紙の本
思想に「応答」するということは
2023/03/17 12:16
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投稿者:Bakhitin - この投稿者のレビュー一覧を見る
「レヴィナスの時間論」の著者が試みたように、僕はここでロシアの心理学者のヴィゴッキーの同時代人であるミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin)の洞察を補助線として採用したいと思う。
バフチンは、私たちが最後の言葉を発することができないと述べる。私たちは自らの発話に自ら終止符を打つことができない。 〈我いえり exi> という符合は、むしろ他者によってもたらされる。 バフチンはこのように述べるの ある。 つまり、私たちは終わりなき対話の過程にいると。
肉体の死からすれば当然最後のことばというものはある。 しかし、ときを経てそのことばに返答しようとする他者があらわれるとき、どんなに間延びしたものであれ、 対話は続いてしまっているのである。
どのようなことばも、それ自身では完結する力を持たない。 モノローグには完結 の力がないのである。 力は、他者から与えられるのである。 たとえどのような 「完壁な」 レヴィナスのテクストが発掘されようとも、彼の最終的なことばにはなりえないだろう。 パフチンの教えに従って、 テクストはどこまでも未完のことばであり、 廃墟でありつづける、と述べなくてはならない。
私たちに可能なのは、レヴィナスのテクストに返答することで、彼の思想を「復原」することだけである。 しかも、この「復原の行為」は帰還すべき過去あるいは起源をもてない行為である。 むしろ、現在の問題性へのアクチュアリティーだけが、 復原 のフィデリティー (忠実度)を保証するだろう。
増田聡さんは、かつて『ためらいの倫理学』の解説で、内田樹師匠のことを「思想の整体師」と呼んだことがある。僕は、こういう議論を踏まえて、内田師匠のことを「思想の復原士」と呼びたいと思う。
なるほど。この「レビュー」を書くことによって「世界の成り立ち方、人間の在り方について、賢い人はだいたい誰も同じようなことを言っている」という揺るがない確信を貫いた。
『アンナ・カレーニナ』の有名な一節を借りて言えば、「愚かしさの様態には限りがないが、賢さはどれも似ている」のである。
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『レヴィナス老師の時間論』 内田樹
GWは1日の出勤を挟んで、10日間まとまった時間ができたので、待ちわびていた内田樹(以下、内田老師)の『レヴィナス老師の時間論』をじっくり読むことができた。
以下、本書の感想と、内田老師について、そして本書を読んで思い出した高校時代のエピソードについて書いていく。私の高校は仏教校で、当時は言語化できなかった宗教的実感というものを、本書を通じて言語化することに取り組むことができたと思っている。後半で詳述するが、「他不是吾」というエピソードを初めて聞いた時の衝撃や、「天上天下唯我独尊」という母校の標語は、自分自身の血肉となっていたが、本書を読むことを通じて、それらを再認識することができた。
書いた前には想像のできなかったことをが、書いた後にはそこにあるということは非常に不思議なことである。
それでは、本書のおおまかな紹介から始めていく。
内田老師のレヴィナス老師三部作の集大成の本書は、難解な『時間と他者』の逐語的に解説をしていく、大学の授業のような本である。
わかりにくい部分があれば、その都度その都度、解説を加えていくのだが、難解で解釈のできない術語にはいったん無理に解釈をすることなしに、読み進めるよう読者に呼びかける。真にテクストを読もうとする姿勢のようなものを、文章とは異なるメタ的な視点で教えてくれるところも、本書の非常に素晴らしいところである。(内田老師の本は常にそうなのだが)。
本書はレヴィナス老師のハイデガー批判を丁寧に読み解いていくことから始まる。ハイデガーのファンであったユダヤの青年・レヴィナス老師にとって、卓越した哲学を展開するハイデガーがナチスに協力したというその事実は、大変なショックであった。ハイデガー哲学がたいしたものでなかったのなら、その事実は簡単に受け入れられたであろうが、そうではない。WW2後のレヴィナス老師の最初の仕事には、ハイデガー哲学を正確に読み解くことで、なぜナチスに協力することが哲学的帰結としてあり得てしまったのかを突き止め、そして、そのようなことが行らないような哲学体系にアップグレードすることであった。そんな生身の自分の実感を哲学のよりどころとしているところに、『時間と他者』、ひいては本書のすごみがある。そのため、本書の序盤は、ハイデガー哲学の精読とその批判から始まる。
ハイデガー哲学が前提としているのは、西洋哲学のうちにある、すべてのものを光に照射し、把握しようとする営為である。
もう少し説明すれば、すべてのものは論理的には理解可能である可能性を前提に、哲学を始めていることである。しかし、レヴィナス老師はそこに異議を唱える。
レヴィナス老師の哲学は、他者というものを考えるとき、完全に理解を絶したものとして考え、さらに、それでいてその他者に対してどうふるまうかという、とんでものない難問に挑もうとするのである。
レヴィナス老師によれば、光を与えて、理解可能性を見出した時、他者の他者性は毀損する。つまり、何かわかるかもしれないという期待感には既に同胞意識が含まれているのではないかというのである���しかし、レヴィナス老師の哲学は、その可能性を退ける。そして、退けた上で、他者とどのような対話ができるのかを考えるのである。
そこで、レヴィナス老師が引くのが、時間である。時間は絶対的に、認識が不可能である。そんなことはないと思うかもしれないが、我々が時間を表象するとき、かならず空間的比喩を使用してしまう。矢印の起点が、過去であり、その中間地点が、現在であり、矢印の先が未来であるように、多くの人は時間を捉えるだろう。
しかし、時間をその矢印の如く見ている客観者、または絶対的な視座は、はこの世に存在するのであろうか。それは存在しないであろう。空間的比喩を一切退けたとき、人は時間について人に説明することができるのであろうか。そう問いを立てた場合、それは否である。
つまり、時間とは、理解を絶した存在であり、そしてその理解を絶しているという一点を他者と共有しているのである。他者という漢字は、他の者という人間的なイメージを読み手に持たせるが、本書における他者とは、もっと広い意味での、他なるものでも言うことができるだろう。
話の流れは、他者論から一神教の成立過程まで進んでいく。人間が神という存在をイメージすることと、時間意識の成立は、同時ではないかという新たな仮説が始まる。時間は絶対的な他者であることは先ほど述べた通りであるが、神もまた、人間にとって理解を絶した他者であると認識することを一神教は求める。一神教が固くなに偶像崇拝を禁じるのは、神の存在認識を視覚に偏らせない、というより人間に認識可能なものであると思わせないためである。
人間はかつて、時間の他者性を感じた際に、神を想起する権利を得たのである。私たちは、時間を知覚することはできないが、時間の中を生きている。時間を理解することはできないのだが、死という明確な終焉をもとに、時間の切迫を感じることができる。神もまた、そうである。私たちは、神を知覚できないし、理解することができないが、その切迫を感じることができるのである。
上記の流れにおいて、時間意識の成立と、神の存在の意識は同時期ではないかとレヴィナス老師、というか解説者の内田老師は述べるのである。
上記の切迫は、呼びかけという形で表れる。
旧約聖書において、アブラハムやモーセは神の啓示を受ける。しかし、その啓示の内容は人間の言葉では理解ができない。しかしながら、その啓示を彼らは自分宛のものとして受け取ったのである。その理由はわからない。ただ、それは直感的に私宛のメッセージであると感じたのである。何かの啓示を自分宛のメッセージとして受け取ることに、レヴィナス老師は神と人間の関係性を見出す。それは、まず何かのメッセージがあって、その後誰かが受けとるという受け手の時間的な遅れである。他者との接し方、神との接し方において時間が重要な概念であるのはそのためである。絶対的に埋まることのない、初期位置の遅れを実感することこそが、神と人間の関係であり、他者と人間の関係性である。主体がまず先にあるわけではない、主体は呼びかけられた瞬間にその都度、瞬間的に生成されるのである。
これが、理解をも共感も絶した他者に対して、他者の他者性を棄損することなく関係性を結ぶ��とであると、レヴィナス老師は語ったのであった。(と内田老師は語るのである。)
他者との関係性は、神秘であり、その都度一回性のうちに立ち現れる。それが、レヴィナス老師における他者との交わりである。
レヴィナス老師の哲学は、これまでの西洋哲学とは一線を画するゆえに、満足できない人もいると思う。これまで、西洋哲学のベースとしてすべての光のうちにあて、理解の範疇に収めようとするという根本的な特徴からすると、上記の切迫のような話は、いささか具体的すぎ、人によってはオカルト的に感じる人もいるかもしれない。
しかしながら、レヴィナス老師はあえて具体的すぎる話題を叙述している。それは、ハイデガー哲学、そしてそれ以前の西洋哲学が絶対的な他者と存在させず、あるいは克服するべきものとして捉えてきた先に、ユダヤ人という他者を認めない姿勢や、その究極としてのユダヤ人の無化=ホロコーストを招いたのではないというレヴィナス老師自身のぬぐえない身体的直感があるからである。
レヴィナス老師は、文中で他者性の近い意味内容として、女性的というような自らのセクシュアリティから見た用語を使用しているが、レヴィナス老師は無自覚に、自らの属性やセクシュアリティに基づいた言葉を使用しているわけではない。あえて日常的な、そして、自分自身の属性の限界を謙虚に意識して文章を書いている。
この部分は非常に教化的である。なぜなら、レヴィナス老師のこの姿勢は読み手にも同様に自分自身の経験や日常、身体実感という自身の限界性を遵守しつつ、理解できる主体に生成されていくことを求めるからである。そうした読者の一回性の読みの中に、テクストをより豊穣にする営為がある。
そして、そのような読み方を、内田老師は体現しているのである。
他の著作でも繰り返し述べられているが、内田老師自身が、モーリス・ブランショの関連人物として、初めてレヴィナス老師の本を読んだ瞬間に、意味が理解できないが、自分宛のメッセージとして受け取ったことを告白している。
そして、その後の内田老師の人生の中で、当時は意味がわからなかったものが理解されているそのプロセスを生きるなかで、レヴィナス老師のテクストの豊穣性を自ら担保してきた実感が内田老師にはある。
そして、私もまた、そんな内田老師の文章を自分宛の文章であると直感し、読み続けてきた一人である。以下の文章は、内田老師の文章を、私の身体的な実感をかけて、私の過去の人生のある瞬間を叙述すること通じて、内田老師のテクストの豊穣性を担保しようとするものである。これは1人の読者の越権行為かもしれないが、書いていくうちに、何かに気づけるのではないかという期待もある。
まずは、理解も共感も絶した他者との、始原の遅れを自覚した明確な切迫の経験を、自分の中で探してみると、唯一思い出せることがある。
それは高校3年生の仏教の授業である。私の母校は曹洞宗を源流とする中高一貫の仏教校であるが、中学高校の6年間を通じて、「生き方」という宗教に関する授業がある。仏教だけではく、その他の宗教も満遍なく触れつつ、高校3年生では、曹洞宗の始祖である道元禅師や瑩山禅師について学ぶのであるが、まさにその「生き方」の道元禅師の留学中のエピソードを聞いた瞬間に、強烈な切迫の経験を覚えたことが思い出せる。
そのエピソードは「他不是吾」というものであるが、道元禅師は、中国に留学した際に、高僧の1人にかけられた言葉に由来する。道元禅師が留学先のお寺に足を踏み入れた際に、とある高僧が庭でキノコを干していた。道元禅師は、高齢でかつ位の高い僧侶が、キノコを干すという一種の雑用を行っていることに、違和感を覚え、「これはあなたのすべきことなのでしょうか」と語りかける。
その語り掛けに対して、高僧は「他不是吾」と返すのである。その意味は、「他人は私ではなく、一見雑用に見えるこのキノコを干すという日常的な営みも、他の誰でもない自分自身の修行として引き受けねばならない」というものである。
道元禅師は、その言葉のうちに、修行というものを経典を読む等の狭い意味で捉えていたことを悟り、食事の供与等のより日常的な営みもまた、禅宗における修行の一つであると深く反省することになる。記憶を頼りにしているため、正確性を欠くかもしれないが、このようなエピソードであったと私は記憶している。
そして、まさに私は、このようなエピソードをまさに自分宛のメッセージであると感じ取った。なぜ、自分宛のメッセージかと受け取ったかと言えば、そのエピソードを聞いたまさにその時、大学受験に向けて、数学の問題を解いていたからである。(いわゆる内職である。)
当時の私は、大学受験の科目以外の教科の授業中は、常に内職をしていた。部活生でもあり、時間のなかった私にとって、それが悪いことであるという自覚もなく、当たり前のようにやっていた。つまり、その時、学びと言うものを、試験科目という極めて狭い科目のうちに限定していた。そして、いつも通り内職をしていた私は、ふとした瞬間にこのエピソードを聞き、直感的に「学びの範囲を広げよ」と言われているような気がしたのであった。
比べることもおこがましいが、道元禅師がその時、修行というものをより狭い範囲で捉えていたように、私もまた、学びというものを狭い範囲で捉えていた。しかし、まさに当時の道元禅師とフラクタル構造をなすように、私はその狭い範囲から抜け出して、あらゆることを自らの学びとせよという啓示を受けたような気がしたのである。
今考えると、これが私にとっての切迫の体験であった。
今の話を叙述していた際に、もう一つ思い出したのが、母校の校訓でもあった、天上天下唯我独尊である。天上天下唯我独尊は、おそらくもっとも意味を誤解されている仏教用語であろう。
天上天下唯我独尊の本当の意味は、誰しも「唯我独尊」、唯一無二の尊い価値を持っている存在であり、その違いであり、価値を認めあう必要があるというものである。決して、1人よがりな言葉ではない。だからこそ、母校の英語科教員は天上天下唯我独尊に「Think & Share」という共感的な訳語を添えたのである。
この言葉も、いささかレヴィナス老師的であると思う。すべての人は、唯一無二の、互換性のない、さらに言えば理解を絶した存在である。そして、だからこそ、その切迫を肌で感じ、理解ができないながらも相手を歓待し、尊重するスタンスを持ち続けなければならな��というものである。相手を尊重しなければならないというありがちな教訓の、前提に、相手の他者性、つまり絶対的に理解不可能な、唯一無二性を置いたところに、天上天下唯我独尊という言葉の重要性を感じるとともに、非常にレヴィナス老師的であるという解釈ができる。母校は、カナダへのホームステイを含む国際交流を長らく行っている。私は英語が全くできない状態で、カナダの家庭や高校に放り込まれて、10日間を過ごした。途中、少しずつ英語を覚えてきたが、理解の絶した相手からの歓待を受けるという類まれなる経験をそこでした。まさに、この起点には天上天下唯我独尊の哲学があると思う。
これらのエピソードや標語は確実に、自分自身の血肉となっていたが、本書を読むことを通じて、それらを再認識することができた。
冒頭にも書いたが、書いた前には想像のできなかったことをが、書いた後にはそこにあるということは本当に不思議なことである。後半は自分語りに集中してしまったが、この文章を通じて、『レヴィナスの時間論』、ひいては『時間と他者』のテクストの豊穣さに少しでも貢献できれば、それ以上の喜ばしいことはない。
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予備的考察:
生き残った者
フッサールの現象学
現象学と聖書
信仰と時間
有責性
ユダヤ的な知
第1講の読解:
レヴィナスを解釈するルール
実存することの孤独
実在者なき実在すること
第Ⅱの解釈:
日常生活と救済
世界による救済
光りと理性の超越
第Ⅲ講の読解:
労働
苦悩と死
死と未来
死と他者
時間と他者
第Ⅳ講の読解
顔を隠す神
権力と他者関係
始源の遅れ
時間意識の成熟
応答責任
エロス
豊饒性
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内田樹導師によるレヴィナス哲学探求書第三弾。内田樹といえば「街場の~」シリーズに代表される論考がよく知られるところだと思うけれど、氏の物事の見立てはほとんど常に理路が整然としていて、流行の文字列や潮流に踊らされた感のないところにいつも感服している。理路整然とはいえ、武道家でもあるこの稀有な著作家は、思考を左脳にのみ任せるのではなく身体性の延長で捉えているところがあり、そこにも強く共感を覚えるのだ。ただし、その理の在り方に敬服するとはいえ、彼の見立て全てに賛同するわけではないけれど、多分それでも一向に構わないとこの先生は言うだろう。
そんな内田樹が読み込むレヴィナスに特段思い入れがある訳ではない。ただ一見すると複雑に絡み合い個々の事情が見えなくなる程に混み合った現状を快刀乱麻のごとく切り拓いて見せる氏が、難解であると断言し生涯懸けて解読に取り組む哲学者がどんなことを言っているのかに興味が湧かない訳がない。とはいえ「レヴィナスと愛の現象学」「ラカンによるレヴィナス 他者と死者」は何とか読み通しては見たものの、レヴィナスの哲学的探求の動機のようなものが多少分かった気になった程度で、その哲学の芯となるものに触れることが出来たような気にはならなかった。そんな事情もあり、三部作(?)の集大成となる「時間論」の出版を待ち望んでいたのだった。
『言い換えると、それは「他者を歓待すること」についての非宗教的な戒律は存立し得るか、ということである。政治的弾圧や宗教的迫害によって住むところを追われ、異郷をさまよっている「赤貧」の他者をどう歓待するかという、すぐれて具体的な問題である。この問題を「歓待する側の善意や良心」によって解いてはならないとレヴィナスは考える。「善意や良心」以外のもの、それ以上のものによって歓待は基礎づけられなければならない。これは今の時代にわれわれが直面している「移民・難民」の問題とまったく同一の問いである。この困難な問いにレヴィナスが出した回答は、「他者とはそれがあなたの前に登場した時に、すでにあなたの眼に『歓待すべき寡婦・孤児・異邦人」として映る者のことである」という「他者」定義そのものの書き換えであった』―『第Ⅳ講の読解/応答責任(4)』
(先にお断りしておくと、この感想文にはいつも以上に残しておきたい文章の引用が多いです。)
さて、この文章を読んだ時、急に腑に落ちたような気持ちになった。と同時に、前著「他者と死者」の中で「時間」というものをレヴィナスがどう捉えていたかについて朧げな輪郭が見えていたつもりであったけれど、自分の理解が如何に皮相なものであったかを知るところともなった。更に言うなら、レヴィナスの哲学的探求の動機を、無意識の内に「ユダヤ」という色眼鏡を通して見ていたことにも気付かされた。もちろん、それを要約的に叙述することは困難だろうけれど、この引用の中にその動機の芯になるもの、そして何故内田樹をしてユダヤ教を学ばせることになったのかの理由のようなもの、それは陳腐な言葉で言えば「普遍性」のようなものを希求する心とでも言うようなもの、が書き連ねられている。
『でも、レヴィナスの哲学は逐語的に読んだら分かるというようなものではない。分からないところはいくら読んでも分からない。それでも、「写経」するように毎月少しずつ読むうちにレヴィナスの言葉に少しずつ身体がなじんでくるということはある。「分かる」と「なじむ」は違う。「分かる」は叡智的な出来事である。「なじむ」は身体的な経験である』―『はじめに』
『レヴィナスがフッサール現象学から引き出した最も生産的なアイディアはここに集約されていると思う。私たちは対象についての存在信憑を抑制することによって、現象の全体を、より根源的に、よりリアルに所有することができる。自分が経験しているものの事実性を軽々に信じない者の方が、自分が経験していることの客観性を無反省的に信じる者よりも、現象の全体を把持する企てにおいては一歩先んじており、一歩深く踏み込んでいる』―『予備的考察/フッサールの現象学』
『〈条理は暴力に基礎づけられる。あるいは、条理は自由か暴力かという二者択一に還元することのできないような種類の同意に基礎づけられる。その時、暴力は二者択一を忌避することを許さない。啓示とは自由と非―自由に先行するこの同意への呼びかけでなくて何であろうか?〉(中略)この暴力性をレヴィナスは西欧的な知の本質とみなした』―『予備的考察/有責性(2)』
恐らく、この本の読者の多くは既刊の二冊を読んでいるだろうけれど、その二冊で読み解かれたことの核となるものは「はじめに」と記された章と「予備的考察」とされた章に要約されている。特に、内田樹がユダヤ教の伝統的な師から弟子への教義の在り方の内に論理的推論を超越した理路を認め、いわば左脳的な理解の及ばない普遍的な事実(例えば、それは自然の在り様であり、自らの身体でもある)へ如何に迫るかのヒントを見る。本書はその意味では哲学の徒内田の読みを、逐語的に説明し尽くし判り易く提示するものではなく、ラビ内田の読みを一緒に辿り言葉によって伝え得ないものを伝えようとする試みであるとも理解できよう。その中でも「他者」という概念が最も重要であり、最も難解であることを、内田師は丁寧にレヴィナスの言葉を引きながら読み解いてゆく。
『〈「そう。私たちは二人でなければならない。」「だが、なぜ二人なのだ? どうして同じ一つのことを言うためには二つの言葉が必要なのだろう?」「それは、同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ。」〉(中略)人類が死に絶えて、私が地球に残る最後の一人になったとする。その時、私と意思疎通をする人間はもうどこにもいない。私はそのことにたいそう腹を立てており、傍らのゴミ箱を思い切り蹴飛ばした。奇妙な話だ。ゴミ箱を蹴飛ばすのは「私はたいそう腹を立てている」ということを誰かに伝えるための身振りである。世界に私一人しかいないのだから「私はたいそう腹を立てている」ということを全人類に周知させるために記号を迂回する必要はない。心に思うだけで十分である。しかし、私ならたぶんゴミ箱を蹴飛ばすだろう。そうしないと自分が腹を立てているということを自分にわからせることができないからである。私たちは他者に向かって「私はこう思う」と告げない限り、自分が何を考えているのかを知���ことができない』―『第Ⅰ講の読解/位相転換(3)』
西洋哲学の始原はギリシアにまで遡るであろうけれど、学術的な基礎となるとやはりデカルトの「コギト」ということになるのだろう。「我思う故に我在り」。全てのことは疑って掛かることが出来るけれど、自分が考えているということは疑いようがない、と教科書的に習った時、違和感を覚えた人も少なくないだろう。しかし多くの西洋人にとって自らが対峙するのは神のみであり、その眼前に立つのは自分ひとりという構図は案外受け入れ易いものであるらしい。しかしその視点から構築される世界に存在する「他者」は常に「自分」が想像(創造)した「他者」である状態に縛り付けられてしまう。そのことを回避する理路をレヴィナスが探っていく道筋を内田は八百万の神々を無意識の内に受け入れている読者にも判じることが出来るものへ読み換えてゆく。その読み換えにしばしば故事が引かれるのは、消えずに継承されてきた言葉の中に、多くの人を納得させることの出来る先達の知恵があり、それが哲学的真理の本質を言い当てている可能性が高いと見るからなのだろう。例え話の本質はその具体性にあるのではなく抽象化された心理の動きの方にある、ということか。
頭の中で考えた理屈で全てを説明しようとする近現代の思考は何も科学の世界だけに留まるものではなく、哲学の世界にも共通するものである。そのことをレヴィナスが「光の孤独」と言い表しているのがとても興味深い。白日の下に晒せば全ては明かとなる、と普通は考えたいところだが、その光は自分自身の放つ光であり、そこに写し出される他者は他者の本来ではないと内田樹が読み解くのを辿りながら、深海の生き物のことをふと思う。深海に棲む海月のひれがうねうねと動く様が「キラキラ」と輝く絵を映像を見て思わず美しいと思ったことのある人は居るだろう。しかしそれはカメラで撮影する為に当てた照明の光が反射して光っている姿であって、漆黒の海底に棲む海月の真の姿ではない。量子力学の観測問題にも似た構図が「コギト」にもあることを内田樹の読みを通してレヴィナスに教わる。
『もの(substance)と仕方(mode)は別のものである。仕方はものではない。レヴィナスはのちに「存在するとは別の仕方で」(autrement qu'être)と「別の仕方で存在する」(être autrement)を峻別することを要求した。「別の仕方で」という副詞は「存在する」に回収されない。だからもし〈私〉が一個の〈実存者〉ではなく、端的に〈実存する〉仕方であるなら、〈私〉は〈実存する〉の境位にはいないことになる。〈私〉は〈実存する〉に回収されない。〈私〉は〈実存者〉ではなく、〈実存する〉仕方であり、それゆえ実存しない。どのような動詞にも回収されず、独立しておのれ持することのできる純粋な仕方、それが〈私〉である』―『第Ⅰ講の読解/位相転換(7)』
養老孟司がよくモノとコトは峻別しなければならないと説いているけれど、図らずもここで同意のことをレヴィナスが語っていることを内田樹に教えられる。養老孟子は唯脳論や都市化論の中で如何に人が制御できない自然を排除してきたかを人間の癖(脳で考える行為)として捉える。しかし自分のものなのに一番制御できない自然である自分自身の身体の生理が最後に��ることの忌避が、死を病院や葬儀社、火葬場へ委ねて視野から遠ざけるのだろうと読み解く。養老はそれを身体性の本質の無視だと言って止まない。言ってみれば、合気道に打ち込む内田樹や他者の意味を追求するレヴィナスは、そうやって遠ざけられたものを再度引き寄せる作業をしているのだと見ることも出来よう。そして、その先に見えてくる知恵のようなものは決して黴臭い学問的知識などではなく、優れて現在的な課題に直結したものであることが見えてくる。そのことは以下に抜粋した引用を見て頂ければ解ると思う。
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『「デュルケームが「他人が私自身よりも道徳的行為の目的であるのはなぜか?」を問うた時、彼は他人の特殊性を見落としていた。慈愛と正義の間にある本質的な差異は、慈愛は他人を優先するが、正義の観点からするならば、いずれかを優先するということは不可能であるということに由来するのではなかろうか?」』―『第Ⅳ講の読解/応答責任(1)』
『他者の他者性はただ「違う」という事実認知的なものではない。それは主体の応答責任を起動させる他者性である。他者は「弱者であり、貧者であり、『寡婦であり孤児』であり、それに対して、私は富者であり、あるいは強者なのである。」』―『第Ⅳ講の読解/応答責任(1)』
『「人皆、人に忍びざるの心あり」(『孟子』公孫丑章句上)。人は他人の苦しみを見過ごすことができない。小さな子どもが井戸に落ちかけているのを見たら、人は手を差し出す。子どもの親と懇意になろうとか、朋友の称賛を得ようとかいう計算があってのことではない。「隠の心なきは人に非ざるなり。」何も考えずに子どもを救うのである。誰でも知っている成句だが、孟子がここで「孺子」(子ども)を喩えに出したことは偶然ではあるまい。というのは、「子どもが苦しんでいれば私は救う」という命題の逆は「私が救うのは苦しんでいる子どもである」というものになるからである。もちろん、そんな言い換えは論理的には成立しない。しかし、共苦の感覚より発して、計算もなく、本能的に、誰かに救いの手を差し伸べてしまうことがあったとしたら、その相手は、仮に生物学的に成人であったとしても、私にとっては「子ども」であるということはないのだろうか』―『第Ⅳ講の読解/応答責任(3)』
『レヴィナスが「他者はつねに寡婦、孤児、異邦人である」と書いたことと孟子の「隠の心」の間にそれほどの懸隔はないように私には思われる。「隠の心は仁の端なり」というのが本当なら、人間の人間性の起点はそこにある』―『第Ⅳ講の読解/応答責任(3)』
『正義は慈愛から生まれ、慈愛を制約する。正義を要請するのは、発生的には不義に苦しむ人への「共苦」の感情である。慈愛が正義を要請する。けれども、登場してきた正義は「かけがえのないものたち」を比較し、誰に理ありとし、誰を非とするか、誰を先にし、誰を後にするかを決める。それが「始源の暴力」である。というのは、比較とか評価ということは同種のものたちについてしか行われないからである。評価の暴力性は、優劣をつけるという行為そのもののうちにあるのではない。そうではなくて、「考課される対象は考量可能な数値的な差以外は同一である」という同一心のまなざしのう���に、他者を同一者に還元する操作のうちに存するのである。(中略)「正義の苛烈さを和らげ、裁かれた者からの訴えに耳を傾けること、これは私たち一人一人の役割なのです。」』―『第Ⅳ講の読解/エロス(1)』
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レヴィナスの「時間と他者」の解説本である。
「時間と他者」。ユダヤ人であるフランスの哲学者レヴィナスの4日に渡る講演で話されたことを著したものである。文章自体は短い。しかし難解。
結論から言えば、ハイデガー哲学が如何に間違えてしまったのか。それを本人が納得するようにまとめたものである。
ハイデガー自身はどうあったかはともかく、ナチス党員となりナチスの統制下のもとで学長という職を得た人物である。レヴィナスとしてはハイデガーの哲学とユダヤ人のアイデンティティでダブルバインドされてしまったようである。
レヴィナスが着目したのは「時間」。ハイデガー哲学からこの「時間」という概念が抜け出てしまったことが問題であるとする内容である。
それにしても読みにくいテキストである。内田樹氏の解説なしには理解しがたい。コンテキストがとしてはレヴィナスの出自。ハイデガー哲学への傾倒。ならびに彼がこれまでの哲学や同時代人の哲学をどのように認識していたか。
これ以外にもフランス語の独特の問題がある。ある単語が示されるのだが「時間」「場所」が不可分と鳴ってしまっている。これがハイデガー哲学の理解を狭めてしまっている。かつ、「時間」という概念を付け加えるのを難しくしているという内容。
なかなか難しかった。
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内田樹氏のレヴィナス三部作目。
待ってました。
内田さんという得がたいヘルパーのおかげで、レヴィナスへの接し方を前2作以上に学ぶことができた。
この接し方は生き方にも直結する。
生きる幅が間違いなく広がった。
レヴィナスの切実さ、深遠さも体感できた。
ユダヤ教の魅力もレヴィナスを通して深まる。
読書経験としても他書では得られない、かけがえのないものだった。
他者に触れることができたからだ。
私の時間を感じることができたからだ。