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先月(2017年2月)

ミラーコートさんのレビュー一覧

投稿者:ミラーコート

2 件中 1 件~ 2 件を表示

二千年前のアテネからの「贈り物」

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

哲学の「祖」と言われるソクラテス。
その「代表作」とされる『ソクラテスの弁明』。
しかし、その内容を知っている人は案外少ないのではないかと感じる。

「名前だけは聞いたことはあるけど、詳しくは読んだことはないんだよなぁ」
恐らく大体の人が、このような感じではないだろうか。

「二千年前から、本書が現代へと伝わっている理由は何か?」
この本質的理解の一助となることを願い、ここに筆を執ることとする。


まず、「弱肉強食の競争原理」「社会的成功」「現実的利益」
これらをとにかく賛美したいと思う人は、本書を読む必要はない。
そのような人に、他の視点は必要ないだろう。

(まあ、そういう人にこそ「視野を広げる」ことが必要なのかもしれないが。
でも、その道に生きがいを見出し満足出来ているならその道を進めばいい)

さて、かつてのアテネは「民主政治」が、かなりの高水準で発達していた。
仮に「直接民主制」を「民主政治」の理想とするのであれば、
かなりその「理想」に近いものであったと言っていいだろう。

しかし、「みんなで決める」のが「民主政治」だとすれば、
それは「他人をちょろまかして言いくるめられれば好き勝手出来る」という考えにつながってくる。
その考え方は「ソフィスト」すなわち弁論術を職業として教える人々を登場させた。
弁論で勝てさえすれば、「白」が「黒」にもなる。
アテネは「衆愚政」へと堕落していく。
その曲がり角で、ソクラテスは胸を痛めていたのだ。

ソクラテスは、ある日神託を受けた。
「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と。
そんなことはない、と思ったソクラテスは数々の「知恵者」「能力のある者」に会いに行く。
その上で、彼はこう述懐する。

「私たちは二人とも、善についても美についても何も知ってはいまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである」(P.24~25)

これが「無知の知」である。

自分の能力を誇り、うぬぼれる「民衆」
目先の利益に囚われ、取るに足らないことばかり嘯く「民衆」
ただただ、人に流され付和雷同するばかりの「民衆」

あなたのそばには、このような「民衆」はいないだろうか?


……いや、「あなた」自身がこのような「民衆」になっていないだろうか?


当時のアテネは、斜陽への道を歩んでいた。
衆愚政へと導く、そのような「民衆」で満ちようとしていた。
だからこそ、ソクラテスは「アテネを善くしたい」と強く願ったのだ。

あなたには、「信念」はあるか?
「一生をかけてでも、一命を賭してでも、貫きたいもの」はあるだろうか?
どこまでも純粋な「信念」は今、果たしてあなたの中にあるだろうか?

『クリトン』では、友人の誘いを断るソクラテスの姿が描かれている。
当然だろう。
彼にとって、「信念」を曲げることこそ恥ずべきことはないからだ。

「民衆」が拘るちっぽけな利害打算の問題を越えて、

「己の生き方が善いか、どうなのか」

全てはそこに集約される。


ソクラテスは弁明をしたが、受け入れられなかった。
それでいいのである。
自分が言いたいことを言い切ったのだから。

ソクラテスは死刑になった。
それでいいのである。
自分の生き方を貫き通せたのだから。

結論を言おう。
これは、「二千年前からの贈り物」である。
「かつてあった信念」をどこかに置いてきてしまった人達への。

後は、あなた自身の問題だ。
本書の価値を見出されんことを願う。

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近現代の「忘れ物」の彼方へ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まず、タイトルを最初に見たときの反応。それは、大抵の人が「そんなバカなことがあるか!」だろう。私自身、タイトルだけ見たときには、嘘か本当かよく分からない眉唾物で、登場人物がいつの間にか成功しているような「良くある成功話」なのだろう、と思えてならなかった。
 しかし、読んでみてその印象は大きく変わった。ガツンときた。思わず「あ、これはなるほど。そういうことなのか・・・!」と唸らされてしまった。これは凡百の「似非成功物語」なんてものとは一線を画しているのだ。
 特に、塾長の坪田氏の「ポリシー・信念」が、この本にグッとくる筋の強さを与えている。坪田氏は人間味溢れる笑顔で「ビリギャル」と接しながら、遙か彼方の「高邁なる真理」を見据えているのである。P.52で坪田氏は「知識を持つ先生がそれをを生徒に教えてあげる」のではなく、「知識(人類の叡知)を先生と生徒が追い求め、そこで生徒は先生に問いを発し、それに先輩として答えるのが先生」であるべきだ、ということを図示している。これを見たとたん、私は、はたと手を打った。「これだよ、やはり『教える』とはかくあるべきなのだ」 かつて私自身、塾に行ったことがある。そこは残念ながら「前者」の空間だった。「前者」自体が悪いとは言わない。教え方は上手く、そこから学んだことも多々ある。しかし「先生が威張りちらして生徒を責める空間」というのに、私はいつのまにか無意識の内に瞋恚を感じていた。たとえ自分の能力が上げられるとしても、どうしても「人間性」というものに塾の先生は欠けているように思えてならなかった。こんなのが偉い人間なのか? 「教える」ってそういうものなのか? ……そして私は、塾をやめた。
 皆様自身も、どこかで思い当たるふしはないだろうか。自分自身が「出来ない」がために叱責、詰問された思い出というものに。悔しいと思いながら、「でも、やっぱり自分は出来ないんだ」と諦めと共にもやもやとしたものを抱えた思い出というものに。坪田氏は、「ビリギャル」を否定しない。朗らかな笑顔(と激しいツッコミ)を以て、「人類の叡知を求める仲間」として接している。「勉強が出来ない」「能力が無い」ために否定された自分を、受け入れてくれる場が、間違いなくそこにある。もうこれ以上、ここに余計な言葉は必要ないだろう。
 そして、この物語のキーパーソンは実はもう一人いる。それは「ああちゃん」だ。ああちゃんは「ビリギャル」であるさやかちゃんの母だ。ああちゃんはどこまでも愚直にさやかちゃんを愛する。それは、ともすれば「モンスタークレーマー」として人から迷惑がられるほどに。でも、「母の愛」ってやはりそのぐらい愚直であるべきだろう。今の世の中、彼女ほど娘を想っている母親が、果たしてどれぐらいいるだろうか。近現代の「理性・能力主義」は私たちに繁栄を与えた一方で、一抹の「寂しさ」を与えたのではないだろうか。さかしらぶって子供に「愛」を与えない母親が増えていると感じられる今こそ、彼女の生き方の鮮烈さが私たちの心に深々と食い込むのである。
 最初は、この家族はバラバラになりかけていた。しかし、「ビリギャル」である「さやかちゃん」の成長、成功によって家族の「絆」が生まれた。このような「ハッピーエンド」に至る道のりは、うさんくさいタイトルの割には驚くほど「王道」である。「王道」とは何か? 諸説あるだろうが、私は「正の感情を強く揺り動かして、人にカタルシスを生じさせる物語」と考える。その定義に照らせば、間違いなく本書は「王道」である。読み終えて納得だ。100万部の売り上げは、伊達じゃない。

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