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2018.09.09読売書評、美学者。
『ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環』を未読だが、どこか惹かれる。
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本書は哲学書のカテゴリにしてしまっていいのか分からないが、とにかく「わたし」とは何か、「意識」とは何かを突き詰めていく。真に正しい結果は出ないと思うが、著者は書名の通り「不思議の環」と結論している。その説明をするために、数学や物理の話が出てくるので、特に数学嫌いの方は読むのが辛いかもしれない。正直、難解な本であったが、たまにはこのような本を読んで、思索に耽るのもいいかもしれない。私は哲学分野に明るくないので、脳に新しい刺激を与えるのに効果があったかもしれない。
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好きなネタに関して好きな作者が書いているものを同時代に読める幸せ。
意味はアナロジーの中にしか存在しないという言明は強い。なんかみんなの読んでいるアイディアの本にもそんなこと書いてあったよね。思考の整理学か。自己言及のループの中にしか抽象化が存在しないというようにも読めた気がするけど、なんなんだろうね。抽象化というのは、アナロジーが重ならないと起こらない、そして、意味というのは抽象化されたものである。ってことかな。
後半の、チャーマーズとかへの言及はいるのだろうか。そこの部分で立場表明みたいになっちゃうのは現在進行系の話としては仕方がないけどね。
テレビとビデオのフィードバックの話、大学生のころにナムジュン・パイクに触発されてテニスサークルで鍋パーティーしたときに一人でそればっかりやってたことを思い出した。なんだったんだろうね。あれが楽しいと思ってたんだろうけど。
テレポーテーションの話は、非常に印象に残っていた思考実験で、自分の立場を明確にする際には大変役にたった。僕の場合は、問題となっているのはむしろ自己が複数あるという問題はちょっとかなりFirmwareの書き換えが必要かもな。という考察で、そもそも意識のある状態とない状態が睡眠で限られているときに、ない状態からある状態になるときには連続性保証が必要になるんだけれどそれによって付随的に意識も連続性を持つというプログラムを強いられただけなんじゃないかなと思っている。そこから、記憶がないときの自己ってなに?みたいな最近のたくさんの映画が生まれている。で記憶がないときにも自己は存在するんだという結論に達する場合、主人公(記憶をなくしてしまう人)は毎回、同じように恋に落ちるという作業を繰り返すそのプロセスの再現性に自己があるのだ、みたいな話になる(のかな。見たことないけど)
あと、妻をなくした人が妻の位置について語る本であったことに愕然とするよね。今めぐりあうかねこれに。シンクロニシティだんねえ。
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「私」とはいかなる経験であるのか。ベストセラーである「ゲーデル・エッシャー・バッハ」の著者が壮大なテーマに再度挑んだ力作。長大かつ難解だが、文章は著者ならではのユーモアに彩られており楽しく読むことができた。
著者は一部の哲学者が提唱する「クオリア」という概念を錯覚だとして退けている。「経験」が創発する場に「その経験の経験者」を要請するのは無限後退であり、「私」を捉えることがいつまでも不可能というわけだ。そうではなく、無限の上位跳躍をしつつも最終的にはなぜか出発点に戻るという、エッシャーの不思議絵のような「奇妙なループ」こそが「私」であるというのが著者の主張。そしてそのような閉じた「私」を可能にするのがゲーデルによって見出された不完全性定理のアイデアであるという。
ゲーデルの「整数式の証明可能性を整数を用いて語る」というアイデアが、「経験の対象とそれを経験する状況を同次元で語る」ことのアナロジー(写像)になっており、これにより「私」は無限後退に陥ることなく「閉じた(=安定した)」存在でいられるというわけだ。
さらに、このゲーデル文の記述方法にみられる「下からの因果律」の力により、人間は下位レベルの具象を「気にせずに」いきなり上位レベルである抽象のみを了解しているという(この、レベル毎に認識すべき対象を選択するというアイデアに盟友ダニエル・デネットの影響が見て取れる)。そこから生まれたのが、神経学者ロジャー・スペリーの論に着想を得た「動玉箱」という枠組み。器質そのものではなく、外界からのシグナルをカテゴリー化し志向性を獲得するという、動的な無限フィードバックシステムこそが意識を形作るのだという、著者の意識論の中核をなす概念が端的に示されている。一方で心的な現象をニューロンの機能に還元するジョン・サールの因果的還元論をビール缶のアナロジーを用いて痛切に批判しているのが印象的だ。
本書の著者の哲学的考察において特別すべきは、それらがことごとく個人的経験に対する深い考察に裏打ちされているということだ。深い心的ダメージをもたらした愛妻の死はともかく、ビデオカメラを用いた遊びや封筒の束を握った時に得た不思議な感覚など、あらゆる事象の本質を徹底して洞察し抜く鋭敏な感性には驚かされる。またそこに通底する著者ならではのヒューマニスティックな眼差しが、「奇妙なループ」たる「私」が「私」と同様の他のループの存在を認めることにより他者の認識パターンを取り込むという、本書のテーマの1つである「遍在する私」の基礎となる「共感」という着想をもたらしたのだと思う。
そして本書で最も「奇妙」と思えたのは次の点。本書に通底するテーマはアナロジー、すなわち異なる状況の本質が同一であることを示す「写像」が人生においていかに強力で芳醇な意味を持つかを示すことにあると考えられるが、その語りそのものがまさに多数のアナロジーを用いて行われているのだ。本書自体が「奇妙なループ」をなしているともいえ、この次元においてもテーマと語りの同型性が表現されていることに思い至った時はめまいのような感覚を覚えた。英語の”loopy”に、「輪の多い」のほか���「頭のイカれた」という意味があるというのも奇妙な符合ではある。
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「ゲーデル、エッシャー、バッハ」で一世を風靡した著者に
よる、その続巻とも言える本。「ゲーデル─」も少し気には
なっていたのだが、こちらから先に。
基本的に著者の考える「意識」像─あるいは「私」像は私の
それに近いのではないかと思う。「その中心には何も無く、
錯覚のようなもの」「生まれ持ったものでは無く周りからの
入力の積み重ねによって生じるもの」「徹底的な霊肉二元論
の排除」etc. そのためか大変面白く読むことが出来た。
ただ気になる点もいくつか。まずは「ゲーデルの不完全性
定理」のループと「意識」「私」のループがどう繋がるか
という記述が抜けているのではないかと思われる点。
もちろんゲーデルの不完全性定理についてはとても理解し
きれているとは思えないし、私が読み落としているという
可能性も低くは無いのだが、この二つをなぜ同じものだと
あるいは似たものだと思ったのかという説明がないように
感じたのだ。
そしてもう一つは著者による魂の線引き。友達の概念を
魂があるかないかの線引きに使おうというのはあまりにも
恣意的すぎる気がする。私はどちらかと言うと蚊にも、
そして極論すればサーモスタットにさえ何らかの「意識」
「私」「魂」があると考えて良いと思っている。
後追いになったが「ゲーデル─」も読むことにしよう。
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・ゲーデル、エッシャー、バッハの根底にあるメッセージはあまりわかってもらえなかった。:ゲーデルが発見した自己言及構造。生命のない物質から生命のある存在がどのように生まれるか。