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沖縄に親戚ができたので、その人たちの気持ちが知りたくて読みました。
内地の人間がどういう心持ちで沖縄の身近な存在と向き合うべきか、その真摯さが大変勉強になりました。本当にその人たちの気持ちが分かる、という状態は不可能だけれども、話を聞き続けるべきである、謙虚であり続けるべきである、というスタンスに共感しました。
特に印象的だったのは、沖縄の自民党と元知事が仲良くしている気持ちについてのエピソードです。共通の大きい敵の前に両者が互いを尊重しつつ距離を保っている様子が東京にはない成熟した人間関係だと感じました。
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借りたもの。
沖縄県外(ナイチャー)の著者が沖縄の魅力にハマり、社会学である著者がないちゃーに向けて等身大の沖縄を描写しようと試みた意欲作。これは果たして沖縄入門なのか?
全体的にノスタルジー、哀愁に偏っている気がした。
もちろん、明るい沖縄、今の沖縄が全てではないけれど…
読んでいて沖縄の二面性を映し出していると言うより、どうしても越えられないないジレンマを感じさせる……
それは著者がナイチャー(よそ者)であるという事が大きいのかもしれない。何度訪れても越えられない壁のような……
「なんくるないさー」「沖縄あるある」な素朴で大らかな南国の島国、楽園感は無い。
本からにじみ出る、沖縄という土地の、「翻弄され虐げられた」という思いに溢れている。
本州への憧れと反発があることを明文化している。
あまりにもディープで書ききれないので、箇条書き。
・沖縄の景気が良かったのはアメリカ統治下(50~60年代。米軍需要と復興需要と都市部への人口集中による開発。)
・「ほんとうの沖縄」「沖縄らしさ」とは何か?人々が貧しくとも助け合う“文化”らしい。沖縄独特のものはあるが、日本統治関連や先の大戦で失われた?(私見。そもそも琉球・沖縄は大衆文化も宮廷?文化も大して発達していなかったんじゃ…)
戦争の時の話も取材している。紋切型な非戦闘員が巻き込まれた悲壮感ではなく、その中でもしたたかに生き抜いた人の視点が書かれているのは新鮮。
…この辺を語りだすと、どうしても色々言いたくなってしまう訳だが。著者は基地に対して無くなった方が良いという姿勢の模様。
米軍基地問題。基地反対運動。
ならば米軍追い出した後は?多くの話で“自衛”について何も言及されていない。この本も然り。
「先の大戦で本土襲撃の足止めにされた」というのなら、どう防衛すれば良かったのか公に議論されない。(沖縄限らず本州自体も然り)
自衛手段を持っていないからこそ、島津藩に征服され、アメリカにも占領されたという事実に対して、ずっと被害者意識が根強いだけで何も議論していない。と穿った見方までしてしまう……
そういう点では、私もまた腐れナイチャーのひとりに過ぎないのかもしれない……
私自身、色々、本などにも目を通して思うこと……
良くも悪くも、沖縄は沖縄の人たちの場所であり、誰も外に出ない、出さない体質だろう。地元愛、地元民の結束、自治感…文化的にも、信仰的にも…それが前述の“壁”でもあると思う。
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誰に何を伝えるための本なのだろう…という所感。
これは本当に、「はじめて」の人向けなんだろうか?なんとなく、結局筆者の沖縄愛を色々まとめたもののように見える。
沖縄に関する旅行誌以外の本を読むのはこれが初めて。全体を通して、沖縄の歴史や経済の複雑性、イデオロギーと現実の違いなどは、この本を通じて勉強できたことは良かった。
だけど、なんというか、「読みづらい」のだ。
章の並べ方とか、全体の構成、ストーリーが、わかりづらい。一つ一つが繋がっている感じがしない。
文そのものは簡単なのに、読みづらい、読み進めづらい。
そして、本の最後に、女性は公園で本を一人で読むのも危険だ、という表現というになっている部分がとても気になった。沖縄の人を差別してはいけない、と書いているのに、そういう話を彼女からされたことで、女性がどこかかわいそうなものになっている。女性の立場からしてみたら、それこそ差別なのだが。
写真もたくさんあるが、なぜこの写真がここに?がわからないものも多かったので、もう少し説明が欲しかった。
うーん、沖縄は好きだけど、もう少しテーマを絞った本で次はチャレンジしたい。
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沖縄戦での、泣き叫ぶ赤子に対して、その泣き声から米軍に場所を知られてしまうからと、赤子を殺すことを命じたという語り
また、「わずかな金で海を投げ飛ばした」という言葉。
大学の授業なんかサボって、ああいうところのベンチでゆっくり本を読むと良いよという言葉に対する奥さんの反応。
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「社会で共に生きる」ということは、このねじれた、不完全な、決して一元的な善悪のみでは計り知れない、不可避の「流れ」の中で、人が懸命に、自分の生命を紡ぎ、生活を築いていっているのだということを、理解することなのかもしれない。「神」や「善悪」などの基準をもちだして、「精査」したり、「批評」したりすることではない。その人が生きている「次元」から、その人の行動の合理性や、妥当性を、知るという、そういう行為の中に「共に生きる」ことがあるのかもしれない。社会で共に生きるということはもしかすれば、「だったら仕方がないよね」と、その状況を理解し、その状況を共有し、共に苦しむことなのかもしれない。
その人の行為や選択の妥当性を、社会の流れ、歴史の流れの側から覗くという事、そこにおそらく「共有」できる「世界」があるのだと思う。その人の行為の背景や物語、そこに付随する社会や歴史、因果関係を理解せず、「表層」に出ている「情報」なり「態度」のみから、それを断じること、否定することをしてはいけないのだと思う。なぜその人間がそういう行動をとるのか、そういう行動に対して、なぜその人間はそうせねばいけなかったのか、そういうものへの想像を巡らせる人間でありたい。
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観光で沖縄を訪れた時、地元の方から「辺野古基地建設反対運動をやっているのは地元以外の人がほとんどで日当をもらってるんだ」などという話を聞いた。「日当をもらって基地反対運動に参加」というのはネトウヨのデマだと思っていた私は地元の人からそんな話を聞いたことに驚き、沖縄の人は本当はどう思っているんだろう、というのが気になり、この本を読んでみることにした。
そしてこの本を読んでわかったことは…まあシンプルな話ではない、ということだ。
私の疑問に関しては、著者は「教員や公務員や組合活動家が『日当』をもらって社会運動に参加する、というデマ」(p.224)と書いておられるから、それがデマであると確信しておられるようだ。
ただ、「沖縄の指導層の人々の、左右の政治的対立を超えた結びつき」(p.209)の例が語られているように、政治的立場が違うからといって日常の生活のうえで対立しているわけでもないのだ。
私が沖縄で話を聞いた方も、「日当をもらって反対運動をしている人と飲んで…」なんて話していて、「立場が違う人からも話を聞くんだよ」ということを言っていた。
「戦争を否定した平和憲法のもとへ復帰するのだという期待が、基地をそのまま残した復帰という現実に裏切られ」(p.65)た沖縄。「 存在してはいけなかったものたちと長い間、沖縄の人々は共に生きてきた。」(p.89) そんななかで基地も必要なのだ、という声も生まれてくる…
「腐れナイチャー」(p.217)という言葉がつらい。著者は「社会というものの本質は『交換できない』ということにある」のではないか、と言う(p.245)。他者の感じることを言葉で理解しても他者になることはできないのだ。沖縄と「日本」とはそういう関係なのでは…と。
「沖縄」と「日本」の間には確かに壁はある気がする。うちなんちゅという言葉が象徴するように、沖縄人であることの矜持を感じる。沖縄の自然や音楽や食べ物。独特の味わいに惹かれるナイチャーの私が「辺野古の海を守りたい」と言ったとしても、それは必ずしも沖縄の人々の思いと一致しないのか…
もやもやは残ったままだ…
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日本と沖縄の間の境界線
沖縄を語る際にありがちな「民族や文化に帰結させる本質化」や無邪気なラベリングをすることなく、向き合って語り、そして理解しようとする
これは沖縄に対してだけではなく、ラベリングが持て囃される現代のあらゆる語りに当てはまるんだと思う
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“沖縄病”を発症し、沖縄を語ること、考えることを職としながら、沖縄をたやすく語ることへの逡巡、葛藤を書く。ゴーヤチャンプル、58号線、ビーチ、基地問題、表層的に“ナイチャー”の視点で語られる言説は、ほんとうの沖縄を覆い隠し、その先を知ろうとすることで初めて見えてくるのは“はじめての沖縄”だ。とてもいい本で、何度でも読み返したい。そのたびに沖縄は“はじめて”の顔を見せるのだろう。
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岸さんの研究スタイルは、その個人のライフヒストリーをインタビューで聞き取る人生史を紡ぎとって、大きな歴史の流れのなかでは掬い取れないものを捉える、というものだと思う。
沖縄に対しても、そうした姿勢で臨んでいる。自分も沖縄に魅せられている一人だから、それは参与観察でもあるかもしれないし、沖縄好きな本土の人として、沖縄の人と相互作用を起こしている。
沖縄と本土、日本という関係は大きな歴史の流れ無しには語れないけれど、それとは別に沖縄の人はそれぞれの生活を生きている。たくましくもあり、ずるがしこくもあり、どうしようもなく辛いこともあるだろうけど、それはいろんな人の人生に必ずあるものでもある。
それでも沖縄的ななにか、がやっぱりそこにはあって、それを魅力に思う多くの人がいる。「はじめての沖縄」は、そうした不思議な沖縄の世界を垣間見せてくれる。
中高生の初学者向けの本としてはやや読みづらいけれど、やっぱり面白い。
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▼「はじめての沖縄」岸政彦。初出2018年、新曜社。2020年4月読了。
▼岸政彦さんは最近ちょっと気になっている社会学者/小説家。なるほど小説家でもあるのか、という感じで、理詰めだけではなくブンガク的とも言える「気分」を大事にしてはるンだろうな、という一冊。
▼新曜社さんの「よりみちパンセ」シリーズなので、若い人を意識している筆致ですが、つまりは「沖縄問題」の本です。
▼岸さんが長らく沖縄病とでも言うべき沖縄通であり沖縄愛に満ちている(らしい)のですが、好感が持てたのは、「沖縄を賛美するひとの持っている沖縄というのはイメージに過ぎない」という感覚です。
▼沖縄に限らず何でもそうなんですが、当事者にとっての肌触りと、それが報道されるときの語られ方の間には、必ずギャップみたいなものがあります。報道されている姿よりも現実は何百倍も複雑だし、難しいし、答えというか、図式みたいなものは、簡単には見えないことが多い。(でも多くの報道では、ある図式を見せてくれます。そのほうが、見る方も安心ですから。短絡的に図式化される痛みは、されたときに初めて分かります)
▼かわいそうな沖縄って本当にそうなんだろうか。明るい南国沖縄って本当にそうなんだろうか。基地の島沖縄って本当にそうなんだろうか。異国情緒沖縄って本当にそうなんだろうか。女性が強い沖縄、歌の島沖縄、逞しい島沖縄、ゆいまーるでみんな仲がいい沖縄。エトセトラエトセトラ。
▼僕が沖縄県民だった頃。とある離島で、酒をかなり酌み交わす仲になった島民のおじさんが言っていました。
「この島ではね、歴史以来、死亡交通事故って一件もないんだよー。だってね、死亡事故があっても住民同士で話をつけるから、警察には届けないし記録も残らないからね」
▼そのあたりが岸さん独特の、かなり詩的で、そして私的な言葉選びの中で、感情的になることを恐れない歌い方で綴られます。そういうところは好き嫌いあるでしょうが、「結論を出すための本ではない」という姿勢は僕は好きでした。
▼僕は「日本から見た沖縄」というのは、「海外(例えば欧州や米国)から見た日本」と、ほとんど一緒だと思ってます。
▼私たちが「沖縄のことを浅くしか、あるいは頭でしか知らずに、沖縄について何か言うとき。そのときの、言われた沖縄の人の気持ち」はどうなんでしょうか?
それは、「外人さんが日本のことを浅くしか、あるいは頭でしか知らずに、日本について何かを言うとき。そのときの、言われた私や、あなたの気持ち」と、ほとんど一緒だと思います。
▼どうしてほとんど一緒だと思うのかというと、物理的に、地理地形的に似ているからです。「程よく離れている島国」。その地理的な条件から歴史が生まれます。
▼県民性やら国民性やらって言うのは、後からなんとでも主観で言えることですから。そんな図式みたいなものはあまり買いません。自分から「日本人ってこうなんだよね」としゃべるのは問題なくても、外国の人、それも日本のことを知識でしか知らない人から「日本人はこういう性格だ。こういう欠点が��る。これはもう客観的な事実だ」って言われたら、腹立ちませんか?
ぢゃあお前ンところはどうなんだよ!とかね。そうやって、戦争になる。個人同士でも、国家単位でも。
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挿し写真がどれも素敵でした。
ステレオタイプな沖縄写真ではなく、沖縄の方々が日常生活を営む場所の写真達でした。
どの写真にもキャプションが記されていません。
沖縄についてどう思うか。それを自分の血肉からでた言葉で解釈するようにと、写真が私達に促しているような気がしました。
私は、田宮虎彦さんの『沖縄の手記から』を読んでから、沖縄に興味を持つようになりましたが、岸さんのこの本を読んであらためて思いました。
事実を知ることは、過去と現在をつなぎ、未来を切り開くものだと。
考え方が様々起きるのは事実の必然です。
ですが、「ねじれの分断」チャプターにもある、大田昌秀さんと國場幸一さんのように、事実を脇に据えて人として握手を交わすことができるのはすごいことだと思いました。沖縄の愛し方が異なるだけで、沸点と融点に大きな差異がなかったのではと感じました。
ふと自分の子供の時の旅のことを思い出しました。
30年以上前の、初めての東京旅行。
東京はどこの街もディズニーランドのようなところだと思って上京したのですが、そうではなかった。
ショックで泣いたけど、新小岩のお食事処(在日の方が営んでいました)のおかみさんが優しくて、ご飯が美味しくて、興奮が落ち着きました。
街には魔法は存在しません。
人間に魔法が備わっていないのは、安易に物事を解釈し解決に向かわせないためなのかもしれません。
沖縄を題材にした本ですが、この不穏な世界情勢をどう認識するかの手引きにもなると思いました。
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とても身近に沖縄がある内地の者として、この本のあらゆるシーンで共感と感銘と、唸りが漏れ出た。スーパーやモールのような場所でも肺一杯感じられる沖縄らしさを同じく体感し肯定している人が居ること、そして様々な境界線を、内側と外側から、愚直に筆致する事の大事さ。
沖縄と接すれば誰もが感じられるやさしさと苦味、知るほどに言葉にすることを諦めるような、曖昧で複雑で多様で根深くて、単純には語れないものを、しかし恐れない為に、複数の物語と共に丁寧に描き出す。それは沖縄(へ)の愛おしさでもある…知事選が終わって…果たして俺達は沖縄の何を知っている?
この本自体の成立が、たいへんなバランス感覚であり、勇気であると思うようなそれだった。『はじめての沖縄』というタイトルから勘違いして手に取るような人がいっそ増えればいい。
寄り添う視点から腹に残る歯応え、島豆腐のように何度も噛み締めたくなる、そしてこの国を捉え直すことさえできる本。
https://twitter.com/magoshin/status/1046812080324542466
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著者の岸政彦は沖縄を研究している社会学者だ。
話題となる著作もいくつかあり、メディア上で本人の語る沖縄の話が面白かったので、いつか著作をちゃんと読もうと思っていた。
たまたま、高崎の新刊書店Rebel booksで見つけて購入した。
著者の沖縄をめぐる自意識がヒリヒリと伝わってくる本だった。
それは“沖縄病”をわずらい、「沖縄らしさ」(例えば、沖縄の地域コミュニティの強さと言われるものとか)をめぐる議論に対して誠実に答えようとする姿勢からくるものだろうと思う。
「沖縄らしさ」を、例えば東京との相対的な位置付けとして語る時に言えることは、タイやフィリピンと比べた時に同じように言えるのだろうか?という疑問。
それは「立ち位置」によって都合よく「沖縄らしさ」を利用する事にもつながる。
「立ち位置」をどこに置いているのかと自問することは著者の出身が本土である以上考えざるを得ない部分だろうし、読んでいる自分もまたそうだろう。「ただ考え、そしてその考えたことについて書く、ということぐらいしかない」(本書24頁)と、その自問自答の試みがこの本だと思う。
著者は沖縄の研究、生活調査をしながらずっと自分の「立場性」を考え続けている。
どのように沖縄を語ろうとも、ある種の政治性からは逃れられない。
沖縄について基地問題や貧困のような弱い立場を強調して語ることも、逆に多様さやしたたかさをそれに対するアンチとして保守派が語ることも、さらには語らないことも、その政治的立ち位置の問題を回避するために「『沖縄とはどういうところだと語られてきたか』をみる…結局のところそれは、沖縄そのものについて語る『責任』を回避しているのだ…それもまた、とても政治的な選択である」(本書240頁)。
著者は、硬く言えば「責任」を引き受けているから考え続けているのだろう。
この最後の章、「境界線を抱いて」というタイトルとその内容は以前読んだ『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、松村圭一郎著)にも通じる。
『うしろめたさ〜』は断絶された境界のこちら側(日本)と向こう側(エチオピア)を構築人類学という手法で断絶を飛び越える可能性を探っていた。
日本本土と沖縄の断絶、どこに断絶があるかと言えば、その非対称な関係にある事が考慮されなければならないという。
日本本土と沖縄にある非対称な関係、基地問題や貧困、地位協定のような大きな話の中での非対称な構図だ。
一方でそれらも利用しながら多様でたくましく生きる生活者の小さな話もある。
大きな話と小さな話を結び付けるように語る、その試みが本書にはいくつもある。時々挿入される写真もそうした試みの一部なのかなと思わされる。
そういう読者の立場を揺さぶられる、非対称な場としての「沖縄」を考える為の入門書なのかもしれない。
興味深い指摘や語りも多かった。
例えば、本土復帰までの景気の良さに関する話はその一つだ。
「復帰前の沖縄の失業率は、一~二%と、きわめて低い水準で推移していた。経済成長率も毎年九%前後で、日本本土に比べて遜色がなかった…���の成長をもたらしたのは…基本的には沖縄の人びとによる個人消費と民間設備投資と住宅投資だった」(本書108頁)
こちら側(日本本土)と向こう側(沖縄)の二元論にならない、新しい語りを模索する著者の試みを今後も読みたい。
相対的に生まれる「沖縄らしさ」だけではなく、生活者から見える「歴史と構造」から出てくる「沖縄らしさ」を。
「いまだ発明されていない、沖縄の新しい語り方が存在するはずだ」(本書249頁)とあるように。
ところで、本書を機に「沖縄の、あるいは『マイノリティ』と呼ばれる存在のことについて、あるいはまた、境界線そのものについて考えるきっかけにしてもらえたら」(本書25頁)と冒頭にあった。だから、自分の中にひっかかった本を引き合いに出してみる。
『あのころのパラオをさがして』(集英社、寺尾沙穂著)というパラオの日本統治時代を暮らした人々のルポルタージュがある。
そこには、パラオの人々にとっての日本に対する親日的と単純化できない愛憎がでてくる。
日本本土からパラオに来た人、沖縄から来た人、朝鮮半島出身者というパラオ内でのヒエラルキーがあったという話もあった。『マイノリティ』や境界線はパラオでも引かれ直されたのだ。日本から遠く離れた南洋の「楽園」でも。
他にも経済的な部分について興味深かったのが『パラオ人主体で仕事を作り出す仕組みがまず必要。パラオで稼いだお金をパラオに落とす仕組みがね。与えられるというのは搾取されることなの』(上掲書93頁)というセリフがでてきたところだ。これも沖縄にもきっと通じることなのだろうと思う。
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些細な一言を、聞き逃さない。
インタビュー中にマリーン(水兵)のことを「彼とは友だちです」と言っていた同じ女性が、後日飲んでいるときに何気なく「沖縄ってほんとに植民地だからね」という。そういう感覚こそが、岸さんの言う「固定したイメージではなく、もっと複雑で流動的な現実」なのだ。それを問いつめるではなく、ひとつの事実として眺めている。
私がやりたいことは、こういうことなのかもしれないと思った。生活史を聞き取って、それを記録すること。偉業を成し遂げた人のサクセスストーリーではなく、地に足をついて決して目立たなくともたくましく生き抜く人々の何気ない生活の記録。
さりげない会話を交わすから知ることができるその土地らしさだったり、何気ないことばの表現や考え方、地域性だったり、そこに生きる人の生き様を、もっと知りたい。
日の当たらないものにこそ、真実はある。
岸さんは、「ふつうの沖縄」こそが「ほんとうの沖縄」だと言う。同感だ。ふつうの暮らしを記録する。誰に肩入れするでもなく、生活史を淡々と刻んで残していく。素晴らしい活動。この人の本をもっと読んでみたい。
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私たちの世界がファンタジーと違うのは、こうしてつくられた亀裂を閉じ、隔壁を破壊し、世界をもとに戻す言葉が存在しない、ということだ。私たちの世界に存在する物や生き物には、真の名はない。私たちは、世界の実在に遠く届かない、頼りない「世俗の言葉」しか持ち合わせていないのである。私たちの言葉は、世界を壊すばかりで、それを回復する力を持たされていないのだ。
私たちはそれでも、この弱々しい世俗の言葉で、世界のあり方を何度も語り直さなければならない。それしかできることはない。(216)
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ここでは、「中心と周辺」という関係が、幾重にもねじれたまま重なっている。東京という中心に対する沖縄、という関係がまずあるのだが、それと一八〇度ねじれるようにして、那覇という中心とやんばる(本島北部)という周辺があるのだ。北部の貧しさ、周辺性について理解していないと、名護の人びとがどのように考えているかはわからない。そして、少しでもわかっていたら、「わずかなお金で海を売り飛ばした」という表現は出てこないはずだ。
−−—しかし私は、彼の言ったことが「間違っている」とは思わない。そういうことを言いたいのではない。彼が言ったことは正しかった。しかし、私たちが「正しくある」ことで踏みにじってしまうものが存在するのである。貧しくあること、従属的であること、周辺的であることから帰結する、複雑で多様な判断は、単純な正しさの基準のもとでは、単なる愚かなこと、間違ったことになってしまうだろう。
−−—いずれにせよ、私たちは「単純には正しくなれない」のだ、という事実には、沖縄を考えて、それについて語るうえで、なんども立ち戻ったほうがよい。(241)
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沖縄をフィールドワークしてきた岸政彦のエッセイである。フィールドワークとはまた違った口調である。ウチナンチューという言葉が多くなり、ヤマトンチューとの区別がよくわかる。観光ガイドよりも役立つ。
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沖縄は、時事問題や歴史の解説でアンクても、「それについて考えたこと」を書くだけでも一冊の本になるような、そういう場所だ。それはまったく、ほんとうに、日本のなかの独特の、特別な場所なのだ。
たとえば、沖縄について何か文章を書くときに、その文章の「人称」をどうするか、そこに誰が含まれるか、という、「書く」ことにあたってのもっとも基礎的な部分でさえ、考えられるべきことがたくさんある。
こういう感覚。沖縄の人びととみんなが同じ感覚を共有しているわけでもないだろうが、こういう感覚が存在する。彼とは友だちです。ほんとに植民地だからね。どちらも嘘ではない、ほんとうの実感だろうと思う。あまり政治的なことは関わらない、どちらかといえば「保守的」な女性だったのだが、それでも自然にそういう言葉が出る。(p.66)
私は、良い社会というものは、他人どうしがお互いに親切にしあうことができるような社会だと思う。そしてそのためには、私たちはどんどん、身の回りに張り巡らされた小さな規則の網の目を縛る必要がある。(p.70)
要するにこういうことだ。戦後の沖縄の経済成長と社会変化は、おそらく米軍の存在がなくても、自分たちの人口増加と集中によって成し遂げられただろう。このことをさらに言い換えれば、次のようになる。沖縄は、米軍に「感謝する」必要はない。この成長と変化は、沖縄の人びとが、自分たち自身で成し遂げたことなのだ。
米軍のおかげなんて思わなくてもよい。沖縄は、沖縄人が自分たちで作り上げてきたのだ。(p.110)
私たちは「単純に正しくなれない」のだ、という事実には、沖縄を考えて、それについて語るうえで、なんども立ち戻ったほうがよい。
そして、さらにその先がある。単純に正しくなれないからといって、私たちは正しさそのものを手放してしまってよいのだろうか。私たちは、沖縄自体を語ることを、あきらめなければならないのだろうか。(pp.141-142)
壁とは何だろう。境界線とは何だろうか。私たちは沖縄に限らず、常に多様で流動するそれぞれの個人と、かけがえのない出会いを果たし、それぞれに個別の関係を結んでいる。そこには壁や境界線など、存在しないようにみえる。(p.142)
社会というものがつながりであり、そのつながりのなかで私たちが生きているとすれば、なぜ「わずかなお金で美ら海を売り飛ばした沖縄人」というような語り口が、権力に批判的なはずのナイチャーの元教員の口から出てくるのだろうか。
私たちは実は、つながっていないのではないか。私たちは、私たちとは異なった歴史を歩んでいる人びとのことを、理解することができているのだろうか。(p.145)
私は若い女性が、その日常の中でどれほどのリスクとともに暮らしているかを、頭では、理屈では理解していたつもりになっていたが、まったく不十分であったことを、連れあいから教わった。もちろんいまでも不十分なままだ。女性というものが、あるいは男女の枠にもはまらない少数者たちが、どのようなリスクとともにあるか。そういうことの意味は、いくら勉強してもし足りない。公園のベンチで本を読むということさえ、私たちが生きるこの社会では難しい人びとが、それも私のすぐ隣にいるのだ。私は、私の隣人であるそのような人びとと、立場を交換することができない。したがって「自分のこととして」理解することも、非常に難しい。私にとっては常にそれは、言語によって伝えられるものであり、合理的にしか理解できないものである。(p.147)
調査者は、見知らぬ土地で大きな孤独を経験することになる。見るということは、対象から距離を置いた、孤独な感覚だからだ。
この段階では、沖縄はひとつの巨大な「風景」だ。見る、という行為には、大きな快楽がともなうこともあるが、しかしそれはやはり、その社会に参加できない、他所者でしかないものの、孤独で不安な状態そのものである。(p.150)
私たちは沖縄を心から愛している。なぜかというと、それが日本の内部にあって日本とは異なる、内なる他者だからだ。規格化と均一化が果てしなく進む日本の内部にあって、沖縄は、その独特なものを色濃く残す、ほとんど唯一の場所である。その地理的条件、その気候、その歴史、その文化、全てが日本とは異なる。だがそれは法的にも現実的にも日本の一部である。私たちは沖縄を持て余しているのだ。(p.174)
しかし、岡本太郎も撮影していない沖縄がある。それは、商店街でパンや薬を買い、サラリーマンや公務員や労働者として働き、当たり前に家族を養っていく、「ふつうの沖縄」の姿である。50年代の与那原の地図を見ながら私は、この時代にこの人びとの暮らしはどうだったのだろうと想像してしまうのである。(p.204)