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B&Bでの鈴木理策さんとの出版記念トークイベントに、そうとは知らずに参加して、その場で購入。
連載には理策さんの写真がついているが、本にはない。残念。その雰囲気が知りたくて、雑誌「東京人」も購入した。
読んでいて、まったく何を書いてるんだか分からないのがある。なにを言おうとしてんのかなーって、考えるのも楽しい。とにかく、読んでいるとそこから芋づる式に他の本を読みたくなる本はいい本である。
堀江さんがきっかけで仲良くなった人にプレゼントしようと思って2冊買って、でもなんだか恥ずかしくてあげられずにいだが翌年の3月にオリーブの鉢植えを譲ってもらったお礼にあげることができた。
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「私は花屋の前を通るたびに、人間がいつから花を愛でるようになったのかを考えるのです。飾られた美しい花を見るたびに、そう思うのです。死ぬまでになんとかそれを知りたいと思うのです」
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「「現在地」まで、「現在地と呼ばれるところ」まで連れて行ってください」
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「「花火って、なんだか、ほんとに花火みたいなものね。・・・そうは思わなくて?」」
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日々あった事。考えた事。
堀江さんが綴ると、こんなに面白く、滋味深い。
日々の暮らしに、手触りや奥行きを与えてくれる。
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どうということのない街歩きの中で出くわした小さな異変をたんねんに拾い集めて、体と心の感じた違和をことばで書き連ねていく。印象としては実に冴えない風景と事件の集積である。歩道橋の上を歩くときに感じる足もとが沈む感じであるとか、ビニール袋の持ち手が破けて本を何冊も抱きかかえて歩く困難さとか、ひたすら地味で読んでいて爽快感の全くない書物である。そう書くと何か否定していると勘違いされそうなのであらかじめ断っておく。これは何度でも読めるし、読みたいと思う本である。
一篇が三ページ以内に収まる短さは雑誌掲載という制約があるため。エッセイのようでもあり、身辺雑記という趣きもあり、そのまま掌編小説と呼びたい誘惑に駆られるあじわいを持つものもある。詩の引用を除けば、ほぼ全篇改行なしという組版は一見晦渋でとっつきにくそうに見えるが、方向感覚がまったくといっていいほどなくて、常に道に迷い続ける「私」の足取りは、そこはかとなくユーモアとペーソスが感じられ、黒っぽい字面から受けるほど読みにくくない。
読みにくくはないけれど、分かりやすくも書いていない。ひとつ例をあげるなら、何某と名前をあげればすむところを、いちいち自分のことばで書き直すので、記憶のしまってある柳行李の底をかき回しながら、これではない、あれでもないと手探りしていまだにわからずじまいの人名がいくつもある。
「家がなくなることについて」の中に出てくる「仏陀の化身のような筆名で多くの作品を残した作家」はすぐわかる。「ランボーからスタートしたんですからね。なんのバックボーンもなかった、だから彼が伝統なんて言ってもフィクションみたいな気がする」と天下の小林秀雄をばっさり切り捨てる、路地歩きの同伴者は吉田秀和でしかありえない。ここいら辺りまではついていける。
「私にとってその人は、監督ではなく役者だった。猫背に猪首、顔立ちは端正なサバンナの怪鳥に似て、いつも少しだけ薬が入っているような血走った眼をしている。背丈がどれくらいあったか知らないけれど、上目遣いで相手を捉えている印象があって、完全な主役にはなりきれない卑屈さを、じつにうまく体現していた。演劇的音痴ではないかと思われるほど絶妙の下手さ加減が魅力の、そのたたずまいを通して、私は肯定的な卑屈さとは何かを学んだように思う」
ここまで書いて、人の気を引くだけ引いておきながら、最後まで名を秘すのは、あんまりではないか。洋画か邦画かもわからない。若い頃に熱心に追っていたというのだから、当方もおそらく見知ってはいるだろう、その人がいったい誰なのか、いくら考えても思い浮かばない。なぞなぞを出しておいて、解答編だけちぎって捨てるようなまねをしている。気になって気になって仕方がない。最後に註を入れるくらいの配慮があってもいいところだろう。
表題の由来は中原中也の詩と、直接関係はないというものの、あとがきにあるように無縁というわけでもないようだ。連載三年目を迎えようとしていた時三月十一日がやってきた。「公の場で繰り返される紋切り型。それを口にする人々のふるまいのいびつさ。表現の水位の、あと戻りできないほどの低下」に中也の「黒い 旗が はためくを 見た」という詩句を思い浮かべている。あまり政治的な物言いをしない筆者が「黒い旗をそのまま半旗にしてしまうような世の流れに与するわけにはいかない」とまで記す。
「後ろめたさと反省」は真っ向から今の行政の姿勢を批判する。「いつの頃からか、日常と呼ばれるものが、話題や情報の消去と忘却の反復でしかなくなってきた。正確には、それを受ける側ではなく、送り出す側にとっての日常ということだ。話題や情報は、反省もしくは答弁と呼ばれるいくらでも代替可能な儀式によって、丁寧に、かつ乱暴に消されていく」
「憂いの方向は、持続としての日常に向けられるべきであり、使い捨ての言葉や血も肉もない記号としての反省でもなく、むしろ「後ろめたさ」(島尾敏雄)にこそ耳を傾けるべきだろう。後ろめたさは、季節の話題や儀式とは無関係に永続する。いったん消えてまたあらわれるという、情報の提供側にとって扱いやすい動きをしない。それは泥濘のようにいつまでも腹のなかに居座り、毒を放ち、また毒をもって日々を支える」
堀江敏幸らしくない文章の引用が続いたが、今現在の状況のなかにいると、何気ない街路を行く詩人の気質を持つ散文家であっても、このような硬質な文章を書かざるを得ないのだろう。安心してほしい。これは例外中の例外で、あとの文章はあまり上手に世渡りのできなさそうな、どちらかといえば心もとない作家が曇天の日を選んで外出した、その記録のような話がほとんどだ。ただ、そのなかに、日を置いてまた読みたくなるような心のどこかにひっかかりの残る何かが置かれている。
じっくりと時間をかけて、少しずつ紐解いていく。気の長い作業がぜひとも必要とされている。一気に読みきれる作品もある。時間をかけ、少しずつ読みほぐしてゆくのに適した書物もある。これはそんな本の一つ。
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堀江敏幸「曇天記」 https://www.amazon.co.jp/%E6%9B%87%E5%A4%A9%E8%A8%98-%E5%A0%80%E6%B1%9F%E6%95%8F%E5%B9%B8/dp/4901783653 … (出版社のリンクがない。。。)読んだ。同時期に出版された「坂を見上げて」は今ひとつだったけどこれはとてもよかった。選び抜かれた表現で静かに思索の内容を記述している。地震はこの人の心境にも影響していたのか。みんな繊細なんだなあ(おわり
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『するとそこには「廃棄布団や」という文字が刻まれていたのである。なるほど、廃棄布団という言葉は存在するのだ。しかし「や」は、「屋」ではなく平仮名である』―『「や」の先にあるもの』
堀江敏幸の語り口には昂ぶるような熱がない。淡々と小難しいことをさらりもした言葉を積み重ねて語る。その積み重ね方のせいだろうか。それはどこかしら取ってつけた嘘ような、それでいて実話に基づく話のような。ポール・オースターの創作のようにどちらともつかない趣きがある。堀江敏幸は虚実の淡いに巧みに話を誘導する。
そういう印象もあって、この作家の文章にはメレンゲ菓子のようにふわっと溶けて後に残らないようなところがある。特に本書のような短いものをまとめたものだと淡い固まりが次々に溶けていくのをつい楽しみ勝ちとなり、言葉の彩に隠されたものを読み飛ばしてしまいそうになる。
しかし、この短い随筆たちに通底しているのは、自分の粗忽さを描くことで柔らかく包み込みながらも案外と強い感情を吐露する堀江敏幸である。固有名詞を排除することによって生じる少しひねった匿名性の影から、決して非難がましさを押し付けることもなく淡々と語っているのだけれど、気付いてみると強い言葉でなじられていたような微かな痛みが残る。
この作家のどことなく底意地の悪いところがこれまでの作品よりも少しだけ強く鼻につくせいだろうか。ただしそれはそれで悪くない。作家も自分自身も歳を取ったということなのだろう。堀江敏幸はこれからもっと面白くなる予感がする。
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土地の名、人の名、わざと書かずに、堀江先生は後世の人に研究書をかかせるおつもりであるかのようです。「魔法の石板」のように。
ひょうひょうと自らを軽く笑いの中に落とし込んでいくかのような小説ともエッセイともとれる10数作の後からは、なにやら不穏な、時には珍しくストレートな、時代への注意喚起とも言えるような筆致に変わっていきます。
月刊誌の連載であるがために、その時代の空気の変化をはからずも映し出す記録となっていることとなっていることからも、当代きっての知性にこれからも書き続けていただきたいと強く思いました。まだあと30年は…。
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美しくユーモラスな筆致で、目線の先の出来事や思考を綴っていく。曇天下にてどこまでも。
曇天ひとつにしても、ストーリー毎、その考察描写に抜けがなく、秀逸。連載物のよさかも。
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「雲海」という言葉に女の子が海の中から見上げた水面も雲海だ、と言う。メタファーのトライアングル?女の子のほうが自らの視力に忠実。
われわれの雲海:上から見下ろした雲の平野が海のようであることのたとえ(海は崖から見下ろすもの?)
女の子の言う雲海:雲は見上げてあるもの、海はともにあるもの。海に入り見上げると見える雲のような水面のたとえ。
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他の作品より、動、という感じがした。分かりやすく攻撃しないからって見くびらないで、奥でうごめいてるものをよく見て、と言われているみたいだった。
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突然「この映画を一緒に見てくれませんか」と声をかけてきた車椅子の女性。毎日決まった時間にコンビニで消しゴムを一個ずつ買って「行きつけ」の喫茶店に入っていく男性。菜の花の色を尋ねられて、緑色、と嬉しそうに答える娘。コンコースに立ちすくむ迷子の少年と手を繋いで、彼の母親が現れるのを待った記憶。
曇天の下、何も目的を持たずに、ただ歩く。目に映るもの、聞こえてくる音、ふと蘇ってきた記憶などを、丁寧にすぐい上げて文章に変えていく。「次なにしよう?」の選択肢の一番上に、まず何よりも「書くこと」がある人なんだろうなあと思う。静かで、気品があって、洗練されている。頭に中に浮かんでくる感覚にぴったりくる言葉や表現を見つけることは難しくて、わたしはその段階で永遠に足踏みしてしまう。けれど堀江さんの文章からは、伝えたいことがこぼれ落ちることも、溢れ出てしまうこともなく、さらさらと心に流れ込んでくる。その情景が目に浮かぶし、その感覚に寄り添ってしまってところどころ涙が出る。すごいなあ、と持ち前の乏しすぎる語彙力で感じ入ることしかできない。
堀江さんの散歩は、歩くこと自体が目的だという。わたしにとって、目的なく何かをするということは難しい。何のために?何がしたいの?という疑問がついて回るから。それでも、目的を持たず、到達点も設定せず、誰かに届けようとすることもなく、とりあえず何か書きたいという気持ちになる本だった。頭の中を駆け巡る取り止めもない思考に、言葉を与えようと試行錯誤する時間が好きだ。これでもかというほど本を読んでいた幼少期から学生時代にストックした語彙と表現の使い回ししかしていないような気がするけれど、それでも、何かを書くという作業は、いつだって楽しい。
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振込ではなく、コンビニのアクリルケースに募金するのは祈りのようなものだと書かれてた。
真似をして祈っている。
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平凡な暮らしの中にいて、自然体のままに感じる事、他人には感じない何かを描き描こうとしている様はわかる気がするが訴えたい感動するものが見当たらない。人には見えるものと見えないものがあり、感じるものと感じないものがある。世の中、様々な人がいて、さまざまな事を思ったまま、思いのまま発信する現代は奇妙だが面白い。昔から言われる三者三様・千差万別・百人百様・多種多様…など視点を変え、趣を変えれば更に「変わる」のだ。