投稿元:
レビューを見る
https://ameblo.jp/hitori-ookami/entry-12346143280.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----hitori-ookami_12346143280
おらおらでひとりいぐも 若竹千佐子 河出書房新社
随筆と読んでも良いように思うが小説らしい
不思議を醸す三人称の主人公
主人公は「桃子さん」と三人称で呼ばれているが
呼んでいるのは書き手である若竹さんなのだろう
でありながら
桃子さんは若竹さんそのものでもあるらしい
人はこの世に生まれ
世間にもまれながら
この世の不思議を思いめぐらして一生を過ごし
一人で死んでいく
その間に誰かを愛して別れ
多分育んだ子とも別れ
常に相手があっての自分でありながらも
自分中心の人生から離れることはない
どんなに身を挺して命がけで愛したとしても
自分の選択から逃れることはできない
過去を振り返ろうが未来に夢を広げようが
依存しようが孤立しようが自律へ向かおうが
今を選んで流れる以外に道はない
それでも命がけで愛す経験をすればするほど
良かれと思って身を挺すれば挺するほど
相手に認められようがなかろうが
その人生は満たされて納得できているはずだ
一つだけ気になったのは随所に難しい熟語が入ること
ルビを付けてまで難解な言葉を選ぶ意味があるのか
想念を書き起こしたこの文章に適しているとは思えない
投稿元:
レビューを見る
芥川賞にノミネートされている作品。走馬灯というタイトルにしても良いのではないかと勝手ながら思ってしまった。愛する夫の死、孤独…老年期になり、何を思うのか。最後の2ページが良かった。
投稿元:
レビューを見る
東北弁が続く箇所はなまりがわからないと非常に読み辛いけれど、慣れてくるとそれが妙に愛おしく感じる不思議な作品。
老いと人生をテーマに描かれているのかなと思う。
投稿元:
レビューを見る
老いに襲われ、愛した夫に先立たれ、子供は疎遠、故郷も捨てた。だけど、桃子さんには悲壮感などない。強がってもいない。等身大の言葉が胸に響く。諦めも悔いも自分の一部。自分を大きく見せたり、自分なんてと卑屈になったりすることなく、積み重ねてきた年月分、それ以上でもそれ以下でもない思いの丈が詰まっている。またそれが東北弁で語られるのがたまらない。
桃子さんの内側はいつも賑やかでユーモラスに満ちている。絨毛突起があれやこれや好き勝手話し(まるでジャズのように!)、ツッコミを入れる。愉快愉快とゲラゲラ笑かされるかと思えば、こんな切実な心の叫びにはっとさせられたり。
……おら思うども、人のために生ぎるのはやっぱり苦しいのす。伸び伸びど羽を広げたい。空を自由に飛び回っていだい。それは誰もの本然の欲求だど思う。んだども自分の前になんぼ好ぎでも人がいる。その人に合わせて羽をおりただみその人に合わせで羽を動かす。苦しくなくてなんだべが
は、は、おめだ何をかだる。うづくしいもの、優れたものに身を捧げ愛に殉じる生き方をどうしてこうも非難でぎる。有難く思わねで何とする
自分よりも他人を大事にするごど、それが愛だどいう
ひたむきな愛だの、一途な愛だのとほめそやす
自分のエゴに打ち克って人の幸せのために自分を犠牲にする、それがほんとの愛だど、正しい生ぎ方だど信じ込ませる
桃子さんの半分も生きていない私には、桃子さんの言うことなんてほとんど本質的に理解できていないだろう。でも、この内面世界を覗き見ること、これは私にとってこの上ない贅沢であった。
投稿元:
レビューを見る
直木賞受賞作。誰もが来る「老い」に関して、色々と考えさせられるものであった。作中の桃子さんの人生については、現在の自分とこれからの自分、未来に起こりゆるかも知れない出来事などを映し出しているかのようだった。東北弁の語りは桃子さんの気持ちが前面に綴られているかのようで、今後の人生、過去と現在、未来の自分についてどう思うか、ひしひしと伝わり、誰しもが避けられない「老い」についての声を代弁しているようで、共感することが多々あった。今と来年以降、数年後に読み直すとまた違った視点で感じることがあるだろう。
投稿元:
レビューを見る
自分のよく知っているものに近い方言が心地よい。自分も歳を重ねれば、主人公である桃子と同じように今よりももっと頻繁に過去に思いをめぐらせ、浮き沈みするのだろうか。今の独り暮らしの境遇を良くも悪くも考えるが、総合的にみると、老いや孤独をポジティブに捉えていて、読了後が清々しい。
投稿元:
レビューを見る
東北の言葉が独特の雰囲気を作っている。主人公の思いが、呪文のような東北弁によって伝わってくる気がしました。老の寂しさを、そしてまた老の自由さを、なんとなく予感として主人公に重ねて感じました。言葉の海に浸かってる感じでした。ストーリーとしては、変化のない老人の日常で、豊富な語彙で心情を表現している作品。
宮沢賢治の春と修羅の永訣の朝の詩の中に「oraorade hitoriigumo」というフレーズが出てきますが、自己の覚悟の物語なのでしょうか。
投稿元:
レビューを見る
芥川賞を取った本は、あまり読んだことがありません。でも、読んでよかった。桃子さん、74歳、配偶者を亡くし、子供達とは疎遠、故郷は捨ててしまっている。一人で生きています。自分自身に重ねながら読みました。最近、私の中に何人もの私を感じることがあります。一人ぼっちでも彼らと生きていけるような気が、私はしています。
投稿元:
レビューを見る
いま読んでえがったな。訛りも読み解けます。リズミカルな文体で小説と現代詩のミックスといった感じ。誰だってひとりでいぐも。それを日常分かってないだけである。ラストも爽やか。オススメである。
投稿元:
レビューを見る
とてもテンポのよい桃子さんの独り言(*´∀`*)一人の寂しさ、老いへの気持ち、その他色々。切なくなったり元気を貰えたりする一冊でした。歌のような、言葉遊びのような、リズミカルな文章が読んでいて面白かった(*´ω`*)2018.01.29.読了。
投稿元:
レビューを見る
「おらおらでひとりいぐも」
を一体、どこで切るのか、どういう意味なのか、読み始めてすぐにそれは東北弁で、その故郷のことばが、主人公の根っこにあることがすぐにわかる。方言を矯正されるエピソードは、地方出身者ならば誰もが共感出来るでのはないか。全編を通して、「ことば」が主人公の世界観の中心にある。それを深く掘り下げることで、彼女自身の生死に対する理解が深まっていくというか、置かれている状況やたどってきた道を自分なりに整理し、納得する、その手助けになっている。
74歳の主人公は、最愛の夫を亡くし、子どもたちとも疎遠で、ひとり、暮らしている。その老いをひしひしと、しっかりと、日々感じ、嚙みしめる。それを綴ったのが、この作品。回想シーンは多いけれど、内面描写が主で、丁寧に描かれる。それは一般的にかかれる「老いへの恐怖」や「人生への満足感」または「後悔」とは違っていて、一人で生きることによってもたらされる究極の自由と、それによる内面の膨らみ(それこそ主人公がノートに大事に書いている脈々と続く地球上での生命の営みくらいの膨らみ)が詩のようにリズミカルに伝わってくる。読みながら、ふと、金子みすずさんの「蜂と神様」という詩を思い出した。
しんしんと折り重なる主人公の考察、思いの重なりの中に、時間の経過の生み出す痛みと喜びが滲む。
そこまで新しい感動というか、驚きはなかったけど、表現の自由さに、ハッとさせられた一冊。
投稿元:
レビューを見る
第158回芥川賞。
亭主に早く死なれ子供らとは疎遠な「桃子さん」
衰え老いていく自分と自分の中の何かと自問自答しながら生きる物語。
老い、孤独 色々な意味で考えさせられる作品であった。
投稿元:
レビューを見る
40年くらい前に津軽を旅した時に、地元のオバさんと話をしたが、半分以上理解出来なかった。
そこまでではなかったが、意味がよく分からないところが多々あった。しかし何となくリズミカルで力強い物語だったかな。
投稿元:
レビューを見る
「この先一人でどうやって暮らす。こまったぁ
どうすんべぇ」捨てた故郷、疎遠な息子と娘、
亡き夫への愛。震えるような悲しみの果てに、
74歳の桃子さんが辿り着いた、圧倒的自由と
賑やかな孤独とは。
投稿元:
レビューを見る
今年の芥川賞受賞作。山口県人の私にとって東北弁は読み辛さを感じるけれど、方言だからこそのリズムから伝わってくるものがある。主人公の桃子さんは74歳。夫に先立たれ、息子や娘とも疎遠。老いて孤独な桃子さんが内面から勝手に湧きあがってくる東北弁の声と対話する様子は井戸端会議のよう…。人は老人になり孤独になったとき何を思うのだろうと考えてしまう。「老いること」と身近な人を失う「喪失感」を、決して陰惨な話にならず、どこかほのぼのとしたユーモアに包んでいる。「自分は自分の力で生きていこう」という前向きな人生観が伝わってくる。