紙の本
もう一度読みたい
2016/09/21 23:11
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ほんだくん - この投稿者のレビュー一覧を見る
大学生のころにゼミで読んで(読まされて)、難解で脱落した記憶が…。
30年ぶりくらいに沖縄問題を考えるために再読したら、いまだからわかることもちらほら。まだ難しいけど、読書力を鍛えるにはいいかも。
こっちが終わったら、「ヒロシマノート」もはやく読まないと。
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本書はまさに沖縄返還直前の1970年〜71年に書かれたものであるから、現代にあてはめて考えるのは無理だと思うし、実際こういった解釈で世の中に対峙するのは逆に危険な訳だが、知っててばちの当たるもんでもないけど、知っていないとばちが当たるかもしれん。過去に対して何を言う権利も無く、ただ与えられる言葉を理解して考えるだけという地味な読書だが、何がしかの種は残る筈。印象的な挿絵カットは儀間比呂志氏版画集「沖縄」ほかより。丸みを帯びた輪郭ながら力強いタッチに迫力アリ。
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沖縄に対する見方が変わった本。確かに、戦後処理の犠牲者として沖縄をみることも出来るな〜と。自国のこと、分かっているようで何も分かっていない。そんな自分に気付いた。
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薩摩の血を持つ北海道人のシャモである当方にとって、この本はまた別の意味を持つ。
琉球王室の、薩摩の、日本の暴力に常に晒されてきた沖縄が戦後日本の生贄として米国に支配される状況、そのあらゆる意味を、大江氏は日本人である自分を絶えず問い直すことで可能な限り誠実に可視化しようと試みる。沖縄の状況の、なんと北海道侵略及び支配に似通っていることか。そしてその沖縄がベトナム侵略のベースとなり、北海道がイラク侵略のベースとなるさまのなんと似通っていることか。
琉球の人々をかくのごとく搾取した薩摩が近代において北海道でこれを上回る過酷さをもって先住民族の命と文化を破壊したのは偶然ではあるまいと思う。
当時の日本人の男としての限界性を覗かせつつも、当時の日本人の男として可能な限りの誠実さをもって、そこに向かい続けようとする若き日の大江氏に共感と拍手を送りたい。
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故郷のこと自分は知っていなきゃいけないと
思って読んでみたものの。。。
精一杯に生きている人々。島の空、空気
確かに当時の姿をよく書いていると思う。
しかし、いまはあの頃とは違う空気が流れているはずではないか?
未だに読まれる理由とは?裁判問題なったのはなぜなのか?
新たな疑問が湧いてきてしまう。今読むとこんな世界が日本のすぐそばにあったんだ〜
と他人行儀でしか思えない。
戦争は世界で起きているのになぜ日本だけを取り上げるのか?
彼を良く知るべきなのでこれ以上は言えない。。。
う〜〜ん。。。
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また、沖縄で米兵による少女暴行事件が起きましたね。なんべん同じことが繰り返されたら気が済むのでしょうか。いきどおりで胸がいっぱいになりました。このニュース、朝の報道番組でやっていました。アナウンサーが「沖縄は今、怒っています!」と訴えていました。わたしも「そうだ!」と思ったんですけど、その番組に出ていた出ていた評論家みたいな人が「今、○○さんは原稿を読んだだけだろうけど、沖縄はいま怒っています、って言うのは沖縄は日本とは別だろうということになりますよ。日本が怒っていると言うべきじゃないかな」というふうな意見を言ったんです。これってけっこうショックだった。わたしもそのアナウンサーの方と同じに「沖縄は怒っている」って思いこんでいたんですから。ていうより、与えられた原稿を読むように沖縄に同情的な言葉だけをいじくっている自分に気がついたんです。そうなんですね、沖縄のことをわたしたちはなんか他人事みたいにいつも思っているんじゃないかなあ。この事件は確かに日本の問題だし、そういうことは自分自身の問題でもあるはずなんですね。だけど、私たちの頭の中には沖縄=米軍基地って結びつけるだけじゃなく、自分たちとは関係ないって処理しているところがあるんだと思う。
いや、それだけじゃないね。相前後して岩国の市長選挙もあって、米軍の再編の問題が問われたんだけれど、岩国と沖縄はやっぱりなんか違う感じがするのね。どうしてだろう。沖縄って、昔は琉球王国で、ひとつの国だったんですよね。それが琉球処分という形で日本に属することになり、そして戦争を理不尽に体験したところであるし、戦後二十七年間アメリカの支配下にあったってのは岩国とはまったくちがうとこかな。
そしたらこの本を思い出したんですね。『沖縄ノート』。これが本棚の隅にあったわけですよ。岩波新書で薄いから目立たなくってね。手に取ってみたらずいぶん昔の本みたいなので奥付を見ると一九七〇年九月だって。母に聞いたら学生時代に読んだ本なんだって懐かしがってました。
一九七〇年といえば、沖縄は復帰前。まだアメリカの支配下にあった時代ですよね。それでベトナム戦争なんかがあって、沖縄は重要な軍事拠点だったってんですよね。そして、沖縄の本土復帰って一九七二年だったのだから、ちょうどこの本は復帰のちょっと前に書かれたことになる。この頃大江健三郎は沖縄に通ってこの本を書いたんだ。
この本で大江は日本人とは何かということを問い続けている。これが本書の主題だ。日本人とは何か、っていうのはナショナリズムを鼓舞するために問うているのではないのね。沖縄という存在と向き合いことで日本人に生まれてしまった自分を問い直す作業のようにわたしには思えた。たとえば「沖縄の、琉球処分以後の近代、現代史にかぎっても、沖縄とそこに住む人間とにたいする本土の日本人の観察と批評の積み重ねには、まことに大量の、意識的、無意識的とを問わぬ恥知らずな歪曲と錯誤とがある。それは沖縄への差別であることにちがいはないが、それにもまして、日本人のもっとも厭らしい属性について自己宣伝するたぐいの歪曲と、錯誤である」なんてね、すごい問題意識だと思う。
そして大江健三郎は「日本が沖縄に属する」という命題を提起するんです。えっ?だよね。沖縄の本土復帰運動のさなかに「沖縄が日本に属する」と言う人は数多いただろうけど、「日本が沖縄に属する」なんて倒錯した命題を立てるに至った大江はすごいなあ。でも、それってどういうことかって?それは自分で読んでよ。
ともかくね、プロローグも入れて十編の大江健三郎の思索が詰まっている。それらをひとつずつ読みながら大江と一緒に思索していくと、一九七〇年という時代の中で沖縄と日本を問い詰めていった大江の問題意識はちっとも古くはないと感じました。ていうより、あの戦争を免罪しようという、まして住民を巻き込んでいった沖縄戦を正当化しようという人たちが平然と出てきている昨今では逆に新鮮な問題意識が伝わってくるのね。
そういえば、渡嘉敷島での住民に対する日本軍による自決命令をなかったことにしようという動きの中で、この『沖縄ノート』は非難されている。そうかなあ、と思って読んでいくとさすがに大江は先をよんでいました。当時の守備隊長が沖縄に来たという報道に触れて、「おりがきたら、この壮年の日本人は、いまこそおりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった」と、その守備隊長の判断を分析しています。「おりがきた」すごい的確な判断基準ですね。大江は言います、「日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申し立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ」というくだりはまさに今、今の日本をあらわしてはいませんか。集団自決命令はなかった、なんてここに来て言い出すのは二度目のおりがきたことを意味するのだろうなって。そういえば平成の御代になって南京虐殺はなかったとか、従軍慰安婦なんていなかったとか、言う人たちが増えてきましたね。なんかそうやって過去を否定するおりがきたと見ているんでしょうね、あの人たちは。
『沖縄ノート』にはこんな話が書いてある。「たとえば、米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見捨てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。そのような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、無言で犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛などとみずから表現しているのである」と。そのようなおりがきたところでの記憶の歪曲をもって大江は自分自身に問いかけているのでしょう。
そういえばこの『沖縄ノート』を以て大江を告発している人たちが重要視している曽野綾子の『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』(WAC 九三三円+税)では、そうした命令は出した記録はないということまでを言い、「勿論、当時は軍人が何よりも偉く、恐ろしかった時代だから、軍から頼まれたことは、即ち命令としか聞こえなかったであろう」(二八九頁)と書いていました。そのことをおりがきたら「命令なんかしてない、勝手に死んだんだ」なんて開き直っているんだと思いました。
そうそうこの『沖縄ノート』は出版され続けているのできっと読んでね。
★★★★ 四〇年近く前の本だけど、本質は何も変わっていない。沖縄もすっかり変わったようだけど、今回の事件や教科書問題での動きを見れば、本土の人間にとって都合のいいおりがくることなんてあってはいけない。そのためにもぜったいに読んでね。曽野綾子の本も読んでおくといい。おりがきたときの言い訳の参考になるから。
しかし、世の中いろいろだ。僕のいいたいことも読んでほしい。
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2011/4/22『大江健三郎さん勝訴確定 「沖縄ノート」訴訟』というニュースを見て、本書を読みました。沖縄が戦後の米国統治体制の中で日本「本土」から切り離され、沖縄が本土に住む日本人の意識の淵に沈んでいく事を危惧した本・・・そして1972年の沖縄返還まで。自省や複文が入り混じってかなり難解でしたが、大江sanの真のメッセージを考えたいと思います。
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[ 内容 ]
米軍の核兵器をふくむ前進基地として、朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる持続した戦争の現場に、日本および日本人から放置されつづけてきた沖縄。
そこで人びとが進めてきた苦渋にみちたたたかい。
沖縄をくり返し訪れることによって、著者は、本土とは何か、日本人とは何かを見つめ、われわれにとっての戦後民主主義を根本的に問いなおす。
[ 目次 ]
プロローグ 死者の怒りを共有することによって悼む
1 日本が沖縄に属する
2 『八重山民謡誌』’69
3 多様性にむかって
4 内なる琉球処分
5 苦が世
6 異議申立てを受けつつ
7 戦後世代の持続
8 日本の民衆意識
9 「本土」は実在しない
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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「日本は沖縄に属する」という文章が衝撃的だった。
沖縄問題を民族レベルにまで掘り下げて、議論している本。
柳田邦男の民俗学を思い出すような内容であった。
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(1972.05.11読了)(1972.02.05購入)
(「BOOK」データベースより)
米軍の核兵器をふくむ前進基地として、朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる持続した戦争の現場に、日本および日本人から放置されつづけてきた沖縄。そこで人びとが進めてきた苦渋にみちたたたかい。沖縄をくり返し訪れることによって、著者は、本土とは何か、日本人とは何かを見つめ、われわれにとっての戦後民主主義を根本的に問いなおす。
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ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の評論での代表作の一つ。
沖縄ノートとひろしまノートは、それぞれノートという題をもらっているが、内容の方向性は違うかもしれない。
時代を代表する作品であることと、大江健三郎の個人としての記録であることに違いはない。
始まりは広島ノートと同じ様に個人が遭遇した事象から始めている。
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大江さんは『死者の奢り・飼育』しか読んだことなかったけど、小説作品にも増して難解やね・・・。
けど謝花昇の生涯に関する箇所だとか、かの有名な渡嘉敷島の悲劇なんかは読んでてなかなか心打たれるものがある。
大江さんお得意の内面をえぐりこむような日本人の精神分析は圧巻。
ユングの集合的無意識に通じる部分がある気が。
沖縄戦よりは基地問題・返還問題のほうがメイン。
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復帰40周年記念読書。
「沖縄」と「本土」の埋まることのない溝を認識しつつ、かつ自身が「本土」側に属していることを痛感しつつも、沖縄のふところに深く入り込んで、本土の人間なら見て見ぬふりをしたいであろう問題を真正面から見つめ続ける著者に脱帽。
本書の中で大江は繰り返し問う、「日本人とは何か、このような日本人ではないところの日本人へと自分を変えることはできないか」と。
沖縄(基地)関連のニュースが出るたびに、「傲慢だ、強欲だ、日本の癌だ」と沖縄を貶めたがる人たちがいる。あるいは積極的に罵倒こそしないが沖縄問題など自分には関係ないことだと思っている人たちがいる。彼らがすなわち大江の言う「このような日本人」である。
集団自決裁判で問題とされた部分は最後の章にあるが、この記述を誹謗とするのは明らかに誤りであることがわかる(はじめに言っておくと、俺は教科書の「軍命」削除はやむなし、という立場)。
本書全体を読めば、渡嘉敷島の守備隊長はあくまで「日本人」の象徴として取り上げられているのであることがわかるし、また、島民に自決を直接的に命令したかどうかは本書の文脈ではどうでもいいことだ。
島民を救えず、結果的に自決に追い込んだ人間が、時間の経過とともに薄れゆくおのれの記憶を美化し、「英霊を弔う」などと称して島の慰霊祭に参加しようとするというメンタリティを大江は問題にしている(多くの元将兵たちが同様の思考様式を共有しているという推測付きで)。
それを理解しようとせず、個人への誹謗と決めつけて裁判を起こした弁護団もまた「そのような日本人」であったということか。
右も左も本土の人間が大江のように真っ向から沖縄のことを考えてくれる日が来なければ、沖縄問題は終わらない。日本に明るい未来はない。沖縄が顧みられず今後も平行線をたどるなら、独立の2文字が頭をもたげないでもない。
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今となっては、ちょっと偏っているかなと思うが、太平洋戦争~日本国復帰に当時を過ごしたのであれば、そうであるのかなと思う。
現在の日本政府の対応を見ると、沖縄独立運動は起こってもしょうがないかなと思ってしまう。
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1970年刊。つまりベトナム戦争真っ最中(沖縄内の核・生物兵器保管疑惑に加え、ベトナム爆撃の前線基地として戦争加担)な一方、72年本土復帰が射程に見えてきた時期。「何のために沖縄に行くのか、という僕…の内部の声と、きみは何のために沖縄に来るのか、という現地…の拒絶の声に引き裂かれつつ」沖縄を見続けた著者の思索記録。という意味で、叙述が右往左往する傾向と、様々な事件・人物を所与の前提として書く傾向は否めない。◇ただ、現場に立ち、良い意味で誠実であろうとする姿勢は看取出来る。◆佐藤優氏の著書の読破後に本書へ。
ここから看取できる、2人に伏流する問題意識は、沖縄の文化的・史的独自性とこれに依拠する自立志向である。また、本土側の、対沖縄への異別意識や言動が、この自立傾向を助長しがちであるという点も似通っている。◇さらに言えば、早期降伏ができず、沖縄を本土の捨石・蜥蜴の尻尾切りに利用した結果、その地政学的意義とも相俟って、沖縄の米軍基地の常在化を招いたこと、これに対する本土側の認識不足もまた、先の志向を助長しかねない点も同様か。
◆一方で、政府(自民党、特に佐藤政権)批判はともかく、米軍・米政府への鋭い批判目線は、自主防衛派の如き。この点は立場の違いを超えたものを読みとらざるを得ない。◆加え(文学者の著者に求めるべきではないだろうが)、何の脈絡なく、日本の本土企業による沖縄からの経済的収奪を言う件があるが、この点はある程度のファクトとエビデンスが求められるんだろうなと感じた(著者の誤謬を疑っているわけではない)。