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2019年?冊目。(最近レビュー執筆怠り数え忘れた...)
『憎しみに抗って──不純なものへの賛歌』から注目していたジャーナリスト、カロリン・エムケの新刊(原書の出版は2013年で、『憎しみに抗って』よりも前)。
年末年始、他に読みたい本がたくさんあるけれど、これは連休中にもう一度読み返さなければいけない...今年の自分にとって、本当に大事なテーマで、消化して整理するにはまだまだ時間がかかる。現段階の雑感だけでも言葉にしておきたい。
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「言葉にし得ない体験」をめぐる考察。
極度の暴力や不正に遭った人が失った言葉に対して、どんな言葉も及ばず「それ」としか形容できなくなってしまった体験に対して、著者は「それでも言葉にできる可能性」を信じている。
だけどこの本は、「言葉にし得ない本人」にではなく、「言葉にし得ない本人の周囲の人々」に向けられて書かれている。もっと言えば、後者の人々が持つべき責務のようなものが語られている。
「それは言葉にしがたいよね」と、簡単に語れない本人の沈黙に迎合し、変えることも理解することも諦める周囲の人たちの姿勢は、ときに、本人が語り得る可能性を閉ざしてしまうかもしれない。
語りを無理強いすることはもちろん避けつつも、本人の沈黙に耳を傾けて、その沈黙の背景に思いを寄せ、扉が開くかもしれない兆候を信じて待つ...そういう姿勢を、周囲の人間が持つ必要性を感じた。
暴力や不正に限らず、「例外的極限状況」を体験した人たちが、なんとかして「それ」を語ろうと口を開くとき、多くの場合、その言葉は混乱している。
時系列がおかしいかもしれない。何度も同じ話が繰り返されるかもしれない。一見関係のないような言葉が出てくるかもしれない。
著者はその混乱に、「可能性」を見出しているように思えた。まだその本人が「壊れていない」可能性を。言葉を取り戻せる可能性を。
なぜならその混乱は、その言い澱みは、その脈絡のなさは、壊れた世界に片足を踏み込んでしまいながらも、もう片方の足は壊れる以前の世界に残っていて、そのズレの狭間で、元の世界の片鱗を取り戻そうとしている証であるから。言い換えれば、その人はまだ、壊れる前の世界を完全には失っていない証であるから。
混乱が、なかなか手が届かないながらもなんとか元の世界にあるものを取り戻そうとする足掻きの現れ、つまり本人が「まだ壊れていない」証なのだとしても、多くの場合、その混乱に潜む可能性は見過ごされるように感じる。語る本人にではなく、語られ、聞く側の人間によって。
語る本人がはまっているズレ、支離滅裂さ、言葉選びの不安定さは、「語りの不可能性」として捉えられてしまう。その混乱はときに、「語る側の力量不足」としてさえ捉えられてしまう。
語る側が混乱を整理する義務を負うばかりでいいのか。語られる側こそが、語りのなかにある混乱に耐え、曖昧さのなかに留まり、早く整理して理解してしまいたい欲求に抗う努力をする必要があるのではないか。
そうでなければ、語られる側に対する語る側から��信頼は生まれず、語られる側にすらなることなく、語りそのものが起きなくなってしまう。
ここ数年、ずっと「ネガティブ・ケイパビリティ(性急な答えに飛びつかず、曖昧さや不可解さの中にとどまれる力)」の重要性をあちこちで感じてきた。語られる側が持つべき「語りの混乱への受容力」は、まさにネガティブ・ケイパビリティの一つだと思う。
来年、本格的に追いかけたいテーマ。
この著者は、ジャーナリストというよりも思想家のような印象が強い。読み手を恍惚とさせる筆の運びは、アーティストですらあると感じる。政治的・地政学的なメカニズム以上に、人間心理のメカニズムに迫る人であるとも。とにかく、今とても気になる人。
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前に読んだ「憎しみに抗って」が激烈に合わなかったのでどうしようと思いつつ、買って積んであったので読んだ。
冒頭から、極度の不正や暴力の体験は語ることができるか、という問題に、語ることは不可能とすれば語られることがなくなる、と作者は言う。それで、「他者」という領域は存在しない、自分と違う信念を理解することができると確信している、と言うわけだけど、不可能=語らないというのは乱暴だし、理解できると確信するなんて安易に言うのもちょっとなあという気がしてならない。
私は、トラウマ体験に限らなくても言葉にして他者をすべて理解できるなんて到底思えない。言葉に、声にしたとたん滑り落ちていくたくさんのものがあると思う。語ることが難しい体験ならなおさら、正確に語ることも理解することも不可能であって、だからこそ語ること、語られることに対して真摯に、不断に取り組まないといけないんじゃないかなと思うのだけど。
様々な「体験」を証言する人々のエピソードを通して、トラウマは理解や常識からの断絶、世界からの墜落であって、かつての日常に存在したちょっとした小物の記憶などをよすがにして語られるというのは面白かった(というと語弊があるけど)。
他者との会話においてのみ自身の継続的なアイデンティティが証明・確認されるというのも面白い話だったけど、対人間でもなく、言語以外の手段でもそうできる・する人はいるんじゃないかなとも思う。女たちが日々の家事に追われて精神的に比較的安定していたこと、物に執着する人、信仰を守ることで自我を保った人たちの話なんかは、そうではないか。
信仰を持ってアウシュヴィッツを生き残った人の体験談は子供の頃たくさん読まされたので、「現実とは別のパラレルワールドまたは約束された世界が無傷のままである限り、信仰のある人たちは、少なくともひとつの世界に対しては信頼を持ち続けることができる」というのは、本当にそうだなあと思う。その信仰ゆえに、迫害を受けるんだけど。
「憎しみに抗って」でも書いてたムスリムの話がまた出てくるわけだけど、やっぱりあんまりわかってないよね?という感じで辛い。
「政治システム、国家の法、教育制度は、教会の影響から独立した世俗的なものでなければならない。」って毎度当然のように言うけど、その根本からしてまるごとイスラームの教義に反することを知ってほしい。過激な原理主義や暴力に対しては、…適切な批判が必要だ」とのことだけど、原理主義がなぜ原理主義と言う名前なのか考えてほしい。彼らの行動は一応クルアーンに基づいた信仰に則っているわけだから、軽々しく全ての信仰は尊重されるべきだなんて言わないで欲しい。テロリストたちも間違いなく信仰を持ったムスリムの一部だ。
宗教的原理主義と闘うムスリムがいるから「啓蒙主義、人権、寛容、信仰の自由が、信仰者にも非信仰者にも、…普遍的に通用するべきことの証拠である」なんて、結局自分に都合のいい穏健派ムスリムの一面しか見ていない、それ以外は正しくない「啓蒙されるべき」ムスリムってことじゃないか。ムスリムと言うだけで虐待や暴力を受けるというのは間違っているし、決してムスリムを敵視しろと言いたいんじゃないが、受け入れがたい全く異なる文化すらあるという現実を見ずに拒否は差別だ、受け入れろと号令だけかけるのは無責任に過ぎる。実際に移民による経済的危機だってあるわけだし。
「現代社会と啓蒙主義のリベラルな代弁者と見られたくない者などいるだろうか」とか、読んでて素で???となる部分がちらほらあるのだが、自分たちのコミュニティの枠組みや社会通念は絶対変えないし守られるべき常識のはずだっていう固定観念が透けて見えすぎる。その程度の認識で「ムスリムの生き方とムスリム個々人の人生の多様性が、非ムスリムであるドイツ人の生き方の多様性と同様に、当然のものとして受け止められ、発信されねばならない」と言ったところで、問題は解決しないのでは。
ヨーロッパだってじきムスリムが多数派になる。その結果自分の信じる「啓蒙主義」「寛容」が通用しない社会になるかもしれない、その時どうするのか?ヨーロッパでムスリムへのヘイトが高まって反イスラーム政党が支持を伸ばしているのは、(残念ながら)その答えの一つでしょう。移民とともにこれからどう新しい社会を構築していくのか、今現実を見ずにいつ見るのかという風に思われるけどどうなんでしょうね。
梨木香歩さん、師岡カリーマ・エルサムニーさんの「私たちの星で」で、アルカイダ幹部とジャーナリストの話がある。間違いなく人を殺したテロリストでさえ、信仰を持った優秀で礼儀正しい性格であり、インタビューと体験記を読んでいて(彼の行いは許されないが)人間として心理的に近づいてしまうということが書かれていた。信仰を越えて、人間として向き合う、付き合うということは、確かに決して不可能ではないだろうけど。そういう解決も、存在するはずだけど。もう局面としてはそれだけを信じるというわけにはいかないのでしょう。
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強制収容所での拷問、戦時中の集団強姦など、悲惨な体験をした被害者たちの話を聞いてきた著者。彼らが「それ」としか呼ぶことができない体験を言葉にしていくことの意義や、その過程で聞き手側に望まれる態度について論じるエッセイ集。後半は、故郷についてや、旅をすることについても語っている。
印象に残った部分を抜粋。
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こういった理解不能な世界は、子供たちとは違った形で大人たちを脅かす。「残虐の規範」に直面したとき、誰よりもまず打撃を受けるのは大人たちだ。別の規範、別の秩序のもとで育ってきた彼らは、新たな規範を理解することができないのだ。(P.35)
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アウシュヴィッツでの絶望的な拷問の日々を乗り越える唯一の手段は「理解しようとしないこと」であると主張している、上の引用に続く箇所が特に印象に残った。同時に川上未映子「ヘヴン」を思い出した。
「ヘヴン」において、主人公の二人は凄惨ないじめの被害だが、それぞれが取った行動は対照的だった。一方は、自らが貶められている現状に、論理の力でなんらかの意味付けと救いを見出そうとした(こんな酷い体験をしたからこそ見えるものがあるんだ、等)。もう一方は、自分に向けられる敵意に「的」となるものがあるとするならば(この物語においては彼が「斜視」であったことが的になった)、たとえそれが全くの言いがかりだったとしても、排除(=治療)することに決めた。
つまり、理解不能な絶望的な状況に陥ったとき、前者は合理的に強くあろうとひたすら自らを律し、後者は論理や理屈を放棄してとにかく生き延びることを最優先事項とした。フィクションとは言え、前者は精神を崩壊し、後者はそうならなかったという結末には納得がいくように思う。
人間は「強くありたい」「強くなりたい」と願う生き物なのだと思う。頭で理解して、分析して、苦境に立ち向かえるよう自分を鼓舞して。しかしその願望は、平和な状況下で成り立つものであって、平和さが崩れた瞬間、潔く手放す必要がある。「ヘヴン」読んだときに感じた思いが、この本を読んで一層強くなった。
もう一つ抜粋。
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適切な批判と不適切な批判との区別、啓蒙とイスラム敵視との区別は、批判の対象が差別的な行為や犯罪的な行為それ自体なのか、それとも特定の集団全体なのかという点にある。(P.173)
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家族の伝統や信仰に背こうとするムスリムの少女の自己決定権と同様に、家族の信仰を自身のものとし、実践していこうとするムスリムの少女の自己決定権もまた、認められねばならない。(P.174)
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イスラム敵視の問題は、日本で生活しているとほとんど無関係なことのように見える。でもこの「適切な批判と不適切な批判との区別、啓蒙とイスラム敵との区別」についての考え方は、身近で起こっているいじめ問題や、もっと広く捉えれば自分と違う価値観を持った相手との関わり方という観点で非常に役に立つ。集団の一員としての個人ではなく、あくまでその人自身を、またその人の行動そのものを見ること。そしてどんな行動���思想も、リベラルな社会においては容認されてしかるべきだと著者は説く。
後半の引用について。
私は専業主婦なのだけど。子供の頃から昔ながらの「夫=仕事、妻=専業主婦」というスタイルに強い憧れがあった。父親がいなかったし、祖母と祖父も実はちゃんと結婚していなかったということを大人になってから知った。そんないわゆる「普通」じゃない家庭に産まれたが故の不自由さを感じたことは、ラッキーなことにほとんどなかったけれど、結婚の理想像という一点においては、昭和のまま時間が止まっていたように思う。
頑にこだわってきた昔ながらの夫婦のスタイルは、私がそれを手に入れたときにはもう、完全に時代遅れになってしまった。がーん。共働きの夫婦に比べて専業主婦だから発言権がないのではとか、男尊女卑でも文句を言えないのではとか、思いがけないネガティブな意見と遭遇することも少なくない。がーん。
そんな中、この後半の引用を読んで。外野がなんと言おうと、それを選んだあなたが幸せならいいじゃない、と言われたような気がして心地よかった。ときどき共働きの友人夫婦の自由さが眩しく見えるけれど、自分がそうなりたいかと考えると、答えはいつもノー。だからいいんです!時代遅れでも。ずっと憧れてたんだから。
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いろいろ書いたけれども、正直、三度くらい途中で頓挫しそうになった。そもそもなんで読もうと思ったのか全く思い出せないし、アウシュヴィッツとかイスラムとか、テーマがあまりにも今の私の実生活からかけ離れている。とはいえ、読書においては自分のコンフォート・ゾーンを積極的に飛び出すことを目標にしているので、なんとか最後まで踏ん張った。著者が伝えたい内容の二割も受け取れていない気がする。でも一応、読み終われてよかった。
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トラウマ研究が示すとおり、トラウマの核を成すのは、極限状況において体験したことをどう理解していいのかわからなというまさにその事実である。それゆえ、心的打撃をもたらす決定的な要素は、体験の内容そのものばかりでなく、それらに意味と秩序を与えることを不可能にする、それまでの体験との乖離とも言える。極度の不正と暴力がはびこる環境においてなにを体験するかのみならず、それが彼らの人生をどのように中断させ、体験の「前」と「後」とに分裂させてしまうかもまた、被害者に打撃を及ぼす要素だ。(p.21)
極度に権利を剥奪され、労働収容所や刑務所などで無防備な状態に置かれると、人間のエネルギーのすべては、生き延びるというただ一点に集中する。殴られ、震え、汗をかき、飢え、埃や汚物にまみれ、シラミにたかられ、屈辱を受け、傷つけられ、常に暑さや寒さや無力感と闘い続ける状態では、人の精神的な努力は、根源的な欲求のみに集中することになる。靴紐の代わりになる針金はどこで手に入るか、サソリや蜘蛛をどう避けるか、仮設便所に行く際、ブリキの鉢を泥棒や排泄物からどう守るか、食べ物と交換できるなにかをどこで盗むことができるか、「砂男」メソッドという睡眠妨害にどう耐えるか、大音響または静寂にどう耐えるか、扱いをよくしてもらうために、看守になにを差し出すべきか、殴られるときに筋肉をどう緊張させるか。(p.50)
「言葉にならない」という表現の核は、そこに−―すなわち「座礁」した場所に−―こそある。世界からも自己自身からも阻害され、単なる物体へと収縮した人間が、どうやって言葉を見つけられるというのか?(p.52)
会話が不可能な理由はあまりに多い。極度の疲労、会話に必要な体力の欠如、恐怖心を克服することの難しさ、といった問題もあるが、それ以前に、単に会話のしかたを忘れてしまうという理由もある。そしてなにより、主体性をなくしたという感覚。
どうやって「私は」と言えばいいのか?誰にいうのか?
自分が他者の意のままになる存在に過ぎないことを思い知った人間、自発的に行動することがもはやできない人間、あらゆる主体的な選択肢を奪われたことを思い知った人間−―彼らにとって、他者に向ける言葉など、ほとんど非現実的なものに思われる。(p.53)
我々は、自身の経験をひとつの物語にあてはめることを必要としている。人生がどれほど曲がりくねった道を進もうと、我々はその流れをなんとか形にして語ろうと試みるものだ。振り返って語ることで、我々はときに、山あり谷ありだった道のりを平らにならす。だが、語ることで、我々はなにより、意図した道のりや意外な道のりを追体験する。そして、経験したことを初めて言葉にし、偶然に意味を与え、災難にも意義を見出し、そうすることで自分という人間に一定の輪郭を与える。(p.54)
人間を完全に変形させ、損なう力に対する抵抗を可能にする道具や方法は、非常にさまざまだ。なんの規則性もない恣意的な毎日に一定の拍子を与えるリズム。繰り返すだけで安定感を得られる習慣や儀式。別の世界を思い出させてくれ、思い出や空想への逃避の助けとなる物。そして最後に−―脱出、すなわち、ほんの一瞬燃え上がる暴力やセクシュアリティ、すなわち自身の無力と孤立に対して力ずくで抵抗すること。(p.60)
病院という、開かれていながら同時に閉ざされた世界で一度過ごしたことの経験のある人、愛する人の手術が終わるのを廊下の隅で待った経験のある人、病院のベッドに寝たきりで過ごした経験のある人ならば、おそらく「物」の持つ意味を知っているのではないだろうか。無力な状態にあるとき−―たとえそれが、強制収容所やグラーグのような極端な例でなくても−―、我々は「物」に心の安らぎや慰めを見出す物だ。
(中略)それらの物は、異郷において故郷を思い出させてくれる。「自分のもの」がすべて禁じられた環境において、そこには私的な歴史が詰まっており、個人性というものが失われた環境において、自分という人間の存在を確かめるよすがになる。「私的な物なしには、人は「なにも持っていない」存在であるのみならず、「何者でもない」存在なのです」(pp.66-67)
啓蒙の遺産は、個人が合理的に生きることも、非合理的に生きることも、宗教的に生きることも、非宗教的に生きることも許容する物だ。別の世界を追求する自由を意味すると同時に、法治国家と他者の信仰の自由とを認めることを意味する。自分自身を、または現実を超越したいという意志の自由こそが、人間の創造性の源だ。我々自身を超越するものとは、宗教的なヴィジョンでもあり得るし、無神論的なヴィジョンでもあり得る。だが、それを制限すれば、我々の共同社会は衰退し、人生の喜びもまた枯渇していくことだろう。(p.156)
適切な批判と不適切な批判との区別、啓蒙とイスラム敵視との区別は、批判の対象が差別的な行為や犯罪的な行為それ自体なのか、それとも特定の集団全体なのかという点にある。その意味で、イスラム敵視に対抗するには、その非リベラルな行為や信念、憲法に反するイデオロギーそれ自体を批判するしかない。その行為の主体がムスリムであろうと、無神論者であろうと、キリスト教徒であろうと関係なしに。イスラム敵視に対抗するには、女性蔑視、人種差別、同性愛者差別などを、それがどこで起きようと、差別する主体が誰であろうと、制限なしに批判していくしかない。これがひとつ。
そしれもうひとつ、イスラム敵視に対抗するには、自分の信じる宗教とは別の宗教に対しても、信仰の自由を認めねばならない。自信が親しみを感じる生活様式や信念とは別の生活様式や信念も、許容せねばならない。そして誰もに自己決定権が認められねばならない。家族の伝統や信仰に背こうとするムスリムの少女の自己決定権と同様に、家族の信仰を自身のものとし、実践していこうとするムスリムの少女の自己決定権もまた、認められねばならない。そして、ムスリムの生き方とムスリム個々人の人生の多様性が、非ムスリムであるドイツ人の生き方の多様性と同様に、当然のものとして受け止められ、発信されねばならないのだ。(pp.174-175)
故郷とは、私たちが記憶し、創り出す物語です。私たちにとって心地よい、または居心地の悪い物語、私たちを喜ばせる、または怖がらせる物語、私たちが語り継ぎ、新たに語りなおす物���、移民や旅行者によって補完される物語です。移民や旅行者もまた、物語の一部です。彼らの物語が私たちの物語に結びつき、私たちの物語もまた、彼らの物語に結びつくからです。故郷とは、さまざまな空想や連想、詩のフレーズや歌です。ひとつの場所以上のものなのです。(p.187)
排除のメカニズムというのは、常に政治的な意図や、他者を差別する目的と結びついているわけではなく、多くの場合、単に我々自身のイデオロギーの死角で起きるにすぎず、それゆえに、静かに繰り返されているのです。(p.199)
私たちは、基準を応用へと翻訳しなければなりません。概念を経験へと翻訳しなければなりません。技術分野や経済政策分野の専門用語を、私たちの日常生活にどんな影響が出るかという点ではっきりした関連性と作用の見える物語へと翻訳せねばなりません。「我々」は均一であり、「他者」は「我々」とは異なっている、という呪いを、「皆が似ている」へと翻訳せねばなりません。(p.200)
そう、憧憬が生まれるために必要なのは、それなのだ。ほんの一片の知識、古いメロディーの触りなど、なにか自分とつながるもの。その痕跡を追おうと思わせる何か。こういったものは、旅の前のみならず、実際に異国の地に身を置いたときにも、重要だ。なにかひとつでも自分自身とのつながりがあれば−―子供時代に聞いた鳥の声、馴染みのある韻律を持った詩、言葉を交わさずとも、年配の男たちとともに興じることのできるカードゲーム−―、それがなんであれ、別の文化、別の時代、別の社会へと入っていくきっかけとなるなにかがあれな、いまいる異国の地に関して本で読んだ知識であろうと、なんらかの音楽への愛であろうと、そんなわずかな手がかりや情熱が、異郷においては突然、そこに溶け込むためのきっかけとなる。(p.212)
本当の旅は、見知らぬ人たちとの会話にこそあるのだ。周りの世界が突然消え去り、「自分」も「見知らぬ人」もなくなり、突然、共通のなにか−―人間−―が立ち現れてくる瞬間に。(p.214)
(解説)「なぜならそれは言葉にできるから」というタイトルが印象的なのは、それが、「なぜ」ではじまるなんらかの問いに対する答えの形式を取っているからだ。(p.241)
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ジャーナリスト、カロリン・エムケのエッセイ。
被害者の声を聞くこと、というのはただ話を聞くだけでは
なく、被害者が「話すことができる」ようにならないと
声を聞くことはできないということも含め、難しかった
ですが、偶然図書館で見つけて読むことができて
良かったです。
裏表紙のあらすじより
「暴力をうけた人間は、それを話すことができるだろうか。
周囲の人はそれを聞くことができるだろうか。」
「暴力は、日常の「こうであるはずだ」という約束を
壊す。世界で生きていく前提が崩れてしまうのだ。
だから、何が起こったのかを認識するのにとても時間が
かかる。その話を聞いた人も、言われたことを即座に
理解することができない。」
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世界への信頼を壊された人たちのことが語られます。そして、そのような経験を語るのは難しく、また、聞き手もかけ離れた世界に感じて理解できない悪循環があるようです。
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それは言葉にできるからとカロリン・エムケは信じる。とても言葉にできない体験も、時間や聞く人への信頼などによって言葉になることもある。聞くこと、伝えることの大切さを説いて素晴らしい。他者の苦しみ、故郷などの体験から語られる文章にも感銘を受けた。彼女の弱者に向ける視線と本質を見極め言葉にする力にこれからも期待します。
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著者は様々なトピックについて触れる。トラウマを越えて証言すること、ムスリムへの差別、旅をすること……共通点を(無理矢理に?)見出すならそれは「未知のものを既知の中に見出す」作業の謂ではないかと思う。例えば私はしばしばムスリムをテロリストとして捉え、その反動として(?)信心深い人たちと捉える。だが、それは単に「俗情」(大西巨人)をなぞったものにすぎない。彼らについてもっとよく知り、考えてそこから言葉にすること(その過程に困難さがあるとするならそれはなぜか考えること)。そんな繊細な作業に私たちを誘う一冊と思う
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言語化することは、その治療的側面からとても深い意義がある。その人の内面の課題を解決するためには、内面を言語化するしか方法がないと私は思っている。
カウンセリングにしろ、トラウマ治療にしろ、その基本は「傾聴」することだ。すべてそこから始まる。ナラティブセラピーしかり、メンタライジングしかり。発達の未熟さから言語化が難しい幼児は「表現」でその代替行為をする。絵を描いたり、工作をしたり、箱庭療法なんかもその一つだ。言語にするなり形にして表すなりすることで、内面にあるイメージ、感覚、感情を整理し、内面を客観的にして初めて自分自身の状況を把握できるのだろう。「治療」というが、つまるところ、自分自身で自分の内面を整理整頓することじゃないかと私は思っている。
本書で著者が繰り返し言っていることは、言葉にすることの力だ。時に困難であり、残酷でもあるけれども、それをしないでは人はそこから前には進めない。傷ついた状況から前に進むには、言葉にすることが絶対的に必要なのだ。取り上げられている素材は、戦争やホロコーストであったり、内乱であったり、天災であったり、虐待であったりするが、その苛酷な状況に立ち向かわなければならないのはいつも「普通の人々」で、彼らの内面に起きることは、どんな社会でどんな場面であっても共通の普遍性を持つ。
だから、本書が書かれたのは数年前であっても、今のロシアのウクライナ侵攻にも、日本で事件や事故、虐待で心身とも深く傷ついた被害者にも、そのまま通じる考察だと思う。とても深くて優しく、そして厳しい。
ジャーナリストではあるが考察はかなり哲学的だと思ったら、大学時代の専攻も哲学だったよう。
一読の価値あり。
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人は理解の範疇を超えると聞こうとしない、といのはわかるなぁと思った。
実話を元にした映画を見終わった後もこんなことがあってたまるかよって気持ちになって、その後同じ映画を何度も見ようとしなかった。
そうやって自分の心を守ってるつもりだったけど、被害者を更に閉じ込めてしまってたのか。
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ホロコーストやユーゴの集団強姦などの非人道的な暴行・扱いを受けた人間が、なぜ自分の身に起きた出来事を話せないのか。
常軌を逸した出来事を経験したからこそ、それを首尾一貫して説明できることは難しい。被害者の供述が曖昧だったり支離滅裂だった時、決してそれはその被害者の記憶力や説明力が問題なのではなく、ただその人の身に起こった出来事が異常だっただけである、と言う彼女の主張が非常に印象的だった。
とても心の優しい人なんだろうなと思った。
訳も結構読みやすい。
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強制収容所の生還者、捕虜、強姦、虐待など過酷な体験からのサバイバーが自らの体験を言葉にする大変さ、言葉の重さ、沈黙に触れている。話の文脈もバラバラだったり、言葉に詰まりながらの語りは当たり前で、彼らとそうした体験を持たない聴き手との断絶を意識しながら、彼らの傍らにいて切れ切れの言葉を聴いていく、聴き手の姿勢が問われているし、そこに著者は希望を見出そうともしていると思いました。