執事→慇懃無礼
知性とモラルが分離している人が多い。
男の嫉妬最たるもの→映画「アマデウス」のサリエリ
(才能ある男と同じステージに上がろうとしても上がれず
もがき続けて一方的な嫉妬をする)
名前を言ってはいけない人。平安時代高貴な人の名前は忌み名と言って言ってはならなかった。名前には魔力がある。悪魔退散の時も悪魔に名乗らせて払う。名乗ると力がなくなるから。古今東西同じなんだなぁと感慨深い。
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誰の中にも、「憎悪」的な感情はあるもので。
それがよろしくないからと、無理やり蓋をしてたら、いつかこじれて「暴力」になるもので。
「暴力はただのバカだが、意地悪はそうじゃない」のだそう。
「暴力」よりも「意地悪」で、負の感情は適切に処理しましょ。
……というわけで、映画『プラダを着た悪魔』の編集長の「意地悪」ぶりから、『たけくらべ』『坊ちゃん』がどのように「意地悪」か、知性とモラルの分離した政治家にもっと「意地悪」をしたかった話、などなどが、ユーモアあふれる「意地悪」な文章で繰り広げられます。
大笑いして、めっちゃスッキリ。
読んだことのない「黄表紙」にも興味がわきました。
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地域によって売れる本、並べられている本が違うので、旅先の本屋に立ち寄ることが多い。
そんな矢先、本屋で見かけたのがこの本だ。
自分の中で、「優雅」と「意地悪」は、随分とかけ離れたもの同士で、それらは両立しないものだと思っていたので、どんな本かと思い、購入。
「意地悪」と「暴力」の違いという、対立構造から始まり、メリル・ストリープ、樋口一葉、夏目漱石と例を出し、意地悪の側面から紐解いていく。
意地悪とは何かに関しては、はじめに語られているように、「完全犯罪」と同じで、自分の行為がいかにして相手に気付かれないか考えて実行に移すこと、としていて明快だ。
『「意地悪」を考えるとなると、自分を意地悪される側の立場に置いて偏って考えがちです。だから、意地悪の中には「教えてやる」と言う要素が根底に横たわっているのだということを忘れがち(P45-46)』というのは、眼から鱗。
この「教えてやる」という考えから始まり、完全犯罪に仕上げていき、実行する。
突発的に「バカ」などというような、この本でいうところの「言葉の暴力」と比べれば、じっくりと熟成させていて、これこそがタイトルにある、時間をかけて作り上げる優雅さなのだ。
全体の話の流れとしては、すぐに結論にたどり着くことなく、まどろっこしく、脱線しながら進んでいく。そんな流れが自分にとって「いい」と思えた。
結論を言うのはものすごく簡単。だけどそればかりだと、受け取る人間は考えなくなって、言われた通りにやるといった、思考停止に陥るように思える。
ヒントのようなものを出して、「後は考えて」と放置する。そうすることで、聞き手の技量が試される。
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意地悪で頭の良い人が作家が書いている意地悪な文章を解説していく話。樋口一葉、読んでみようかな。嫉妬について書いてあるのは勉強になった。出来るヤツの足を引っ張る男の嫉妬。あとは「尾張が遠うございます。」