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著者が「奥の細道」のルートを自転車で旅したのは2012年。震災の翌年だ。当然ながら津波と原発事故の爪痕は生々しく、泣きながら自転車をこぐドリアンさんと一緒に、自分も泣きたくなってしまう。
壊れた原発から放出された放射性物質は、今現在に至るまで、この旅の時から減っているわけではない。それなのに、ちょっと忘れてたりしたなあ、駄目じゃないか自分。「復興」の掛け声の影で、取り上げられない声や、声にもならない思いがたくさんあるはずだ。出版が今年になった事情はわからないが、私にとっては薄れそうな記憶に活を入れられる一冊になった。
著者は旅の途中、ところどころで放射線量を計る。驚くような高い数値が出る場所もある。これを書いていいのか、ここに住むことを選んだ(あるいはそうせざるを得なかった)人たちをさらに傷つけることになるのではないか。ドリアンさんはためらい、深く懊悩する。
それでも「事実」をなしにしてはいけない、この値を直視しないといけない、なし崩し的に原発を再稼働させていく大きな力に抵抗し、よくわからないけど大丈夫なんだろうとうやむやなまま知らん顔をしている都会の人たちに、これを伝えなければならないと、時に落ち込む気持ちを必死に奮い立たせて、著者は旅をし、そして書いていく。率直に綴られた心情に共感せずにはいられない。
まったく情けないことに、当初の憤りを忘れかけていたが、投入された税金や寄せられた義援金が、被災地とは関係のない事業に使われていた(今でも?)のは、あまりにも酷い。特に「もんじゅ」にその財源がつぎ込まれたことを知ったときは、言葉を失ってしまった。壊れたままの小学校のグランドでサッカーをする小学生たちを見て、ドリアンさんの胸は激しく痛む。家族や家を失った人たち、住み慣れた土地を離れざるを得なかった人たち、これからまだまだ長い期間、放射線の影響を心配しながら暮らすことになる人たち、どんなに支援があっても足りないと思う。そうだ、そうだったよ、今でも被害は進行中なのだと、目の前に突きつけられる思いだった。
福島産の作物を輸入禁止にしている国はまだあるし、農家には厳しい日々が続いている。「これを風評被害という言葉で片付けてしまうのは、私は違うと思っている」とあって、本当にそうだと思った。「風評被害」と言うなら、農家は消費者を恨めばいいのか。絶対に違う。これは「実害」なんだから。ドリアンさんが農家の青年たちと集うなかで聞いたある人の言葉が、強く心に残った。
「学校でもらしちゃった子は、もらしたもらしたって、ずっと言われるんだよね。それが今の福島。じゃあどうしたらいいかっていうと、走るのが思い切り速いとか、ものすごく勉強ができるとか、もらしたこと以外で知ってもらうしかない。そっちで人気者になるしかない」
なるほどなあ。ドリアンさんが書いているとおり、これは「福島の農家が直面している問題に限らず、あらゆる場面で有効なたとえ」だと思う。
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奥の細道を辿る旅。ややもすれば紀行文学として捉えてしまいがちだろう。
しかし主題としては東北の現実、自分の目で見ないとわからない現状。
震災直後気仙沼に行ったが、テレビの画面を通して見るのよりはるかに強く胸が締め付けられた。
ほんとうの意味での復興を祈ります。
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あの『あん』のドリアン助川が,東日本大震災後1年半くらいの2012年8月~11月に,主に自転車で芭蕉と曾良が歩んだ「奥の細道」をたどった旅の日記。なぜ,そんな旅に出ようと思ったのか。それは,震災後1年もたたないのに,すでにあの震災(原発事故)を忘れてしまったかのような政府の動き(原発の再稼働など)を危惧し,この大震災を「記憶に留める」ことを再確認するために行った旅なのでした。そして,手には放射線を測る「線量計」を持って…。
この状況,自分の五十年間に似ているなと思う。気まぐれと混乱の連続。怠惰と努力のないまぜ。あがくことだけはやってきたような気がするが,自分がつくってしまった空白への応急処置を焦ってやっているに過ぎない。たまには良いときもあったし,道が見えたような気分でぐっすり眠れる夜もあった。でも,私は知っている。どれだけペダルを漕いでも進めないときは進めない。振り返ればいつも徒手空拳なのだ。だれもいない,飛沫のかかる道でメグ号にまたがって揺れている,年齢さえも自認できない中年男。
上の文章は,日本海側に出たドリアンが,直江津から糸魚川に至る途中,日本海の大雨と大風に抗いながら走っていたときに感じたことです。この表現力,さすが作家だなと思うと共に,私の人生とも重ね合わせてしまいます。もっとも,私は,ドリアンとは比べものにならないくらい,ふつうのレールの上を歩いてきただけですが,それでも,いろんなことがあったなと思うのです。
旅をしながら自分の人生を振り返る。そしてまた新しい出会いが生まれ,自分の歴史の一部となって脳裏に刻まれていく。それを読んでいる時の心地良さ。なんだろうこれ。巧みな文章表現に吸い込まれていきます。
「叫ぶ詩人の会」も「金髪先生」も,彼なしではできなかった。そうそう,あの『あん』も,このとき書いていたそうです。ドリアン助川,1962年生。私より3つ年下。
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昨年出版されていますが、実際にドリアン助川さんが旅に出たのは2012年です。
最近すっかり影が薄くなった福島第一原発。色々な事件や事故に紛れて少しづつ皆さんの意識から遠のいている昨今であります。
そんなことないぞ!忘れていないぞ!、と言ってもTVニュースでもあまり出て来ないので一般の人々の意識に上らない日も多いのではないでしょうか。
実際は廃炉まで40年も掛かるし、補償を受けられない人達が大多数で、崩壊した生活を取り戻すことが出来ないまま既に8年が経過しようとしています。
知らないうちに許容年間放射線量も1ミリシーベルトから20ミリシーベルトへ緩くしているし。本当に大丈夫なんだろうかと思います。
さて、2012年に東京から「奥の細道」で芭蕉が回った足取りを線量計片手に旅に出た記録が本書です。てっきり使命感に後押しされ、ドヤ顔で廻った記憶なのかと思って読みました。まことにすみませんでした。そんなことは全くなく、この行動がもしかしたら被災した人々を傷付けるかもしれないという葛藤の中で続けられた旅と分かりました。
被災地に近づくにつれ、言葉少なくなっていくのが読んでいてひしひしと伝わってきました。正直に言わなくてもいいだろうに、出会う人達に戸惑いながらも目的を正直に答えてしまうのはドリアンさんの人柄が出ています。
あの時の事を風化させない為に、意識的このような本を読むようにしています。