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右翼ポピュリズムによる官僚批判が政治の中心になってしまっていることを本書は、指摘する。
藤田孝典さんが以前ツイッターで紹介していた本です。
図書館へリクエストして借りて読んでいます。
グローバリズムとは地球規模の官僚化とは、私には思いもよらない指摘である。
自己実現とは個人ファシズムと定義する。
現代を生きるわれわれの必読書である。
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なぜわたしたちの生活はかくも「書類の作成」に包囲されているのか。なぜひとは「官僚制」のゲームに魅せられてしまうのか。新自由主義は政府による規制の緩和を訴えているはずなのに、なぜ国家の統制がより強まってしまうのか? ――本書のグレーバーは、意味があるのかどうかもよく分からない書類作成に追われている現在の大学人の実感、現代の人間がいかに多くの規則と文書に支配されているかという実感をうまくすくい取りながら、企業文化のそれも含み込めながら、「官僚制」を再定義してみせる。つまり、官僚制とは、国家や地方自治体のような公的組織にのみかかる制度ではない。また、官僚制批判は右翼の側の専売特許というわけでもない。グレーバーは、官僚制をめぐるいくつかの思い込み、暗黙の前提をひとつひとつ解きほぐしながら、左翼の立場からの官僚制批判を成立させるためのプラットフォームを準備していく。
もうひとつ興味深いのは、グレーバーが、テクノロジーの発展や革新とネオリベラルな政治=経済体制との間には何ら必然的な結びつきはない、と楔を打ち込んでいることだ。そうすることで、テクノロジーの登場初期に生起する解放のヴィジョンを再発見し救抜しながら、逆に、そのような潜在的可能性を政治的な争点にさせないようにアジェンダを作っていくネオリベラルな体制の政治性を露呈させていく。これこそまさに、21世紀日本の経産省=経団連的な未来像(Society5.0)への最も根本的な批判と言えるだろう。
グレーバーの名前を最初に知ったのは、たしかオキュパイ運動の時期、反グローバリズム運動と新しいアナキズムしそうとを結び付けた理論的旗手としてだったとおもう。だが、個人的には本書の議論の方がはるかに腑に落ちるものだった。グレーバーの議論を参照すると、たとえば安倍政権に対する批判的な議論を立てる際、〈法の支配から人の支配へ〉という枠組みが適切なのか疑わしい、ということになる。つまり、その批判は結局のところ、「もっと国家をちゃんと運営しろ」というレベルの話になってしまう。それは確かにそうなのだけれど、じつは安倍政権のありようこそ、ネオリベラルな政治=経済体制の直線的な帰結とも見ることができる。なぜなら、グローバーに言わせれば、官僚制的システムの本性は、上の人間がルールを破っても咎められないという点以上に、下位者たちが「そんなルール破りはなかった」と偽り続ける意志の貫徹にこそあるのだから。
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グレーバーの著作は着眼がユニークで、思いもかけぬ観点から物事の実相を解き明かしてくれるし、常識という固定観念が揺さぶられる。
しかし、新自由主義は本当に世の中を大きく変えてしまったのだなあ。ほぼ同時代を生きてきたのに、その大変動を意識せずにここまで来てしまった。
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訳文がちっとも頭に入ってこないので訳者後書きを読んだら,これまた頭に入ってこない文章で妙に納得した.
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非常に厚い(物理的に)本なので、全部読み切れず…
序章のみを読んだが、「官僚制」の定義や現在の社会でどのように「官僚制」が生み出されていくのかを分析しており、非常に考えさせられる内容。
ブルシットジョブの著者でもあるため、ブルシットジョブと併せて読むと良いのだろう(と思い積読中)
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極めて示唆に富む、面白い作品であった。
ここに、深い考察へと誘ってくれる著者自身の一節を、本文から引用しておく。
「官僚制の魅力の背後に潜むものは、究極的には、プレイへの恐怖である。」
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原題は『規則のユートピア』、2015年の著作。本文は約320ページ。
まず、序文にて現代のグローバル化社会の本質を以下のように説明する。
「グローバリゼーションとは、新テクノロジーによって拓かれた平和的貿易という自然のプロセスではない。「自由貿易」とか「自由市場」といった用語でもって語られてきたものの内実は、地球規模の行政官僚システムの世界初の実質的な完成であり、それも自覚的にもくろまれたくわだてであった」。
新自由主義が目指すところは官僚制と相反するどころか、「政府による経済への介入の縮減を意図する政策が、実際には、より多くの規制、官僚、警察官を生みだす」ような結果を招く。新自由主義は官僚制と矛盾するようにみえながら、むしろ官僚制を徹底的に強化する。自由な競争によって成立するはずの資本主義の特性から一見して不自然にみえるものだが、なぜこのような結果に至るかというと、著者はそもそも「市場競争は、実は、資本主義の特性にとって本質的なものではなかった」からだとする。
本書はこのような認識を前提として、三章にわたって官僚制にまつわる三つの論点を提示する。
「1.暴力」
著者自身が母親の保険申請のためにたらい回しにされた出来事を例に、官僚制の堂々巡りの空虚さを挙げたうえで、官僚制の背後に潜む暴力について言及する。第一章では、「官僚制的手続きは例外なく、構造的暴力に基礎づけられている」とし、究極的には物理的危害の脅威に依拠している事実を指摘する。著者はそのような暴力の効能を「コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす」点に見いだす。
このような普段意識することのない暴力に気づかされた契機のひとつとして、フェミニストによる文献が挙げられている。「男性は女性を理解できない」というジョークが、立場的に有利に立つ側だからこそ口にすることのできるジョークだという例は非常にわかりやすい。これは女性が常に想像力による解釈労働を期待されている状況と一体だ。そして、こうした不平等な構造は男女間だけではなく人種間、「雇用者・被雇用者」「富者・貧民」といった関係でも同様だとわかる。
「2.テクノロジー」
「なぜ空飛ぶ自動車は生まれないのか?」という素朴な問いが、第二章の論点を巧みに表現している。この問いへの回答は序文においてすでに示されている。つまり、「テクノロジーの変動は単純に独立変数であるのではない」ためである。「航空便の速度は2003年のコンコルドの放棄以来、実際には減少をつづけている」ことなどを例にあげながら、著者はこの半世紀ほどの科学の進歩を芳しくないものとしている。テクノロジーが自然に進歩していくのであれば、そのような事態は起こりえないはずだが、先のようにテクノロジーは単独で変動する存在ではなく、社会の要請あってのものだというのがポイントだ。
そして、発明と真のイノベーションを阻んでいるのが現代の企業資本主義だという点に結びつく。宇宙開発競争を例に、旧ソ連がむしろ平和目的の「詩的テクノロジー」を実現することに積極的だったのに対し、アメリカがそれ��対抗するために成しえた偉業が月面着陸だったこと、そしてソ連の消滅がむしろアメリカによる「官僚的テクノロジー」を促進したという。おそらく一般的な見立てとは逆の米ソに対する認識が面白い。
「3.合理性」
第三章は主に「合理性」をめぐる論考になっている。官僚制においては合理性はそれ自体が目的とされ、その非人格的性質の核となる。「官僚制とは、ことをなす手段を、それがなんのためになされたのかということから完全に切り離されたものとして扱う、最初のそしてただひとつの社会的制度だからである」。
本章でとりわけ興味深かったのは「プレイ」と「ゲーム」の定義である。純粋に即興的なものでありゲームや規則を生成することもできる「プレイ」と異なり、「ゲーム」とは純粋に規則(ルール)に支配された行為だとされる(デジタルゲームについても言及している)。そして、官僚制はまさに「ゲーム」的であり、「官僚制の魅力の背後にひそむものは、究極的には、プレイへの恐怖である」と指摘する。そして人々が官僚制に魅力を感じるのは、官僚制が非人格的だからこそであり、ここで原題の「規則のユートピア」に結びつく。
「補論」
映画『ダークナイト・ライジング』をはじめとするスーパーヒーローものへの分析で、本書のボーナストラック的な要素になっている。スーパーヒーローとヴィランを対比して、ヴィランのほうが常に創造的で楽しげであり、一方でスーパーヒーローはヴィランに寄生するだけの存在だと指摘する。スーパーヒーローによって反復されるドラマが導く教訓が、「想像力と反抗」の規制という考察にも頷かされる。映画『ダークナイト・ライジング』については酷評といっていい。また、本書で何度か現れる「左翼」「右翼」の本質についての論考も読みごたえがある。とくに本章では以下のように端的に表現されている。
「根本的には、左翼と右翼の完成のあいだの分岐は、想像力にどういう態度をとるかにかかっている。左翼にとって、想像力、創造性、その延長で、生産、あたらしいものごとや社会的ありようを設立する力能は、つねに称賛されるべきものである。それはこの世界におけるあらゆる真の価値の源泉なのである。右翼にとって、それは危険なものであり、究極的には悪である。創造への衝動はまた、破壊への衝動である」
著書全体のバランスとしては微妙なところも感じるが、現代の資本主義における官僚制への論考として、新鮮な指摘・考察が数多くあって面白く読むことができた。個人的には原題より邦題のほうが全体の雰囲気にマッチしていると感じる(誤字が多いのは少し残念なところ)。部分的には同著者によるのちの『ブルシット・ジョブ』につながる草稿としての側面も内包していると思えた。
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同著者の『ブルシット・ジョブ』が面白いと聞いたので、前段として読んでみた。のっけから「パーパーワーク」の誤字を発見してしまったせいもあるが、どうにも乗り切れない。終盤、ファンタジーやアメコミのたとえが出てくるあたりでぐっと飲み込みやすくはなったが、全体として読みづらかった。
また翻訳本にはありがちなことだが、注は巻末にまとめるよりも、ページか節ごとの脚注の方が明らかに参照しやすいのではないか。恐らく原著に従っているのだとは思うが。
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官僚制を、それを実効化する暴力そのものという観点から、あるいは規則の増殖という退屈そのもののような世界のゲーム化というところから、あるいは、ルールの超越に対する恐怖に対する強迫から見ると、自分自身の、もともとは単に嫌悪感しかなかった官僚制的なものに対する構えのアンビバレンツに気づくことになった。