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"〈数学者〉の回想"だからではなく、維新から戦前の"東京"に関する回顧があるから、読むことにしたもの。
著者が幼い頃住んだ旧牛込区若松町周辺は土地勘もあるので、著者の回想に出てくる場所は何となく懐かしい。
著者は1930年(昭和5年)生まれ。戦前の中流家庭に生まれ育った訳だが、学校の授業や先生の教育方法、学友との交際などが具体的に描かれる。また空襲で多数の焼死体を見るなど死と隣り合わせの時代であったが、そんな中で映画館で映画を見た記憶などが語られる。
戦後、一高、東大で、本格的に数学を学べると期待した著者であったが、その期待は裏切られる。その時代、時代で教えるべき意味のあることが教えられていない、との不満である。この辺り、門外漢の自分には分からないが、とにかく新しい数学の世界を切り拓こうとしていた著者からは、そう見えたのだろうなあとは思う。
また、この時代、左翼の勢力が強い時代であったが、朝鮮戦争における北朝鮮、ソ連、あるいはそれら諸国のシンパ層に対して歯に衣着せぬ批判をしている。
後半、いよいよ研究者としての時代になるが、モジュラー関数体、アーベル多様体等、自分には内容が全く分からない世界の話になるので、専門的部分は飛ばして、パリ留学やプリンストンでの生活などを興味深く読んだとだけ記そう。
数学の世界とは高等学校ですっかり縁が切れたので、世界的数学者と言われる著者のことも全く知らなかった。感じたのは、人物評の厳しさ。学者としてそれなりの人なのだろうなと思われる人たちに対して、分かっていない、小人等々の評価がなされる。人物としてはそうなのかもしれないが、詳しい理由が書かれていないので何とも言えないが、正直、敬して遠ざけたいお人、という感想。
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著者は元プリンストン大教授の大数学者.昭和5年生まれ.頭脳流出と言われた時代に豊かなアメリカに渡って研究生活を送った.
以前単行本で読んだときには人の悪口がもっと書いてあった印象があるが,多分それはこの次の本であろう.
わたしには,著者が偉い数学者であることより,彼の目で見た,戦前,戦後の日本の風景,光景がとても印象に残る.著者がいう通り,書かれないと忘れられてしまうことになる事が書いてあるのがいい.
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志村五郎
筑摩書房
2008/09/13
コメント&キーワード
1920年代ダンスホールで浮き名を流したのは名流夫人たち。
1930年代までは床の間に季節の掛け軸をかけて楽しんでいた。
赤とんぼのアクセントは「と」。学校でも家庭でも往来でもそう。
君が代の歌詞は静御前のような白拍子が貴人の前で歌って祝儀をもらうという性格のもの。国歌にすべきようなものでない。
「ねこふんじやった」の英語名はチョプスティックス。
電柱で感電した男がいたが戦中ではとんでもないこととは思わなかった。常に死と隣り合わせの時に気にしているひまがないのだ。
1945年の5.24の東京空襲ではB29が562機、5.25には502機が到来。一機当たり6トン以上の爆弾を落とした。
広島の悲惨さを知った上で、長崎に原爆を落としたのはなぜか、広島でもなにか言えない理由があったとしか思えない。
「生きることを強いられている」というより、「生きざるを得ないようになっているから生きている」。
学校で教わるということは戦争が終わるまでなかった。それが向学心に拍車をかけた。
ノーベル賞を始めあらゆる賞は当代下劣の人たちが良しと思って選択している。
朝鮮戦争は1950.6月に起こる。
共産主義を徹底して批判していた竹山道雄。
1950年代にルオーが流行った。
「まちがったやりかたしかできない人」と「正しいやり方をおぼえようという気がない人」がいる。
理論が完成した時に実はどういう問題かが判ることもある。
数学を山登りに例えれば、頂上までケーブルカーとかロープウェイで行くのではなく、さんざん回り道をしなくてはならい。
日米安保条約、新条約を締結したのは1960年。
「寒がり」「暑がり」は英語にない。
非常識な人間とは物事を自分の観点でしか観ず、また無知でもあるので首尾一貫して非常識である。
重要な研究分野においてすでに出来てしまったように思われて忘れられているが実は発展する余地を残しているものがある。
同胞谷山豊は1958自殺、後を追うように婚約者もそうした。
私は年寄の無能と尊大に対してどうしても辛らつになる。
固定観念を捨てて自由になれるかどうかは才能というより心の向きの問題。
創造はしばしば徹底から生まれる。