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2017.12.20 読了
冒頭の病を持つ方や、繰り返しでてくる物乞いの描写にどきっとした。
「知識」として、そういった方がいることはわかっていても、同じように生活していることからは目を背けてきたし、社会構造として見えないようにされてきた。
普段は見ないようにしてきたせいで、突然目の前に現れると、どういった行動をすべきなのか、自分はどう対応したいのか、わからなくなるときがある。
それが私の中のうしろめたさで、つながりを構築できる手掛かりなのかなと思った。
劇的な救いにはならなくても、そのつながりによって生きていけることもあるんだと知った。
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2019年1冊目。
ずっと気になっていた本をようやく。「うしろめたさ」という概念は、近年自分の中でもすごく気になっているものだった。だけどそれは、うしろめたさが「いかに人の生産性を奪うか」というネガティブな方向性の意識だった。なので、うしろめたさが「世界とのつながりを取り戻す鍵」というポジティブな打ち出しにまず驚いた。
大前提として、著者は「構築主義」という考え方に立脚している。それは、どんなことにも最初から本質的な性質が固定的に備わっているのではなく、周囲の環境含めた様々な作用によって性質が意味付けされていく、というような考え方。
著者がフィールドワークの現場として通っていたエチオピアの田舎には精神病院がない。心が病んだ人も町の人たちとの関わりの中で普通に共存しているそう。その自然な人間同士の関係性の中で、精神的な病が回復に向かう村人もいるらしい。ところが日本を見ると、少し「普通でない」と感じた場合、それを我が事から隔離して、目を背け、関わりを断つことが容易にできてしまう。おそらくそこに性質の再構築の余地はなく、社会はますます固定的になっていってしまうのではないか、と感じた。
面白かったのは、人・社会・世界の再構築に必要な「関係性」を取り戻す手段が「うしろめたさ」の感情なのだという独特な視点。物乞いにあったときに、恵まれた自分の立場にうしろめたさを感じる。そのうしろめたさから逃れるために、目を前の現実から目を背けて素通りしてしまいがちだが、もしもここでうしろめたさのままにお金を差し出したら...。それが必ずしも正しい選択なのかは置いておいたとしても、それは目の前の物乞いとの関係性を築く最初の手段になる。そうして始まった関係性から、社会の再構築が始まるのではないか。負の感情から逃げず、素直に従って行動してみる。実はそこには、関わりを断つことよりはよっぽど建設的な可能性があるのではないか。
同じ何かを渡す行為でも、「交換」と「贈与」を対比して語っているところがとても興味深い。等価の「交換」は、その一回きりで関係を終えがちで、どちらに負い目もないから情緒面は切り捨てられがちになる。だけど「贈与」は、贈る側にも「相手は喜んでくれるだろうか」「受け手が気負わないだろうか」という正負様々な感情が芽生える行為。ここに他者への共感の余地が生まれる。「面倒な親密さ」という表現が絶妙だった。
こういう「面倒」だったり「うしろめたさ」という一見負の感情にこそ、関係性を生み出す力があり、性質を再構築していく隙間がある。その視点に強く共感した。日々の仕事においても、対価をもらう場合にあってさえ、贈与の気持ちを忘れず、様々な迷いや葛藤と同居しながら、一つ一つの授受を大切にして社会を再構築していきたいと思った。去年一番影響を受けたクルミドコーヒー店主・影山知明さんの著書『ゆっくり、いそげ』とも通じる概念だと感じる。
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著者とはほぼ同年代。構築人類学者である著者は、自身の大学時代からのフィールドワークであるエチオピアでの経験から、経済(贈与・交換)、感情、関係性、国家、市場と丹念に議論を構築していく。多様性が謳われる現代で、一方で各々が否が応でも向き合うことになる「生まれながらならの不平等」に対して、人は本能的に公平さというバランスを取り戻すことを求める。その原動力になる感情こそが「うしろめたさ」である。
いじめに対する無関心(を装うこと)、大震災を前にした同情と(自分が当事者にならなかったことに対する)安堵、我々はうしろめたさを隠して日常をやり過ごしているだけかもしれない。これは、私自身の個人的な経験としても感じることである。
自分は、幸運にも資格を得て仕事を得ている。それはしかし、自分でなくてもできる仕事ではないか。いったい、仕事における自分のアイデンティティとは何なんだろうか?みんな青臭い悩みの中で、そこそこに仕事を覚え、安定し、悩みそのものを忘れていく。
常に悩み続けること、そして自分の得た財産を贈与していくこと、そういう輪を広げて行きたくなるポジティブな1冊であった。
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経済社会の常識が身に沁み付いていて、腑に落ちないモヤモヤに苛まれることがよくある。
それを解きほぐして、この「ズレ」に光をあてる構築人類学。別世界のフィールドワークが私自身の感覚にまで踏み込んで来て嬉しい。
「世界」は「社会」を越えた向こう側にあるのではなく、私の生活そのもの。自然と引かれたように見える境界線の中で安全に暮らしていては、何も動かせない。越境せよと迫られる。
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文化人類学者である著者により、これまで国家・市場・社会という概念に構築されてきた境界線を越境(再構築)し、公平な社会をつくる試みとして「構築人類学」というアプローチが検討されている。
不均衡を覆い隠しているままでは、どんなに物理的に近くても「私たち」と「彼ら」は異なる世界に存在している。
どうしようもない格差を目にしたとき、「持つ者」に生じる「うしろめたさ」が倫理的な行動を誘発し、「持たざる者」との間につながりができる。そのつながりが共感の輪となり、社会をつくりだす。
……この言説に触れたとき、改めて社会は変えるものではなく創るものなのかもしれないと感じた。つながりのないところにそもそも社会はなく、人と人との感情がつながりあったとき初めて、社会が創られるように思う。
各章の文末に、著者が大学生の頃に長期フィールドワークで訪れたエチオピアでの日記が掲載されている。本文との関連をあまり意識しないまま読み進めてしまい、いま少し後悔している。著者が本書で結論に至るまでに拾ったヒントが、その日記には隠れているのかもしれない。
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私たちが生きる世界のシステムは、どのように成立しているのか?
私たちは互いに影響を与え合いながら生きている。文化人類学は、他者の傍らに立ち、その姿を見つめ、その人の目から見る世界の姿を想像する学問だ。
私たちの思う「ふつう」の人、「ふつう」の世界は、異質な他者を孤立させることで維持されているのではないか。
私たちは今生きる現実を構築する作業に、どのように手を貸しているのだろう?
コミュニケーション
構築主義 視点を転換する力
構築人類学
自分が生きる社会への無責任で無関心な態度が、私たちのバランス感覚を崩させる。
感情って、そんなにたくさんの種類があるのかな?
全ての感情の根源には、自分が生きていることだけ見つめるとき、自分の存在だけをただ見つめているときに、湧き上がるエネルギーがあるように思える。そのエネルギーは、状況によってさまざまな形になる。そのさまざまな形に固有の名前を付けることで、いろんな感情があるように感じているだけじゃないのかな。
ああでも、そのエネルギーが失われる事に対する「恐怖」という感情は独立してあるのかも。
イアン・ハッキング
マルセル・モース 『贈与論』
ピエール・ブルデュ
メルロ=ポンティ 『知覚の現象学』
アーヴィング・ゴッフマン
マルクス『資本論』
ピエール・クラストル
ダグラス・ラミス
フェルナン・ブローデル
イゴール・コピトフ
中村元
ニーチェ 『道徳の系譜』
松嶋健
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「ぼくら一人ひとりに公平さを取り戻す責任と能力がある」けれども、それはさまざまなフィルターによって覆い隠され、忘却ないし無視されがちである。
現在の社会の形は、今ある概念により構築されているものであるため、反対に新たな価値観や概念を生み出すことによって新たな社会を作り出してゆくことも可能である。
そのための取っ掛かりとして、まず自分が不公平や不均衡に際して感じるうしろめたさに対して敏感になること。
うしろめたさを素直に受け止め、誠実にアクションを起こすことによって、不公平や不均衡の中に繋がりが生まれ、その繋がりの積み重ねにより新たな社会が構築されうる
....ということなのかな。
まず前提として、この世界には違いや多様性はあるもののそこに本質的な優劣はなく、「うしろめたさ」という感情として今表現される感情も実際のところは差異への気づきや驚きであり、それを自分の驕り高ぶりであり汚い部分だとしてごまかしたり無視しなくても良いんだっていう考えを常に思い浮かべとかないと、「うしろめたさ」という言葉がなんだかしっくり来なかった。
ただ、それも現時点で自分が属している社会における優劣の価値観に毒されすぎているからだろうけれど。
最後に、受け取る側の「負い目」についても少し触れられていたけど、できればそちらの視点からの「負い目の人類学」についても読んでみたい。
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誰になにを贈るために働いているのか?
贈り先が意識できない仕事であれば立ち止まったほうがいい。
生産者と消費者とのつながりをつくりだす。
交流は良い面もあるが、煩わしい面もある。
映画「ポバティ インク」の内容に通じるものがある。
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「きれいごと」に終始。
ー
「自分の「こころ」が人柄や性格をつくりあげている。誰もがそう信じている。でも、周りの人間がどう向き合っているのかという、その姿勢や関わり方が自分の存在の一端をつくりだしているとしたら、どうだろうか。ぼくらは世界の成り立ちそのものを問い直す必要に迫られる。ある人の病いや行いの責任をその人だけに負わせるわけにはいかなくなるのだから」
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モヤモヤする概念を明文化している本だと思う。
こういう事を他の人にも考えて欲しいけど、それを他人に伝えることは私には難しいな…と勝手な感想を抱いた。
恋人同士の呼び合う名前を変える時の話はたしかに!と思った。
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筆者は文化人類学の准教授で、エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしている。
この本の版元であるミシマ社も含め、書店で平積みにされ話題になっていた記憶がある。
筆者が20代の時にエチオピアで感じた事、その当時の日記に触れつつ現代の日本を含む世界の制度及びその制度への批判のありかたも含めた問題点をわかりやすい言葉で解きほぐしていく。
そこで言われる問題点は、例えば「国家」や「市場」という大きな枠組みで語る事によって
一方で巨大な権力を肯定し、
もう一方で個人の活動を自己責任としてしまう、
というような事だ。
そうしたわたしたちの社会やわたしたちの関係性が断絶されていく事に対して「構築人類学」として、構築されてきた現状を認識し、その現状とは違う可能性を捉えようとしている。
最近見た映画に、是枝裕和監督の「万引き家族」がある。
是枝監督は今までも家族をテーマに身近な物語を描いてきた。
パンフレットにコラムを寄せている中条省平は是枝監督の映画を貫くテーマは「家族は自明ではない」と書いている。
家族がどのように存立するのか、どうすれば家族は家族たりうるのか、そういうテーマでこれまでも映画を撮ってきたと監督自身もラジオで言っていた…と思う。確か。
「国家」も「市場」も「家族」も、自明ではないと思う。
しかし、現にあり、どのように構築されてきたかを考える必要がある。
そうして構築されてきた今の環境から、わたしたちは全くの自由ではないけれど、今のありようを知る事でそれを変える可能性はあると思う。
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気になりつつ、なかなか手に取らなかった本。
図書館でたまたま見つけ、読んでいるうちに「ちゃんと買おう」と思った。
構築人類学、という視点から、いかに社会/世界を自分事として受け止め行動に移すかということを、丁寧に考えた本だったと思う。
そして人類学なんて全く知らない私でも、きちんと読むことのできた本。それくらい、丁寧に紐解いていた。
著者が人類学者で大学の先生ということもあり、実際にフィールドワークに出たエチオピアという(日本人にとって)他者の存在を例に、展開していく。
モノやコトを手に入れるとき、お金を払うことが当然だと思って生きているわたし。
自分の社会的な立場は、一社会人として「まあこんなもんだな」と地位や収入に鈍感なところはある。自己責任、とも思う。
そういって責任を他人に押し付けないかわりに、他人や国家にたいしても「それは自分のせいでしょ」「それはお役所がやることでしょ」と思う部分も確かにあって……。
「いや、その感覚では何にもつながらないよ」とズバリ言われた気持ちになった。
「経済」「感情」「関係」というキーワードから、わたしたちが「あたりまえ」と思ってることや無意識に目をそらしていることを確認していく。
その中で、日本とは全く違った価値観・社会情勢を持つエチオピアでのエピソードや体験が例示されている。
国が違うとこんなにも価値観が違うのか、というショックはもちろん、自分が何にたいして無関心を貫いてきたのかも実感させるようなショックがある。
(これはたぶん、最終章で触れる「負い目」にもなるんだろう)
そのため、読み進めながらもためらうことがある。
そのショックを「うしろめたさ」につなげる。
タイトルになっている「うしろめたさ」は、序盤に少し出てきて、あとはほとんど終盤での登場。そんなに印象深くなる言葉でもないかもしれない。
人はそもそも他者と触れ合う時に「共感」する生き物である。
感情は内から湧き出るものではなく、周りのひとや環境に左右され、文脈の中で解釈する・されるもの。
その共感のなかに「うしろめたさ」は存在する。
目の前に隠しきれない「不公平さ」があると、公平にしようとバランスをとるのが人間。
その公平さをとろうとするのが、うしろめたい気持ち。この公平さを希求するうしろめたさが、何かしらの行動になる。
その行動(贈与)が受け取った側に何かしらの効果がある。その効果は自分にも返ってきて、それが新しいつながり(コミュニケーション)になる。
次の行動の誘発になり、間接的に社会との関りを強めていくこと……
という、解釈を私はした。
「だれかが(公的ななにかが)どうにかしてくれる」ではなくて、自分の感情(受け取った共感)に対して素直になればいいよ、行動に移すことは恥ずかしいことではないよ、とメッセージをもらった気持ち。
そのなかで「うしろめたさ」という感情が、起動装置として有効ですよ、と。
日本では感情を抑えられている、という表現もあり、確かにそうかもと思う。
��味乾燥な社会だと言いたいわけでなく、何か「見た目きれいなものを取りそろえた」風であることが何よりも良しとされるような感じだろうか。
街がきれいなことも、安定してモノを購入できる安心も、明日突然国家破綻しないだろうという思い込みも、すごく幸せで大切なことだと思う。
でもそのなかで、人とのつながりの深さとか、後腐れを避けることが「あたりまえ」になっている気がした。
とはいえ、すぐに慈善活動ができるわけでもなし。
そうおもっていたら、最終章できちんと「わたしにできること」とまとめてくださった。
構築人類学として、教授の作者として、こういうことをしていきますよ。こういう意図がありますよ、ときちんと、丁寧に書かれていた。
それを読んだ私ができること、といえば、
とりあえずそれをお手本にして、自分のできることを探してみようということだろう。
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深遠なことが、わかりやすい言葉で書かれていた。
今うまく言葉にならないが、あとからジワジワ効いてきそうな気がする。
「うしろめたさ」に共感する。
経済的に恵まれていない国。
自由のない国。
国内でも貧困に苦しんでいる人たち。
周囲の支えが得にくい人たち。
今自分はたまたま大丈夫だけれど、いつどうなるかわからない。せめて今「うしろめたさ」を感じ、何か行動に結びつけることで、今の恵まれた立場をチャラにしたいと多分私は思っている。
格差が目の前に突きつけられる発展途上国。
格差が覆い隠され、目に見えなくなっている日本。
見えない世界を見えないままにすることだけは避けたいと思う。
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エチオピアの滞在日記と考察が交互に入れ替わる形式で展開する.エチオピアの写真もたくさん挿入されていて身近な感じがする,内容は贈与という武器で公平という次元にに切り込んでいくような印象.わかりやすく読みやすかったが,内容は重大で,とても考えさせられた.「うしろめたさ」とはうまく言ったものだ.
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うしろめたさ
共感で「贈与」と「交換」の境界を超えること。
システムの分断の解消は
個人の共感性の獲得からはじまる。
自立した社会。