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誰も戦争を教えてくれなかった。
だから僕は、旅を始めた……。
広島、パールハーバー、南京、アウシュビッツ、香港、瀋陽、沖縄、シンガポール、朝鮮半島38度線、ローマ、関ヶ原、東京……。
「若者論」の若き社会学の論客であり、「戦争を知らない平和ボケ」世代でもある古市憲寿が世界の「戦争の記憶」を歩く。
「若者」と「戦争」の距離は遠いのか、戦勝国と敗戦国の「戦争の語り方」は違うのか?
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作者が世界各国の戦争博物館を巡っての戦争考。
う~ん、合わないな。
・脚注が多すぎる。
・本文(脚注を含む)に、ちゃかした記述が多い。この手の本には無用と思う。そもそも、ちゃかした文章は内容にそぐわない。読んでるこちらまでバカにされてるような気になった。
・博物館にエンターテインメント性を必要と思わない。
作者は、博物館にはエンターテインメント性が必要と書いてるが、そうは思わない自分としては、基本的な立ち位置が異なる。
今の若者は戦争を知らないという事を書いているが、学ぶ場所はいくらでも有る。書籍や映画などだけでも、いくらでも学ぶ事は出来る。
もちろん作者の言うように、同じ戦争を体験した者でも、それぞれの環境、立場等で戦争の感じ方、受け止め方は変わってる。だから、いろいろな書籍を読み比べ、いろいろな映画を観ることで、それぞれ個人が戦争を学ぶ事はできると思う。そのあたりの基本的な考え方が違うから、読んでいてもつまらなかった。
今の若者は、ただ単に学ぶ姿勢が足りないだけ。
アメリカ、中国、ドイツ、イタリア、韓国・・・各国の博物館を見ることで、その国が「あの戦争」をどう受け止めているかを考察する試みは良いと思うけど、それは作者の言ってる「大きな記憶」をめぐる旅でしかない。
それぞれ個人には、それぞれの「小さな記憶」があり、その「小さな記憶」を語れる人たちが、だんだん少なくなっている現代を憂えている部分は共感。
自分は別に戦争オタクでも軍事オタクでもないけど、戦争の事を知らなすぎる若者が多いという記述には唖然。
作者を責めるわけではないけど、いろんな意味で甘やかされて育った現代の若者の姿も垣間見える一冊。
そういう自分も古い上の世代からは「新人類」などと呼ばれた世代だが、あまりにも無知な下の世代に呆れた・・・。
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第二次世界大戦がどうだったかではなく、どうやって日本や世界の国々は伝えていっているのかを博物館などの訪問を通して分析した本。
私は、戦争はダメですっていう教育はされて来たのはすごく良く覚えていて、多分、日本は悪いことをしましたっていう日本は加害者ですっていうことを教えられたような気がする。「あの酷い北朝鮮でも国連に入れてるのに、日本はなかなか入れなかったんだよー」って先生に言われた記憶がある。(今、考えると日本が戦後すぐに国連に加盟していない理由と今の北朝鮮が国連に加盟している理由が違うと思うけど。)
でも、国として第二次世界大戦において日本が加害者か被害者かという議論を始め、ひとつの事象においても人によって考え方が違うだろうと。じゃあ、統一することが可能かと言われれば、多分無理だろうと…
では、どうしていけばいいのか…
筆者は、知らないことで生まれる良さもあると思うって言っていて、現に、大学の授業で日韓の教科書比較をしたときに、私は戦争のことがわからないから、韓国の教科書を読んだときに、日本がめちゃくちゃ悪人に書かれていて、やりすぎじゃないかとか、酷すぎるんじゃないかと思ったけど、そういう見方もあるかなと同時に思った。そういう今の若者は第二次世界大戦に対してかなりフラットに見れるようになったと思う。教育されていないからこそ。
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読みやすかった。脚注も面白かったし、なんだかライトノベル読んでる気分だった。
戦争を真面目にとらえねば!って言う人にはバシバシ叩かれるだろうなー。てかこの人叩かれまくってるだろうなー。
でも若くて戦争を知りたい人にはいいと思う。
少なくとも私には価値のある本です。終戦記念日前に読めてよかった。
難点は分厚くて鞄に入れると重いのと片手で持ちにくいこと。
他の本もこんなテンションだったら読みたいな。
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2015年23冊目。
戦争博物館紀行という感覚で読んだのと、「歴史学者ではない。社会学者が書いたものだ」という認識で読んだので、おもしろかった。
これまでの戦争観とか平和観で読むと、不快だったり、憤りを感じたり、疑問に思ったりする内容かなあと思う。「そんな言い方しちゃだめでしょ!」とツッコミたくなるところが多々ある。
でも、こんな見方や考え方もあるんだよなあというところで、おもしろい本だと思う。
それぞれの国家がもつ戦争の捉え方が博物館に投影されている。なるほど。
展示するモノの取捨選択、最新の技術を活用した展示(体験)などなど、思想だけじゃなくて博物館学なんかも関わってくる。こんなアプローチ、おもしろい。
ただ、立場によって戦争観は異なるから、博物館は当たり障りのないものになるのかと。これもなるほど。
でも、デリケートなテーマなんだから、表現の仕方は気をつけないと。せっかく新しい視点を提示してるのに、叩かれて終わっちゃうこともある。
反面、当たり障りない表現ばかりしていては切り込めないしなあ。新しいことをするって、闘いだよなあ。
巻末の資料もおもしろい。
関東圏から、私も行ってみたい!
ちょっと、狙った感じの脚注には、閉口した。
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戦争博物館巡りを通じて「戦争とは何か」を考察した,実に興味深い一冊。
話しは行ったり来たりを繰り返すが,タイトルの「誰も戦争を教えられない」の答えをよく射貫いていると思う。
シニカルさが鼻につくのはこの著者ならではであるが,著者も少しは大人になったのか?,以前の著作に比べると,少しずつ「お行儀が良くなっている」ような気もする。
著者自身は反戦平和主義の左翼とは一線を画しているつもりであろうが,結論自体には案外近いものがある。しかし,既成概念に囚われない著者の柔らかな視点や筋の通った論調は,傾聴に値する。
著者は,「戦争は楽しい」と断言する。
平和な現代においてこの言葉が一人歩きすれば大変な騒ぎとなるだろうが,戦争がエキサイティングなものであることは,歴史や文学,芸術などあらゆる面において物語られている。
この「戦争は楽しい」という大前提を否定している限り「好戦」も「反戦」も成り立たないだろう。ダークツーリズム(戦争博物館もその一部であるが)を一例として,このことを論じる著者の手法はお見事。
「ディズニーランド化」する(戦争)博物館において,「小さな記憶」が取捨選択され,「大きな記憶」が紡がれる。
平和博物館は,まさにその作業によって次世代に戦争の記憶を遺してゆく試みである。
戦後70年たっても,いまだに国家としての「大きな記憶」をつくることができていない日本。
直接には明言していないが,「大きな記憶」,つまり「国家の歴史認識」を確立させるために,戦争博物館の役割は極めて大きいと,著者は言いたいのかもしれない。
著者は言う。
日本が国際的な地位(たとえば国連常任理事国入り)を獲得したいならば,東京裁判やサンフランシスコ講和条約を前提とされた物語に抵触しない「大きな物語」を確定させた方がいい,と。つまり「戦争責任は明確に認めるべきである」と主張している。
私自身,本音では東京裁判を否定したい思いが強いが,安倍首相による戦後70年談話が出された今,著者が言うように戦争責任は明確に認めるべきだと考えるようになっている(思想的・政治的敗北かもしれないが)。どこかで区切りを付けることこそが,次なるステップになる。ちょっと悔しい?が,ここは著者の主張に同意したい。
非常に興味深い一冊であったが,気になる(相容れない)部分が2点アリ。
ひとつは,著者の「戦争を知らない」ことに対する,ある種の開き直り。
「戦争から遠くなってゆくのは,悪いことばかりではない。むしろ希望がある」
「戦争を知らずに,平和な場所で生きてきた。そのことをまず,気負わずに肯定してあげればよい」
「自分たちが歴史を「知らない」とわかっているからこそ,謙虚に歴史に向き合うことになる」
・・・といった論調には,はっきり言えば背筋がゾワッとしてくる。これって殆ど,反戦平和主義者の言葉を切り取ってきたものじゃないだろうか?
ふたつ目は,著者について。
シニカルさは彼の「センサー」が極めて鋭敏であることの証であるとはいえ,彼が採る��法はあまり持続可能性が高くないだろう。
彼は自分自身の思想信条の位置を明らかにしていないように感じるが,そういったノンポリ的「漂流生活」は,歳を取るほど続けることが難しくなるだろう。
「漂流生活」を止めたとたん,彼は途端に,周囲からの「皮肉の対象」となる心配がある。まあ,彼はそのようなことを全く気にしないのかもしれないし,社会学という分野自体がそういったある種の融通無碍さを許容する,大らかな領域なのかもしれないが。
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20代で戦争に対してこれだけの本をまとめるのが個性的。早熟ともとらえられるが、冷静なんだろうとも感じる。
表現力も秀逸。
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多くの人が無意識のうちに気づいていない、「いま」の「戦争」の現実を指摘しているところが秀逸。ふつう戦争が起きるというと、「あの戦争」をイメージしてしまいますよね。でもよく考えてみたら、それってあまり現実的ではないですよね。(それでも戦争につながるような流れには反対ですが)
戦後も70年を迎え、戦争の記憶がますます失われていくまえに、それらの話を集めたいと思うのだが、さて。
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各国の戦争学物館を通じて、それぞれの国がどのように戦争(基本的には第二次世界大戦)をとらえているかを描くという内容です。
いままで考えたことのない切口がまず新鮮でしたし、博物館を通じることで、それぞれの国の意識のかなり深層に近い部分を感じることが出来るということが驚きでした。
この本を通じての著者の古市さんの主張というのも見え隠れ(?)しています。
それは、たとえ当事者で会っても、人によって国によって、それぞれの感じる戦争が全く異なるように、戦争を伝えることなんか誰にもできないという事です。
そうであれば、戦後世代は国や世界の在り方を考える際、「戦争を知らない・理解できない」という点に立脚するしかない。
それは一見、消極的で無責任な立場のように思えるけど、逆にこれまでの世界史できわめて珍しい「本当の平和を知っている」という大きな武器になるのかもしれないと思いました。
真実は人の数だけあるのに、こと戦争に関しては「たった一つの真実」があると思い込んで、その見方の違いから諍いを続ける今の国際情勢に救いは無いなって感じることが多い。
それに対する、答えの一つがこの本で提示されたのかと思いました。
ちなみに、僕が読んだのは文庫版ですが、単行本にはももクロとの対談が載ってたみたいですね。ちょっと前に話題になったのって、この本だったのかと初めて知りました。
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戦争関係の本というものは、積極的には手を出さない。
のだけれども、それだとまさに「戦争を知らない」ままでいるしかないので、同世代の社会学者がどう捉えるのかという興味もあり読んでみた。読んでよかった。
歴史は必ずしもひとつではなく、見るもの、立場によってさまざまな歴史があるということは常々思っていたので、そこは同じ意見があって心強かった。
それ以外のところでも面白い考察が多く、博物館は現代の教会であるということや、日本の歴史博物館の少なさ(たしかに、長崎にはあるけれども現代史はないかも)、1945年8月15日ですべてが変わったわけではないということ、現在戦争が起こりうるとしても第二次世界大戦のようなものにはなりようがないということなど、なるほどと思わせるものが多かった。
すべてはアナログにつながっているものなんだろうけれども、語るためにはシンプルにしてしまいがちなんだということなのかな。
ただね、日本は日本なりの立場で現代史も語るべきだと思う。そこにさまざまな説があるということも記載すればいいじゃないか。無知であることは、ディスカッションには不利だ。
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終戦から70年の今、気鋭の社会学者である著者・古市憲寿が世界中の戦争博物館を歩き語る。巻末の戦争博物館レビューも面白い。
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戦争=平和博物館、後世に何を伝えるか。勝利を描くアメリカ、残すことへの執念アウシュビッツ、愛国教育の中国、様々な小さな物語の日本。関ヶ原は過去の別時代の戦争、国家による大戦も現代から見ると起こり得ない別時代。小さな、民間の、機械や遠隔操作の戦争。
最初はなぜ博物館?と思いましたが、次第になるほどね、へ。今の戦争はもう昔の戦争じゃないんだ、大戦ももう昔なんだ、と気付かされました。
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各国の戦争博物館をまわって、戦争を知ろうとする切り口。
ネットが全盛の時代に箱モノで伝えられられるものは何か、各国の展示方法の傾向などもおもしろい。
確かに書いてあるように個々の体験を聞いたことが戦争を知ったことになるのか。
誰が戦争を教えられるのか。
切り口も語り口も面白い本。
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世界各国の戦争博物館を観光しながら社会学者の目線で、世界中の戦争教育のあり方を述べている。そして、エッセイ風なので読みやすい。
フツーの人が観光では行かない世界各国の戦争博物館を観に行き、その国と日本の文化比較しつつ、歴史教育としての敗戦教育のあり方を題名通り答えのない問題なのかを考えさせる。
また、アジアの反日国の市民が、その国の博物館を見学している風景の著述を読むと、ホッとしてしまう自分もありながら、反面、歴史教育の難しさをはっきりと理解させる。
著者のいう公共サービスの博物館にも、マーケティング観点が必要というメッセージには、本当にその通りだと思う。
著者は、私より若いのだが、次世代の論客の一人となることは、間違いない。
結構、軽い文章に騙されるが、引用資料も充実して、流石、学者と感心させる。
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Twitter上での呟きやテレビ、ネット動画での発言が炎上すること
枚挙にいとまがない。いろんな意味で注目の若手社会学者である
古市憲寿。「若者代表」みたいな存在なので、ひとつくらい読んで
おかないとと思って購入したのが本書。
でも、失敗。というか、これは賛否真っ二つに分かれる作品では
ないかな。
世界各国の戦争博物館を訪れて、文字通りほぼ全世界を巻き込んだ
第二次世界大戦をどう伝えるかを考察しているらしい。
以前に読んだ『戦争の世紀を超えて その場所で語られるべき戦争の
記憶がある』は、姜尚中と森達也がアウシュビッツや38度線を実際に
訪問して戦争について語ったかなり哲学的な作品だった。
この作品の類書になるのかなと思ったのだが、軽いのだ。あまりにも
軽い。とにかく文章が私には合わない。
多分、戦争に関しての論考については欄外に注釈で記されている
参考文献からの引き写しなのだろう。この欄外の夥しい注釈で書かれ
て突っ込みもまったく面白くない。まぁ、それは読み手の感性の違い
だから、私には合わなかっただけかも。
あ、本文中に出て来る不要な突っ込みもあったな。
戦争の記憶と一くくりにしても、前線の兵士、戦争指導者、銃後の市民
で記憶は違うといのもどこかかから借りて来たお話だろうし、人の記憶は
年月を経るごとに汚染されるのも当たり前の話。美化される記憶もあれ
ば、曖昧になる記憶もある。
だから、どれほど戦争博物館を設け、後世の人々に戦争を伝えようと
しても「誰も戦争を教えられない」。この点には共感する。
しかし、戦争を知りたいと思うのは個人個人の感性の問題だと思うの
だよね。いくら「戦争は悲惨だ。繰り返してはいけない」と言われたとこ
ろで、言われた側が知ろうと思わなければどうしようもないのではない
かな。
知る機会はいくらでもあると思うんだよね。知ろうとしなかったことに
対する居直りの上で、古市氏は「戦争を伝える」ことを論考している
印象を受けた。
戦争博物館にはエンターテイメント性が必要だと説く当たりは古市節
なのかもしれないが、数字で表される戦死者の向こう側にはそれぞれ
の人生があることや、死者を悼む気持ちが欠如してはいないか。
本当の戦争を知ろうと思ったら、戦場へ行くしかないのだけれどね。
それが出来ないから、本や映像で知ろうとする若い世代もいると
思う。
「若者代表」古市氏の感性が、すべての若い世代に共通するものだと
捉えてはいけないと思う。これはこの人独特の感性とスタンスである
のだろう。
一言で片づけてしまえば、「浅い」ってことになってしまうのだだが。
尚、巻末の戦争博物館一覧だけは役に立ちそう。古市氏の評価を
無視すれば…だが。