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ーーあらゆる細密な情報が書きこまれた、私以外のすべての人にとっては完全に無用な地図。でもだからこそ、そこに書きこまれていることが私という存在そのものであるという、そういう地図。…そういう地図を、私はつくろうと思った。(p.284)
時系列的には『狩りの思考法』の前段にあたる極地行。角幡さんとウヤミリックの1人と一匹で旅するのは、確かこれで最後だったはず。この後、犬橇という新しい旅行法に舵を切る、そのきっかけとなった出来事が語られる。
冒頭で引用したのは、その末尾の部分。
角幡さんは足と文字の両方で物語を語る人なんだなと思った。地図の上に自分の足跡を残し、そして残した足跡が如何なる意味を持つのかを文字化することで理解し、腹に落としているように思える。
たぶん似たような(もちろんスケール的には極小の)経験は自分もしていて、それは幼少時の体験に顕著だ。たとえば、無謀にも三輪車で四キロ以上離れた集落に住む曽祖母に会いに行った時の道は、四歳の記憶のはずなのに田んぼの稲の伸び具合や空の青さ、橋の勾配の具合すら鮮やかに記憶されていて、それ以後30年以上訪れていないが、今行ったとしても、迷わずに行ける自信がある。それはおそらく、行けば曽祖母に会えるという根拠のない自信と、この道を真っ直ぐ行って橋を越えて果樹園を抜けた先の用水路を右、という記憶だけを頼りに自分の足で目的地に向かったからなのだろう。しかも、ひとりぼっちだという、不安を抱えながら進んでいたはずだ。だからこそ、その時、五感を通して体の中に入ってきたあらゆる情報が、地図、として自分の中にストックされている感覚があるのだと思う。
逆に、どんなに長く住んだ土地でも、車の移動が主になってしまった今では体に染み込む感じがしない。住居の近所でさえ、だ。このことはおそらく娘も同様で、近くの川に住んでいる魚のことさえ知らないに違いない。私と夫の仕事の関係で預かり保育や学童に預け、ろくに近所で遊ばせていないことをものすごく申し訳なく感じている。
幼少時の自然体験の大切さがあちこちで強調されているけれど、その本当の意味というのが、冒頭にあげた一節で示されているように思う。その人が何者であるかということは、どういう土地とどういう結びつきを作り、どういう地図を描いてきたかということに集約されるのだ。そして、地図は自分の体を使って歩き回らないことには、作れない。点から点へと乗り物で移動することによっては、地図、にはならないのだ。生きて、ドキドキしながらそこを這いずり回らないといけないのだ。
角幡さんは、ここから犬橇のための訓練に入り、チーム・ウヤミリックを結成する。その先に待つものを既に知ってはいるけれど、あらまし、としてではなく、角幡さんの物語、として早く読みたい気持ちでいっぱいだ。続刊が待たれる。
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いわゆる冒険家としてはかなりの冊数を出しているので、ほぼ作家と言ってもよいのではないか。文章も非常に達者でユーモアにあふれているのでとても読みやすい。いずれ冒険から離れても面白いものを書くんじゃないかと思っています。
さて、極地探検ものをかなり連続して書いているので、新味は正直なくどちらかというと今後の決意表明みたいな本に感じました。
そりで氷の壁を超えるってどういう状況なんだろう。ジャコウウシってどんな味なんだろう、臭いなんだろうと想像働かせて読みますがなかなか頭に像を結ばないです。経験したことがないからサンプルが無いんですね。そう考えると本当にすごい体験しているなあ。
彼が今後やろうとしている漂泊の狩猟者としてその土地に深く根ざしていくのはとても面白いし、狩猟主体の冒険譚とても読みたいです。という期待も込めてここでは☆3。
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空白の五マイルでは、地図上の空白を埋めた。
極夜行では、地図上に時間をかけあわせて空白を作り出し、埋めた。
本作では、自らの頭の中を空白にして、埋めていくという行為。本作は第一部で、自分だけの地図を創る旅に出ると筆者は言う。
本作を読んでの感想は、
筆者のいうように、現代人は計画がないと行動できない、という点は共感できた。そしてそれは、人類全体としてみると、個としての力を弱体化させているように思う。システム化されればされるほど、個としての力は必要とされなくなる。北極でも、大都会でも身一つで投げ出された時、生き抜く力を我々は持っているのか。人類の脆弱性はそういうところにあると思う。
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2022/08/07
ギリギリの時のウヤミリックとのやりとりが好きです。ネタバレになるので書けないのですが。
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「極夜行」も読んだので、なじみの土地となじみの犬が出てくる。今度は白夜のなか、狩りを主体とする漂泊行だ。新しい旅のあり方を模索し、極地でそれを見出した角幡さんの挑戦は、たぶん第二部で読めるはず。
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裸の大地 第一部
狩りと漂泊
著者:角幡唯介
発行:2022年3月31日
集英社
初出:「すばる」2020年2月号~2021年2月号
43歳は冒険家にとって鬼門らしい。植村直己は43歳で行方不明に。長谷川恒男、星野道夫、谷口けい・・・みんな43歳だった。著者は今回の探検時、42歳だった。もしかすると、という思いも頭をよぎるはず。
久々の角幡もの。2018年に出版された最高傑作「極夜行」は、一日中真っ暗な「極夜」が続く時期に北極圏を犬と一人旅した冒険話だった。2016年12月6日~2017年2月23日。来る日も来る日も真っ暗闇の中で、白熊やセイウチの恐怖、極寒と闘いながらの旅の様子は圧巻で、読んでいる方も死にそうな思いに陥ったし、旅を終えて少し陽が覗き始めた様子に、こちらが暗闇の中での希望を見出した思いだった。
今回はその地を、白夜の時期に一人旅。ただの旅ではなく、目的地を決めず、期間を決めず、食料は一定量だけ橇に積んで、あとは狩りをしながら食料を確保しつつ犬と行く旅。動物を仕留めれば旅は続けられる。出来なければ帰らなければいけないし、食料が尽きれば帰ってこられずに餓死してしまう。今回は2018年3月の出発。4月に白夜となる。出発点は同じだが、極夜行とはルートが違う旅だった。
筆者は日本でまず、「漂泊登山」を夢想した。目的地を決めず、期間を決めずに、山々を漂泊する。人気(ひとけ)も山道もない原始境を、遡行図を持たず、釣りをして食料を現地調達しながら、続ける。事前の計画は一切なし。これをした人を聞いたこともない。新潟県から福島県境にひろがる只見の山々で行うことに。新潟県側の下田川内は1週間で、福島県側の南会津は大型台風で2日近くの時間をとられたにもかかわらず11日で終了してしまった。
次に地図なし登山を行った。北海道の日高山脈。過去の登山記録も見ないようにして、山脈西側の静内を流れるシュベンツ川の源頭まで遡ることに。地図がないので、自分が人里から離れた場所にいるのかどうか、それすら分からない。そうだと思って歩いていると釣り人に会ってがっくり。地図のない山は地図におかされていない裸の山であることを実感。行動の判断材料が地図なしだと目の前のものしかない。これからどれぐらいの時間を使ってどこまで行くかなどということが、予想出来なくなる。
こうした体験を経て、北極圏グリーンランド、シオラパルクという村からの旅は始まった。前回と同じ村、同じ犬を連れて。ヒノキで作った橇に荷物を乗せての出発だが、樹脂製の軽い小さめの橇も乗せている。途中から荷物を分けて運ぶことになる。3月の気温はまだ寒く、氷点下40度を下回っていた。
食料は自分と犬の分、約45日分だったが、2-3ヶ月は旅したいと目論んでいた。狩りが必須。狙うのは、大物では麝香牛(じゃこううし)、白熊、海豹(あざらし)。小さなものでは、兎、鳥。さらに魚。前回の旅や人から聞くなどして、どのあたりに麝香牛や兎の群れがいるかは分かっている。1羽で自分と犬の1日の食料になるため、一番の期待は兎だった。
角幡ものは、厳しい自然(天候や地形など)に行く手を阻まれながら、��絶な旅の進捗を描写していくことが多いが、今回はそれが少なく、前半はほとんどない。その代わりに頭の中で考えていることを、長々と綴っている。遡行図がないとどうの、地図がないとどうの、というという誰でも分かるような話を延々と書いたり、北極圏で右岸ではなく左岸ではないか、という選択の間違いを頭のなかで考えだし、それをこまごま、うじうじ考えたり。西村賢太の遺作小説「雨滴は続く」で主人公が2人の女との関係を妄想し続けて1000枚書いたみたいな、そんな様相すらある。
そんな前半は正直つまらない。しかし、そのように向き合い、考えたことこそ、結論「裸の大地」であり、自分と土地との新たな関係となる。このあたりの結びつけ方はいつもどおり。単純な探検モノにしないところが角幡作品でもある。
さて、実際の話はどうか。彼はまず麝香牛を仕留める。これは2012年に出版された「アグルーカの行方」でもしていた。牛の巨体1頭で、自分と犬の食料2週間分。つまり、旅の期間を2週間延ばせる。仕留めたばかりのときにたらふく食べ、後は乾燥など加工してこの量である。
記録は後半に入ってくると、いつものような角幡節が甦ってくる。彼の今回の最大の誤算は兎不足だった。群れているはずの兎たちが、どこへ行ってもいない。この年が大雪だったためだろうと推測する。行く手の険しさもあるが、食料不足は深刻。引き返すタイミングが難しい。もし進んで狩りに失敗すれば、帰ることができず野垂れ死ぬ。
海豹の狩猟は難しく、イヌイットですら白い盾のようなものに隠れながら近づき、猟をするという。角幡にそれはなく、ライフルにスコープもついていない。行けると思って近づいても、するっと水の中に身を落として逃げられる。結局、海豹は50センチほどの子供1頭だけだった。他に、麝香牛もう1頭、兎が2羽だった。最後、鳥もやって来たが、もう必要ないので狩らなかった。
しかし、そこまでに極端な飢えの状態に苦しむ。後で分かったが、体重は15キロ以上減っていた。筋肉の上に皮一枚の状態。彼の手を経たものしか決して食べない犬ですら、動物を仕留めると許可無くかぶりついてきたほどだった。
この旅を通し、彼は犬橇での冒険を決意した。犬を複数使っての橇である。実際、翌年の2019年から、そうしているようだ。
彼は最後近くに下記のように書いているが、これはわれわれ生活者の多くが、自分の生活している場所を中心に感じる土地への感覚とほとんど同じではないか。若い頃に積極的に海外に行った人も、年齢とともに近い距離に関する興味がわく。それと同じではないか。
→新しい地域に行き 一回だけその地をおとずれて、そのあとはまたべつの場所に行って、とつぎつぎに自分が足跡をしるした場所の数だけ増やしていく……そんな探検コレクターみたいな旅はもうやるまい。そう思った。
そうではなく このグリーンランドとエルズミア島の北部を歩きまわり、いい土地を探しつづけよう。徹底的にひとつの地域にこだわろう この地域のあらゆる場所をくまなく探険し、知らない場所はないぐらいにして、土地への関わり具合を果様なまでに深める。そうすることでまったく知らない世界が見えてくるはずだ。そのことに固執し、���心し、すべてのエネルギーと資金を投入しよう。
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GPSや衛星電話はもちろん、時計も持たなかった。白夜なので時間の感覚が分からない。だからコンパスで太陽の位置から大まかな時間を推測した。食料不足の中、1日の活動を8時間以内にする、といった管理は大切になる。
北極圏で獲れるオヒョウ(大型カレイ)が売り物になった背景には、日本人の食生活が関係している。回転寿司のネタとして、ヒラメの代用品になっている。
食料が40日弱分あることが分かり、それが未来予期を生じさせ、前回到達できなかったエルズミア島に上陸したいという、具体的な到達目標が心の中で生じていた。
引き返しを決意したのは、心の中で目標地にしていたエルズミア島まで直線距離で僅か30キロの地点だった。
1日22時間サイクルの生活となっていた。摂取カロリーが少なく24時間分に足りず、もたなかったため。だんだん2時間ずつ起きて活動を始める時間が早くなっていった。ただし、白夜なので昼夜逆転のような感覚はない。
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冒険の描写は良いのだが、ポエムが多いのがキツい。みんなは当たり前と思ってるけど、俺は体験して実感したからすごいんだぞと言っているだけでしょう、これ。
素朴に、なぜ大島さんのように永住しないのかも分からない。
同じ実感おじさんや大学生に受けるのは分かる。ホントにただそれだけの内容じゃない?
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白夜に極地を漂泊することでひとりの人間に芽生えた「思いつき」を辿るようなストーリーとなっていて読後感がよかった。極限状態で食い繋ぐ狩猟が筆者に哲学的な命題を突き付けたかと思いきや、間髪入れず陽気なJPOPの鼻歌に展開する表現力に脱帽した。
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「四十三歳の落とし穴」という一章から始まる。旺盛な体力の勢いのまま冒険行を重ね経験値をあげていき、降下し始める体力と、積み上げていくことが可能な経験値が、いつか逆転を起こしてしまう。スポーツであればその帰結先は競技としての「敗北」だが、冒険行においてそれは「死」だ。
本書では実例として河野兵一さんと植村直己さんをあげている。著者はどうだ。ぎりぎりの冒険旅行を生還し、さらに狩猟を通じて価値観が転換する経験をすることにより、これからも大丈夫なようだ。
著者は価値観の転換を、狩猟を通じてと描かれているが、私はまさにその思考こそ四十三歳の転換点だと思う。『狩猟』ではなく、四十三歳という年齢が転換の引金だ。加齢こそが価値観を転換させる原動力だ。
そうであれば、読者である僕も著者のような価値観の転換を経験できるはずだ。ある地点まで移動することが目的ではなく、自身の価値観による視線でその土地を経験する、そういう旅だ。
その人の経験値から思いつくテーマを実行することが、その人らしさを強調していくというからには、より思いつくままに旅してみたいと思う。
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未来予期せずにという漂泊旅の目的は面白い
最後の方、時間感覚が狂っていったのも興味深かった。
極限状態など体験したことがないし、したくもないが、こういうリアルに生と死を感じる体験に誘われてしまう人もいるんだなあと、疑似体験させてくれてありがとうと思う。
文章は全体的には拙速な感じというか
荒々しい感じがした。
そして、なんとなく探検家ってゲームをクリアしていく感覚でやってるのかな?と思った。
でもそれがまた探検家っぽくて
角幡さんの人柄が表れているのだと思い面白く感じた。
以前、星野道夫さんの本を読んだとき
探検家というよりは写真家だからか
土地のこと、動物のことを深く知ろうという意志を感じて、そしてすごく静かな感じがした。
対照的だなと思う。
次回展望では、土地への関心が高まっていたので、どんなふうに変わるか次回も読んでみたい。
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いやあ、相変わらずすごいとこ行ってるなあ角幡さん
死と直結する飢えとか絶対経験したくないわーー
旅行行く時も事前にめっちゃ調べるし、
その時その場を丸ごと体験してする、とかちょっと私には無理
だからこそ、この体験記に興味津々だ
本当の、体験ってもの
自分自身で生きるっていうこと
多分昔の人間がみんなしていたこと
でもそれはやっぱ大変だし、辛いこと多いし、読むだけならいいけど経験したくはないな
いや、でも読みたい、と思うことはどこかで経験したい、
という気持ちもあったりするのか?
自分だけの自分が生きている、という価値を持つ地図
いいなあ
未定な未来、不安な未来は死を孕み、
それをみないように人は考える、というのに納得
そうかも、結局はそこに行き着くのかも
でも死自体は不安なものじゃない気もする。
ただの終着点、とういか。
不安なのはそこに至るまで、だ。
いや、いつそれがくるかわからない、という点も、不安か
諸行無常、わかっちゃいるけど
安定した日常がずっと、ズーーーっと続いて欲しいと思ってしまうのはどうしようもないよなーーー
これ検索したらどうやら犬橇編がすでに出ているらしい
ということはプラスで犬を飼うのか?
それも大変そう。
そして読むだけなら面白そう
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極夜行と比べたらゆるいのかと思って読み始めたけど今回もグイグイと引き込まれて一気読みでした。次作が楽しみ
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なぜか、第2部から読み始めて、この第1部にたどり着くという、まあ、知らない人との出会いという時にありがちな展開なのでしたが、だから、第1部で二人、じゃなくて、一頭と一人で橇を引いて歩く相方のエスキモー犬、ウヤミリックくんのことはすでに知っていたりするわけですが、だからこそかもしれません、道ばた、ウーン、そんな場所がグーンランドの果てにあるのかどうか(笑)、でころがっているジャコウウシの死体に、二人で、いや、一頭と一人で、欣喜雀躍して、あまりの臭いに食べられない一人が、平気で食べて、デカいうんこをする一頭に嫉妬する様子なんて、サイコーですね(笑)
あれこれは、ブログに書きました。そっちも、覗いてくださいね(笑)。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202310140000/
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文体がくどくていまいち自分の好みではないけど、実体験者にしか書けない圧倒される描写。
偶然アザラシがいた、だから生きられた、獲物を仕留められた。だからもう数日旅を続けられる。
白夜の北極を犬一匹と橇を引いて徒歩。地図も時計もなし。食料は一応あるけど現地で調達。日常とかけ離れすぎですごい。
広末涼子もこんな環境で口ずさまれるとは思ってなかったよな…(麝香牛の解体中)