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恥ずかしながら、山尾悠子の密かなファンである。
だが、実は、まだ一冊も読んだことがない。
そんな訳で、この本を手にしたのだ。
そんなファンがいるものか!と言われても、実際ファンなのだから仕方がない。
本だって、『ラピスラズリ』、『歪み真珠』、『白い果実』(翻訳)、『飛ぶ孔雀』、そして本書と、既に5冊も持っている。
何故だろう?
まず、どうしようもなく書名に惹かれてしまう。
『ラピスラズリ』、『歪み真珠』、『飛ぶ孔雀』ときたもんだ。
次に、装丁にやられてしまう。
前二者の柳川貴子による装丁の静謐な美しさは、そこに蔵められた作品の佇まいを表す表象のようだ。
この書名にこの装丁、これが買わずにいられよか。
こうした僕の想いと同じ想いを抱いた人が他にもいるようだ。/
《その本のまわりだけ、しんと静かだった。書店員による惹句は添えられず、ただおもてを向けて置かれていた。不世出の幻想小説家、と帯にあった。
(略)碧玉色の箱に入った本は、静謐なたたずまいなのに強い吸引力があった。降る雪が音という音を吸い込むような、そうした吸引力だった。》
(谷崎由依『箱のなか、箱の外』)/
〈「夢の棲む街」、「耶路庭国異聞」、「ラピスラズリ」、「歪み真珠」‥‥‥タイトルだけでもうっとりしてしまう。》
(三辺律子『コバルト色のチョコレート 山尾悠子と児童文学』)/
若い頃は、安部公房、大江健三郎、高橋和巳と男性作家ばかり読んでいたが、この頃は、津島佑子、石牟礼道子、山尾悠子と女流作家ばかりに心惹かれるようだ。/
《新婦の母堂は北陸出身とのことで、黒留袖は加賀友禅、四季の花がいちどきに咲き乱れる華やかな裾模様だった。何かの用なのか、目立たぬように披露宴会場の隅を通っていく、その柄ゆきはいかにも珍しいものとして目に映るのだったが、艶やかな牡丹に桜に萩桔梗、まるで〈美女ヶ原〉を描いたような。と新郎側の縁戚であるKは思い、酒気のせいもあってか口に出していたようだった。
「鏡花の『薬草取』ですよね。ご存知なのですか」
ー中略ー
「小説のぜんたいが夢幻能の結構になっているといいますね。主人公と道連れの花売り娘が、それぞれワキとシテ」
「きみは国文科の学生ですか」
「卒論の準備中なんです。できれば院試も受けたいと」と娘は力みのある表情になった。
「論文のテーマは鏡花で、『薬草取』を論じるということだね」》
(山尾悠子『「薬草取」まで』)/
このあたり、能・狂言など伝統芸能の素養の全くない僕には、やや敷居が高いという感も否めないが、山尾自身を思わせる女子学生が登場し、この短篇自体も夢幻能の結構になっているようだ。/
《漏斗の街の構造をそのまま模したとされる劇場は街のもっとも底にある。円形舞台は客席のさらに底の底にあり、急傾斜ぶりをもって知られる客席および満員の観客たちの姿のすべてが闇に包まれるとき、舞台の空間のみが照明の底にあかあかと曝される。おどる薔薇色の脚たちはどこからともなくそこへ踏み込ん���くるのだが、たとえば猛々しいまでの〈骨盤の踊り〉、
(略)〈巨体化した太腿の踊り〉、(略)〈長い脚の踊り〉等々、その舞踏の目覚ましさといっては満座の観客たちの注視を一瞬たりとも手放すことはないのだった。》
(山尾悠子『薔薇色の脚のオード』)/
その他、《山尾文学は翻訳文学である》とする吉田恭子の「理想形態市のエートスーー翻訳文学としての山尾悠子』と、《山尾作品をいつも詩として読んできた》という高柳誠の『〈私的〉山尾悠子年代記』が面白かった。
まさに「山尾悠子特集」の名にふさわしい充実の読み心地だ。