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休憩がてら読み始めた東浩紀さんの『ゆるく考える』が思いのほか、ゆるくて、ゆらゆらと思考が引き込まれ読みふけってしまった。エクリチュールの可能性や、批評への希望と葛藤が年をまたいでひしひしと伝わってくる。原稿書きながらだと受け取る感慨が違う。
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人生は短い。そして取り返しがつかない。ぼくたちはふだんその真実を忘れている。ところが子どもと暮らすと、否応なくその真実をたたきつけられることになる。それが子育ての喜びであり、辛さでもある
人間は論理的ではない。話し合えば正しさが実現するわけではない。すべての政治と哲学は、この前提から始まらなければならない
人間は事実は共有できる。けれども価値は必ずしも共有できない。同じ事実から異なった価値が導かれることはあるし、その差異を認めなければ人々の共生はありえない。けれども、日本人は事実さえ共有すれば、必然的に価値も共有できると思いこんでいるところがあるのではないか
日本人は、「話せばわかる」の理想をどこかで信じている。けれど本当は「話してもわかりあえない」ことがあると諦めること、それこそが共生の道のはずだ。事実と価値を分ける批評は、その諦め=共生の道を伝えるための重要な手段だとぼくは考えている。
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「ゆるく」というタイトルにどことなく逃げの姿勢を見て取り、近年めっきり肥えてしまった氏が最初に言い訳をしながらあれこれ語っているのかなと手にとった。
実際には、ここ十年に著者が方々で書き散らした論考をまとめたもので、基本的に書き直しをせず当時のまま再録していることから来る時代性が面白い。
Googleが新たな公共になり得るか、なんて議論は今となっては卒倒しそうだが、そういう時代もあった、ということで。
SNSに関しては、Twitterの持つゆるいコミュニケーションが、島宇宙を破壊する契機になるかも、みたいな希望的な観測もある。
これも、10年代も終わろうとする今からするとやや楽観的すぎたのかもしれないな、と。
現在のTwitter世界で頻発しているのは、島宇宙内での主張・議論が、リプ・RTでその宇宙の外から容易に可視化され晒されるために、島宇宙間での戦いが発生し炎上する、という事態でしょう。
それが嫌だというので、党派外からのアクセスを禁止するブロックとか鍵垢とかがあるのでしょうが、炎上案件は、まあスクショで拡散されますしね。さほど意味がない。
それまでであれば一生知らずに住んだ他の島宇宙の言説が、自身のTL上に煽りも込みで現れるわけで、何とも心穏やかになり難い時代です。
そういえば著者の「畏友」津田大介氏も、Twitterにそんな希望的な潮流に乗って登場したジャーナリストでした。
ところが最近では、「やはり人類にインターネットは早すぎた感しかない。」などと言ったかと思うと、
あいちトリエンナーレでは、あっけなく保守の攻撃に敗走し、あげく過去の醜聞まで掘り返される始末。
「畏友」だったはずの著者にも捨てられてしまったなあ、などと。
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ブログみたいなものです。ただしとても良いブログです。掲載時期が広いため、著者の現在の主張とは異なる点は留意。ファンなら。
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著者にとっては表題通り「ゆるく考える」なのだろうが微妙な違いを理路整然と整理して解説を加えるさま、時代を先読みする力は全然ゆるくない。おそらく内容の2割も理解出来ていないが、なぜか少し分かる気がするから不思議である。『正義はつねに複数なのだ、話してもわかりあえないことがあるとあきらめること、それこそが共生の道のはずだ』などうなるところがいくつもあった。この「平成の批評家」の「令和」の時代もフォローして自分の学びに活かしたい。
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平易な文体ながら知的好奇心をゆすり続けられる官能的な読書体験。
特にエミールの考察、人間の「抽象化と数値化」に関する章はアドレナリンどばどば。
門外漢ゆえ言うには及ばないながらも、批評への問題提起についてもなるほどそういうものかと楽しく読めました。
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社会の出来事とかニュースとかからグッと抽象的なことを考えられるような、激しい上昇気流のような考え方ができたらいいなと憧れます。
きっと、子供ができたということが思想に大きな影響を与えている気がする。
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面白いな、と思ってラインを引きたくなる箇所があるのに何度も通り過ぎてしまったのがもったいなかった。前半の日経のコラムはほどよくライトに読ませる文章が毎回まとまっていて参考にしたいくらい。
読んでいる最中にちょうどあいちトリエンナーレの騒動があって、リアルタイムで著者の言い分が流れてくる。出来るだけ切り離して読みたかったけどそうもいかなくて残念な気持ちになる。
福島のツーリズムはどうしても事務方に立って読んでしまう。所属や立ち位置だけで対立すれば楽なものだが、個々人もどこまで独立して物事を考えて議論することができるか。少なくとも情報の受け手は自分の認知のクセに自覚的でなければならないのだなと思う。
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i.は日常で深く考えている感じがした。キレがあった。
ii.,iii.は筆者なりの「書くこと」への挑戦は感じたが、文体、調子、視点が合わず、結果的に文章が弛緩していて、読むのが辛かった。
ところどころ、ハッとした。
以下、メモ。
i.2018年:坂、ペット、受験
ii.2008-2010年:まじめ、信頼(アマゾン、グーグル)と友情(ミクシィ)、消費社会と絶滅収容所は人間をもののように処理する点で繋がっている、twitter
iii.2010-2018年:『こころ』をどう読むか、記憶と記録の逆説:デリダ
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著者のエッセイ集。これまでとこれからの仕事について自身の視線で整理されていて理解の助けになると思う。
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2019年刊行。2010年から2018年までに色々な媒体で発表したエッセイや評論を取りまとめたものである。第Ⅱ章の、文學界での2008年から2010年の連載「なんとなく、考える」は、「郵便的、存在的」から「一般意志2.0」に至るつながりを著者自身が解説したものとも読める。それらの本の思想的な位置付けを理解する手助けになり、個人的に面白かった。当時の空気感が伝わる文章だからこそ、その後の東北の震災によって断絶/転向した様を鮮やかに印象付ける。
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アズマンの著書とは相性が良いとは言えない。動画での論説に惚れたのが始まりだし、こうしたエッセイでは東浩紀の思想家としての本気は見えず、題名のように、ゆるく綴られたものだから肩透かしを食らった感じになってしまう。彼の普段着な日常を知れるというファン心の充足、今回は、ルソーを切り口に民主主義を問い直すような思索に触れられた点は良かった。
ところで、度々論壇との飲み会について記載するアズマン。しかし、会話の大半はバカ話で消費されていて、党派的合意が形成される事は無い。普通はスノビズムとルサンチマンで満ちていて、全く生産的ではない、と述べている。変わらないんだな、と思う。コロナ禍で酒席が減った。時々やってくる波間、凪のタイミングで一斉に飲み会を入れる。飲み方を忘れているのと、取り戻すように雑談をするものだから、スノビズムもルサンチマンもバカ話もごちゃ混ぜにした濁った酒席になる。交流の懐かしさと娯楽性と共に、曝け出し合う気まずさを次の日まで引きずる。
さて、ルソーは野生人の自由を謳い、コミュニケーション不要な新しい政治を夢見ていた。それはアメリカという新大陸自然状態と社会契約について思弁を可能にしてくれる、社会思想の広大な実験場が15世紀末に発見されたからだという。時代は、民主主義的手続きやデータ利活用の過程で、ルソーを再認知していくのではないだろうか。