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ライシテ(laïcité)とはフランス独特の世俗主義(俗権主義)・政教分離の原則・政策のことらしい。ローマカトリック教会が国教会だった大革命前の時代からフランスの宗教政策は大きく変貌してきている。プロテスタント迫害のカラス事件(1761年)、ユダヤ人迫害のドレフュス事件(1894年)、そして現代ではムスリムとの間で(迫害ではなく!)発生しているスカーフ着用禁止事件はフランスがライシテをルールとして確立してきたことから逆に摩擦を呼んでいる!カラス事件に対してはヴォルテールが、ドレフュス事件に対してはゾラが弁護に立ち上がったという。これらの歴史を経て、ライシテを確立してきたフランスがそれゆえに、イスラムから目の敵にされているように感じるのは気の毒。ライシテ大国・日本はイスラムが身近になってきた場合には他所事ではなくなるように思う。ヴォルテールの言葉「謙遜と平和のうちに生き、侮辱の赦しを説いた申請にして甘美な宗教は、我々の欲望と熱狂によって、あらゆる宗教のなかで最も不寛容で野蛮な宗教になった」とキリスト教を批判している言葉は皮肉で重い警告だ。サルトルのユダヤ人定義の言葉がこれまた皮肉で、含蓄深い。「ユダヤ人とは。他の人々がユダヤ人と考えている人間である。これが単純な真理であり、ここから出発すべき。反ユダヤ主義者が、ユダヤ人を作るのである。…一口に言えば、近代国家のうちに、完全に同化され得るにも関わらず、国家が同化することを望まない人間として定義される。」クリスマスの飾り付けがライシテ違反として裁判になるフランスに対し、クリスマスは勿論のこと神道・仏教的な行事が慣習として抵抗なく受け入れられる日本とは何なのだ!と思う。最後に引用している憲法学者・宮沢俊義氏の指摘の通りである。今まさに日本の現状を示している。「日本国憲法は徹底したライシテを採用した。…思想の自由や宗教の価値に対する強い信頼がなければ、そのライシテの基礎は極めて弱い」
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p.15 ライシテ:宗教的に自律した政治権力が、宗教的中立性の立場から、国家と諸教会を分離する形で、信教の自由を保証する考え方、またはその制度
p.16 政教分離法
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2章まではかなりよい.ヴォルテールなどを含む歴史的な宗教に関する論争,現代フランスの宗教問題が手際よくまとまっている.その箇所は現代フランスに興味がある方だけでなく,政治哲学や社会科学徒にも.
ただ,3章は,扱う立場がフランスにおいてどれほど影響力のある立場かをはっきりさせてから話を進めないせいでわかりにくい.また一応客観的にいろいろな立場を語ろうと努力しているが,おそらく筆者の立場であるライシテ擁護派からの視点が見え隠れしていて,冷静な分析になっていないように感じられた.まず各々の立場の位置づけをはっきりさせ,その後筆者自身の評価をはっきりと打ち出した方が見通しがよかっただろう.最後に終章のカナダの事例はもっと詳しく知りたかった.わかりにくい3章のところで,比較としてカナダの話をした方がよかったのでは?
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レズビアンだけど、同性愛を禁止してるカトリックの人達も尊重したい。そういう人達を敵視したり排除する考え方にはなりたくないと思った。
伊達聖伸
1975年仙台市生まれ。東京大学文学部卒業。フランス国立リール第三大学博士課程修了(Ph.D.)。上智大学外国語学部フランス語学科准教授。専攻は宗教学・フランス語圏地域研究
「ライシテ」・・・簡単に言えばフランスの政教分離のこと。 しかし、ことは狭い意味での政教分離の話にとどまりません。 フランス革命以来の共和国の理念が詰まった言葉で、ライシテの歴史はフランスの近現代の歩みと軌を一にします。
全般的に、右派のライシテはイスラームのヴェールに対して頑とした態度で臨む厳格なものだが、フィヨンのライシテは、それを基調としながらもカトリックに対しては開かれていることが特徴的である。一方、ジュペのライシテからは、マイノリティ宗教に対する配慮の様子が窺える。右派の予備選挙に勝利したのはフィヨンで、この時点ではおそらく次期大統領の座に最も近い位置にいたが、勤務実態のない妻に多額の給与を与えていたことが発覚して失速した。
その点を押さえつつ改めて考えるなら、ライシテが今回の大統領選挙の主要テーマのひとつとなったのは、別段驚くべきことではない。ライシテの歴史は近代フランスの民主主義の歩みと重なり、現代フランスにおいて重要なテーマであり続けているからである。
ライシテの歴史は古くにさかのぼるが、一七八九年のフランス革命がやはりひとつの特権的な起点をなす。神授権を賦与された王に代わって市民が主権者となり政治権力を構成するようになった転換こそが、やはり革命の革命たるゆえんであり、宗教に抗して人間の自律と尊厳を勝ち取った歴史と記憶が、共和国フランスのライシテ理解の根幹に横たわっている。
第1章では、ライシテ体制と敵対的だったカトリック教会がそれに適合していく歩みをたどり、政治と宗教の厳格な「分離」と思われがちなフランスのライシテが、宗教の公共性を「承認」するものでもあることを見ていこう。この二重の論理を土台に、「治安」を重視する姿勢やライシテをフランスの「アイデンティティ」と主張する声が高まっているのが、近年の動向だと言える。
同性婚をめぐる論点は多く、いずれも重要なものだ。パックス(PACS:結婚に準ずる民事連帯契約で一九九九年に法制化。同性異性を問わず成人カップルの共同生活を保護する) は締結も解消も容易な「契約」だが、社会構造全体に関わる「制度」たる結婚を同性カップルに開いてよいのか。結婚や家庭は当事者の横の関係のみならず、親子関係という縦のつながりも含意しうるが、これは区別して考えるべきか、連動させるべきか。当事者の結婚は認めるとして、同性愛者が子育てをすることは、子どもの権利や社会にとって危惧すべきことなのか、そうではないのか。子どもを持ちたい女性カップルに人工授精などの生殖補助医療を、男性カップルに代理出産を認めてよいか、禁止するべきか。ここでは、同性婚法制化に際してフランスのカトリックが巻き起こした反対運動に注目する。
二〇一三年、フランスは同性愛者の結婚を認める世界で一四番目の国になった。「みんなのための結婚」(Mariage pour tous) と呼ばれた同性婚の法制化に際し、反対派は同じ頭文字になる「みんなのためのデモ」(Manif pour tous) を組織した。この中心にあったのがカトリックである。警察発表か主催者発表かで異なるが、数十万から一〇〇万人規模のデモが全国で複数回行なわれた。
同性愛はフランスではさほど珍しくなく、二〇一一年六月の世論調査では六三%のフランス人が同性婚に賛成しており(同性カップルの養子縁組には五八%が賛成)、法制化は二〇一二年の大統領選でオランド候補の公約に掲げられていた。すでにヨーロッパでは、ベルギー(二〇〇三年)、スペイン(二〇〇五年)、ポルトガル(二〇一〇年) などカトリック系の国々も同性婚を法律で認めていた。
たしかに、強固な家族観を持つカトリック教会が法制化に反対したことは、うなずけることではある。だが、フランスのカトリックは近年、衰退の一途と言えるような道を歩んでいた。自分はカトリックと回答するフランス人の割合は、一九七二年の世論調査では八七%、二〇〇六年では六五%である。依然高い数字にも見えるが、毎週ミサに通う者の割合はフランス人全体の四・五%である(一九七二年時点では二〇%)。洗礼数は一九九〇年には四七万を超えていたが、二〇一二年では二九万をわずかに上回る程度。この間、教会で挙げる婚礼の数は約一五万から七万に半減、司祭の数も三万二〇〇〇から一万六〇〇〇程度に半減した。信徒の教会離れと聖職者の高齢化は誰の目にも明らかだ。しかるに、同性婚反対運動には、明るく元気な若者たちの姿も多く見られたのである。
ホモフォビア(同性愛者嫌悪) はよくないというのが、現代フランスの通常の人権感覚である。同性婚法制化も比較的高い世論の支持を得ている。それに比べると、同性カップルの養子縁組には消極的な意見が見られる。パリ大司教の祈りの言葉をよく読むと、同性愛の行為については言及せず、養子縁組への難色に力点が置かれていることがわかる。
一方、リヨン大司教のフィリップ・バルバラン枢機 は「議会は父なる神ではない」と述べ、同性婚は人間の法で定められても神の法には反すると暗示してみせた。さらにバルバランは九月半ばのテレビ番組で、同性婚を認めたら、次は三、四人のカップルが出てきて近親相姦のタブーもなくなると発言して物議を醸した。
九月末にフランス司教会議の「家族・社会」評議会は、「結婚を同性の人びとに拡大すべきか。議論を開こう!」という表題の文書を発表した。文書はバルバランの露骨な嫌悪感の表明とは異なり、同性愛者に共感を寄せるだけでなく、同性愛が社会にもたらす豊かさについても言及している。ただ、同性愛者にとっての最善策は節制としている。議論を呼びかける身振りを取りつつも、同性婚には反対という結論は出ている。だが、ここで注目したいのは、教会が誰に向けてどのような姿勢で語りかけているかである。
第一に、宗教の代表者を公聴会に呼ぶ発想は、カトリック教会の階層秩序のイメージで他の宗教をもとらえる見方の反映であること。しかし、実際には各宗教の内部は多様である。たとえ��、ユダヤ教の代表者は同性婚に反対の姿勢を明確にしたが、リベラルなユダヤ教ではゲイのラビも認めているといった批判がユダヤ人の内部から寄せられた。信者の意見の集約が期待されている代表者の一面的な見解の表明は、内部の異論や多様性を捨象することになり、代表の正統性が問われることになりかねない。
第二に、共同文書の採択には至らなかったが、各宗教の代表者の声明や公聴会での発言内容は非常に似通っていたこと。「異性婚と同性婚は平等ではない」、「子どもの権利を保護すべき」など、発言内容が重複していた。同性婚法制化には反対しつつホモフォビアを批判すること、議論を呼びかける姿勢は見せるが対話実現のために特に力を尽くすわけではないことが、宗教の違いを超えて共通していた。
第三に、宗派の意見の表明と思われないようにしたこと。公聴会で代表者が聖典を参照することはむしろ稀で、全体的に世俗化されたレトリックが用いられていた。「神学」ではなく、「私たち」の「社会」について語ろうとしていた。
バルジョーは、運動の平和的な性格を保持し、当局との揉め事を避けようとした。同性愛者との交友関係もある彼女は、同性愛に否定的だったのではなく、覚醒したカトリックとして、結婚を同性間に開くことに反対だったのであり、パックスと結婚の中間形態のような制度を新設するのがよいと考えていた。ところが、この方針はリュドヴィーヌ・ドラロシェールには受け入れられなかった。法律公布後の二〇一三年五月二六日のデモを最後に、バルジョーは「みんなのためのデモ」を離れて「みんなのための未来」を結成した。
もともとカトリックには右派を支持する者が多いが、極右には投票しない傾向が見られた。その傾向はプラティカンであればあるほど強い。だが、近年では右派と極右を隔てる防波堤にほころびが見られ、ルペン支持に流れるカトリックも出てきている。二〇一五年一一月一三日のパリ襲撃事件の直後に行なわれた地方議会選挙の第一回投票では、カトリックの有権者の三二%が国民戦線に投票した(国民全体では二八・四%、プラティカンは二五%)。最近の選挙では、カトリック票の行方がこれまで以上に注目を集めているが、その背景には同性婚反対運動が社会に与えた強烈な印象がある。
もともとフランスにおいて国教の地位にあったカトリックだが、今日ではプラティカンは少ない。カトリックのあり方は多様化している。自分たちは近現代社会の「カトフォビア」(カトリック嫌悪) の犠牲者であると「共同体主義」的なアイデンティティを強めている者たちは、しばしばマイノリティの論理と戦略を用いている。
もうひとつ確認しておきたいのは、同性愛者の権利が争点になったということは、裏を返せば女性の権利は自明視されていたということである。たしかにカトリック教会は現在でも女性の聖職者を認めていないが、カトリックであろうとなかろうと、同性婚に賛成でも反対でも、フランスは男女平等の社会であるという前提は広く共有されている。男女平等の価値を認める者が現代フランスのマジョリティである。ただし、男女平等を強調しすぎるカト=ライシテは、その価値を共有しない とされる マイノリティを「私たち」の尺度で測��て低く見たり、排斥したりすることにもなりかねない面を持つ。
もうひとつの「クレッシュ」こと託児所に話を移そう。事件の舞台となった託児所の所在地は、パリ北西二五キロの郊外シャントルー=レ=ヴィーニュのノエ地区。フランス社会に溶け込むことのできない黒人、ユダヤ人、アラブ人の三人の若者を主人公としたマチュー・カソヴィッツ監督の名高い映画『憎しみ』(一九九五年) が撮影された場所でもある。
これは、ヴェールを被った女性は自由を奪われ、男性に隷属しているという偏見への反論である。とはいえ、当人にとっては信仰の深まりのつもりでも、ヴェールの可視化の度合いが強まると、周囲からは「過激化」の指標と判断される。たしかに、職場の秩序を乱したことは解雇の理由になるかもしれない。それでも、公的施設とは言えない私立の託児所でのヴェールの着用を禁じることは、信教の自由の観点から見て難しいのではないか。
ユダヤ人が差別されるのはなぜだろうか。ゾラは次のように述べている。 「ユダヤ人たちが告発を受けているのは、彼らが 国民 のなかの 民族共同体 であり、社会から隔絶して宗教的カーストの生活を営み、そうすることによって国境を越え、現実の祖国をもたない一種の国際的な 分派 を形成しているという点である」(『ゾラ・セレクション 10』に所収の訳文を参照、原文と照合し一部改変)。
フランスというネーションのなかにもうひとつのネーションを持ち込み、独自の宗教生活を営むことによって社会生活に馴染もうとしない、危険なセクトであるユダヤ人。だが、そのようなユダヤ人観を築いたのは「われわれ」にほかならない。
スカーフのような布で頭髪を隠す「ヒジャブ」がムスリム女性の着用するヴェールとして最も一般的だが、ヴェールにはヒジャブ以外にも全身を覆うニカブやブルカなどがあり、これらをただのスカーフとは言いにくい。ところで、「ヴェールを外す」というフランス語には「真理を明るみに出す」の意味があり、逆に言えばヴェールを被った女性は無知蒙昧の状態にあるという含みが込められている可能性がある。意識的にせよ無意識的にせよ、啓蒙の精神に連なる「われわれ」とは異なる「他者」というわけだ。また、「全身を覆うヴェール」(voile intégral) という表現は「原理主義」(intégrisme) を連想させる。
イスラモフォビアという言葉は、一説によれば、一九七九年のイラン革命の際に「原理主義者」がチャドルを着用しない女性を「悪いムスリム」とする文脈で使われるようになったという。つまり、イスラームを絶対視する「原理主義者」が、この宗教を批判することを許さず、彼らから見て反抗的な態度を「イスラモフォビア」と呼んで糾弾したという説である。この説によれば、イスラモフォビアと言われて批判されたのはおもにリベラルなムスリム女性たちで、イスラモフォビアは人種差別ではないとされる。