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この世には「良い薬物」も「悪い薬物」もない。あるのは、薬物の「良い使い方」と「悪い使い方」だけ。
アディクション(依存症)の反対語は、「しらふ」ではなく、コネクション(つながり)である。
依存症は、社会病であることが身に染みた。
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想像していた以上におもしろくて、一気に読んでしまいました。中でもセガラリーのお話やイタリア車のお話に愛を感じ、ぐっと引き込まれました。(そこかいっ!笑)
あ、メインはアディクション臨床のお話です。
誰にでも、は勧められないけれど、アディクション臨床に興味があって、40代50代で車が好きな方には読みやすい本なのではないかと思います。
個人的には自分がなぜこの領域に魅了され続けているのかを確認する時間にもなりました。
今年のお気に入り本の一冊になりそうです。
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アディクションや自殺の研究、啓発の第一人者でもある松本先生の自叙伝にして、とても参考になる1冊。「ダメ、ゼッタイ。」の道徳教育によって失われた薬物依存に対しての正しい理解と処罰感情を煽る世論に対する怒りの熱量が文章からもうかがえる。「医師はなぜ処方してしまうのか」では、精神科に限らず、”薬がもっとも低コストで、しかも時間がかからない”という外来の真理がズバッと描かれる。「お薬を調整しましょう」という特効薬への魔術的期待は小児医療でも然り。アルコールも覚醒剤も薬には変わらない。薬でもあるが、毒でもある。人間は薬を使う動物だという前提で、薬を悪者にすることなく、その使い方を注意すべきだという言葉は重い。
松本先生も書かれているように、「処方の美しさ」を実感するという体験は医師にとってとても重要なことだと思う。医師は薬の始め方は習うが、薬のやめ方には驚くほど無関心。「薬ではない治療、あるいは治療ですらない支援」への希求は長く医者をやっていれば必然なのだと実感した。パンクロッカーみたいな精神科医、いいよなあ。
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大学時代に精神科の講義を受けたことがある。
その時、精神疾患の定義の曖昧さに驚いた。
しかも診断のポイントは社会的な摩擦があるかどうかという話だった。
恐ろしいと思った。
患者のための医療が行われているとは思えなかった。
患者を社会から排除したり、社会に都合の良いように矯正するための医療としか思えず、数回講義を受けた後、単位を取るのを諦めた。
この本の著者、松本先生は、逆だ。
「困った人」は「困っている人」かもしれない、とおっしゃっている。
松本先生は私より年上なので、きっと、私が講義で聞いたような精神科治療を先輩医師から教えられたはずだ。
松本先生はそんな先輩医師の指導を居眠りしてやり過ごし、患者や元患者から必要な医療を見出して構築されたようだ。
あの、象牙の塔で!
かっこいいったらありゃしない。
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アディクションとはそもそも何なのかを知らないで読みはじめたが、とても興味深い内容だった。
薬物依存症やアルコール依存症。精神科医の語る臨床の現場は、偏見や法のあり方について考えさせられる。そして薬物に対する「ダメ。ゼッタイ。」のキャッチコピーに対する考え方は、本書を読む前後で変わってくる。
コロナ禍で人との交流が希薄になっている今、人との関わりの大切さを知るには読むべき本だろう。
「困った人」は「困っている人」、心に留めておきたい言葉だ。
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ちょっと高くて買おうか迷ったけど買って良かった
色々良い言葉はあったけど良い薬と悪い薬はなくてあるのは良い使い方と悪い使い方だけっていうのは覚えておきたい
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学術書みたいだしみすずだし難しそうだったが
すごい面白い
よい薬物悪い薬物はない
よい使い方悪い使い方があるだけ
コーヒーやアルコールも客観視して
ドラッグとして見る本に触れたことはあるが
精神科医からの視点で見るととても説得力がある
日常生活で役立つかというと
そうでもないけど
マスコミが薬物について報道するとき
少しだけ上から目線で見ることができそうだ
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p5 薬物依存 20-30代 そして忘れてならないのは、人生早期より気分を変える物質を必要とした背景には、しばしば過酷な生育歴が存在するということだ
p17 人は裏切るけど、シンナーは俺を裏切らない
p20 人は裏切るが、クスリは裏切らない アディクション臨床で、これと同じ言葉を何人もの患者から聞かされた
彼らは安心して人に依存できない人たち、あるいは、心にぽっかりと口を開けた穴を、人とのつながりではなく、クスリという物で埋めようとする人たちだ
p29 覚醒剤依存症患者より、クスリのやめ方を教えてほしいといわれた
p35 自助グループの2つの効果 過去と未来の自分と出会うことができる
p36 自助グループで一番大切にされるのは、初めてmeetingにやってきた新しい仲間 (過去の自分)
p37 人生において最も悲惨なことは、ひどい目に合うことではありません。一人で苦しむことです
p39 依存症は、道徳心の欠如や意志の弱さのせいではない。病気なのだ。最初に唱えたのは意志でなく、自助グループを立ち上げた当事者
p42 どこかに「このままではだめだ」「もう少しマシな人生を送りたい」という気持ちが存在するからだ。その部分ーそのわずかな心の隙間ーにどうやって自分の足先を突っ込み、相手のドアを開けさせるか
p52 たとえば入院などして安全な環境に身を置くと、その安堵感のせいか気が緩み、心の別室の扉が開き、記憶の解凍が始まってしまうのだ。
どう考えても心的外傷後ストレス障害の症状、すわんわち、トラウマ記憶のフラッシュバックだった
トラウマ記憶のフラッシュバックが引き起こす心の痛みを紛らわせる方法が、少なくともあの時点ではそれしかなかったからではないのか
p55 あの患者のおかげで、私はアディクションに関してこれまでとは違う2つの視点を持つことができた。一つは、トラウマ体験が引き起こす深刻な影響であった。もう一つは薬物依存の本質は「快感」ではなく、「苦痛」であるという認識だった
薬物依存症患者は、薬物が引き起こす、それこそめくるめく「快感」が忘れられないがゆえに薬物を手放せない(=正の強化)のではない。その薬物が、これまでずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるがゆえ、薬物を手放せないのだ(=負の強化)
p71 少年鑑別所や少年院の子ども そのような環境を生き延びるには、リストカットや薬物の乱用によって自身の心の痛みを麻痺させるしかなかったような気がする。しかし、そのようにして自身の心の痛みに鈍感になるなかで、いつしか他人の痛みにもどんかんとなり、共感性が損なわれていってしまうように思われた
ただ「聞くこと」だけでも拒絶的な硬い態度がやわらぎ、好ましい方向に変化する子どもも少なくなかった
たとえ過酷なトラウマ体験に関する質問をした場合でさえ、子どもたちの話を信じる態度で傾聴し、「とても大変だったね」「本当によく生き延びたね」「あなたは悪くない」というありきたりな言葉かけだけでも、彼らは顔を上げ、少しだけ目に光が灯るのだ
p73 安心できない場所では自傷行為さえできない
p74 暴力は自然発生するのではなく、他者から学ぶものである
なぜ、一部の人はコミュニティの規範を軽視し、それを逸脱するのか。その答えはあまりにも明瞭ではないか。それは、その人がコミュニティに対する信頼感を抱けていないからだ。
p112 次回の診療予約をとること自体に治療的な意味があり、予約の有無こそが生ける人と死せる人とを隔てるものなのだ
p118 覚醒剤依存症患者のなかにはワーカホリックといってもよいほどの働き者が意外に多いのだ。そういった人たちは、週末の夜にハイになるために覚せい剤を使うのではなく、平日の日中にルーティンをこなすために使う
p122 断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ
アルコールが人と楽しい時間を過ごすための薬物だとすれば、覚醒剤は自分の世界に引きこもり、孤独に没頭するための薬物なのだ
p124 人間は薬物を使う動物である
p131 最近つくづく思うことがある。それは、この世にはよい薬物も悪い薬物もなく、あるのは薬物のよい使い方と悪い使い方だけである
p156 精神科 煎じ詰めれば3つしかない 泣き言と戯言と寝言
うつ病や双極性障害のうつ状態を泣き言、統合失調症や双極性障害の躁状態を戯言、せん妄などの意識障害を寝言
p175 我が国の精神科医療 ドリフ外来 つまり夜眠れるか、飯食べているか?、歯磨いたか?、じゃまた来週
といったやり取りで、次々に患者を診察室に呼び込み、追っ払う
p178 ベンゾ依存症患者は、快感を求めて薬物を乱用しているのではなく、あくまでも苦痛の緩和をもとめて薬物を乱用している
p190 そのときようやく気づいたのは、ご婦人の「手のかからなさ」とは、実は援助希求性の乏しさや、人間一般に対する信頼感、期待感のなさと表裏一体のものであった、ということだった。彼女もまた人に依存できない人だったのだ。そのような患者が、治療経過のなかで予期せぬネガティブな出来事の遭遇し、あるいは精神的危機に瀕すれば、どうなるのか。無力感を否認し、まやかしのセルフコントロール感を維持するために、手元にある藁にしがみつくのは容易に想像がつく。彼女の場合、その藁がベンゾだったのだろう
白衣を着た売人
p205 やっぱり最後にたどり着くのは、世界最古にして最悪の薬物、アルコールなんだな
p211 作家ジョハンハリは、TEDトークのなかで、「アディクションの反対語は、しらふでなく、コネクション(つながり)と主張している。
p211 ネズミの楽園 楽園ネズミと植民地ネズミ 楽園ネズミはモルヒネ水に目もくれず、ふつうの水をのみながら他のネズミとじゃれあう 植民地ネズミはモルヒネ依存症になるが、楽園に移すと、楽園ネズミと交流し、一緒に遊び、ふつうの水を飲み始める
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依存症専門医が、自らの医師人生を振り返りつつ、人間の考察を深めた大変興味深い本。素晴らしい読書体験だった。
小田原の少年時代。不良たちと体罰教師、暴力による支配、暴力の後ろ盾を失ってヤンキーにこびる教師たち。喫煙とシンナーとの遭遇。こうした実体験から、「ダメ。ゼッタイ」を訴える薬物防止教育の無意味さを説得力をもって描き出していく。
自傷行為とは、「痛みをもって痛みを制する」行為なのだという(p56)。本当のどうしようもできない痛み、トラウマから、気を逸らす。アディクションの本質がここにある。そう、生きるために、不健康さや痛みを必要とする人がいるのだ。痛いほど分かる真理だ。
著者自身が、ゲーセンに没頭したという。苦境を生きるためだったのだろう。なぜ少年犯罪が起きるのか。道徳教育が足りないからか。そんなばかな。道徳なんかじゃない。コミュニティに信頼感を抱けていないからだ(p74~5)。
覚醒剤の意欲亢進は、「元気の前借り」(p117)なのだという。効果が切れた後には、強烈な眠気と虚脱状態に打ちのめされる。つまり、「高利の返済」(同)が待っているのだ。確かに、二日酔い常習者だった評者には、実によく分かる。
また、あらゆる薬物のなかで、もっとも心身の健康被害が深刻なのは、まちがいなくアルコールだという(p121)。糖尿、高血圧、肝臓、膵臓、心臓、脳萎縮。それだけじゃない。暴力犯罪、児童虐待、DV、交通事故。覚醒剤の比じゃないのだ。鋭い指摘だ。「やっぱり最後にたどり着くのは、世界最古にして最悪の薬物、アルコールなんだな」(p205)。特にストロング系飲料は要注意だ。ああ、中島らものあの本を、また読みたくなった。
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依存症を専門にする著者の半生を通じて、依存症はそれ自体が問題というだけではなく依存が生じる背景にこそ本質があり、それを無視して表面上の薬物療法や認知行動療法を行うべきではなく、患者さんとしっかり向き合わなければならないという趣旨。趣旨だけ書くとなんともそっけないが、著者の鋭くもやさしさあふれる眼差しを通して語られる患者は、あまりにも生々しく、そして深刻に悩まされており、無意識にも吸い寄せられるように物質に依存していく様には心を動かされずにはいられなかった。依存症を通じて人間の心の弱点を射抜き、その本質に迫った名著といって差し支えない。
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医師としての半生や、奮闘記。
医師も一人の人間であり、常に学びながら患者さんと向き合っている姿がわかりました。
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伊藤先生の本から、松本先生の事を知りました。
依存症の家族がいたので、関心があり、率直に、飾らずにお話される様子や、患者さんの目線に寄り添っている感じがして、記事やテレビを拝見していました。
ご自身の人生を振り返って書かれていて、読んでいて、たまらず泣いてしまう所がいくつかありました。(どうしても、診察の経験を語る上で亡くなられた方の事が出てきて、その所は苦しく、少し引きずりました) 読むことが出来てよかったです。
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三倍速講演会と同じように著者の思いがたっぷり詰まった良書である。著者の経験も踏まえて、今の臨床に向き合うようになったかが分かり共感できた。孤独の病である嗜癖につながりをいかにつけていくかが回復の会議であるが、本書にはそのヒントがちりばめられている。専門家でない人にお勧めしたい一冊である。
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本の雑誌・年間特集号から。高野秀行氏が絶賛オススメしていたもの。その中で”控えめに言って傑作”という評価をなされていたけど、私も大賛成。版元や装丁から、一見お堅い本に思えてしまうけど、これは医学書というより、誰でも手軽に手に取れるエッセイと言った方が近い。精神科領域の中でも、アディクションに焦点が当てられている、というか著者の専門がその分野なんだけど、”ダメ、ゼッタイ”で取り締まるばかりでなく、そこに至る背景にもっと目を向けないと、根本的解決に繋がらないってのは、激しく首肯。前にも読んだけど、アルコールの方がずっと社会に対する害悪は大きいっていうのも、まさにその通りだと思える。読み易いけど気付きの多い、素敵作品。
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エッセイのように軽く読めるけれど、大事なことがギュッと詰まっている。
人は何かに依存して生きていて、それが薬物になると社会から切り離されてしまう。そして、より人に依存できなくなっていく悪循環。
著者の松本さん自身の半生の中でも依存症のように何かに拘る部分があって、「健康/不健康」の境界を曖昧にする。「生きのびるための不健康」その背景を考えると、真の問題が見えてくる。