投稿元:
レビューを見る
ここで解説されているのは主にフランス古典主義時代に社会が認識していた狂気であって、誰にでも潜む前提としての狂気ではない。
投稿元:
レビューを見る
近代ヨーロッパにおいて、狂気というものがどのように扱われてきたかを壮大なスケールで描く力作。
かつては、狂気に道徳的でないことも含まれていたと言う指摘は興味深い。
狂気に対し、権威ある眼差しを差し向けることや、自己自身を意識させることで、狂気に責任を自覚させ、自己拘束に基づく自由を与えると言う分析はとても重要なものだろう。社会が主体に対し、自ら進んで規則に従う存在となるよう訓練すると言うダイナミズムの発見は、フーコーの偉大な業績だろう。
当時の言説の要約なのか、フーコー自身の分析なのか判りにくい部分があり、読みづらいところもあった。
要点
①古典主義時代は、非理性を一括して閉じ込めた
②非理性、狂気には、非道徳的であることが含まれていた
③狂気の本質は、妄想である。つまり、非存在の妄想を真実と信じるという行為である(という認識に古典主義時代は至った)
④狂気を分析すれば、そこには理性的な言説が見出される
⑤かつては狂気は「動物性」であった。しかし、後期古典主義時代において、狂気の原因は「媒介」となった。つまり、自然性=動物性に「媒介」=非自然性=文明・社会性が加えられることで狂気が生じると考えられるようになった。
⑥非理性の一括した閉じ込めから一転、怠惰や貧困は経済学的見地から、病気は家庭での看護の要請から、これらの閉じ込めは解除された。その結果、狂気だけが、閉じ込められた。そして、狂気が明確に識別され、知覚された。
⑦ピネル、テュークの時代に、狂人は、権威というまなざしのもと、責任の主体として扱われるようになる。つまり、狂気は、まなざしによる自己拘束を賦課された。
⑧監禁において、狂気は限られた空間内で自由だった。狂気が鎖をとかれ「自由」となったとき、狂気はもはや自由に振る舞えなくなった。
投稿元:
レビューを見る
本を読むつもりで借りたら論文だった。二段組で文章がぎっしり、熟語にカタカナのルビがぞろぞろと、物理的にも内容的にもかなり読みづらい。結局、概要だけ流し読みするに留まった。
その内容も、求めていたものではなかった。もっと浅く広く、「狂人」が各地でどんな扱いの存在だったのかを知りたかったのだが。
投稿元:
レビューを見る
「狂気」を取り巻いて、人々が何を行ってきたかの150年の歴史。狂気は、それが何であるかではなく人間がなにを考えて来たのかを示す鏡の役割を果たす。今現在も相変わらず。
投稿元:
レビューを見る
古典主義時代、約17世紀以前。
狂気は医学の分野ではなかった。
感染病の様に解釈されてきたハンセン氏病、癩病患者を監禁する施療院、
幾世紀が経ち癩病患者がいなくなり、裸で意味分からない言葉を発する者たちが、阿呆船に乗せられ死ぬまで航海する。
それと共に文芸復興の波がやってきて、文芸作品には気狂いたちが出てくる、セルバンティスのドンキホーテ、シェイクスピアのマクベス。
近現代の歴史は、まだ生存している人に話を聞けば良い。生きたオーラルヒストリーを聞けば良い。
しかし、古典と呼ばれる時代の狂気は、古典文学か劇から得なけばならない。
医学の歴史ならばある程度理系でも読めるだろうが、これは文系の得意分野。
思考を切り替えて、文系で読み進めないといけない。
怠惰で社会から排除するにも、監禁に至るまでの思考の変遷、
日本人には、哲学がない。
医療処置するのに、高齢者、認知症患者、精神病患者にドラッグロック、身体的拘束、精神的拘束を悪びれもなく医療者は施すが、あまりにも安易で、軽率だ。
忙しい、人手不足が言い訳にする、
しかし、彼らには哲学がない。
変わらない、倫理観に関して基礎がない。