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『歩道橋の魔術師』もよかったが、こちらも素晴らしい。
1台の自転車が背負う時間、歴史。
動物園や象のくだりでは、ちょっと小川洋子を連想したりした。
写真を撮ることのくだりでは、『スモーク』を連想した。
ノスタルジックなのだけれど、そこに留まらないところがとてもよい。
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「鐡馬」と呼ばれる自転車と共に父が消え、成人した主人公の元に再び自転車が現れた。そこから広がるのは、自転車に関わった人々や生き物が生きた、20世紀初頭からの台湾の歴史。断章として挿入されるノートも絶妙に繋がり、自転車の復元により表に現れる事実の、複雑にしてなんともドラマティックなこと。
同時代小説にしてミステリーとしても読める多様さ、そしてパブリックイメージとは違う台湾の姿が浮かび上がるすごさ。この本を翻訳しきって逝ってしまった訳者の天野さんの力量にも舌を巻く。これから邦訳される呉さんの新作は、また違うように読めるのだろうか。
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【台湾からの新風、二〇一八年ブッカー国際賞候補作!】父の失踪とともに消えた自転車は何処へ――。行方を追い、台湾から戦時下の東南アジアをさまよう。壮大なスケールで描かれる大長編。
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『歩道橋の魔術師』が話題になった呉明益の長編。
ブッカー国際賞の候補にもなったようだ。
自転車をモチーフに、過去と現在、様々な場所を行き来する中で、現実と幻想が徐々に曖昧になる。これは一級の幻想小説ではないだろうか。
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面白かった。この作者は物語の上手い人だ。父とともに失踪した自転車。数十年後、作家である「ぼく」はその自転車に出会う。果たしてこの自転車はどんな歴史を辿ってきたのか、そして父は…。主人公のファミリーヒストリーが、第二次世界大戦史、台湾史、台湾の自転車史、動物園史、チョウの工芸史…などスケールの大きい世界の内に語られて、読み応えあり。時空をこえて響きあい、自分の家族の歴史を思い起こした。翻訳家の力量に負うところも大きそうだ。
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かなり複雑なので一読しただけでは理解が難しいですが
台湾の空気感がよく表れてると思います。
著者の言葉を借りるなら
10本の柱のうち3本が実で7本が虚
3本の実の方が少ないじゃないかとか
割合がおかしいじゃないかとか
そういうのはどうでもよくて
何が実で何が虚かの
割り振りの方が面白い。
そっちが虚かーいと。
そういう事が台湾では起こりうる。
(ラオゾウじいさんにつれてかれてシュノーケリングしたら人魚姫?竜宮城を見た)など
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作家自身を思わせる男が台湾の中華商場界隈に生きる日常を描くリアリズム部分と、訳者が「三丁目のマジック・リアリズム」と呼んだ非日常的で不思議な出来事が起きる物語部分とが違和感なく融けあって一つの小説世界を作っている点が呉明益という作家の特長だ。たしかに『歩道橋の魔術師』では、その物語は限定なしでマジック・リアリズムといえるほどのものではなかった。
それが今回はかなりレベル・アップしている。単なる古道具やがらくたを積み上げた倉庫の通路が洞窟となり、廃屋の地下室にたまった水は異世界と通じる地下の通路となる。松代大本営と同じく空襲を恐れ、地下に設けられた空間に殺処分を命じられた象が隠れて飼育される。土の下に隠された自転車がガジュマルの枝に抱かれて中空に上るなど、どれもこれもマジック部分の規模が大きくなっている。
落語に三題噺というのがある。客からお題を三つ頂戴し、その場で一つの話に纏め上げるという噺家の腕の見せ所を示す芸の一つだが、その伝で行けば『自転車泥棒』は差し詰め「父の失踪」、「自転車」、「象」の三つの題で語られた三題噺といえるかもしれない。あまりにも三つの主題のからまり具合の造作が目について、リアリズム小説の部分がやや後ろに引っ込んで感じられるくらいだ。
軸となるのは、盗まれた自転車をめぐる「ぼく」の捜索譚である。「ぼく」の父は中華商場が崩壊した翌日、自転車で出かけてそのまま消えた。働き手である父を失った家族は苦労して今に至る。ところが、ある日失踪当時父が乗っていた自転車が「ぼく」の目の前に現れる。部品は変えられていたが車体番号が同じだった。「ぼく」は、時間をかけて関係者に近づき、自転車の来歴を探る。おそらくその果てに父にたどり着けるにちがいないと考えて。
呉明益自身がかなりの自転車マニアらしい。それも、古い自転車を「レスキュー」し制作当時の姿にする自転車コレクターなのだ。作家は小説における虚と実の割合は七対三くらいがいいと考えているという。その三の一つに今回は自転車が使われている。以前に発表した作品の中で中山堂で自転車を乗り捨てる話を書いたところ、読者から「あの自転車はその後どうなったのか」というメールが届く。
小説は小説であり、その中で終わっていると答えてもいいのだが、作家は読者と同じ世界に入って考えてみた。その解答が、この盗まれた自転車をめぐる小説である。台湾のエスニック・グループをめぐる小説であり、日本に支配されていた時代と現在の因果を巡る小説である。それは必然的に、日本によって統治されていた時代、日本や台湾その他の民族がどのような目にあわされたかという話に及ぶ。
「ぼく」は狂言回しの役に徹し、多くの登場人物が過去の物語を伝える。それは直接語られることは稀で、カセット・テープに残された音源のテープ起こしされた原稿であったり、小説であったり、時には象を話者として語られたりもする。手紙やメール、小説という形式の昔語り、と多彩な表現形式が駆使されているのも特徴だ。ある意味で、これは失踪した父の手がかりを求める「ぼく」という探偵の捜査を綴ったミステリとも読める。
ただし、そこに明らかにされているのは父の個人情報ではない。大量死を遂げた日本兵の成仏できない魂が、傷を負った半ばヒト、半ばは魚となって水の中で群れる姿。その賢さと強さのせいで、荷駄を背負って戦場を行く道具として使役される象と象使いの心のつながり。自転車に乗ってジャングルを疾駆する「銀輪部隊」等々、戦時中の台湾やビルマに生きた人々のあまり知られることのなかった生の記録である。
過去を語る物語だけがこの小説の主役ではない。「ぼく」が自転車について調べ始めるにつれて芋づる式に巡り会う個性的な人々のことを忘れてはいけない。インターネットを通じて古物商を営むアブーがそもそものはじまりだ。アブーから自転車のダイナモを買った「ぼく」は直接会うことになり「洞窟」のような倉庫に足を踏み入れる。それから交友が始まり「ぼく」の探してる「幸福」印自転車の情報がアブーからもたらされる。
コレクターのナツさんが喫茶店に貸し出した自転車の持主は別にいた。「ぼく」は喫茶店に何度も出かけアッバスという戦場カメラマンと出会う。自転車はアッバスは昔の恋人アニーが見つけてきたものだという。カセットテープの声はアッバスの父のものだ。この小説は主人公も舞台も異なる十の短篇を自転車という主題でつないだ連作短編集としても読める。それぞれの篇と篇は「ノート」という、自転車に関する歴史や「ぼく」の家族の歴史を語る部分でつながれている。
単なる短篇集ではなく連作短篇集だというのは、一つ一つの章が巧妙に関係づけられ、過去と現在を自在に往還し、見知らぬ同士を手紙やメールを通じて結びつけ、果てはビルマの森で敵同士であった象を扱う兵士をすれちがいさせ、長い時間をかけて音信のなかった父との出会いを経験させるという、上出来のドラマを見ているような気にさせるからだ。なお、訳者の天野健太郎氏は昨年十一月、四十七歳の若さで病没された。ご冥福をお祈りする。
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ジョンアーヴィングの初期の作品を彷彿とさせる衝撃
迫力満点のすばらしいものを読ませてもらった
2018年わたしのベストテン入り
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個人的に最近読んだ小説の中で一番のヒットでした。台湾の歴史を骨子としたリアリティある話の上に、魔法のような描写が乗ってくるので、ガルシアマルケスや莫言あたりのマジックレアリズム好きには堪らないのではないかと思います。
自転車のディティールの描写も良いですね。時代に応じた自転車の仕様の変化も描かれており、世の中がどう変化してきたのかと、それに伴い自転車の役割や位置付けがどう変化してきたのかが分かるのが楽しいです。
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父が乗っていた自転車を巡って、台湾の自転車史、日本統治時代の戦争史、動物園の歴史、蝶収集及びそれを用いた工芸品、台湾少数民族、家族史を描いている。
所々幻想的な描写があり、その点は感嘆したが、全体的に間延び感があったように思う。話もあちこちへ分散し、最後に収斂していくが、何か物足りなさを感じた。
また同作者の他作品を読んでみたい。
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自転車の他、象とか蝶とか、台湾の歴史とか…もっと知りたくなることがたくさん出てくる。天野さん訳の台湾に関する本、全部読もう。
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台湾作家の長編小説。原題は『單車失竊記 The Stolen Bycycle』。古いイタリア映画のタイトルから引いている。
主人公は、小説家であり、古い自転車のコレクターでもある。
自転車に興味を持ち始めたのは、父の行方不明が遠因だった。父は20年前に失踪し、乗っていた自転車もともに消えていた。
台湾のメーカー、「幸福」のもの。
古い自転車が完全な形で残っている可能性は低いが、彼はその車体番号を覚えていた。
ある日、彼は信じられないことに、その自転車と時を経て再会することになる。
本作はその自転車を巡る話を軸に、いくつかの自転車と、何人かの人生、そして幾種かの動物たちの生が交錯する物語である。
現在と過去。現実と虚構。生と死。
一家族の歴史に、第二次世界大戦前後の台湾史、その自転車史、動物園史、蝶の工芸史が絡み、万華鏡のような世界が広がる。
台湾は複雑な歴史的・民族的背景を持つ。日本統治時代、第二次大戦の時代を経て、台湾光復があり、国民党の時代がある。先住民、本省人(第二次大戦以前から台湾に住んでいた者)、外省人(光復以後に移り住んだ者)とさまざまな立場の人がいる。
本書では、自転車を仲介に、時には自転車とはもはや関係なく、語り手が移り変わり、それぞれの視点からのそれぞれの物語が語られる。
動物たちに関わる物語も印象的だ。
かつて非常に人気を博した蝶の貼り絵を作っていた女の子の物語。
小学校で飼われていたオランウータンの「一郎」のエピソード。
その賢さと力の強さのために、戦争に使役されたゾウたちの悲劇。
物語は、長い時代を描くがゆえに、否応なく戦争の話を含む。登場人物の1人はこう言う。
「戦争には、なつかしいことなどなにひとつありません。でも、こんな年になってしまうと、私たちの世代で覚えているもの、残されているものは全部、戦争のなかにある・・・」「だから戦争に触れなければ、話すことがなくなってしまう」
人は与えられた場、与えられた時代を生きるしかない。
訳者はあとがきで、邦題は直訳と言っているのだが、漢字の原題を見ていると「盗まれた自転車の話」を指し、英題では「盗まれた自転車、それ自体」を指しているように思える。対して邦題では「自転車を盗んだ泥棒」が主体に感じられる。
だがそんな風に、自転車や自転車が盗まれたという事件、そして自転車を盗んだ人へと視点が移り、思いが漂うこともまた、この小説には似つかわしいのかもしれない。
著者の後記、訳者のあとがきも含めて、味わい深く余韻を残す。
物語は、美しい情景の中に、どこか深い悲しみを秘める。
それは生きること自体がもたらす哀しみなのかもしれない。
現実とも虚構ともつかぬその世界を、幾台もの自転車が疾走する。
息を乱し、リズミカルにペダルを踏み、汗をにじませる幾人もの乗り手を載せて。
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読書を堪能した。文章が、視覚嗅覚触覚聴覚に語りかけてくる。とくにジャングルやチョウやゾウやオランウータンや自転車。誰かと誰かがつながっていき、それに合わせて変化する情景描写のめくるめくスペクタクル。とにかく面白かったので、もう一回読む。
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読後1週間経つのにいまだに戦中と現代の台湾やアジアを放浪している気がしている。それほど世界がはっきりとある本。題名は映画のそれを彷彿させる場面もあるが、村上春樹の世界にも似ているのでいっそ「自転車をめぐる冒険」でよかったかも。正直これほどまで台湾において日本(軍・企業)の影響があるとは思ってなかった。『歩道橋の魔術師』の登場人物たちもちらりと登場。自転車乗りとしては次々出てくる台湾の自転車に纏わる話もあり読み進むのが楽しかった。この世界は著者もさることながら翻訳者の天野氏あってできたものだろう。氏の訳で呉作品を読むことがもうかなわないことがとても残念。それでもこの本、そして『歩道橋の魔術師』は残る。氏の仕事に感謝。この2冊に出会えたことに感謝。R.I.P.
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『先生の手のひらには工具の柄と合致したタコができ、長年それを摑んできた骨も同じように凹んている。それは先生の手を信じた、そしてその手に信じてもらえた工具であった』―『アブーの洞窟』
呉明益の小説の主人公を作家本人だと勘違いしないでいるのは難しい。しかし、例え登場する人物像や時代や背景が作家本人のそれとよく一致していたとしても、作家はつねに虚構と事実の淡いを歩むようにしてその差を曖昧にしつつ物語を紡ぐ。本書の主人公たる作家が記すノートにもそのような説明があり、そこでも主人公と作家本人は限りなく重なり合うが、二重に虚構の屋上屋が重ねてある構図となっている。何と念の入ったエクスキューズかと思い、少しくすりとしてしまう。
それは究極的には読者の手に委ねられた判断であろうと思いつつ、作家はテキストを発信した瞬間から常にテキストをオープンなものとして手放さざるを得ないという宿命のようなものにも思い至る。つまり、あれこれと作家を詮索しても始まらないことなのだと諦めるより他はない。
そんなつまらない詮索はさておき、二冊目となる呉明益の小説は期待を上回るもの。この作家は、現在に残るピースから過去を再構築していくのがとても上手い。もちろん史実を丹念に調査してもいるのだろうけれど、記憶の持つ柔軟さをよく理解した上で巧みに狂言回しのようにそれを虚構に混ぜ込む。すると真実味とでも表現すればよいのかも知れぬ独特の存在感となって世界が立ち上がる。見慣れたピースと言ったけれど、それは必ずしも実在している必要すらない。人々の記憶に共通の存在として残っているものでもよい。そのかぎ括弧付きの「共通の思い出」は、人それぞれに座り心地のよい場所を物語の中に見い出し虚構である世界をぐっと身近に引き寄せる。それどころか、全く見たことも無い中華商場を克明にこちらの脳内に再構築させる文章の力を思えば、そんなピースすらこの作家には不要なのかも知れないと思う。
記憶。それはどこまでも曖昧で郷愁を呼ぶものと思いたい。しかし作家は「哀悼さえ許されぬ時代」と書く。その言葉の深い意味はひょっとすると台湾人にしか理解し得ぬものであるのかも知れない。それを解ったように語るのは余りにも偽善的なことであるようにも思う。そうであるにも拘らず文章によって揺さぶられる記憶は自分の中には無かった筈の痛みを呼び覚ますのだと告白せざるを得ない。不思議な恍惚感が読み進める毎に増してくる。「歩道橋の魔術師」の立ち上げる世界と地続きの世界は思った以上に複雑で簡単には割り切れない世界。そこに登場する父親が皆寡黙であるのは当時としては一般的であったと翻訳家は記したが、それも当然のことであると思う。語り得ぬことは黙する他ない、と彼の地の哲学者が言った通りだ。
自転車を巡り一つ一つ明かされていく謎、そして明かされない謎。主人公の父親の残した謎は解けぬままだが、自転車は残る。ペダルを空漕ぎする音を読む者の耳に残して物語を終える作家の見つめる先は読者には計り知り得ぬ境地であることだけは確かなことのように思う。乾いた音が作家の潔さを強調するかのように、永遠と鳴り続ける。
出来れば本書���執筆されることの切っ掛けとなった小説も同じ天野さんの訳で読みたかったと思うこと仕切り。今となっては「歩道橋の魔術師」をリツイートして頂いたことが忘れられぬ思い出となりました。ありがとうございました。