紙の本
読みやすい仏典
2022/06/04 11:34
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
漢訳経典に使われているような訳語を採用しないで、敢えて読みやすい翻訳を目指しているとの事。ここで出ている歎異抄のように訳者が持つイデオロギーと語感(梁塵秘抄は「昭和のムード歌謡」と腐されるだけあって、もっとひどい)が災いして「超訳」みたいな代物だが、こちらはそうではない。
注釈は岩波文庫のように本文に続いてドン、と掲載されてはいないが、本文の左頁についていて、原始仏教や当時の社会などの紹介に徹している。
確か光文社古典新訳文庫で仏典が出るのは歎異抄に続いて2冊目だと思うが、他のパーリ語経典なり大乗仏教の経典なりも出てもいいと思う。
紙の本
読みやすい原始仏典文庫
2022/03/21 16:56
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:どんな名前つけようかな? - この投稿者のレビュー一覧を見る
活字の大きさ・行の間隔が適切で、注釈の位置が見開きページの左側に統一してあるため読んでいて楽である
注釈の内容も難解にならない配慮が出来ている
光文社古典新訳文庫における「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」にふさわしい文庫である
この訳者は「ダンマパタ」も過去に別出版社で翻訳しているので、今後当文庫における原始仏典の出版が楽しみである
内容については他の人の見解に任せたいと思う
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・穏やかに過ごすためのtips集という感じ。各編がかなり短くて、すきま時間に読み終えやすいのがうれしい。
・訳、ものすごく読みやすい。
・比喩表現がかっこよすぎる。「犀の一角のようにただ独りで歩め」とか。
・「目覚めた人」の身体的特徴、「舌で顔を隠せる」とか意味不明で笑う。
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「「犀の一角のようにただ独りで歩め」が読みたかった。
お経の中でも古典に属するとのことであったが、夢物語のお経でなく、仏陀発言集、1文1文区切ってあり、日本語として読みやすい。
どの様な思想をもち、こんな事弟子と会話したり、バラモンに言ったり、その当時の社会における仏陀のなり立ち、ストーリー、仏陀の思いを学べる気がする。
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キリストと同じく、無一物から始める。
これが一番難しいです。
在家で修行するために、五つの戒は頑張ればできそう。
八斎戒は難しい。
出来ることから実践しよう!
無上の清らかな境地に達せるよう、日々の修行に励み努めようと、云々。
『方丈記』『歎異抄』『スッタニパータ』の流れで、友達とお寺さんで写経初体験。良い経験でしたが、家で実践は。。なかなか難しい!
継続して楽しまなければと、云々。
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ゴータマブッダは、実践の人だったため、自分もできることから修行を始め、仏陀と一心同体になることを願うことにした。
マインドフルネスにより無になることで、一心同体となる。断捨離、写経、阿字観瞑想、音楽、読書、散歩。
修行自体は、ゴータマブッダも難しいと言っている。特に在家信者には難しいので、簡単に実践できる五つの戒がある。お酒を飲まない、の約束はできそうにない。
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68
行住坐臥
この訳者は「分かりやすい言葉を使う」という、ただそれだけを言ってるのに
ここで、こんな言葉使うなんて、笑った。
わざわざ、ふりがなまで、ふってあるし。
もっと分かりやすい日本語を使えよ。
401
ニーチェは
スッタニパータの、最初の英訳が出版された翌年の1875年、31歳のとき
友人に宛てた手紙の中で、このスッタニパータについて言及している。
ニーチェは『スッタニパータ』から多くを学んだ。
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本書はゴータマ・シッダールタの言行録という体裁を取るが、形式も、議論の詳細さも、ゴータマの呼称でさえもバラバラで、何の説明もなく過去生での発言まで採録されるという有様であり、かなり雑多な内容の寄せ集めという印象は拭えない。それでも何度も何度も繰り返されるゴータマの決め台詞はとても印象的で、力強いものが多く、長い歴史の中を何とか生き抜き、ヨーロッパでも19世紀に一大ブームを巻き起こしただけの書物としての強さを感じる。
内容としては第4章が群を抜いて高度な議論が展開され、一見するとその他の章の紋切り型で表面的な議論と矛盾するような主張も散見されるが、そのこと自体も本書の魅力であり、精緻な体系化への誘惑を後世の人々に与えずにはおかなかった重要な要素であろう。
バラモン教内部から発生した沙門の一人としてのシッダールタがどのように自らの学説を正当化していったのか、新宗教の発生において関心を引くところであるが、本書で展開されるゴータマの戦略は非常に興味深い。それは一切の論争を行わないというものである。論争においては自らの説への執着があり、相手の説への軽蔑が必ず生じる。これは苦しみを生むものであるから、自説が優れているとか、相手の説が劣っているとか、言ってはならない。論争を挑もうとするものに対しては「ここにはあなたの論争相手はいない」(297ページ)と答えることになる。論争は非難と称賛を生じさせるだけで真理とは何ら関係がないとシッダールタは考えたのである(316ページなど)。それでいて論争を行わないことこそ真理を理解したものの振る舞いであるとし、暗に自らの始めた宗教の優位性を説いている。面白いのは、自分を他人と等しいと思うことも、優劣を競うことと同じであるとし、相対主義をきっぱりと否定していることである。自他の説を同程度に正しいと考えることも、やはり自説に執着していることに変わりはなく、真理が多数あるか、あるいは全て誤りであるか、という結論にしかならないので、必ず矛盾を生むということなるからである(320ページなど)。あえて論争しないことによって、論争する前に、自説が真理であることを論証してしまっているのであり、この理論構成は見事であるというほかない。
一方で、シッダールタの主張は論理的な正しさに終始するものではなく、あくまで実践に基づくものである。「ある人たちは、真理を知り、見ることだけで心の清浄が得られると考える。しかし知ること、見ることがなんの役に立つだろうか」(321ページ)。しかもその正しさは形式的に評価されるものではない。つまり、評価すること自体がすでに迷妄であり、それゆえ、「戒律や請願、悪行や悪行を捨てよ。浄不浄を気にかけなければ、人は心寛ぎ、安らかに生きられる」(319ページ)ということになる。
ところで、訳者は310ページの次の一節を仏教が体系化された後の時代における挿入であろうと指摘している。「ものごとを認識せず、認識しないのでもなく、認識するでもなくしないのでもない境地に達したならば、彼には個人存在というものは消滅する。なぜなら、さまざまな個人存在は認識作用から生起するからである」。しかし、上記の浄不浄を気に���けないというのはまさしくこの一節と同じことを言っているのであって、あながち後世の創作と考える必要はないのではないか。シッダールタは、何度も何度も、我々に問いかける。自らこの世の苦しみを生み出す原因を招いていないか、苦しみの消滅という目的に囚われてかえって苦しみの存在を前提としていないか、自分だけはそういった苦しみの原因とは無縁だと思い込んで安楽に耽ってはいないか、そういった終わりのない反省を我々に突きつける。このあまりに厳格で救いのない教えの実践の先にあるのは、しかし、古代インド宗教における革命である。「いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」(257ページ)。