電子書籍
優しい関西弁
2020/05/08 06:38
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投稿者:ayaburo - この投稿者のレビュー一覧を見る
「自分も含めて僕達は人間をやるのが下手なのではないか。人間としての営みが拙いのではないか(略)」
周囲の景色に合わせようと存在感を消すあまり、私にはすでに見えなくなっていたような寡黙な人たち、でもその内面ではこんなに雄弁だったのだ。
人の話をじっくり聞くこと、無言のうちに発するメッセージを拾い上げようとする意識は大切なんだなあとしみじみ感じた。
マッタンの関西弁は自然だから好きだな(^^)
紙の本
引き込まれました!!
2019/11/15 22:04
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投稿者:たむたむ - この投稿者のレビュー一覧を見る
又吉さんらしい表現がとても良く、どんどん引き込まれました!!
紙の本
又吉さんらしさ確立の3作目
2019/10/19 14:11
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投稿者:nuako - この投稿者のレビュー一覧を見る
3作品目にして随所に、又吉さんらしさが溢れている作品。
なかなか人が見せたくはない負の部分を赤裸々に出しつつも、人間らしさとはこういうものではないかと共感させられた。
流動的なものと普遍的なものが綺麗に作品の中で納まっていると思う。
最初から声をだして笑う所もあり、楽しさも忘れない文面はやはり、芸人さんを彷彿させる。あっという間に読み上げてしまった。
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これに「人間」ってタイトルをつけた感じ、嫌いじゃない。芥川賞受賞したときに審査員の島田雅彦さんが「今回の「楽屋落ち」は一回しか使えない。」って評していたのを強く思い出した。これは果たして楽屋落ち、じゃないのかな。芸人で作家の又吉さんだから描けたような作品。本人のエピソードなのではと錯覚したくなるほど境遇が、読者、あるいは視聴者からは同じように思える。
この作品を読んだ島田雅彦さんの批評書き聞くなった。
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主題が分からんかったけど、読み進めるごとに又吉直樹さん自身のことを書いてあると思った。又吉さんは太宰治が好きな方。太宰治の「人間失格」も主人公=太宰の半生を書いたものだ。本著の『人間』もここから取ったと思う。実験的な小説だと思うが、前作2作品のようにストーリー性が欲しかった。
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「人間」
花火、劇場では、二十代の挫折を書いた。だから、今回は挫折のその後を書きたかった。それが「人間」である。
★あらすじ★
絵や文章での表現を志してきた永山は、38歳の誕生日、古い知人からメールを受け取る。若かりし頃「ハウス」と呼ばれる共同住居でともに暮らした仲野が、ある騒動の渦中にいるという。
永山の脳裡に、ハウスで芸術家志望の男女と創作や議論に明け暮れた日々が甦る。当時、彼らとの作品展にも参加。そこでの永山の作品が編集者の目にとまり、手を加えて出版に至ったこともあった。一方で、ハウスの住人たちとはわだかまりが生じ、ある事件が起こった。忘れかけていた苦い過去と向き合っていく永山だったが。
永山は、漫画であり、芸人ではない。最初は又吉を投影しているのは永山だと思っていた。しかし、実は別の人物じゃないか?と後で気付く訳だが、それはある教授が又吉に対して放ったエピソードがほぼそのままで登場したから気付いた訳だが、永山は表現者として苦悩を抱えているように見える。
最初は表現者ならばこれくらいのこだわりがあるのは分かるな、と落ち着く。しかし、徐々にこだわりが強くなる。次第に永山はおかしいのではないか?となっていく。でも、苦悩を抱えていながらも、生き抜こうと決意する永山には嫌悪感を感じない。
前述した通り、立ち位置は別の人物にお笑いを任せている。しかし、又吉がお笑いとして苦悩しながらも前に進む姿は永山に託したに違いないのではないか。人は、苦悩しないことは無い。苦悩しながらも、踠いても前に少しずつ進もうとする、その時、ふと皮が剥ける時がある。その剥ける時が、父とのエピソードは非常に心地が良い。
確かに、挫折後の姿を描いてるなと思った。
しかし、著名者(西さんは当然。だって西さんだもの。)、上手いこと要諦を抑える。こんなん無理。
岸政彦(社会学者)
人間は、愚かだ、け、ど、生きているんじゃなくて、愚かだ、か、ら、生きている。
又吉さんは、人間の愚かさを信じているんだと思う。そして、愛しているんだと思う。
西加奈子(小説家)
今後の又吉文学にとっての、重要な萌芽がいくつもある。そのすべてが美しい。
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生放送対談で注目10/10発売
初の長編小説!何者かになろうとあがいた季節の果てで、
かつての若者達を待ち受けていたものとは?
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2019年10月12日読了。
⚫️裸体画とか素晴らしいものもあるとおもいますし
ただそこに性的な官能が容易に入ってくると
それこそ誰かに対してのサービスのように感じられると
いうか、いい喩えが思いつかないんですけど、一人称で
書かれた小説って、語り手は現実での覚醒している状態
の常識にのっとって行動していたはずなのに、そこだけ
急に馬鹿になるというか、設定が緩くなる不自然さをほ
とんどの人が疑問を持たず了承していることがよく理解
できないんです。語り手の心が乱れていたり、心神喪失
状態なら平然と語ることもあるかもしれないけれど
それなら最初からそういう語り手を用意してくれないと
混乱してしまうんです。飲み屋で性的な自己体験を得意
気に語る奴は嫌いやし、ナイーブな想い出なのに克明に
語る奴も嫌いなんで。心象風景だけが描かれていると
か、当事者ではない他者の視点ならまだわかるんですけ
ど。そうじゃないなら、性的な行為そのものが道具にさ
れているように感じるし、アンチテーゼとして語られる
こともあなじようにいやで。あくまでも容易に 型とし
ての性的なことが描かれることがいやなだけで、個人の
抱えきれない問題を作品化することとか、ほとんど自傷
行為に近い表現であるなら鑑賞する側も覚悟を持って受
け止めるべきやとはおもいますけど。
⚫️他者からの評価を聞くと不安になるけれど、すぐにそれ
をはね返したくなる。面倒なら観なくていい。力がなく
て観ることのできない子供は力をつけてから鑑賞するか
誰かの力を借りればいい。鑑賞する側が一切ストレスを
感じず誰にでも平等に作品がひらかれているという状態
は嘘なのだ。一見すると平等に感じるかもしれないけ
ど、鑑賞する側の意見が区別なく平等に扱われてしまう
ことを拒絶できないならば、作品に辿り着くまでの過程
で自分の肉体の強度や思考を可視化させなければならな
い。人は作品を鑑賞するということが自分と作品との関
係であるということをすぐに忘れてしまうから。
⚫️(飯島とめぐみの関係を知って)
この痛みは、どういった種類の痛みなのだろう。
もしかすると、ただの個人的な趣味ではないのか。
性的な興奮などと呼べる大層なものでもなくて、笑える
話をわざわざ自ら進んで痛がってみるという自己演出が
かった苦しみにすぎないのではないか。これは自分の特
技と呼べるかもしれない。目の前で狂態を演じる二体の
人間を見下したうえで、彼らに馬鹿にされた自分を存分
に笑い、ある程度の時間が過ぎたら記憶に蓋をして
それで完了してしまう記憶。理屈ではわかっている。
⚫️感傷に流されるのは本質的じゃないらしい。本質的じゃ
ないなんて視点持ってる奴は永遠に本質を捉えることな
んてできないと思うけど。動物的な本能に一定の距離を
保って���るかぎり、永遠にそいつらは本質から二歩遅れ
た地点で「爆発に巻き込まれなくてよかったね」とか、
「爆発ってきれいだね」などと言って、当事者にはなり
えない。内側から景色を見ることがかなわない。
⚫️「想像力と優しさが欠落した奴は例外を認めず
ただの豚」
⚫️P266
⚫️自分が把握している自身の記憶なんてものは、やはりほ
んの一部分でしかなく、おなじ人生であったとしても、
どの点と点をむすぶかによって、それぞれ喜びに満ちた
物語にも暗澹(あんたん)たる物語にもなり得るのかも
しれないと思った。
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『人間』という宇宙規模に壮大な題名をつけられた小説に、読む前は「本当にいいのか?」と訝しむ気持ちが強かった。しかしながら読んでみれば成る程、「人間」とはどのような存在かを……ではなく、ただ1人の「人間」として生きていく術を探る、題名に相応しい物語だった。
前半、過去の回想では永山の過ちに心を抉られながらも、身に覚えのある感情や「記憶」というものの不確かさにページをめくる手を止めることができなかった。また永山にとってカスミは特別な存在でありながらも、カスミからすれば永山こそが社会の中で特異な存在であるという構図も面白かった。『凡人Aの〜〜』という作品を通じて『人間失格』に接続していくのも面白かったし、『人間』という作品を『人間失格』の解説書として読むことも可能なのではないかとも感じている。
後半、永山と影島がbarで飲むシーンがあるが、あそこは果たして影島本人だったのか。カスミではなかったのかという疑問が残っている。カスミは物語内において、もう永山の人生から消えた人物となり、その成長を促すある種神的存在であると考えた。そう考えた場合、「奥≒影島」は永山と会う少し前に、実はその実存としては物語から退場していたのではないかとも考えられる。影島という人物は永山の人生にとって、既に過ぎ去ってしまった「ハウス」での生活を象徴する人物だからである。しかしこの考えには「影島がテレビ番組に出演していたこと」「カスミはカスミの祖母に変身していること」という2点の矛盾を抱えている。カスミは永山を(めぐみとは対極に)真に成長させる存在である事は間違い無いだろうが、影島とのシーンについてはこのことからだけでは断定できない。
飯島という人物には正直ひどい嫌悪感を覚えた。飯島が永山を蹴るシーンがあるが、あの「蹴る」という行為に彼の陳腐さが表象されているように思う。彼は結局、彼自身がめぐみから褒められたことに喜んだことを明かしたように、ただ周りから持て囃されるのが好きだっただけの、真に凡人だったのだ(この凡人という言葉が物語の主題からすればどうでもいい話であることはともかくとして)と考える。ただこの人物についてはまだ自分の中で整理できていないことが1点あり、それは「何故10年前に死んでおり、その葬式に永山が出席していたのか」という点である。このエピソードがある限り、「飯島」は永山にとって何事かのシンボルであり、それが喪失し、憎き飯島(地の文で飯島「さん」と読んでいたことも気になる)の葬式に出席したことは彼に重ねられた何らかの概念を乗り越えたことなのだろうと思う。
また結末部において、俄かに永山の家族の話が始まった時には違和感を覚えたし、何故永山は影島の行方を追わないのかと気になったが、読み終えてみると成る程、影島の行方を追っていたらそれは「人は何者かでなければならない」というように主題が転化し物語全体の主題を否定しかねないし、あの何者でもない、それでも自由に人らしく本能的に歌と踊りを楽しむ人々を描くことでしか「人間」は確かに表出してこないかもしれないと感じた。
……なんとなく東京の表層だけをかすめとりながら生活している。(P7L5)
地方出身者の「何者にもなれなさ��を短く見事に表現していると驚き。自分も同じような思いを持ったことがあったので、この一文で一気に引き込まれた。
……家族がいない中年なんてこんなものだろうという顔をしているが、毎年律儀に自分の生まれた日を意識してしまうことが情けなかった。(P55L13)
こういった具体的でありながらも、誰もが一度は思ったことのあるであろう描写が多いことに驚く。またこの前後で、成功への足掛かりのようなモノを掴みつつ、自らそれを手放すことの描写は酷く「人間」的であるとも感じた。
……世間に対抗するための最後の手段である聖域が、彼の存在によって瓦解し、マスメディアによって破壊され尽くすような恐怖。結局、その不安は解消されることなく、3年経った今も自身の作品は出版に至っていなかった。(P120L3)
これを書いた又吉の心情が知りたいと思った。彼=影島はある意味で作者又吉と重なる人物。それを批判的に見るのは間違いなく「作家になれなかった凡人A」ではないか。そう考えた時、彼が何を考えこの文章を書いたのか。書くことができたのかを知りたいと思った。
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38歳の誕生日に届いた不穏な手紙から、かつて美大系の若者が集まっているアパートでの友人や彼女との思い出の回想や再会。そして家族。
読んでいてなんだか少しずつ嫌な感じの不安感を覚える小説。西村賢太の小説の不安感の方が良い不安感だ。個人的に芸人の世界や、現代アートの世界への関心が薄いこともあり、途中の手紙とネットのやり取りとか、バーでのくどい話(酔っぱらいは話がくどいので、リアリティは有るのかも)が冗長に感じた。しかし、終盤にはもやもや感も薄まり、ほっとして読了。
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又吉直樹さんの小説は、3冊とも読みました。文章を読み解く能力が弱いのか。内容に入り込めはしませんでした。苦しんでいる人間ばかりが登場しているような、そんな印象です。それと、どの作品に共通ですが、登場人物に作者自身を投影しているような気がしてなりません。このように作品を書き続けいると、作者自身が消耗してしまうのではないかと思います。
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主人公、永山のもとに届いたあるメール。
そのメールをきっかけに過去、大学時代の出来事を振りかえり、年を経た永山が気付いたこととは?
深い!
これが又吉直樹の考える人間か。
登場人物からして、まるで、又吉直樹という人間を内側と外側から見ているような感覚。
自意識、自己嫌悪、惰性、才能、常識、嫉妬、平気なふり。
と人間味溢れる本書。
「なんで平均的な人物を演じなあかんの?」
この言葉が響く。
人間は
生きてくのは、難しいな。
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独特の純文学的表現が面白かった。メールのやり取りの部分。
全体的には劇場のようにストーリーとしては派手さがなく満足ではなかった。
又吉先生自身のことを書いているのだろうかと想像しながら読んだ。
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この本は、付箋だらけの聖書だ。
昔のブログの中で「中村文則さんの新刊が出続ける限り生きていようと思う」と又吉さんは仰っていたが、そっくりそのまま同じことを思っている。私は又吉さんの新刊が出続ける限り生きていようと思う。
又吉さんの文章は優しい。ぼんやりとした不安を掴まえて、誰でもわかる口語に変換して、私たちのそれぞれの目線の高さまで降りて、放してくれる。そういうことやったんか、と、私たちを安心させてくれる。
又吉さんの文章は厳しい。それで、お前はどうするん?という命題を、毎回容赦なく突きつけてくる。
芸術は誰のものなのか?芸術が世俗を意識したとき、それは芸術たりえるのだろうか?
自己表現に自分なりの意味を持たせたとき、それは尊重されるべきだろうか?
あるいは、評価されるに値する根拠とは何だろうか?
そのようなことを考えることに意味はあるのかもないのかもわからない。が、伝わらないことを知っているということを知っているなどという、どうしようもない自意識の罪を贖うことを何度でも赦し、罰を引き受けることを何度でも赦し、燭台の灯火のように手元を照らしてくれる、これは聖書だ。
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苦しいねぇ。又吉さんは小説を書くことでとことん自分を苦しめているんじゃないのか。苦しむために小説を書き、小説を書くことでまた自分自身が苦しむ。その苦しみそのものが自分の存在意義みたいな。
「今の私のやってることって何の意味があるの」とか「私の存在意義って」とか「私は何者なの」とか「私がやるべきことは」とか、ていうか、そもそも「私」ってという、ある時期だれもが通る関門であり、問いでもある。
それを見つけるためにもがいたり苦しんだりして、自分自身やそばにいる誰かを傷つける。
痛いなぁ。痛いし辛い。傷つきたくないからそういう問いから目をそらせ、納得した振りでたいていの人はオトナになっていく。
だけどそれができない、自分自身で何かを生み出そうとする人たちにとってそれはもっと激しくもっと濃く深い痛みなのだろう。
芸術、という世界で何かを作りだそうとする若者たちの中にある羨望や嫉妬、そして憎悪はある意味、創作への熱源として有効なのかもしれないけれど、それをうまく扱えない、いなせない不器用さが読み手の心のどこかにある「小さい自分」を刺激してくる。
その流れでの、終盤の沖縄での時間のゆるさや血縁者や近所の人との不思議な共鳴、父親との関係、何気ないやりとりのおかしみや温かみやわずらわしさが不思議と心地いい。
繊細なのに攻撃的で不器用で内省的な主人公が全身傷だらけになりながらも歩き続ける姿に、ざわつく緊張感とほのかな安堵感を覚えた。