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coffee flowerさんのレビュー一覧

投稿者:coffee flower

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紙の本エトワール広場/夜のロンド

2016/03/29 14:18

エトワール広場/夜のロンド

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

パトリック・モディアノの作品は、日本語に翻訳されているものはほとんど読んできた。「エトワール広場/夜のロンド」は最も初期の作品であるにもかかわらず、今回ようやく読むことができた。

  デヴュー作である「エトワール広場」は帯に「翻訳不可能とも言われてきた・・・」と謳われていて、それは読んでみて納得だった。付録の解説・訳注なしには歯が立たない。固有名詞で埋め尽くされていて、ナチ占領下にあったフランスとフランス文学の知識のない私にとって解説と訳注の命綱でようやく読みおえた。しかし「読み終えた」と言うには、もう一度丁寧に解説を読み、また本文にもどって再読するという過程が必要だった。
  
  次の年に書かれた「夜のロンド」も、ノーベル賞受賞の理由である「ナチ占領下の世界の人生を描きだした記憶の芸術」という言葉に当てはまる内容である。ゲシュポタの手先、対独協力者や巨利を貪る闇商人のなかに紛れこんだ若者である語り手は、二重、三重スパイの役割を演じているうちに自分が何者か分からなくなる。

  パトリック・モディアノはこの作品で自分のまだ誕生していない世界に行きそこで得た記憶をもとにこれを描いているといった印象をうける。まだ生をえていないところに行くということは普通ありえない。想像とか空想あるいは調査をもとに小説家はそれを行う。しかしモディアノの場合は、それとはまったく違っているようにおもえてならない。

  モディアノの父親はユダヤ人で対独協力者であったらしい。戦争終結後にもかかわらず彼の幼少年期には、両親には戦前からの対独協力者たちとの付き合いがのこっていた。それらしいことはこれ以後に書かれた作品から読みとれるのだが、幼少期の柔らかでかつ鋭敏な感受性は父母のなかにもぐりこみ、またまわりの「得体のしれない」大人たちに否応なく触れることによって、彼は生まれていない世界を見てしまったのではないだろうか?ただ単に小説家が過去のある時代を描いているのとはまったく異なった空気が作品には濃密にただよっていて、それはまるで今現在のことのように読む者をとりかこむ。私たちはその空気によって軽い幻惑状態にもっていかれるような気がする。これこそモディアノ作品の魅力であり、その「記憶の技法」ともいわれるものは、彼24歳の作品である「夜のロンド」にすでに定着しているのを今回知ったのである。

  パトリック・モディアノがいかなるところから出発したのかを知らずにいては、後年の作品のほんとうの理解に影響するのではなかろうか。そういう意味でも、「エトワール広場/夜のロンド」は重要な作品である。読むべきだったし、読んでよかったです。

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明るい部屋 写真についての覚書

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写真に特別興味もなく、名前だけ知っていて一冊もバルトを読んだことのなかった私が,なぜ「明るい部屋」を読もうとしたのかは、大川美子の「ロラン・バルト」によるところが大きい。図書館で何気なく手にした新書は、秀逸な小説を読んでいるかのような充実感があった。その中でも再三引用されていた「明るい部屋」をまず読みたかったのが動機である。

  「写真についての覚書」という副題のように、この本は写真とは何なのかその精髄をつきとめたいというバルトの思いが、言葉としてぎっしり詰まっている。写真も分からず、高度な考察や哲学的な思考には慣れていない私には、正直なところ内容を十分理解し,楽しめたとは思えない。さらにわかりたいと丁寧に二度読んだ。二度読んで理解が深まらなかったばかりか,一瞬この本は何だったのだろうと頭の中が混乱してしまった。しかし、結局のところ写真について考えたこともなく知らなかったこと、新しいことをたくさん教えてもらえて面白かったのだ。

  まず私を驚かせたのは、「《写真》が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである」という言葉である。新聞をみても、雑誌を開いても、部屋を見回しても、写真は困るほどある。困るほどだから、ほとんどを無視して、それについて何も考えることをせずに済ませている。そういうものが、私たちの身の回りにある《写真》というものの実相ではないだろうか。しかしバルトが述べたことを心に留めると、《写真》が異常なものとして迫ってくる。

  あるいは、写真に撮られたすべてのものについて、「それは、かつて、あった」ということなのだと教えられたとき,やはり驚かずにはいられなかった。なんという真実だろう。そこから私の思いが導かれるのは、写真の数だけの喪失があり、それはなんと人の命、ものの命に似ているだろうか。さらに心が震えるのは、その写真が消滅しない限り、停止してしまった「命」が空無に晒しつづけられるという事実である。

  このように「写真」というものについての考察が第一部でつぎつぎになされ、「?」「??」と何を言われてるのか不明の箇所もありながらも、「そうだ!そのとおりだ!」と共鳴し、それまで言語化できなかった自分の思いや考えを明らかにしてくれる有り難い書である。

  さて、第二部になると、考察はさらに哲学的になり、亡き母上の少女の姿を写した「温室の写真」に関するいくつかの章では。読む者を哲学を超えた詩的な世界へいざなってくれる。誰かがどこかで書いていたが、バルトは「温室の写真」についてまず書きたかった、それを「写真についての覚書」という書物に拡大していったのではないか、という意見になるほどと思う。

  「写真」がそれを見る者によって異なった顕われかたをするように、「明るい部屋」も読む人によって深かったり浅かったり、広かったり狭かったり、尺度が異なるだろうが、何かに惹かれてその「明るい部屋」の扉をひらく人には、その「部屋」はそれに見あうものを見せてくれるはずである。

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