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本書の議論の出発点は、1930年にケインズが書いた「われわれたちの孫たちの経済的可能性」というエッセイ。(日経ビジネス人文庫の、ケインズ『ケインズ説得論集』所収「孫の世代の経済的可能性」で容易に読めるようになった)
大不況下の悲観主義を戒め、先進諸国の生活水準は100年後には当時の4〜8倍程度になって、1日3時間も働けば生活でき、人々は余暇を生活の楽しみや創造的な活動に使えるようになるとの見通しを示していた。
確かに生産性は向上し、GDPも増大したが、我々の生活はどうなっているか。ケインズの期待のようにはなっていない。欲望には限りがなく、資本主義は常に成長を求めるからだ。
ではどうしたら良いのか。そこから著者たちの考察が始まる。
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学術書として多分丁寧に書いてくれている
そのため、中途半端に知識を齧っていると論理の展開が緩慢に感じる部分は多い
また、標榜されている「よい生活」について判断基準を示してくれているものの、倫理的側面もあり測定性に疑問を感じる点もある
しかしながら、経済成長と幸福度の相関性のなさを学術書で示してくれていることは有り難い
TVショーで時事ネタとして扱うのではなく、人類として考えるべき事項として物理的文書で残しているごとに意味がある
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文庫ではなくハードカバーでよんだ。ケインズ研究家ではあるが、ケインズを批判的に書いている。ケインズの欠点も丁寧にかいている。
ケインズが求めた資本主義は、実は悲惨なものになりつつある、という本である。ケインズの予想では労働時間がかなり減るはずであったが、それほど減っていない、という指摘はその通りである。
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22年6月、米国の連邦最高裁判決は中絶を合憲とする判断を下した。女性の自己決定権なのか、胎児の生命なのか、道徳や善を巡る判断として中絶はよく取り上げあれる。中絶が選択肢として認められている時点で、『あらゆる生命を尊重すべき』という価値観とは相いれない。選択権を用意してあとは人々の判断に委ねればよい、判断を強制も介入もしない、という中立の枠組みが成立せず、ケースとして非常にむつかしい。
ケインズは1930年の小論で、技術の進歩と生産性の改善によって、人々の労働時間は週15時間にまで短くなり、残りの時間は余暇に充てられると予測した。それは、2030年ごろに到来する未来だという。
(“Bullshit Job”もケインズのこの小論・この予測を、議論の端緒・本の書き出しに用いていた)
答え合わせを目前に控えて、現代人は『そんなバカな』と感じる。1930年から眺めたただの楽観的な予測だったのだろうか、それともおかしな点はもっとほかのところにあるのだろうか。
そもそもの予測は、資本の蓄積や技術の進歩によって、人々は日々のニーズを満たすものを得るための労働は週15時間でよくなるというものだった。この点、この100年間で一人当たりのGDPは、確かに飛躍的に伸びている。一方で、労働時間は(確かに短くなってきてはいるが)週15時間には程遠い。そこで、問いは『我々は豊かになったのに、なぜ働いているのだろうか』というふうに変わる。
働くこと自体が楽しいからということも考えられるが、やはり主たる理由とは考えにくい。本当は、必要を超える消費のため働かざるを得ないのであり、富や所得自体のために働くのだ。次の問いは、『必要を超える消費はなぜ生まれ、富や所得はなぜ目的化してしまうのか』だ。そしてそれは、貪欲が人間性来のものだからだという。
人間には欲望があり、欲望を満たすために活動をする。一人一人のこうした利己的な活動は、総和として富を生み出し、相互関係の中で調和が生まれる。見えざる手が働く。だから、欲望とは卑しく目を背けるべきものではなく、繁栄・成長の原動力であるというのが、近代の劇的な価値観の転換だった。そして、欲に基づく活動は、現に生産性を向上して人々の必要を満たすだけの繁栄をもたらした。だから、貪欲を戒める必要はあるものの、人間性来の欲望を押さえつければ良いというものではない。欲を燃やして成長の車輪を動かし続けている現代人に、いきなり禁欲を強いても受け入れられるはずがない。
週15時間の労働でとどまらないのは、必要を超える欲があるから、『もう十分だ』という満足感を得ることができないからだ。『もう十分だ』という満足感に至らないのはなぜか。この問いの答えが、“中立”の概念にあるという。
『もう十分だ』という満足に至るためには、何を求めるのか、自分自身や自分の暮らしはどういうものでありたいのかといったことに適切な価値判断を下し、“善い暮らし”を求める必要がある。しかし、現代の社会は、この価値判断に中立を貫いている。如何なる価値観・価値判断に対しても、他者を尊重する。何が“善い”のかについて���議論の余地はなく、尊重を置いてほかになすべきことはない。
“善い暮らし”の理念を欠き、『もう十分だ』と言えなくなったことで、富や所得を他者との相対的な比較の中に置くことになり、尽きない競争を強いられている。これが、週40時間労働を続ける我々に筆者が下す診断書だ。
人々の自立を信じ、選択を尊重し、価値に中立であろうとするのはリベラルな思想である。その正しさを信じていても、中立や尊重というだけでは解は得られず、何を善とするかの議論を避けて通れないという。しかも、(プロ・ビジネスな保守はもとより、)リベラルな価値観でさえもそれが欲望の高速回転を後押ししているという指摘は、とても説得力を持って迫ってくる。