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「君の名は。」「この世界の片隅に」「シン・ゴジラ」「デスノート」「おそ松さん」「逃げ恥」など近年ヒットした作品を社会学の観点から読み解く・・・と言った切り口はありふれているかも知れませんが、本書はそう言ったものとは一線を画すと言えましょう。
大抵は作品のディテールと現代社会の風俗などを関連付けて一丁上がりな論考が乱造されていますが、本書が提示する大きな時代の流れの考察は、僕自身が抱いていた疑問の一部が解消されるきっかけになった気がします。
本書を読んでもう一度作品を見直すと新たな発見があると思います。
まさか「おそ松さん」でマックス・ウェーバーの「プロ倫」を学べるとは思いもよらなかった(笑)
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面白かったー!
これまで見てきた映画や読んできた本を、資本主義や戦後に位置付けるとこう解釈できるんだって本。
このタイトルの答えとしては「超えられていない」になるのかな。
もともと早稲田の講義なだけあって、語り口調で読みやすい。
この人の本他にも読みたくなった。
シン・ゴジラ
ウルトラマン
砂の器
力道山と木村政彦
敗戦という事実への関わり方の失敗
初めは相撲だったのに、終わってから柔道のルールで勝ちにすり替えちゃうような。
あさま山荘事件
善も、深く関わりのめり込み、狂信的になると悪に転換する
地下鉄サリン事件
誰もできないようなことをやることが、価値観に縛られない崇高な行為。悪を善に転換。
アイロニカルな没入=「そんなことは悪いことだとわかっているけどさ」
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善が悪に反転。理想の時代が終わる=連合赤軍浅間山荘事件
悪が善に反転。虚構の時代が終わる=オウム真理教事件
アイロニカルな没入
「デスノート」
「OUT」桐野夏生
「トランプの当選」
おそ松さん
ニートである自分を笑いものに=喜劇
テーマ 仕事
資本主義
プロテスタントに精神のベース
ベルーフ(召命)≒天職
おそ松さん:召命されていない人たち
「バートルビー」
呼びかけがなくても行動するには、
呼びかけを拒否することが重要。
後ろ向きに欲する ニーチェ
過去の見え方が変わる。
「世界への要求」と「恋愛」
自分が意味のある存在でありたい。
「世界の片隅」が「世界の真ん中」に。
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早稲田大学の講義録。以下印象的な箇所のまとめ。
・内輪の親密圏と広大な世界との乖離を埋めるのは、本来は学問の役割。サブカルチャーの想像力は、世界を概念的に理解する手がかりになる。成功したサブカルチャー作品は、若者たちの世界を知りたいという欲求、世界の中で自分の存在を認められたいという願望に応えているから。
・本書全体を包括する主題は、「サブカルの想像力は資本主義を超えるか」。資本主義が破局に向かっているという予感が近年高まりつつある。資本主義がどのように終わるのか、終わった後どうなるかの想像は提示されていない。グローバルな資本主義は終わりへの予感をふりまきつつ、終わりの後の想像力を許していない。我々は、フィクションを生み出す想像力のレベルで、資本主義に拮抗できなくてはならない。
<第一部 対米従属の縛りを敗れるか~シン・ゴジラ>
・現代の若者は、昔の若者より、社会や国のために役立ちたいというメンタリティーの人が増えている。『シン・ゴジラ』ではオタクっぽくて使えないと思われていた人たちが、社会の中で活躍してゴジラを倒す。オタクが世界的連帯の中心になる。
・ゴジラは怪獣だから連帯するのは当たり前。現実の中で我々が苦しんでいる問題は利害関係が複雑。
・『ウルトラマン』は『スーパーマン』をモデルにしている。スーパーマンはアメリカという国家の理念に共感したからアメリカ人を助けている。ウルトラマンは、日本の国家理念に共感したわけではない。偶然日本人のハヤタ隊員の命を奪ってしまったから、日本人のために戦っている。しかし、その理由づけは弱い。ウルトラマンにとっては、怪獣も地球人も異星人。何故ウルトラマンは日本人を助けるのか内的必然性がない。
・ウルトラマンは沖縄にとっての日本であり、日本にとってのアメリカである。『ウルトラマン』の初期な脚本家だった金城哲夫さんは、沖縄出身。金城さんは自殺に近い形で変死する。
・評論家の佐藤健志は、『ウルトラマン』は日米安保条約の比喩であると指摘している。
・自衛隊が出てくる娯楽作品は多いが、在日米軍が出てくる娯楽作品は少ない。『シン・ゴジラ』は、アメリカに従属せずに日本人が自分達の力で日本を救済するフィクションを描いた。
・松本清張『砂の器』、森山誠一『人間の証明』などのミステリーでは、犯人が戦後の混乱期にやったことを隠すために犯行をしている。日本人の暗部にある「私達は戦後の混乱期に何かをごまかしてしまった。私が私であることの証になる根本的部分に何かごまかしを入れてしまった」という意識の寓話である。
・戦前戦中の柔道で無敗だった木村正彦は、戦後、力道山とタッグを組んでプロレス興行で活躍した。
・木村の柔道の師匠である牛島辰熊は、軍国主義者だった。牛島は敗戦で思想的にも敗北する。戦後、牛島はプロ柔道を主宰するが、興行的に失敗。木村は牛島を離れてプロレスに入った。
・何故木村は師匠の牛島を離れたのか。敗戦の時点で牛島は自信を喪失し、魅力を失っていたのではないか。
・プロレスでは毎回木村がまず外国人選手にやられて、力道山が逆転して勝つと���うシナリオだった。このシナリオは敗戦後の視聴者にカタルシスを与えた。
・本当は自分の方が強いと思っていた木村は、力道山と対戦する。引き分けにする約束だったが、力道山は約束を裏切って木村に勝った。木村の方が本当は力道山より強いとなれば、力道山が外国人選手に勝つという構図も八百長になってしまう故に力道山は木村に勝利する必要があった。
・日本は戦争でも政治でも思想でもアメリカに負けた。文化では負けていなかったと主張することはできる。ただその場合、政治には負けたが文化では負けていないという捻じれが生じる。その捻じれにどうやって折り合いをつけるのかという問題が生じる。
・木村は日本人から忘れられた。政治的、思想的な敗北の記憶は、抑圧される場合もあるし、排除される場合もある。木村の記憶は長らく排除された。
<第二部 善悪の枷から自由になれるか~デスノート>
・強すぎる善は、悪に変わり得る。善に深く入り込みすぎて悪に変わったのがあさま山荘事件。みんな実行できない悪を行うと善に到達できると考えたのが、オウム真理教の地下鉄サリン事件。オウムの信者たちは悪であると分かったうえで行動した。究極の悪は善に反転する。この現象を劇的に表現したのが『デスノート』。
・『デスノート』の主人公、夜神月(ライト)は、基本的に犯罪者を殺していく。法廷では裁けない犯罪者をデスノートの力で殺す。月は絶対的な信念、過剰なまでの義務感をもって人を殺し続ける。
・『デスノート』は、善と区別がつかなくなった悪を描いている。
・現代は複雑で善と悪の区別がつきにくい。
・「そんなことは悪だとわかっているけれど、悪を行う」態度を「アイロニカルな没入」という。トランプ大統領の支持には、アイロニカルな没入が感じられる。
<第三部 資本主義の鎖を引きちぎれるか~おそ松さん>
・『おそ松さん』の六つ子は大人になっても成長していない。子供のまま。何もしないことに積極的意味を見出している。
・日曜日は仕事をしない宗教的な日。ヴェンヤミンはむしろ仕事をする日こそ神聖な日だという。資本主義社会ではすべてが聖なる日であって、神から与えられた労働をする。
・ニートには、神からの召命(ベルーフ)がない。呼びかけを感じないから働かない。
・神からの呼びかけを感じているのはブルジョワジー。呼びかけを感じられず、神に見捨てられていると感じるのはプロレタリアート。
・メルヴィルの小説『バートルビー』の主人公、バートルビーはウォール街の法律事務所で書記の職種で採用されるが、法律家からの仕事の依頼を拒否し続ける。拒否の言葉は「I would prefer not to~」、「私は~をしない方がいいと思います」。バートルビーはやらない方がいい理由を一切言わない。最後には牢獄に入れられる。
・可能性には「~しないこともできる」という可能性もある。
・呼びかけに応じて働くことが美徳とされている状況で、呼びかけなしで行動するためには、呼びかけを拒否することが重要。拒否は革命の契機になる。
・ロシア革命期、穏健派のメンシェベキは、マルクス主義の歴史法則にのっとり段階的に革命を進めようとした。強硬派のレーニン率いるボルシェビ��は帝政打倒後、民主制を飛ばして共産制の確立を主張し、革命で主導権を握った。ボルシェビキは、拒否する可能性を選択した。どちらがいいともいえない。メンシェベキが主導権を握っていたら、革命自体失敗した可能性もある。
・バートルビーは資本主義に対する抵抗の寓話。連続するものに対して、不連続で切断する。
・『おそ松さん』の六つ子は、最終回で呼びかけの拒否までいかない。仕事をしたいという欲望を持ち続ける。
<第四部 この世界を救済できるか~君の名は。>
・現代では恋愛ものが受けないのに『君の名は。』、『逃げるは恥だが役に立つ』がヒットした。
・恋愛はコストがかかるが、役割分担の共同生活という結果は欲しい。逃げ恥では、まず契約結婚という結果を得る。その後、自分達は愛し合っているから結婚したというプロセスを得ようとする。逃げ恥は、今までの恋愛ドラマとは逆パターン。プロセスなしで結果を得たい欲望のあらわれ。
・婚活は結婚という結果を得るためのプロセス。契約結婚はまず結果から先に得る。
・恋愛はいつ始まるかはっきりしない。ある日偶然始まるもの。恋愛は無関係から関係への劇的な転換。「極限的な絶対的な近さへの欲求」は、『君の名は。』において、男女の体の入れ替えとして実現する。
・トランプとクリントンの選挙戦は隠れた階級闘争だった。クリントン支持者はポリティカルコレクトでエリート。トランプ支持者は、経済的、知的、政治的階級闘争の敗北者。隠れトランプ支持者はいても隠れクリントン支持者はいない。クリントン支持を表明することは、政治的に正しいことの表明になる。トランプ支持の表明は、政治的不適切と批判される。ここには、ずらされた階級闘争である。この講義は、このような問題を乗り越えるためのイマジネーションの訓練。
・前近代社会の共同体は、血縁の狭いゲマインシャフト。近代社会の共同体は、血縁、地縁を超えて、国民国家の理念で見知らぬ人々をつなぐゲゼルシャフト。現代社会では、国民国家の力が弱まっている。日本という普遍的な組織に所属している意識が希薄化しているし、地球やグローバル社会といった国民国家より大きな普遍的組織に所属している意識も希薄だ。このような状況では逆流が起きる。国民国家というゲゼルシャフトを拒否して、ゲマインシャフト的印象を与える特殊な共同体の方により強い世界性や普遍性を感じるようになる。
・逆流したゲマインシャフトには、ゲマインシャフトがかつて持っていた性質にゲゼルシャフトが持っていた性質が混入している。何故か。ゲゼルシャフトを求めて得られなかった結果としてゲマインシャフトに逆流しているから。
・『君の名は。』の主人公二人は、東京と田舎という異なる地域に所属している同時に体が入れ替わるほどに直接的な近接性がある。偶然出会った二人であるのにものすごく直接的。この両義性は、逆流したゲマインシャフト。
・『君の名は。』では、東京と地方都市の両方が幻想的に描かれる。東京のみを神格化するわけではないし、地方都市の価値を高めるわけでもない。等しく再幻想化された両者の価値は等価同列である。
・『君の名は。』は、物語の終盤、この世界を救済するという物語にコミットしたがる。世界でも日本でもなく小さな町を救うために主人公たちは使命感を持って行動する。世界の隅にいた二人のローカルな人間関係が、小さいながらも普遍的な世界の中心に来る。主人公たちの行動は革命のパロディーでもある。
・『この世界の片隅に』は、世界の片隅で淡々と生きる夫婦の日常をたんたんと描きながらも最終的には広島に原爆が落ちて、世界の中心に来てしまう。しかし、世界の片隅から世界の中心への飛躍が描けていない。戦争の終わりを告げる玉音放送を聞いた時、主人公は激高する。淡々とした彼女ならば、あそこまで激高しないだろう。しかし、日本で上映する映画の物語として、あの場面で激高せざるを得ない。激高しないわけにはいかないし、激高しても不自然。難しい問題。
・個人の親密な関係をめぐる問題と普遍的な社会の問題をどのように接続するのか。そしてどのように解決するのか。サブカルの構想力は資本主義に対峙する概念を与える。
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「シン・ゴジラ」から日米安保。「おそ松さん」から働き方改革。「君の名は」「この世界の片隅に」から宗教観や人生感を読み取り、考察する。
シン・ゴジラを見たときに感じた、安保への違和感を、この本は上手く解説してくれる。
おそ松さんは、未見なのだが、丁寧に解説してあり、作品を知らなくても楽しめる。
君の名はとこの世界のコンセプトが類似しているのは、この本に指摘されて、初めて気付いた。
エンターテイメントを見て、このような次元まで、考察することが出来るなら、さぞ楽しく見られるだろう。羨ましいものだ。
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20180515〜0521 筆者による早稲田大学での講義録をもとに構成されている。
・「資本主義が終わった後の世界」って、本当に来るのか?
私は、曲がりなりにも、一応経済学を学んだ(だいぶ前だが)学徒としては、「今のままの資本主義体制は永続しないかもしれないが、資本主義経済は形を変えて続いていく」と思う。
・でも、「おそ松さん」とマックス・ウェーバーの思想を絡めて論じているのはにやにやしながら読めた。
・「シン・ゴジラ」と「ウルトラマン」を対米関係と合わせて論じているのも興味深く読めた。対米従属の縛りから脱したら、対中従属になるだけでは?なーんて思っちゃうが。
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「おそ松くん」、「ウルトラマン」
ぐらいまでの体験(?)しかなく、
「デスノート」、「君の名は」、「シン・ゴジラ」
等…の最近の有名なモノに全く興味なく、
観ていない私にとっては、
(当たり前ですが)
ほぼわかりにくいものでありました
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社会学者の著者による、2016年にブームになったサブカル作品を中心に取り上げた講義をまとめた1冊。
社会的ブームになるくらいの成功を収めた文化作品は、何らかの社会に受け入れられる要因があって、そのありかを考察するのがサブカル批評だけど、本著もそれを2016年作品を題材に試みていた。どの作品も視聴済みだったので興味深かったし、哲学、心理学、社会学、経済学などの引用もあって、少し難しい部分もあったけど、面白く読めた。
個人的には、日本の対米従属と関連させて展開した「シンゴジラ」「ウルトラマン」の話と(これに関しては既に他の批評家や研究者も言及していそうだけど)、「おそ松さん」の面白さのありかに関する考察が面白かった。
「君の名は。」や「この世界の片隅に」に関してはちょっと物足りない気もした。魅力のありかを掘り下げるならもっと色んな視点から考察できそうだし(著者が意図したテーマの範囲から外れるのかもしれないが)、そうしたらさらに面白そう。
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2018年7月、平成最期の夏、オウム真理教の教祖と事件の中心人物らの死刑が執行された。
たまたま読んでいたこの本でもオウム真理教の事件の話がしばしば出ていて、とてもタイムリーに感じた。(この本自体は数年前の本だけど)
普段あまり映画を見ない自分が、シン・ゴジラ、君の名は。この世界の片隅に、はちゃんと見ていて、映画の当たり年だなぁと思っていたけど、その辺の作品が話題に出ている本書は面白く読めた(拾い読みだけど)
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ふだんなにげなく、「あれ?」と思うようなことに、みたことのあるドラマや映画、マンガを使って解説してくれる。面白くて刺激的だったな。あの映画が面白かったのは、こういう感覚があったからなんだ、なんて納得するところもあったりして。
サブカル、つまり映画であったり、マンガであったり、ドラマであったり、エンターテインメントなものによって、対米従属であったり、資本主義であったり、善悪であったり、世界と自分との関係といったものを考える。こういう話しが聞けるなら、大学の授業面白いと思うだろうなぁ。
対米従属ということばも、すっかり定着した感があるけど、このあたりは今後、どういう社会的な変化をもたらすんだろう。
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ここに取り上げられていた作品、ほとんど見たり読んだりしたもので良かった。マイナーなものが好きかと思っていたが、基本はミーハーなので、話題作は映画もアニメも漫画も押さえているのだなぁと自分で感心?した。
「われらが背きし者」は見たいし、ずっと気になっていた「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」は是非読みたい。
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前半は面白かったが後半『君の名は。』『この世界の片隅に』あたりになると急に内容が薄くなった。学期も後半になって集中力が切れたのかしらん。
「資本主義」なんていうタームはそれほど出てこなかったと記憶しているが、特に前半部は面白かった。
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エンタメ作品を分析することで見えてくる、資本主義後の社会とはーー。日本を代表する社会学者による白熱の講義録。