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までのジュンパ・ラヒリの作品とちょっと違うと感じるのは、インド系移民のことがチラとも出てこないからだろう。人物たちの名も場所の名も出てこない。何も限定されず、留まらない。名前もないのに鮮やかな、切り取られた人生のスケッチ。そして、羨ましいような孤独。
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あまりにも近すぎて驚く。
そして、あまりにわかりすぎて驚く。
日常感じていることを、こんなにもあらわに表現できるなんて。
さりげない何気ない言葉たちに、思いが染み出てる。
本当の孤独を知っている人は孤独に対してやさしい。
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ジュンパ・ラヒリの最新作。
『停電の夜に』がクレスト・ブックスから邦訳されてから、刊行された分は全て読んでいるが、より抽象的な方向に変化している。
本書のように、何処とも言えない場所(辛うじてイタリアっぽさは、ある。それともこれは邦訳のせいだろうか?)で、誰でもあり得る人物が登場する作品は幻想文学に通じるものがあり、読者としては、どんどん好みの方向に向かっているw 個人的にはこの路線で長編を読んでみたい。
次作がいつ邦訳されるのかは解らないが、楽しみに待っていようと思う。
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『その名にちなんで』が好きすぎてジュンパ・ラヒリを好きになった。『わたしのいるところ』は同じくらい好きになれそう。主人公45歳独身、大学で教鞭をとる女性。他にも出てくる人たちはみんな名前もなくて誰でも誰かになれそうな、そんな感じがとてもよい。わたしのいるところはここだけれど、そこでもあちらでもどこかでもある。断片的な精神の積み重ねで人は生きているし、心を繋げていくのは誰かととは限らず昨日の自分かもだし、明後日のあなたかもしれない。そんな物語だった。うん、やはりめちゃくちゃ好きになるかも。
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2014年に翻訳が出た『低地』以来、5年ぶり、待ちかねたラヒリの小説。しかも、イタリア語で書き下ろした初の作品だという。
確かにこれまでとはスタイルが異なり、話の筋を運ぶより、ローマにひとりで暮らす大学教員の中年女性の日々を淡々とスケッチしていく。一人称で語られることもあり、内田洋子か須賀敦子のエッセイを読んでるみたい。
何も起きない。何もしない。ただ心にときどきさざなみが立つだけ…なのに、いつかそのかすかな波に運ばれ、新たな旅へと向かうラスト。
うーん、いつまでも読んでいたいよ。
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こんな気持ちになる読書、好きだなあ。
とても幸せな読書。
ほんとうに、瞬間を上手に切り取るんだなあ。
人生には、瞬間だけがあると思わされる。
孤独とともに生きている人の物語を読んで、その孤独がその人の背中を押すかもしれない物語を読んで、生きてるのが嬉しくなる。
これからもこの人の作品を読んでいきたい。
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すごくよかった。
移り住む新しい土地。うんざりしつつも全てを把握して馴染んでもいる土地。
世間というものが自分たちを攻撃してきたときに守ってくれる(こともある)家族という避難所(もしくは牢獄)。避難所の安心と倦怠を横目で眺めつつ、牢獄になりえることを思うと、自分の孤独こそが自由を保障するものなのだと安心するような主人公の心の動きが本当に美しく語られている。
どこにいても、なにをしていても、どこか疎外されていて、どこか傍観者。「ここに属している」という確固たる気持ちが持てている人を羨ましく思いつつ、実際には、その気持ちの不確かさを全く疑いもしない人々の一種の視野の狭さを厭わしくも思ってしまう。
祖国。家族。鉢を植え替えられる植物のように、根を張り生きること。
それにしてもラヒリ自身のプライベートを、読む側の私が気にし過ぎてしまう嫌いはある。プリンストンで教鞭をとるためにアメリカに帰国したんだー、とか、サバティカルでいままたローマにいるんだー、とか。そういうの取っ払って作品自体を楽しみたいのに。
英語やイタリア語が母語の人は、なんにしても日本語でラヒリを読んでる私とは違う印象なんだろうか。
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「わたしたちが通りすぎるだけでない場所などあるだろうか? まごついて、迷って、戸惑って、混乱して、孤立して、うろたえて、途方にくれて、自分を見失って、無一文で、呆然として(傍点四七字)。これらのよく似た表現のなかに、わたしは自分の居場所を見つける。さあ、これがおまえの住まいだ。この言葉がわたしを世界に送り出す」
原題は<Dove mi trovo>。直訳すれば「私はどこにいますか」。四十六篇の掌編小説で構成された連作短篇小説のように思えるが、これはジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いた最初の長篇小説である。四十六もある各章のタイトルが「歩道で」「道で」「仕事場で」というふうに、表題に対する応答になっている。
「わたし」は四十代後半の女性。ローマと思しきイタリアの街に独りで暮らす。仕事は大学教師。父とは早くに死に別れ、母は地方の町でやはり一人暮らしをしている。神経質であることは自認している。出不精で観劇という唯一の趣味の他には金を使いたがらなかった父、とそれに不満を感じながらも我慢をし、その分娘に対して厳しくあたった母の影響で、「わたし」という人物が作られた。「わたし」は他者に対して、そう易々と胸襟を開けない。
しかし、心の中では周囲の人々や自分の暮らす街について思うところはある。というか厳しい批評眼を駆使し、気のついたことを日々手近にあるノートや紙にメモを残している。この本は、バールやトラットリアその他「わたし」が立ち寄る先で目にする人々の印象のスケッチであり、親しい友人のポートレートだ。気に入った若い人々や、気分のいい日の記録には心あたたまる言葉が並ぶが、好きになれない人々や気分がすぐれない日にはネガティブな感情や言葉があふれている。
『停電の夜に』をはじめ、英語で書かれた小説にはベンガル系移民という出自がついて回る感があったが、それら自分ではどうにもできないものから自由になるために、彼女はイタリア語で書くことを自ら選び取った。母語のことを<mother tongue>と呼ぶが、ラヒリにとっての英語は「継母」<stepmother>だったからだ。継母から自由になることで、小説の内容も変化することになった。舞台となる土地にも登場人物にも名前が与えられない。すべては抽象化し、より本質的なものにじかに触れるようになる。
そのエッセイ風なタッチは、堀江敏幸の小説を思わせると同時に、人との距離感や都市に対する愛着には『不安の書』において、フェルナンド・ぺソアが見せるリスボンという都市に寄せる愛着に似たものがある。血縁や顔見知りと始終顔を突き合わせていなければならない田舎とちがって、都市では気ままな独り暮らしが許される。人と顔をあわせたくなければ、自分の部屋に閉じこもることが許される。家族のいない独り者ならなおさらだ。
その一方で、一人暮らしの日々において、人がいつも相手をしなければならないのは孤独である。「わたし」は、親しい女友だちがつまらない夫や無神経な子どもに時間をとられていることを疎ましく感じている。それでいながら、自分の親しい友人と結婚した男と会った日には、もしかしたら、二人で暮らせたかもしれないなどと想像し、際どいところで距離を保ちながら、その出会いを楽しみにしてもいる。
「わたし」は生まれ育った土地に住んでいながら、ほとんど人と一緒に食事することがない。昼食はトラットリアで済ませ、夕食はツナ缶か何かをフォークで突っつくだけだ。たまに人に招かれると居合わせた客と言い合いになり、周囲の人々の顰蹙を買う。人と人とがいっしょに何かをしようとすれば、自分には無価値であっても、誰かにとっては大事な、無難でつまらないものが間に入ることも必要悪だが、「わたし」はそれに我慢できない。
孤独な「わたし」もかつては男と暮らしていたことがある。近くに住んでいて、たまに会うこともあるが、その切り捨て方は冷徹で、過去に愛したほとぼりのようなものを一切欠いている。とりとめもないような日常性に包まれているようなタイトルがつけられた章が並ぶ中に「精神分析医のところで」という章が現れる。ひやりとさせられる瞬間だ。特に何か病んでいるわけではないようだが、夢について話す場面は真に迫っていてかなり怖い。
子どもの頃の思い出に、適当な間隔を置いて木の切り株を並べた遊具を飛ぶ話が出てくる。小さかった「わたし」は、今いる切り株から次の切り株へと飛び出す勇気を持てないでいる。これがトラウマなのだろうか。今いる街を出て、新しい暮らしを試みるときが来ているのに、暮らし慣れた街や一人暮らしの気楽さを捨てる勇気が出ない。しかし、自分が煮詰まっていることは自分が一番よく知っている。お気に入りの文房具店も店を閉じ、スーツケース屋に変わってしまった。これは啓示なのか?
それまで、およそ小説らしくない日常性の中に埋没しているように見えた「わたし」の前に自分そっくりの女性が現れる。ドッペルゲンガーだろうか? 「わたし」は、街角を颯爽と歩いて行くその女性の後をつけるが見失う。「そっくりさんの後ろ姿を見てわかることがある。わたしはわたしであってわたしではなく、ここを去ってずっとここに残る。突然の震動が木の枝を揺らし、葉っぱを震わすように、このフレーズがわたしの憂鬱を少しのあいだかき乱す」
ドッペルゲンガーを見た者は死ぬ、という説がある。たぶんこの街にいた「わたし」は、ここを去ることでなくなってしまう。しかし、生まれ育った土地を離れても、わたしはわたしだ。ここにいた「わたし」は、橋の上ですれちがう男友だちやパニーニ職人の記憶の中に留まって、この街に住み続けるのだろう。切り株と切り株の間の距離は思っていたより近かったのかもしれない。
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誤作動で恋人の携帯から電話が度々かかってくる、という短いエピソードがある。恋人本人は電話をかけてしまっていることに気が付かず、主人公の「わたし」が呼びかけてももちろん応答はない。このちょっとした出来事から、たとえば恋人の秘密がバレてしまうとかいうストーリーにもっていこうとするのはきっと凡人(わたしの事です…)で、ラヒリは全然次元の違う、とてつもない「孤独感」を演出してみせる。このたった3ページの話が頭から離れなくて、やっぱりこの作家すごいわ、大好きだわあとしみじみ。繰り返し読みたい作品なので買ってよかった。
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45歳の「わたし」、恋人はいたけれど結婚にはならなかった。そんな「わたし」の日々のヒトコマ。孤独が押し寄せるようでありながらも「わたし」のスタイルが気持ちよく描かれていく。
短編集のような長編。
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著者とも作中の人物とも人種や生まれ育った土地、教育、家族、経験、キャリアなどの背景が全く違うのに、読んでいると不思議なくらい寄り添える感じがする。
大学で教えている独身の中年女性の孤独な生活が淡々と描かれるだけなんだけれど、どこか温かみが感じられるので救われるし、「ああ、わかる」と思う。自分の中身もClearになって、静まるような気がした。
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わたしのいるところ
(新潮クレスト・ブック)
著作者:ジュンパ・ラヒリ
そのエッセイ風なタッチは堀江敏幸の小説を思わせると同時に、人との距離感や都市に対する愛着には『不安の書』においてフェルナンド・ぺソアが見せるリスボンという都市に寄せる愛着に似たものがある。
タイムライン
https://booklog.jp/timeline/users/collabo39698
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すごい。そぎ落として、そぎ落として、とてもシンプル。
なのに心の奥の方をぐぐっと刺激してくる小説。
ジュンパ・ラヒリは作家として、どこかとてつもない場所に到達してしまった気がします。
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「生まれや母語や名前は、自分で選ぶことが出来ない、押し付けられたものである。」
訳者あとがきに、作者のコメントとして書かれていたものだが、作者は、ロンドン生まれ。両親とも、カルカッタ出身のベンガル人で、これまでの英語やベンガル語ではなく、自ら選んだイタリア語で初めて書いた
この小説のテーマは「孤独」である。
どちらかというと、私も孤独を感じることは多く、それは、一人でいるときだけでなく、知人といるときでも感じたりして、辛いなと思ったこともある。その理由は、人それぞれ違うとは思うが、ここでは、両親との距離感が一つのポイントになっている。
理由はともかく、孤独とは、悪いネガティブなイメージを個人的に持っていたのだが、この小説での、自分で選んだ言葉で書くことで、「押し付けられたもの」を取り除き、抽象的に書くことで、いろいろなものの意味が広がるといった、作者の思いに、私は救われた気がした。
名前が無いのなら、逆に捉えれば、孤独だって、どこでも誰にでも起こりうる、一般的、普遍的な出来事なんだよと、言われている気がして、これだけでも、この小説を読んだ意味はあったなと、すごく思えました。
最後に、この小説で、最も印象的だった一文を。母に対する娘の思い。
「わたしに愛着を感じてはいるが、わたしの考え方には関心がない。その隔たりがわたしに本当の孤独を教えてくれる。」
この一文には、打ちのめされた。確かにその通り。
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「本屋で」が好き。5年間の恋愛も思いがけないかたちの破局も、淡々とした筆致で描かれている。相手の彼女といがみ合うのではなく、同志のようなのも良い。
ジュンパラヒリが書いた、と言われなければ、読み過ごしてしまいそうな何ということもない文章。ただ、1人でいることの寂しさ、焦燥感、誰かと家庭を築くことへの憧れが素直に描かれていると思う。