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生存者へのインタビューなどを元に纏められたノンフィクション。
あの当時、『楯の会』内部の状況がどのようなものであったのか……ということに関しては、割と詳細に書かれている。しかしまぁ、本当のところは、三島由紀夫本人が墓に持っていってしまったんだろうなぁとも思わせる。うーん。
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1970年、三島由紀夫が、彼の率いる楯の会メンバーと陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で人質を取り、自衛隊への決起を呼びかけるも無残に失敗し、切腹自殺を遂げた楯の会事件。本書は謎の多かったこの事件が、ヒストリカルな位相で振り返ったときに、戦後史の一つの分断点にあるのではないか、という仮説を明らかにするために、当時の様子や楯の会の関係者らのインタビューを元にまとめたノンフィクションである。
私が生まれたのは1983年であり、この事件から13年後となるが、わずか10年足らず前に、このような事件が起きていた、というのは今から考えると非常に不思議な思いがする。なので、この事件については知識としては知っていたものの、三島由紀夫の狂言的なものなのか、というイメージしかなかった。
しかし、本書を読んで丹念に三島由紀夫の行動や思想を追っていくと、全共闘運動など新左翼を中心とする”政治の時代”が終焉を迎えつつあり、同時にそのカウンターとしての既存右翼の運動の理論のなさも見えてくる中で、彼がある絶望感を抱かずにはいられなかったという点が見えてくる。そういう点で、1970年の楯の会事件は、明らかにずるずると引きずりつつあった”政治の時代”に、明確なピリオドを打ったという転換点として見えてくる。
一見、狂的に見える行動を狂気の言葉で我々の思考の枠外に置いて安心するのではなく、我々との連続性の上で考え直すことの重要性を本書は示している。
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事件から10年後、昭和五十五年に出版されたものが、加筆等を経て平成30年に筑摩書房で改めて文庫化。丹念な調査や元楯の会会員などの取材をとおし、事件の真相や昭和史への位置づけを試みる。
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三島由紀夫のことも、楯の会のことも、当たり前のように知っているつもりでいたのに、関係者、楯の会の元会員や三島の昵懇だった人たちの取材を通してわかってくる姿は、そんな軽いものではなかった。
熱く、清らかで、戦後日本、日本人の魂が向かう方向に危惧を覚えた青年たちの姿が蘇ってきた。
三島は現代の私たちからすると、小難しい文章を書いて理屈っぽく感じ敬遠されがちだが、心で彼を見つめると理解できる。(というより、信頼できる兄貴のような存在だ)
三島のような人物が目の前に現れたら、私はイチコロで「アニキ!」ってついていってしまう。
まさに、三島が危惧した状態になった日本、日本人であるわけだけど、どこか近い未来にこの腐った流れを覆すマグマが吹きだす予感がしてならない。
その予兆を無意識に待望する人の数が閾値を超えると、小さな発火が大きなうねりを起こすのではないだろうか。
経済が思いっきり傷んだ現在、もう一度政治の革命を予兆する時代がくる。
だって、ガースー、だもん。
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学生時代は三島由紀夫作品を夢中に読んだ。
この事件があった事は知っていたが、詳細は知らなかった。三島文学の純粋性から何となく連想出来るが天皇や自衛隊に対する考え方には違和感を感じる。
でも自衛隊が米国の属軍となって中国に対峙している現在の状況を三島が見ていれば、どう感じるのだろうか?
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三島由紀夫が志向したものはなにだったのか?
あの事件はなにをもたらし、我々はなにを受け取り、なにを受け取れなかったのか?
詳細に経緯を辿ると見えてくるものがある。
数多くある類書の中でも抜けている印象。
この丁寧な仕事こそ保阪さんだなぁ、と。
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NHK『世界サブカルチャー史』でモリス・バーマンは語っていた。「三島は、日本は他者から魂を借りていて、それは良くないことだと言った。日本はアメリカの資本主義を引き継ぎ、それが日本を破壊したと感じていた。」
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三島作品は文庫で5冊くらい(長編&短編集)しか読んでいないが、文学作品が好きな人間として三島由紀夫という名前は気にかかるし、自分が成人してから「三島事件」を知ったときにはやはり強烈だった。
事件当時、私は4歳だったので当然ながら記憶はない。知人の記憶では「中ボーのとき購買部のおばさんが『いま三島由紀夫が騒いでるよ』と教えてくれた」とのこと。
一般庶民からは「騒いでる」くらいだったんだろう。
ちなみに林家彦六『噺家の手帖』には、
「三島由紀夫氏の事件以来、新聞雑誌の記事に顕示欲という文字が盛んに使われるようになった。顕示欲の強い性格云々といったぐあいにだ。昔はそんな廻りくどい言はいわなかったようだ。露出症患者――これだった」
と書かれている。三島の悲壮ともいえる焦燥感を「自己顕示欲」としかとらえない人もけっこういたようだ。
反日、毀日、用日の日本人及び外国人や「リベラル」を自称する左翼思考の人間、マスコミからは、日本と日本文化に誇りをもち、愛する人間が「ネトウヨ」と呼ばれてしまうような日本になってしまって悲しい。旗日に国旗を掲げられない国に未来はないと思う。まさに三島が生きたくない日本になってしまっている。そういう意味でも彼の先見性には恐れ入る。
祖国を愛する心がなければ、ほかの国を尊重したり尊敬したりすることはないだろう。自分を愛せない人が誰かを愛することができないのと同じだ。愛国者がネトウヨならば自分はネトウヨなのだろう……あれ? 俺なに言ってんだっけ?
とにかく、日本政府の稚拙な外交、近隣の中国、韓国、北朝鮮、さらにはロシア、そしてアメリカの状況などを思うと、現代こそ「楯の会」的な存在が必要ではないかと思ってしまう。
いまの日本には楯の会、というより三島のような切迫感と愛国心の持ち主は、政治家は皆無だろう。
そういう意味で、作家・三島由紀夫&楯の会隊長・平岡公威の自刃はたいへん惜しまれる。
冷笑や誹謗中傷、誤解されるだろうことは見越していたはずで、吉田松陰の歌をふと思い出してしまった。
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」