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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

kapaさんのレビュー一覧

投稿者:kapa

25 件中 1 件~ 15 件を表示

21世紀の地政学

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者倉都康行氏は、この三月惜しまれつつ放送が終了した、国谷裕子キャスターのNHKの報道番組「クローズアップ現代」に常連で登場していたコメンテーターであった。毎年二回、世界経済と金融情勢の分析と見通しを、30分間という短い放送時間の中の、さらに短いコメント枠の中で、国谷キャスターの鋭い切込みに、平明な言葉で的確に、わかりやすいコメントで応えていたように思う。
国谷氏は、シナリオなしに番組を進行させていたそうなので、ゲスト・コメンテーターも大変であっただろうが、知識・経験とも豊富なエコノミスト倉都氏は常連であったことから、国谷氏との信頼関係があったのだろう。
皮肉なことに番組が終了してから、米国大統領選挙、英国EU離脱、南シナ海領有権問題、トルコ・クーデターなど、今後の世界情勢の激変を予感させるような、耳目を集める事件が相次いだ。二人の掛け合いで、これらの事件の分析と今後の動きなどを聴ければ面白かったのだが、本書はそれを補うような内容の本である。テレビでのコメントを聞いているかのように平明な語り口で読み易い内容であり、肩が凝らずに一気に読み進めることができる。
本書の前に、「サイクス=ピコ協定百年の呪縛 中東大混迷を解く」(池内恵著、新潮選書)を読む機会があった。百年前の1916年、英・仏・露によって結ばれた秘密協定「サイクス=ピコ協定」により無理やり引かれた国境線こそが、現在欧州・世界へ難民とテロを拡散させ中東の混乱をもたらした諸悪の根源と単純にみなすのではなく、さらに古くからの中東の歴史と現実、複雑な国家間の関係から原因を説き起こす内容であるが、こちらが伝統的な意味、「地理的環境と国際政治の関係」という意味での「地政学」といえるだろう。そして911以後米国連邦制度準備理事会が「地政学」と資本市場と結びつけて用いるようになり、以後市場用語として定着した「地政学」を俯瞰するのが本書である。
本書では、この「地政学」リスクを五つの類型に整理している。環境問題と地政学リスクを結び付けているように、概念が拡張されているように読めるが、歴史軸はきちんと押さえているし、さらにそのリスクの実態は、貧困にもとづく経済格差と差別にもとづく憎悪にあることを喝破している。また、外交手段として確立した金融制裁や「世界の警察」としての地域への関与といういずれも米国主導の政策を変数とする関数として「地政学」リスクを捉えること、さらに、安全保障上の知り得る情報の三分類を地政学リスクに当てはめてとらえる視点などは、今後報道などで「地政学」リスクに接したときに、そのリスクをどのように評価すべきか参考になる視点となる。
本書は、日本は海外に起因する地政学リスクに疎いだけでなく、「日本国内に自ら抱える地政学リスク」に鈍感である、という著者の危機意識から本書は生まれたと思われるが、そこには筆写自身がディーラー時代、イランのクウェート侵攻のために投資を失敗した苦い経験もあったのだろう。世界情勢と投資は別世界の話ではあるが、「予測可能性」の重要性では同じである。本書を今後の世界情勢を読み解く参考とするか、また、投資の指南書とするかは、読む者の問題であろう。最後に著者の失敗談の後日談のエピソード。損失をカバーするためにとった、当時のマーケット環境では予想外の投資行動が、資本市場に波風を立てたようである。これも「地政学」リスクと見ることができるだろうか。

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紙の本ゲルマニア

2016/01/31 22:40

新しい「警察小説」シリーズ登場!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近活況を呈しているドイツの「警察小説」Kriminal Romanにまた新しいシリーズが登場した。ハラルド・ギルバースの「ゲルマニア」。訳はこのジャンルの大家である酒寄進一氏。時代設定は1944年5月から6月、ベルリン空襲が激しさを増し、6月には連合軍のノルマンジー上陸作戦があり、いよいよ第三帝国の崩壊が迫ってきた時期。空襲警報・灯火管制下でのベルリン市民の生活とともに、このような危機的状況の中でも冷徹に機能するナチス権力中枢機構が描かれる。この中で、ゲッベルスの登場や「生命の泉」計画のように、実在の人物や歴史的事実などが背景的に紹介される工夫がされている。
主人公は、ユダヤ人で元刑事のオッペンハイマー。ドイツ警察小説では、例えばネレ・ノイハウスのピアとフォン・ボーデンシュタイン、フォルカー・クッチャーのチャーリーとゲレオン・ラートのように、女性の相棒がいるのだが、本編では、刑事ではなく、医師のヒルデという組み合わせ。犯罪者心理を分析し、オッペンハイマーの相棒の役割を十分には果たしている。
驚いたのは、実在の人物である殺人課の課長で「仏陀」ことエルンスト・ゲナート警視の名前が、ボーデンシュタインがユダヤ人を理由に警察を追われる前の上司として登場すること。ということは、オッペンハイマーとラートは、同じ殺人課で同僚だった可能性があるということに!? ラートは、世界大恐慌の1929年からナチス権力掌握、ベルリン・オリンピックから再軍備の1936年までを時代設定にしている。そしてこのゲルマニアは、1944年と第二世界大戦を時代設定にしており、二つの小説の奇妙な繋がりを感じさせる。
猟奇殺人事件の捜索を縦糸に、ユダヤ人でありながら、その手腕を買われ生死を賭けた極秘ミッションに就くオッペンハイマーとナチSS大尉との奇妙な関係、そして反ナチ国防諜報部とヒルデの支援を受けて妻リズとの国外脱出を横糸にストーリーが展開するが、最後はややあっさりしている感も…。ただ、読了後訳者解説をよんだところ、続編Odins Soehne「オーディンの息子」が9月に出版されている。続訳を期待したい。

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「血塗られた夏」(Blutsommer)

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今年「月の夜は暗く」(アンドレアス・グルーバー)に次ぐ二冊目となる酒寄進一訳ドイツ・ミステリー。酒寄氏のあとがきによると、昨年購入して読んでいた「悪女は自殺しない」(ネレ・ノイハウス)・「漆黒の森」(ぺトラ・ブッシュ)・「ゲルマニア」(ハラルト・ギルバース)の三冊とともに、氏ご推奨のドイツ・ミステリー大型新人デビュー作であり、全四冊を読んだことになる。
主人公は事件分析官と女性のコンビ、事件は被害者の体・臓器の一部がなくなるので、「解体屋」と呼ばれる猟奇的な事件と、「月の夜」と同じく、構図は似ている。また、「月の夜」は、連邦刑事局事件分析官へのキャリア・アップを目指すミュンヘン市女性刑事ザビネーであったが、こちらは、すでに若き事件分析官のエリート女性クリスト。(クラリス・スターリングと同じく?)スタイル抜群の美人プロファイラー。こちらの事件分析官アーベルは、スナイデルのように犯罪者の心理を読み解くスタイルではなく、遺体と「対話」する(「しばらく遺体と「二人」だけにしてほしい」)手法でその声を聴くことで、犯人像に迫っていくスタイル。麻薬は吸うは、本の万引きはするは、というワルのスナイデルに対し、アーベルは変人、しかし二人ともその能力は抜群というところも同じ。そして二人の主人公は、過去のトラウマに捕らわれている。クリストはアーベルのノウハウを貪欲に学び取ろうとするが、その変人ぶりについていけず、凸凹コンビになってしまうというところも似ている構図だ。このコンビでのシリーズ化はないな、と思ったら、お互い死の淵を彷徨う体験をしながら、事件が解決したことで、急速に関係改善、最後は次回作を期待させる関係になっていく。本書の現代は、「血塗られた夏」(Blutsommer)だが、2014年に第二作Blutdaemmerung「血塗られた黄昏」が出ており、このコンビでBlut(血)を主題にシリーズ化されるようだ(グルーバーは、1回限りのコンビであったが、Tod(死)を主題にシリーズ化)。
本書の遺体の状況、殺害と「解体」の描写など著者が「解体屋」ではないか、と思わせるほどリアルな描写である。それも当然で、著者は丹念に関係者へのインタビューと現場を取材したようだ。少ししか登場しないが、ぜひシリーズで再登場してほしい法医昆虫学者なる専門家が実際にいるというのも面白い。そう言えば、「羊たちの沈黙」でも、遺体についていた虫が犯罪解明の端緒となっていたことを思い出した。著者自ら言っているように、やはり「羊たちの沈黙」にインスパイアされたところは多い。誰がクラリスで、誰がハンニバルかは、その立場こそ違え読み進めていけばおのずと判ってくる。また、事件のプロトには、デンゼル・ワシントンとアンジェリーナ・ジョリーのコンビの「ボーン・コレクター」を思い出させる。
スナイデルのような気の利いたセリフはないが、アーベルがラジオを通して犯人に自らの分析結果を説明するところは、おそらく事件分析官の能力の見せ所としておいているのだろうが、私としては、アーベルが被害者の遺族への事情聴取で、これまた型破りな方法で、遺族の抑圧された心理を癒していくところが、アーベルの人間味を感じさせるところが気に入った。そしてこの遺族からは、思わぬ形で捜査の協力を得ることになるのだが。また、クリストとアーベルの会話シーンが節目節目で挿入されているが、その微妙な変化も二人の関係の今後を占うものとして読むと面白い。おまけに、(本人は死の恐怖に抗っているのだが)タカビーのクリストのちょっとしたお色気シーンもあり。

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紙の本世界地図が語る12の歴史物語

2016/02/28 23:08

地図の持つイデオロギー性

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まだ東西冷戦の真っ只中であった学生の頃、日本は「西側諸国」の一員だ、と言われていたが、世界地図を見ても、なぜ「西側」なのか、よくわからなかった。どう見てもアメリカは、東にある。また、日米安保条約のいわゆる「極東条項」で、日本がなぜ「極東」なのか、これまた地図を見てもよくわからなかった。しかし後にわかったことだが、日本を中心にした世界地図を見るからわからなかったので、米欧、当時の東西冷戦の最前線ベルリンを真ん中にすれば、日本は辛うじて西の端にあったし、また、少しずらせば、世界地図の右端、まさに北極に近い極東にあることがわかり、納得したことがあった。
また、地図は、元々三次元の球体である地球を二次元の平面に投影するものなので、誤差・歪みが発生することは避けられない。また、このような制約を前提に、時間という次元を追加すれば、過去のことを知ることができるし、都市計画図のよう未来の姿を見せることもできる。このように、地図は作成方法・利用方法によって、彼らの見方・考え方がストレートに反映されるものであり、権力者にとっては、自らの支配権を誇示できる道具であると言える。現在もそうだが、かつて地図は国家機密であり、地図作成に必要な測量では、どこの国でも国家事業(新田次郎小説を原作とする映画「劒岳 点の記」で如実に映像化されている)となっていることからもその「権力性」を見ることができる。
本書は、プトレマイオスの地図からグーグルアースまで、古代から現代までの地図12点の登場した背景・思想・反響を丹念に調べ、地図の持つイデオロギー性を暴きだすものであり、日常何気なしに利用している地図の持つ意味をあらためて考えさせる好著である。
現在の我々にとっては、正確性が重要な地図も、中世ヨーロッパで製作された世界地図マッパ・ムンデイは宗教的な秘跡を記すものであったこと、中世ヨーロッパでは宇宙との関係で地図が作成されたこと、スペイン・ポルトガルの世界分割で使われた世界地図の持つ権力性、仏革命後の国民統合・ナショナリズムの象徴としての地域図の作成、20世紀の南北問題を反映させるためにデフォルメされたペータース図法などこれまで知らなかった地図の読み方を教えてくれる。
興味深かったのは、米国議会図書館が、世界最初に「アメリカ」という地名が使われたヴァルトゼーミュラー世界地図を、アメリカ誕生の歴史として大金をはたいて購入したこと。ここには、アメリカをその誕生から支配したい、という新しくできた国のアイデンティティを地図に化体していることがわかる。このような、支配欲は、古地図マニアにはあるようで、「古地図に憑かれた男 史上最大の古地図盗難事件の真実」(マイケル・ブランディング著, 青土社2015)では、古地図に魅入られ窃盗を重ねたディラーの話が描かれている。主人公だけでなく購入者も特定の地域の支配欲を古地図蒐集で満たしていることがわかる。
地図の持つイデオロギー性を、世界地図だけでなく、地下鉄路線図まで対象にして暴き出したのが「地図の政治学」(ジェレミー・ブラック著 青土社2001)。古い地図を読み解き、当時の人々の生活・思考を推理していく地図の読み方の好例は、「セルデンの中国地図 消えた古地図400年の謎を解く」(ティモシー・ブルック著太田出版2015)と地図の見方にはいろいろある。

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紙の本プランD

2017/01/31 16:49

新しい歴史改変小説

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「プランD」というタイトル、またカバーデザインに地下鉄路線図?が使われているので、事件のあった場所のことかと思ったら、読み進めていくと「ドイツ再生計画」のことだとわかった。本書は、最近面白い作品が多い、ドイツ「警察小説」Kriminal Romanなのだが、そこにいわゆる「歴史改変小説」の内容も盛り込まれた新しい形の小説である。これまでドイツ関連の「歴史改変小説」というと、ナチス・ドイツが第二次世界大戦で勝利をした後の世界を舞台にすることが中心であったが、本書は、1990年の東西ドイツがなかったという設定になっている。ドイツ再統一が20年以上前の「歴史」となりつつあることを反映しているのだろうか。
舞台は東西ドイツに分裂したままのベルリン。1990年東ドイツが「再生」という名のクーデターを行い、壁の解放・国家保安省(シュタージ)の大幅縮小などの民主化を進めるも、人口流出が止まらず、再び壁で分断された都市になってしまう。東はクーデターを主導したエゴン・クレンツ、西は社民党左派のラフォンテーヌが指導者となっている。史実ではクレンツは失脚したし、ラフォンテーヌはシュレーダーに敗れて政界の表舞台から消えてしまった。破綻寸前の東は、西ドイツがロシアから購入している天然ガスのパイプラインを敷設しているので、いわば「通行料」を外貨として獲得している。
西は「通行料」改定条件として、東の民主化を要求するが、その民主化を疑わせるような、存在しなくなったはずのシュタージの手口を使った殺人事件が、あろうことかガス・パイプラインの要衝の地で発生する。しかも殺された人物が、西側から東に移り、「再生」を進めた学者。西側は取引条件であった東の民主化、シュタージの縮小に疑問を抱き、東西ドイツの刑事による合同捜査が進められる、という設定。
他のドイツ「警察小説」の主人公と同じく、本書の主人公ヴェーゲラーは冴えないオヤジ刑事。一方西側刑事は、ベンツSクラスを乗り回す対象手系なスマートな刑事、というお約束通りの人物設定。ヴェーゲラーは、刑事になってからの師の行方不明死、そして今では天然ガス輸送官庁のエリート官僚となったモト彼女への断ち切れぬ思い、とやはり過去のトラウマを背負っている、というのも同じ。長々と展開される主人公の妄想・モノローグには辟易とさせられるところはあるが、後々この物語の鍵である裏切り・不信の伏線が用意されてはいるが。
東では、監視国家の名残か、携帯電話だけが唯一西側技術を凌駕しているが、自動車は旧トラバントの後継車しかない。読んでても、排気ガス・ゴミ・廃墟からのにおいが鼻につきささってくるような描写がすさまじい。また、ポルノ小説かとおもわせるような描写もあり、著者の筆力には驚かされるところが多い。
最後は西も東もわからなくなるような、裏切り・不信が渦巻きながら、事件が解決に向かっていくのだが、最後はこのまま東西分裂のままなのか、また「再生」するのか、を問いかけるように終わってしまう。実在する政治家等(但しロシアのエリツィン、プーチンは登場しないが)を使っているので、結末が制約されてしまったのだろうか。
今後「歴史改変小説」として、東西ドイツが統一されなかった世界、また、今回のBREXITのようにEUは失敗に終わった世界が使われるようになるだろうか。見方によっては、トランプ大統領の登場も「歴史改変小説」のようなものかもしれない。

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交響曲の覇権を支えるイデオロギー

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「音楽テイストの大転換」と同じく、本書の著者にも、先行作品として、「教養の歴史社会学-ドイツ市民社会と音楽」(2003年)があり、その研究をさらに発展させたものとなる。
著者は、「音楽の聴き方」の変化を19世紀ドイツ教養市民層と市民文化の形成の問題として扱っており、この点でも「テイスト」と同じく、「政治過程論」的な分析アプローチをとっている。一方で本書執筆時に、「テイスト」翻訳出版を知らなかったのか、巻末参考文献に原書タイトルで掲載されており、同書の研究結果は、本書第四章「交響曲の正当化と受容」で引用されていることから、問題意識には通底するものがあるといえる。ただ、本書はプログラムの変化だけでなく、音楽の聴き方、「交響曲」のイデオロギー性、さらに音楽の位置づけが模索された〈場〉として「コンサート」も視野に入れている。このいわば「制度」としてのコンサートを近代ヨーロッパの「文化装置」と見なして、音楽の聴衆の変化を考察する。「テイスト」が「プログラム」の変化を通し、聴衆層の変化とその背後にある「政治的権威の全体的な再構築」を「政治過程論」として考察したのに対し、本書は、「プログラム」だけでなく、「コンサート」を取り巻く幅広い関係者・言説も含めて、「政治過程論」ではなく、「哲学的」な考察が特色であるといえる。
前半は「オペラの覇権」が論じられるが、これは「交響曲の覇権」の対抗軸としての位置づけ。しかし、それだけではなく、実はロッシーニのオペラの隆盛が、後のベートーヴェンの交響曲のように、言葉のない器楽作品、「絶対音楽」の聴き方を準備したという関係も明らかにされる。「交響曲」は、当時のヨーロッパ・コンサート・ライフで、「(音楽的)権威の全体的な再構築」として、いわばドイツの音楽帝国主義の先兵としてロマン派文学者の語彙でとなる。各パートが協働して一つの音楽を作り上げるところを、個と共同体の関係として考える「共同体モデル」、さらに器楽音楽である交響曲の構造を理解できる人たちが、社会階層・国籍を超えた一種の知的共同体を形成する「想像共同体モデル」という「共同体」のメタファー・レトリックも使われる。加えて、音楽評論家による「聴き方」教育も総動員され、そのシンボルとしてベートーヴェンの交響曲が「正典化」していくことが描かれる。
クラシック・コンサートを「装置」と考え、出版ビジネスや「著作権」という法制度の寄与もさることながら、プログラムにおける楽曲紹介といった小さな変化にも目配りをした捉え方からすると、毎年日本でも開催される「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」などは、新しい「文化装置」ということになるだろう。
最後に著者は、かつては、「売れる」オペラ編曲譜で稼いで、「売れない」交響曲を広める努力のあったことを紹介する(「テイスト」でも「ヴェルディ、マスネー、あるいはビートルズの音楽を販売して得られた利益によってドビュッシー、シェーンベルク、そしてエリオット・カーターの楽譜を出版した」とある)。要は、このような文化装置を成り立たしめるためには、細分化された聴衆層だけを見るのではなく、音楽全体の構造の中でとらえていくことが重要であり、それが文化の豊かさを構成していくことだ、と強調している。

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クラシック演奏会プログラム形成の政治過程

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クラシック音楽演奏会プログラムという同じテーマを扱う本が続けて出版された。「音楽テイストの大転換」(法政大学出版局)と「コンサートという文化装置」(岩波現代全書)の二冊。二冊とも、現在の私たちが、これが普通で、昔からそうであった、と考えているクラシック音楽演奏会プログラム構成、前半は序曲や短い管弦楽作品、また、有名ソリストを招いての協奏曲、後半は交響曲・交響詩などの大作、休憩込みで約2時間のプログラムが、実は歴史的な変化の中で形成されてきたことを解き明かす。
二冊とも現在主流となっているコンサート・プログラム構成を形成した社会的・経済的要因を明らかにするところは同じであるが、そのアプローチ・分析手法が異なる。同じ時期に同じテーマを扱う専門書が二冊も出版されたのも何かの縁、二冊まとめてのブック・レビューを書いてみたい。
「音楽テイストの大転換」(以下「テイスト」)の著者には、1830~48年のパリ、ロンドン、ウィーンの社会構造を分析し、聴衆の階層、職業、家族等を政治・経済・社会のダイナミックな動きの中で、新たに勃興してきた中産市民階級とクラシック音楽の関係と演奏会の変化を扱った「音楽と中産階級 演奏会の社会史」(1983)という先行研究があったが、「テイスト」はその続編のようなもの。こちらの商品解説では、「18世紀後半から19世紀終わりにかけて、ウィーン・ライプツィヒ・ロンドン・パリという音楽都市で、人びとの音楽テイストが分化していく過程を、当時の「演奏会プログラム」を分析して実証的に」たどるとともに、演奏会の慣習の変化から、音楽そのもののあり方が転換していくことを分析している。その分析アプローチの最大の特徴は、著者が1750年から1875年までの演奏会のプログラムを、「数十年にわたり何千も」読んで得たデータをもとに、その変化を丹念に辿り、一種の「政治過程」として捉えていることである。各章のタイトルを見ると、「危機」「実験」「旧秩序」「興隆」「覇権」といった政治学的な用語が使われていることにその姿勢を伺うことができる。
著者によれば、プログラムの変化は、「テイスト」と「レパートリー」の「改革運動」の結果であり、その運動はヨーロッパにおける「政治的権威の全体的な再構築」の一部であった、と捉えられる。この再構築は、「コンサートという文化装置」(以下「コンサート」)と同じく、「交響曲」という「クラシック音楽」の『正典』が主流になるという結果となるが、一方で根強い人気を持った歌劇のアリアや名人芸を披露する作品をメインとする「プロムナード・コンサート」や「ポピュラー・コンサート」といった演奏会は、それまでの貴族向けから、大衆政治の勃興とともに一般大衆向けの新しい演奏会として始まり、テイストを巡る「対立」は音楽生活の細分化につながっていく、といういかにも政治学的な結論になる。ただ、一方で、交響曲より早く「真面目な」音楽とされた弦楽四重奏曲の室内楽演奏会やヴィオルトゥオーゾによるリサイタルも影響したことにも触れられており、バランスをとった分析となっている。
このような社会学・政治学的な分析はともかく、数多く掲載されている当時のプログラム構成曲の変化を見ることが楽しい。ベートーヴェンの交響曲の人気の変化や、現在のプログラムでもたまにある「後半あっさり系プログラム」(例えば序曲で終わる)などは、かつて主流であったことが分かり興味深く眺められる。毎年開催される「ラ・フォル・ジュルネ」は、現代版「プロムナード・コンサート」として、プログラム変化の歴史的な中にきちんとはまることも分かってくる。

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バブルへGO!!

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社会人になって、景気がいいということを、GNPや株価といった統計数値ではなく、目に見えて実感できたのは、まさに「バブル経済」の頃であった。夜遅くまで明るく遊ぶ人たちで賑う繁華街、接待ではタクシー券は支給されはするが、そのタクシーがなかなか見つからない…、こういった光景・経験が、まさに可視化された「好景気」であった。2007年の「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」は、このような時代を映画化したのもので、当時の様子を思い出させるつくりでだった。
しかしバブル崩壊後「失われた20年」に入り、今度は景気が悪い、デフレとはこういうものかを目にすることになってしまったが。
本書は、1885年のプラザ合意から始まるバブルとその崩壊までを「検証」したものであるが、当時の関係者の証言を中心に、最近多くなった手法である「オーラル・ヒストリー」として書かれている。
このように、日本経済史の大事件を「オーラル・ヒストリー」形式で検証したものには、二つの山一証券をめぐるスキャンダルを扱った草野厚「証券恐慌 山一事件と日銀特融」や金・ドル交換停止というニクソン・ショックを扱った塩田潮「霞が関が震えた日」があった。本書は同じ流れで戦後日本経済史の大事件「バブル経済崩壊」を扱ったものだが、四半世紀たって登場した、というのも時の流れを感じさせる。
現在バブル経済の崩壊の原因には、諸説があるようだ。先の映画は、バブル崩壊の原因は、1990年大蔵省から通達された不動産向け融資の総量規制の行政指導にある、というストーリーであった。本書も最後は「総量規制」で終わるのだが、著者はそれが原因であるとは断定はしていない。
もとより関係者の証言だけで原因が解明されることは難しい。むしろ本書の読み方としては、当時の関係者の政策決定での、「人間臭さ」、悪く言えば非合理的な理由による決定の背景を知ることにあるように思う。例えば、今では金融政策の手段としては過去のものとなった感のある「公定歩合」操作での幅の考え方、発表タイミングなどは好例であろう。また、米国のボルカー元FRB議長などは、バンカーというより「政治家」的な行動をしていたところも同じである。歴史の後追いとして、現在の視点で批判するのはたやすいが、本書は丹念に証言・史実を積み上げていくことで、正邪を超えた、まさに人間ドラマという読み方もできる。
現在「アベノミクス」が新たな金融政策手法・財政政策を進めているが、その効果が「目に見える」形ではでていないようだ。本書のように「オーラル・ヒストリー」として「検証」をするには、また、四半世紀後になるのだろうか。その時日本経済・社会はどのようになっているのだろうか。

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米国三権分立を見る視点

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米国ではその建国の理念から、厳格な三権分立が憲法で定められている。大統領の執行権限は、議会の法律による授権があって初めて執行可能であり、制定法は大統領の拒否権と裁判所の司法審査という牽制を受ける、というCheck & Balanceが機能しているのである。しかし歴史を見ると、議会権限をすり抜ける形で、ホワイト・ハウスは自らの政策目標を貫徹する手段を編み出してきているが、その一つとして、最近の大統領出身政党ではない政党が議会多数派を占め、両者の対立が先鋭化している政治情勢で、大統領が新たな手法として活用している「署名時声明」がある。本書は、この我が国では馴染のない「署名時声明」を紹介するものである。
「署名時声明」とは、議会で可決成立した法律を発効させるために必要な大統領署名時に出す大統領声明である。かつては法案の意義と関係者の労をねぎらう内容であったようだが、最近では、大統領が自身の権限を制約するような法案の内容について、いわば独自の解釈を加えたり、また、意に副わぬ予算措置を執行しないと宣言したり、という形で自らの権限を制約しようとする議会との対立を鮮明に示す手法として大統領署名が使われているというのだ。いわば議会多数の意思を無視するというのである。TVなどで放送される重要法律の晴れやかな署名式典の裏側でこのような権力闘争があったとは驚きであった。米国の三権分立、また、今後のホワイト・ハウスと議会との対立を理解するうえで、一つの視点を得ることができ、大いに参考になった。
また、本書を読むと、「署名時声明」の存在を通して、その向こうには、制定法・予算案によって大統領の執行権限や予算措置を決め、さらに予算執行の承認権、外交上の交渉権限も決める米国議会の持つ強大な権能が透けて見える。ハリウッド映画では、よく議会上下院公聴会のシーンが登場する。外交・国防をテーマとするサスペンス・スパイ映画で国防総省・国務省・CIAが自らの政策・プロジェクトについて議会公聴会で説明・釈明するシーンがよく登場するが、これがどのような意味を持っているのかよくわかるというものだ。自らの政策遂行のための執行権限や予算執行承認を求めているのである。昨年国際合意に至ったTPP環太平洋地域による経済連携協定は、加盟各国の国内手続に入るが、そこでキーとなる国は、交渉をリードしてきたアメリカ合衆国である。条約の批准の権限を持つ議会は、オバマ政権と対立する共和党が多数を占めており、すんなりと批准されるのか、はたまた法律によってTPP執行権限に制限を加えるのかどうか、その時オバマ大統領が「署名時声明」を使うのか、本書を読むと、また違った米国の政治の舞台裏が見えてきそうである。

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米国治安法制と連邦最高裁判所

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伊藤正己先生の『言論・出版の自由』、奥平康弘先生の『表現の自由を求めて』など、合衆国連邦最高裁判所と修正第一条の表現の自由の歴史を知る上で参考となる著作である。まず、判例を読む上でよく目にするものの、具体的な中身はわからなかった「刑事サンジカリズム法」や「スミス法」といった扇動規制法の内容が丁寧に整理されていることが参考になった。次に、リベラル派が支配し、言論の自由の擁護へと舵を切った1940年代の最高裁で、平時扇動法が違憲とされなかった背景に、ニュー・ディーラー・連邦派と州権派・保守派の対立の中で、国民統合のために連邦が平時扇動法の規制を連邦に集中しようとした権力闘争があり、ニュー・ディーラーが多数となった最高裁判所は、連邦派に従った判断をしていた、という分析は特に興味深い。今も先鋭的な論点である中絶裁判、また、最近のオバマ・ケア裁判など合衆国連邦最高裁判決の政治的なインパクトは大きいが、彼らもまた、政治権力の一つであり、世論や国際情勢などを無視して行動できず、政治的な判断を迫られることがわかる。一連の表現の自由の判例を読む場合、字面だけを読むのではなく、背後の政治情勢なども知れば、さらに理解が深まるということがよくわかる。
ただ、ワープロ・変換ミスか、漢字・数字の誤りが、やや目につく。

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紙の本金融商品取引法の新潮流

2016/07/14 22:28

情報開示・公正な市場・適合性原則

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「金融商品取引法」(金商法)とは、「企業内容等の開示制度の整備」、「金融商品取引業者に関し必要な事項」を定め、公正な「有価証券の発行及び金融商品等の取引等」、「金融商品等の公正な価格形成等」を図り、「国民経済の健全な発展及び投資者の保護」を目的とする法律。わかりにくいが、要は健全な投資市場育成と投資者保護を目的とするもので、株式や投資信託を購入した人は経験したことがあると思うが、証券会社などから、いろいろ説明されたり、分厚い説明書類をもらったり、というサービスの根拠となっている法律。法律名からはピンとこないが、実は関係することも多い法律。
「新潮流」とあるので、昨年出版された「金融商品取引法制の潮流」の続編かと思ったら、別の研究機関の出版であった(「潮流」は日本証券経済研究所刊)。わずか一年で「新潮流」があるとも思えないのだが、こちらは、現在直面している社会・経済の課題に対し、金商法がどう対応している・すべきなのか、また、問題はないのか、を扱う論文集なので、「新潮流」ということなのだろう。
本書が扱う社会・経済の課題は、大別して「インターネット社会」と「高齢化社会」であろう。前者では、スマホからネット証券に簡単に注文ができるようになって、投資判断に必要な情報開示をどうするのか、また、複雑でリスクの高い証券商品を情報開示で理解できているのか、という投資者保護の新しい局面、「クラウド・ファウンデイング」という少額投資を広く募集する手法の情報開示のあり方も扱われる。また、ネットによるミリ秒単位で頻繁に売買を繰り返して利ざやを稼ぐHFT(高頻度取引)が、相場操縦や空売りによる価格操作などが証券市場の公正な価格形成機能を阻害していないか、その規制はどうあるべきか、が論じられる。情報開示規制では、投資判断のために多くの情報を必要とするプロには情報開示義務はないものの、読む気もなく分析・評価することもできない素人に手厚い情報開示義務が定められている、というパラドックスがあるというのも面白い。
複雑でリスクの高い証券商品を投資者は理解しているかどうか、これは「適合性原則」と言われ、「顧客の知識、経験、財産の状況、金融商品取引契約を締結する目的に照らして、不適当な勧誘を行ってはならない」という規制のこと。本書を読んでいるときに、高齢者が勧誘した証券会社に対し、この「適合性原則」違反、リスクをきちんと理解していない者が被ったとされる投資損失の損害賠償請求裁判で、立て続けに証券会社敗訴の判決がでた(2016.6.17.みずほ証:認知症女性に高リスク仕組債を販売、2016.6.30.野村証:判断能力低下の高齢者に元本割れリスクのある投資信託を販売)。高齢者といえば、「振り込め詐欺」で巨額の金を騙し取られる被害が報道されるが、このような報道を見ると、リスクを理解できないまま、高齢者が投資で多額の損失を被り、大事な老後資金を奪われている可能性もある。本書では高齢化社会を前面に出しているわけではないが、これも高齢者問題ということがわかる。まだ「振り込め詐欺」のように、社会問題化していないようであるが、タイミング的に「振り込め詐欺」と同次元の問題では、と考えさせられた。近い将来もしかしたら「過払訴訟」、「未払賃金訴訟」に次いで、高齢者による「適合性訴訟」が増えるかもしれない。
金商法では、違反行為に対して、刑罰・行政処分・課徴金・過料などの「エンフォースメント」が多く定められているが、強制措置相互の関係、制裁の強度・実効性をどのように考えるか、という一般的な刑罰理論を考える参考になる。

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紙の本ドイツ同族大企業

2016/04/30 15:59

世界に冠たる「ドイツ同族大企業」経営モデル?

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本文400頁を超える分量、しかもお値段も少々高い本書。色々な読み方があり、そこから得られるインプリケーションも人によって異なるだろうし、評価も異なってくるだろう。帯紙の袴からは、ドイツの著名同族企業の沿革・事業展開などを通して、ドイツ同族企業の経営モデルを示そうとしているように思われる。私は、「経営モデル」論ではなく、ドイツの著名な同族大企業の過去と現在、また学者の眼から見た、企業が記念事業として制作する「社史」とは異なる批判的視点による、「企業盛衰史」としては、面白く読めた。中でも宗教改革の原因となった免罪符を販売したフッガー家の歴史が興味深かったし、その遺産がまだ使われているということに驚いた。
日本では同族企業というと、最近の有名な経済事件であった大塚家具の経営をめぐる親子の争いのように、マイナスのイメージで見られることが多い。半面大企業に育て上げた場合には、企業経営者として高く評価されることもある。要は、優れた経営をしたかどうか、また、企業を成長させたかどうか、という結果が全てであって、どちらに転んでも「同族経営」は、その理由・原因となるものなのである。したがって、「同族企業」経営から抽出されるコーポレートガバナンスの共通項があり、それが「ドイツ同族企業」経営モデルとして、経営理論に組み込まれるものとは到底思われないのである。同族企業から転換したとされるフォルクスワーゲン社の排ガス不正問題も、かつての同族企業経営の悪弊の残滓なのか、それとも同族経営の規律が外れた結果なのか、議論してみ意味は乏しい。
ドイツでも、同族企業で成長はしたが、結局市場から消えてしまった企業も多いだろう。対象となった企業は、どれもその製品・サービスが高い評価を得ており、「Made in Germany」の代表企業というイメージから出発して、同族経営企業理論がポジティブに組み立てられているような気がしてならない。
慈善事業・公益事業に力を入れ社会的な威信を持っている、従業員の福利厚生に手厚い、といった点が「ドイツ同族企業」モデルの特質のようにも読めるが、例えば企業税制・法制などが、そのような選択に影響を与えた可能性もあると思うのだが、そのようなことはあまり触れられていない。また、ドイツ資本主義を見る場合、今では死語になったかもしれないが、かつては「銀行の産業支配」を抜きにしては語れなかった。このユニヴァーサルバンク・システムの中で、大銀行とうまく折り合いをつけ、同族経営を守り抜いた結果が現在も連綿と続いていることだってありうる(その典型例がBMV社だが)。
結局「企業経営モデル」なるものは、優れて地域的・歴史的なもので、普遍的なモデルというものはないように思われるのであり、「ドイツ同族企業モデル」は所詮は中欧の一モデルにすぎない。最近日本では、イギリス/EUが発祥の「コーポレートガバナンス」コードの導入が盛んに喧伝されているが、元は米国モデル。導入されて果たして根付くのか、はたまた、日本型「コーポレートガバナンス」コードに「変質」する可能性だってあるだろう。
最後に冒頭のドイツ会社法制の解説は、日本ではあまり知られてはおらず、馴染みのない制度もあるので、参考になった。しかし、この特殊ドイツ的な制度が「同族企業経営」を実効性のあるものにしているとは思えない。比較法のいい素材という内容である。

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パリ職業づくし 中世~近代の庶民生活誌

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中世から近代までのフランス、中でもパリの政治・経済・社会の変遷を、民衆の生活を通して見る著作は、専門的な歴史書・社会研究書とは異なった視点で、当時世界都市であったパリの活力、力強さ、明と暗を知ることができる。本書では、120余りの仕事を職業分野毎に分けて中世~近代のパリ庶民の職業の変遷史をみることで、その背景にある政治・経済・社会の変化を読み解くことができる。バルザックの「人間喜劇」やゾラの自然主義小説などの純文学でも、それは窺い知ることはできるのだが、本書では、肩を凝らずに気楽に読める。
個々の職業では、「ろうそくの芯切り」などのように面白いものもいくつかある。「水脈占い師」の使っている道具・手法は、現在でも使われているのではないだろうか。「街灯点火夫」などは、揃いのユニフォームを用意したというが、江戸時代の「町火消」と似たようなことをしていたのだ。「股袋屋」の作る股袋は、本来の使い方以上に使い回されていた、というところも笑える内容。また、どんな小さな職業でも、組合を設立し、シンボルとして古代ギリシア・ローマの神を冠するところもフランスのコーポラティズム型社会が草の根レベルで発達していたことをうかがわせる。
本書は、1968年に出版されたものの改訂新版である。したがって、同時代人の書いたものと比べると、学術的な記述の仕方が目につくところがある。例えば、同時代人ではなく、現在から過去の資料を掘り起こしていくため、メルシエ著「十八世紀パリ生活誌 タブロー・ド・パリ」(岩波文庫1989)、ドニ・プロ著「崇高なる者 19世紀パリ民衆生活誌」 (岩波文庫1990)やアンドレ・ヴァルノ著「パリ風俗史」(講談社学術文庫1999)とは違って、著者の諧謔的・風刺的な見方が乏しく、無味乾燥な百科事典的になってしまうが。例えば、フランス文学者の鹿島茂氏がパリの職業について書いたとしたら、様々な職業を使って、パリの民衆生活史を小説にできるのではないか、とも思う。

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第三帝国の愛人 ヒトラーと対峙したアメリカ大使一家

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最近ヒトラーの「わが闘争」の著作権を持つドイツ・バイエルン州が著作権切れを受けて、批判的「わが闘争」が出版され話題になったが、戦後70年未だに「ヒトラー」「ナチズム」「第三帝国」は世界の出版社にとって重要なジャンルとして確立しているようだ。日本でも太平洋戦争関連の書籍が多く出版されたが、「ヒトラー」「ナチズム」「第三帝国」関連の翻訳も多かった。その中の一冊が本書である。原著は2011年出版である。タイトルは「第三帝国の愛人」、しかも帯には「スリリングに描き出した戦慄のノンフィクション」と、これまたおよそ岩波書店らしからぬ?というタブロイド紙的タイトルが目を引くのだが、原題はIn the Garden of Beasts: Love, Terror, and an American Family in Hitler's Berlin,「野獣の園で:愛、テロ、そしてヒトラーのベルリンのある家族」である。ナチス政権下初めての駐独アメリカ大使として赴任したシカゴ大学ドッド教授とその家族の眼から見た、1933年1月の権力掌握後のヒトラーとナチスの権力基盤の確立を描いたもの。「野獣の園」とは、米国大使館や政府施設が立地していたベルリンのティアーガルテンには、動物園があったことと、ナチスの蛮行を野獣に見立てたタイトルで、こちらが内容にあっているのではないだろうか?ドット家の長女マーサの新生ドイツを担うナチスへの憧れと期待、アーリア人種エリートの将校やソ連スパイとのアバンチュールを描いており、「愛人」としたのだろうが、エヴァ・ブラウンや、ヒトラーをして「完全なアーリア民族の女性だ」と語らしめた英国女性ユニティ・ミットフォードならいざ知らず、ヒトラーとは一度しか面会していないマーサが「愛人」というのは言い過ぎのように思う。本書の進行に、父親ほど大きな役割があるわけでなく、関係のない米国時代の恋愛や離婚劇もあり、影が薄いように感じた。
むしろ、ドット大使と本国米国との外交方針の擦れ違いとその原因が何だったのか、が現在にも通じる特殊米国的な興味深い内容。要は、ヴェルサイユ条約による賠償金の貸付金の回収と大学教授上がりの素人外交官に対するワシントンのエスタブリッシュメントのいじめ、という低次元の話。ウォール街の金融セクターとその支援を受けている議員の議会に対して貸付金回収を第一に考えなければならず、この妨げになるような大使の警告は、無視される運命にあったのである。ある書評では、「なぜ流れを変えられなかったのか」というタイトルがついていたが、米国は変えるつもりはなく、「孤立主義」がどうこうという高度な政治レベルの問題ではないことがよくわかる。
また、この本を読んで、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「地獄に堕ちた勇者ども」(1970)との類似点に気付く。映画では、ルール地方の鉄鋼王エッセンベック男爵一家の出来事を通して、本書と同じ頃を舞台に、「国会議事堂炎上」や「長いナイフの夜」も登場するなど、第三者の眼からみたナチス権力基盤の確立過程が描かれる点で同じなのだ。ただ、本書は1933年から34年が中心になり、大使在任時代の後半は、大使が「国内移住」(本書の誤訳、正確には「国内亡命」)したのか、ほとんど触れられない。外部の第三者「ヒトラーランド ナチの台頭を目撃した人々」(アンドリュー・ナゴルスキ著, 北村 京子訳作品社2014年)が、アメリカのジャーナリストの証言を交えてナチス支配下のベルリンでの生活を描いており、本書でも登場するハンフシュテングルの奇怪さやマーサのナチ・シンパからソ連スパイに振れる生活も描かれており、併せて読むといいかもしれない。

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Hommage a Mozart

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2016年はモーツァルト生誕260年記念年。1991年と2006年の記念年のようなイベントがあるかどうかわからないが、モーツァルト関連の書物は毎年出版されているので、今年も数多く出版されることだろう。
モーツァルト本というと、伝記物、「毒殺説」、また、オペラ・交響曲などの楽曲論、音楽史における受容論などがある。過去二回の記念年前後には、よく読んだものだが、どれも似たり寄ったりの内容となってしまうので、あまり手にしなくなった。『ギャンブラー・モーツァルト』(春秋社2013)のようにモーツァルト時代の娯楽を扱い、「モーツァルト・ギャンブラー論」にアプローチする面白いものもあったが、新しい発見や新説などがない・出にくくなった現在では、「モーツァルト本」に期待するものは少ない。
そのような中で、本書は2006年記念年に出版され、日本語訳は昨年出版されたものだが、2016年記念年劈頭を飾るモーツァルト本であり、出版社コピー「女性との関係から読む、生涯とオペラ」に魅かれた。内容的には、例えば、ピアノ協奏曲第9番K.271が、女性ピアノ奏者「ジュナミ」のために作曲された、という記述のように新しい発見も盛り込まれているが(CDでは未だに《ジュノム》の記載が多い!)、とりたてて新しい発見があるわけではない。女性の視点から手紙を中心とした当時の資料をもとに、モーツァルト周辺の女性たちとの関係から彼の生涯を読み解いていく。そして女性指揮者である著者が、モーツァルトのオペラ・交響曲を解釈・指揮するのと同じように、これらの資料を読み込み、ベートーヴェンの伝記で有名なメイナード・ソロモン流の心理学分析風に、女性の視点からの解釈を盛り込んでおり、気が付かないうちにこれまでとは違う物語に引き込まれていくのである。例えば、父親レーオポルトは小難しいオヤジになってしまう一方で、パリで客死した母親の献身的な振舞い、「悪妻論」に組みせず、死後モーツァルト・レガシーの保全伝承に努めた「企業家」コンスタンツェの活動、また、モーツァルトを袖にしたアロイジアとの大人の付き合い、またウェーバー一家の役割など、これまで脇に追いやられ、等閑視されていた事実に目を向けさせている。その意味では、これまで男の視点(それはすなわちレーオポルトの視点?)ではない、フェミニズム視点のモーツァルト伝記、とも言えよう。
また本書では、オペラ初演時の女性歌手たちの性格、アリアなどの分析によって、魅力的で個性的な数々の女性役の心理を解き明かしていく。この部分は、女性指揮者として数多くのオペラを監督・指揮した著者ならではの読ませどころだろう。そこには、モーツァルト自身の女性観。恋人たち、妻、妻の家族など彼女らに寄せる心情や共感が投影されていることがわかり、フィクションにすぎない彼女たちも、モーツァルトの生涯に活き活きとした姿を現してくる。そしてこれまでとは違った新たな気持ちでモーツァルトのオペラを聴いてみよう、という気にさせる。
本書(原書)カバー図は、弟とともにマリア・テレジア女帝に謁見した時に下賜された衣装を着た姉ナンネルの数少ない肖像画である。この扱いに加えて、本書では、ナンネルは、モーツァルトの生涯に、死後も含め折にふれて登場する。同じ女性音楽家である著者は、もしかしたら幼いころは神童として、大きくなってからは女性演奏家としての栄光を勝ち得たかもしれないナンネルが、弟と父親のためにその機会を奪われたことを、大いなる共感と同情をもって見ており、コンスタンツェ以上に、姉ネンネルを本書のもう一人の主人公として扱っているのではないだろうか。

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