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『侍女の物語』の続編ではあるけれど、別の物語としても読める。骨太で壮大。現実との呼応。(『侍女』後)35年分の現実の経過に伴って、『侍女』に託した世界もアトウッドも深く太く更新されてるんだなあ。
読みであり。
あのフレーズがここで出てくるかあ!とニヤリとしたり。
訳者あとがき、解説ともに充実。
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「侍女の物語」35年ぶりの続編という事で気合い入りまくり!
システムに抗う女性たちの静かなる闘い。隣国カナダを巻き込んでのプロパガンダ作戦は北朝鮮の拉致問題を彷彿とさせます。終盤の手に汗握る展開は圧巻でした。
「侍女の物語」でもほのめかされているとおり、ギレアデ共和国はすでになくなっているのですが、今作ではギレアデ崩壊前夜で終わっています。どう崩壊したのか気になるのでさらなる続編に期待!
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厚労相の『産む機械』発言はまだ記憶に新し…くもないか、最早。ともあれ、カナダ人で、高齢で、女性である、というご自身の属性を最大限に活用したこの、男尊女卑のディストピア第2弾。『侍女の物語』を読み直してから読めば良かったと途中何度も思ったが、途中で止められなくて読んでしまった。
そうよね、大勢の閉経前の女を長期間軟禁すると、血塗れになるのよねー、現実現実…(-_-;)。
翻訳は鴻巣友季子。解説は小川公代。
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3人の語り手からなるディストピア小説。ギレアデ共和国では、女性は識字力を持てず、大まかに分けると繁殖用か、繁殖用の女性をサポートするか、”小母”のように官僚になる人生しか選べない。当然読んでいて苦しくなる描写が多い。物語の主役は全員女性たちで、男性たちは気持ち悪い描写のモブしか出てこないので、上記のような苦界の中でもシスターフッド描写が熱い。この本の中では脇役だけれども、マーサの人生だけ切り取ってももう1冊本が出せそうだ。
小母リディアの一生をかけた乾坤一擲の勝負は、『三体2 暗黒森林』の博打にも通じる壮大さだ。
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1985年に刊行された、侍女物語の35年越しの続編。とても良かった。
侍女の物語は、かなりざっくり言えば、一人の侍女"オブフレッド"の視点で語られる、階級&監視社会を描いたもの。
ただ、本編の後にある、歴史的背景に関する注釈を読めば、遠からずギレアデが崩壊することが示唆されている。
誓願は、ギレアデの崩壊がより間近になった物語だった。
だけど、ただそれだけではなかった。578ページの中に、3人の女性たちの生い立ちや置かれた立場、そして思考と、変わっていく状況…。
最初は別々の道だったが、それが最後に1つになっていく。その過程を辿るうち、私もアドレナリンがドバドバ出た。
それぞれの視点で物語は進んでいくのだか、どれが誰の視点なのか、はっきりとは書かれていない。だけど、語り口からそれが分かる…私はそれが、訳者の素晴らしさの一つだと思った。
侍女の物語では、完全な悪者として描かれていたリディア小母。彼女視点の話も出てくる。これがすっごく面白い。ギレアデの体制に身も心も捧げ…みたいなイメージがあったのだが、彼女の過去も語られるし、決して他には見せられない想いも語られる。時には皮肉混じりで。そこが見所の一つだと思う。
あと、妻になるための学校がどうとか、そういう側面が知れてよかった。
ちょっとした冒険譚の様なシーンもあるし、結構な章に分かれているから、ページ数の多さを感じさせずに読める。
ディストピア小説が、何故今また読まれているかとか、ギレアデで起こったことが実際に行われる、或いはそれに近いことが起こりうるかとか、そう言う難しいことは、お恥ずかしながら私にはよく分からない。
そう言った難しいことは置いといて、まずはこの物語を楽しんで欲しいと思う。
その後、リディア小母はどうなったんだろう……
大多数の日本人の様に無宗教の私だが、ベッカのために手を合わせたいと思った。
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現代人は性の喜びを知ってしまい、インターネッツで話題になった性の喜びおじさんが「性の喜びを知りやがって、許さんぞ!」と嘆きながら憤死したのも仕方がない。
一方で本書で描かれるのは性の喜びが剥奪されたときに、どのようなディストピア社会が到来するのかという一種の思考実験である。この様相がすさまじくグロテスクであると同時に、極めて高いリーダビリティにより、ディストピア小説の最高峰ともいえる完成度を本書は誇っている。
なにせ、本書の舞台となるギレアデ共和国はキリスト教の原理主義者らがクーデターによりアメリカ合衆国の政権を奪取して誕生した国家である。ギレアデでは、性の自由を人民から剥奪し、女性から全ての教育を撤廃させた上で、子供を産めるかどうかを唯一の女性の価値基準として単なる”生殖マシーン”として女性を扱うことを強要する。
そしてその共和国に対して静かなるクーデターを起こそうとする3人の女性たちの冒険が本書のメインの筋書きとなる。あまりにも想像を絶した世界観でありながら著者自身が「ギレアデ共和国とは様々な歴史的事実の寄せ集めであり、そこには空想の余地はない」と明言しているように、このディストピア社会は一歩間違えれば起こっていたかもしれない現代社会の危うさを提示する。
ディストピア小説といえば、ジョージ・オーウェルの『1984』が古典として浮かぶわけだが、現代のディストピア小説の最高峰は本作であり、いずれ『1984』よりも本書が着目を浴びる日が来てもおかしくないと思う。そんな日が来なければよいということを祈りつつも。
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マーガレット・アトウッド『侍女の物語』の続編。前作は「侍女」のオブフレッドのひとり語りという形式だったが、今回は3人の登場人物がリレーのように順に語っていく。『侍女の物語』がギレアデ国家の安定期の出来事であったのに対して、『誓願』は崩壊前夜、というか崩壊の契機を作り出した女性たちの物語。『侍女の物語』が出版されてからかなりの年月が経っているので、まさか続編が読めるとは思わなかった。今回もまた終わりにギレアデ歴史研究会のシンポジウムの様子が描かれている。小説のなかの出来事ではあるが、悩みや苦しみも含めたそれぞれの女性たちの意図から紡がれる物語の後にいくら時間が経っているとはいえ「お気楽な」感じの研究者たちの様子を読むと、両者の対称性にイラッとする。後世の歴史家が再構築できることには限界があり、「歴史」として記録されたり知られたりすることはほとんどない、女性たちの生き様があるのだということを忘れてはいけないという著者の思いも込められているのかもしれない。
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政界の中心にいるリディア小母。
司令官の娘として育ったアグネス。
そして、カナダで育ったデイジー。
この三人の独白から始まり、最後には全員の視線が一致する。
読書とは実に面白い! 作り話が現実と重なる瞬間を味わうことができるのだから。
侍女の物語からの脱却。女性たちの反撃は小さな事で始まる。始めるしかなかったリディア小母が中心というのが皮肉だけど、彼女の、そして彼女達の人生を破壊したものが、破壊されてしまうのも自明の理かと思う。
しかし、最後のシンポジウムもあるのは笑ってしまった。
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静かなディストピア社会の怖さは、一定の形で社会が完成してしまうと、その中で暮らす市民にはそれが普通の状態に感じられ、何ら不都合のない社会のように見えてしまうことである。権力が軍や警察を使って暴力的な弾圧を行う、ラテン・アメリカ諸国の独裁主義国家と異なる怖さがそこにある。権力の行使が可視化できないよう配慮されていて、一般市民には自分がどんな権利を奪われているのか、決して見えないからだ。
たとえば、国民が政府にとって不都合な真実を見たり聞いたりすることがないように、報道は規制されている。もし、政府に向かって不都合な態度をとる者があれば速やかに排除する。そうすることで、右に倣おうとする者に脅しをかけるのだ。そこまで来ると国民に供されるのは、報道とは名ばかりのフェイク・ニュースか、さもなければ政権に都合のいい提灯持ちの番組ばかりになる。それを繰り返すことで、ものをいう者は政府寄りの人物だけになり、静かなディストピア社会が完成する。今この国はここまで来ている。
アトウッドが『侍女の物語』を発表したのが1985年。おそらく、ジョージ・オーウェルの『1984年』を意識したにちがいない。組織的な監視と盗聴によって、批判的な意見を封じ込めるのは、ディストピア社会のやり口としては通常だが、女性を出産のための手段と規定し、それ以外の存在の仕方を奪ってしまうという、徹底した男性中心のディストピア社会というのは新鮮だった。それから三十五年がたつ。果たして社会は変化したのだろうか。
トランプ政権下で『1984年』や『侍女の物語』が再び話題になっている、と聞かされ、さもありなんと思っていたら、アトウッドが『侍女の物語』の続編を書いたというニュースが飛び込んできた。しかし、発表された『誓願』には、続編の文字はなかった。作家自身がそれを認めなかったと聞いている。たしかに、これは続編という位置にはとどまらない。独立した一篇の小説として読んでほしい、と作家は思ったにちがいない。
『侍女の物語』は、完成したディストピア社会の中で育ち、次第にその世界に異和を感じるようになる年若い女性の視点を通して描かれている。先に述べたように、静かなディストピア社会では、特に何かがなければその異様さに気づくことはできない。しかし一度それに気づけば、その閉鎖性、徹底した監視社会に息詰まる思いがし、そこから逃げ出したくなる。『侍女の物語』が描いたのは、自分を監視する<壁>に周囲を囲まれ、生得の権利を奪われた者の恐怖だ。
完成されたディストピア社会とはいっても、それが強固に感じられるのは、美しく飾られた表面だけのことで、映画のセットのようなその世界の裏側に回ったら、薄っぺらい材料ででき、補強材の目立つ粗雑な構成物でしかない。外部はそれを知っている。しかし、内部でそれを知るのは権力を握る一部の者だけだ。だから、ディストピア社会は外部と内部を<壁>で遮断する。アトウッドが、三十五年後に描こうとしたのは、そのディストピア社会を囲む閉じた<壁>の内部と外部の<交通>ではなかったか。
そこで、三者の視点人物が必要となる。まずは、<壁>の成立時代から、その存在を熟知し、なおかつ<壁>の維持に努めてきたギレアデの女性幹部であり、アルドゥア・ホールを取り仕切るリディア小母。<壁>の内外を共に知る、全知の存在である。次に<壁>の内側でぬくぬく育ち、年頃になって初めて自分の置かれた立場がのみ込めないことに気づいて、おろおろするばかりの初心なアグネス。<壁>の内側しか知らない。そして、カナダ在住の十六歳の娘デイジー。幼いころに組織の手でカナダに運ばれてきた、本当はギレアデの<幼子ニコール>。今どきの普通の女の子で<壁>の外側しか知らない。
リディア小母という操り手の繰り出す巧妙なからくりで、若い二人は、内側と外側から<壁>の崩壊を遂行する運命を担うことになる。どちらかといえばSFに出てくる架空の国家の物語のように思えた『侍女の物語』に比べ、『誓願』は、よりリアルな政治小説の趣きが濃厚である。特に、静かなディストピア社会が完成されるまでの、体制の移行期の暗殺、粛清といった革命やクーデターにつきものの避けることのできない暗黒面の陰惨な描写は、ラテン・アメリカ作家の描く独裁者小説を思わせるものがある。
リディア小母と呼ばれる女性は、アメリカ合衆国の判事を務める有能なキャリア・ウーマンだった。とはいえ、上流の出ではなく、苦労を重ねてその地位に上り詰めた上昇志向の強い女性である。それが、クーデター軍に逮捕され、スタジアムに集団で着の身着のまま収容され、放置監禁、精神的にどこまで耐えられるかを試されたのち、軍に従うか死ぬかどうかを問われ、やむなく従うことを認める。やがて、その性格、能力が評価され、権力を一手に掌握するジャド司令官とホットラインでつながる関係を築くまでになる。
リディア小母は監視カメラと盗聴器を駆使して、内部外部を問わず情報を収集することで、他人の弱みを握り、相手を思うままに操る術を身に着けている。ディストピア社会は相互監視による相互不信が基本である。反面、一望監視システムの中心部にいるものは、他者の監視を免れる。リディア小母はそれを利用して権力強化を務めるとともに、権力者の腐敗、堕落の証拠を握り、それを記録にとどめ、さらに時機を見て外部に流すことで、ギレアデの崩壊を期すのだった。
パノプティコンの中心で指揮を執るリディアは自ら動くことができない。代わって動くのがアグネスとデイジーの二人。<壁>の外から潜入してきたデイジーは、ベッカの犠牲に助けられ、アグネスとともに再び<壁>の外へ。その手にはギレアデの秘密を暴く情報が握られていた。ベッカとアグネスの関係は単なる友情を超え、互いに連帯して解放を願う<シスターフッド>の域に達している。女性たちの協力が男性中心のディストピア社会を崩壊させる、この物語は<シスターフッド>の勝利を描く物語ともいえる。アトウッドが三十五年の時を隔てて紡ぐ、『侍女の物語』ならぬ「小母の物語」。痛快無比のエンタメ小説でもある。まずは手に取って読まれることをお勧めする。
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面白かった!一気読み!!
ブッカー賞に外れなし!かもしれない。
最近読んだディストピア文学の中では、ピカイチの面白さだった。翻訳家さんに感謝!!
脱北者のことや、福音派のことやらがアレコレと想起されて興味深いのはもちろん、展開のスリリングさは前作以上。
生き別れの異父姉妹がお互いの言動に違和感を感じ合う場面。どちらかというとギレアデ側で育った姉の性格の方に親和性を感じてしまうのは、日本(あるいは東アジア?)では女性に対して抑圧的な場面がまだまだ多いことの証左のような気がしてならなかった。果たして、私たちは私たちの国の中に根深く残る「ギレアデ」を自分たちで取り除けるのだろうか?リディア小母やベッカの死を無駄にすることなく。
清教徒と革命、とくれば、クロムウェルと恐怖政治がセットでイメージされてしまうけど、詳しくは無いのであくまでもイメージ。ただ、作者は「人類史上前例のないできごとは作中に登場させない」というルールを前作以来踏襲されたとのことなので(あとがきより)、きっとそのへんの歴史的事実をよく知っている人には「あー」ってなるんだろう。そう考えると、エピローグが昨今のメイドコスプレに対する痛烈な皮肉になってる。何も考えんとメイド服着たり着せたりして喜んどる人には耳に痛い話。本作を読んで、メイド服が性的、っていう文脈のおぞましさに少々耳を傾けてから秋葉原に足を運ばれたし。また味わい深かろうて。
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ギレアデが崩壊したことは『侍女の物語』を読んでいたから分かっていた。リディア小母が判事の立場で物事を見ていたり、ギレアデに報復するために画策しつづけていたことには快哉!!って思う。リディア小母、只者じゃなかった。底辺と言われるような場所から脱出して判事になっただけあってものすごく強い人だった。ギレアデ、死ね!とか思うけど、こういう世界は今もあると思うし、幼妻とったりするような国は死ね!って思える。何十年もたって養鶏場近くで見つかったリディア小母の彫像とかは正直笑えた。
しかし、ベッカのためには涙します。
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『侍女の物語』を読んでなくても、十分楽しめるようにできていた。『侍女の物語』の続編ということしか知らずに読んだので、三人いる語り手のそれぞれの話を整理しながら読むのに初めは時間がかかった。どこがあるいはどの人が先々繋がってくるか予想できない。こういう本(能力の高い作家の長編)はいい加減に読むと、精緻な構造やキャラクター設定を読み飛ばす可能性がある。それはもったいないので、登場人物や単語のひとつひとつを確認しながら進んだ。が、そこまで慎重にしなくても大丈夫だった。慣れてしまえば、わかりやすい。(読みやすいよう訳にも、作りにも工夫がある。)
むしろちょっとエンタメ要素高めすぎでは?と思ってしまった。前作は読んでいくうちに霧の中でだんだん目が慣れてくるみたいに物語が見えてくるのが面白かったが、こちらはそういうことはなく、三つの物語が時系列に進んでいく。
個人的には、この、希望のある終わり方でいいのか、と思った。
他所から見ればディストピア状態にあっても、幸せを感じていた人もいただろう。裏はともかく、表向きは貧困も暴力(処刑はあるが)もなく、敬虔なキリスト教徒が慎ましく暮らしていたわけで、たとえトップが不正と私利私欲に塗れていても、全員がそうじゃない、ギレアデの建国精神は生きている!と考える人は残ると思う。また、こういう男尊女卑の社会を望む人もいるだろう(なんたって社会的地位が高ければ、老人でも10代の娘と結婚できるし、侍女という名の側妻も何人も持てる。能力がなくてもとりあえず女よりは上だ、と満足できる。)。その人たちを利用してギレアデを再建しようと新たな支配者が現れて内戦状態になったりとか、そういう方向性の方がリアルじゃないか?このように、スッキリ解決できるだろうか?と思った。
前作はディストピアでありながら、過去に起こったし、現在にも未来にも起こりうる内容だったので心底ゾッとしたし、アトウッドの才能にも(そんな社会に警鐘を鳴らす力にも)ノックアウトされた感じがしたが。
が、カナダでは、あるいは北米では、女性が能力を発揮して、社会を変えていくのが、リアルなのではないか。日本はいまだに女性の経営者も政治家も途上国以下だし、ギレアデみたいに、性被害にあっても「女に落ち度があった」と言われる。結婚したら姓の選択さえ許されず、ほとんどの女性は夫の姓になる。世帯主は男。若くて可愛い女性には価値があり、年取ったり、性的に放埓であると見なされた女性は価値がないとされる。ギレアデをリアルに感じるのは、日本がギレアデ的な価値観を持っているからだろう。(リディア小母が裏の権力を握ることができたのも「女であるというだけで、高位簒奪の危険人物リストからは除外されていた」P90からである。)だとすれば本作の結末の明るさをリアルに感じられないのは、こちらの問題かもしれない。
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社会には支配する側と支配される側が存在していて、支配する側は支配する側であるという自覚があって当然だけれど、支配される側は支配される側であるという自覚がない方が幸せに生きていけるのかもしれない。一方で、一度外の世界を知ったり、今ある世界に疑いを抱いたりし始めたらー例えそれが誰かに仕向けられてそうなったとしてもーもはや今までと同じように何も知らなかったふりをして生きていけるだろうか。知らなかったふりをするのが賢明か、命ある限り自由を手にするために闘うべきなのか、どちらかの選択肢を選ぶ必要がある。
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『侍女の物語』の続編。前作で強面であったリディア小母の秘密が明かされる。
男中心の神権政権(キリスト教の一派で「聖書」の箴言が本書に散りばめられる)であるギレアデ共和国(アメリカ合衆国をクーデタによって崩壊させて成立した)の発足当初から、男中心社会の恐怖政治の中で女性のあり方のシステムづくり(焚書によって文字を追放し、女性を生殖に関わる2つの階級「妻」と「侍女」、関わらない2つの階級「小母」と「マーサ(召使)」、唯一書物など文字に関わることのできる女性で、階級の振り分けに関わり権力に寄り添い男性中心社会に従順な次世代の女性を養成する「小母」。この「小母」がが残る3つの女性階級を支配し、「司令官」たちを頂点とする男性中心システムに忠誠を尽くす)に携わってきた元判事であった彼女の手記が本書の中心となって本書は描かれる。
また、「誓願者」(生殖を拒否した「小母」候補)若いアグネス(ヴィクトリア小母)とジェイド(デイジー、「幼子ニコール」としてギレアデ生まれだが、カナダに育ち、密使としてギレアデに送り込まれた)の手記が、立場の違う女性の考えを象徴して組み合わされる。すでに、ネタバレではあるが、これ以上はふれずに置く。
さて、前作の『侍女の物語』が映画化されたとき(1991年)よりも、インパクトをもってうけ止められたのがリバイバルされてテレビドラマ化されたとき(2017年)が問題である。アメリカ合衆国でトランプ大統領が誕生し、様々なハラスメントの前歴に飾られる最高権力者が誕生し、マスコミや女性団体からの批判を全く無視するかれは、まさに『侍女の物語』の「司令官」のように写った。また、そのような彼を批判する女性もあれば、支持する女性もあった。本作では、ギレアデ共和国成立のクーデタについても描かれるのだが、2021年1月6日のアメリカ合衆国国会議事堂襲撃事件はまさに、本書がフィクションであるにも関わらずリアリティを持つ予言的な物語であったことを示してしまった。
両書を読むべしだな!
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『侍女の物語』から十数年。ギレアデの体制には綻びが見えはじめていた。政治を操る立場にまでのぼり詰めたリディア小母、司令官の家で育ったアグネス、カナダの娘デイジーの3人は、国の激動を前に何を語るのか。カナダの巨匠による名作の、35年越しの続篇。