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  3. 塩漬屋稼業さんのレビュー一覧

塩漬屋稼業さんのレビュー一覧

投稿者:塩漬屋稼業

55 件中 1 件~ 15 件を表示

読み物として抜群の面白さ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者は本書においてフランス革命後の動乱の時代を、ナポレオン、フーシェ、タレーランの三者が象徴する情念の争いの時代として描き出す。
 その情念と何か?
人間の食欲であるとか性欲であるとかの基本的な欲求は、世の中が豊かになれば、つまりカネさえあれば、その殆どは満たされうるが、フーリエによれば、それらの欲求を満たしえても尚、人間には満たされえない情念があるという。
 それは陰謀情念(フーシェ)、次々と新しい花へと飛び移る蝶々(移り気)情念(タレーラン)、そして自らの激情のままに突き動かされる熱狂情念(ナポレオン)。
 こういった情念が充足されてこそ、人間は幸福を得るのだという。
 こういった情念は日常生活においてはなかなか充足されるものではないが、フランス革命からナポレオン戦争の時代こそ、これらの情念が爆発的に発露した時代なのだとされる。
 後世に偉人としてその名を残すナポレオンの熱狂情念に対して、フーシェとタレーランそれぞれの情念がどのように渡り合ったのか、ここに情念戦争が繰り広げられるのだ。
 どうです?おもしろそうでしょ?
 こうして革命期の内政=権力闘争と帝政期の外交戦が詳しく取り上げられる。
 それによると、どうやら激動期の処世には陰謀と移り気が活きるようだ。
 フーシェもタレーランもまったく大した人物なのである。
 しかし通読して思うのは陰謀情念も蝶々情念もあくまで二番手、ナンバー2、強力なトップがいてこそ真価を発揮する情念であるように思える。
 厚めの本ですが読み終わるのが惜しくなるような一冊でした。

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紙の本大いなる眠り

2016/09/23 15:25

マーロウものの長編第一作、新訳

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マーロウの留守中に彼の部屋に忍び込んでいたカーメン・スターンウッド。
マーロウは怒りを抑え、依頼人の娘を追い出す。そして
「私はからにしたグラスを置き、めちゃくちゃにベッドをぶちこわした」
抑えていた怒りの爆発、
双葉十三郎訳で本書を読んだ時に最も感応したシークエンスだ。
それが本書、村上春樹訳では、
「私は空になったグラスを置き、ベッドから一切の寝具を荒々しく剥ぎとった」(p.213)。
あら、ベッド壊さないんだ。
マーロウものの長編の中で、『大いなる眠り』だけ他と違う勢いがあるような気がしていて、
それはマーロウがまだ若いからということなのかと思われたいたが、
双葉訳に負うところが大だったのか。

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端正な筆致で描かれた二・二六事件の顛末

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著者は、二・二六事件当時は青森にいたため、蹶起には直接参加していない。
 しかし青年将校運動の渦中におり、東北の中心事物的な存在であったようだ。
 そのため数多くの青年将校たちとの交流があり、本書の内容は、神話崩し的な意味合いを持つ、等身大の群像を描くものになっている。
 本書によると、維新への心情は兵隊たちの窮状を救いたいというところに収斂する。
 そのため権力奪取はそもそも初手から眼中になかったということに。
 だから秩父宮を担ぎ出す企ては一切なかったとされる。
 青年将校運動内部には、北一輝の『日本改造法案大綱』の解釈を巡っての対立があったという。
 『大綱』を叩き台程度に捉えていた著者は、『大綱』を絶対視する磯部浅一たちに対してやや冷やかな視線を持っている。
 但し、磯部浅一や安藤輝三たちがいったい、究極的にはどこまで踏み込むつもりで、またどうして引いてしまったのか、それは本書しても実際のところはわからないのだ。
 ともあれ、二・二六事件へのロマンを打ち砕く、陰謀説全面否定の書であった。

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紙の本俺はあやまらない

2016/02/05 09:41

批評のライブ

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マシナリーな快楽というものがある、恐らく。それは近代において駆動される快楽の、大きなものの内の一つでもあるだろう。そして理論と呼ばれるものは、このマシナリーな快楽に親和する。しかし、文芸はマシナリーな快楽と相容れないもの・ことである筈なのだ。切り捨てて突き進み、そして整然として痩せさらばえていく快楽。しかし切り捨てられない何か、名指されることのできない何かが残る。それは混乱と紙一重に見えて豊饒。あれかこれかの即断即決に対しての、あれもこれもの貪欲なエネルギー。
 文学理論は、作者の顔が見えなくとも、テクストを読み解くことに支障はない。しかし、文芸の次元においては、どうしようもなく作者はいるのだ。どのように署名しようがしまいが、作者はいる。
(文芸作品においては、盗作はあっても、たとえば絵画のような贋作はないだろう。そこに作者の特権性がないか。ゴーストライターという者が存在するにしても)
 本書の試行は、評者にとっては、このようなマシナリーな快楽に対抗する贅沢さであり、文学理論に対抗する文芸批評のライブなのだ。読む贅沢です。

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フーシェ伝の古典

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やはりフーシェという人物は偉大である。
 フーシェはフランス革命前後の時代に、ひたすら陰謀を巡らすことで激しい動乱の中を生き抜いた政治家である。
 警察機構を牛耳り、彼の築いた秘密と陰謀のネットワークには、あのナポレオンすら手を焼いたのだ。
 恐らくこの人物は彼一個にして完全に自律した人間だったのだろう。
 変節漢というのは当たらない。
 自律かつ自立した一個の人間にとっては神も主義主張も端的に必要ないのだ。
 文字通り道具に過ぎない。
 だから、死に際すれば平然として神に仕えることもできるのだ。
 そして彼の集めた秘密は彼一個の生において完結する。
 とりあえず慣習に従って服を着るように、その都度、何かに仕えるだけのことであって、その服の色柄には何の価値判断も持たないのである。
 しかし服を着るという慣習には逆らわないのだ。
 遂にナポレオンを追放し、漸くトップに躍り出たのにも関わらず、その座を王に売り渡し、それが結果としての墓穴となる、その事の至らなさ。
 著者も指摘するように必ずや勝負の決まった一瞬後に勝利者の側についてきた彼が、自らが勝利者になったその時、計算に狂いが生じたものか。
 どうしても服を着てしまう、誰かに仕えてしまうという途を選んだのだった。
 こうして一冊の評伝を読んでもフーシェがわかったとは言い難い。もっと知りたいという思いが逆に強くなる。
 ちなみにこの文庫の表紙にはフーシェに対して“近世における最も完全なマキャヴェリスト”という評言がある。
 フーシェはマキャヴェリを読んでいたのだろうか。

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紙の本通天閣

2016/02/07 14:07

ちょっとした元気がもらえる一冊

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通天閣界隈を舞台にした本書の主人公は二人。
 四十代前半の男と二十代後半の女。彼・彼女の冴えない日常が一人称で交互に描かれる。
 読み進む内に二人にそこはかとないつながりがあるのがわかる。
 二人ともに、どこか孤独に諦めている。
 最後にちょっとした事件があって、いうなれば親密さが生きる力になることに気づく。
 読んでいて評者の琴線に触れる箇所が多々あるのだが、一人称語りであるだけに、孤独な内的独白が余りにも、なまな感情をそのまま表出しているところに違和感が湧いてくるのだ。とりわけダメな四十男の述懐が評者の胸に沁みるが、こういう、なまな書き方で「小説」として通用するのなら、ちょっと簡単すぎやしないかと思えるのだ。
 但し、全体の結構は巧みに仕上がっている(偉そうな物言いですみません)。
 それに現在的な生き難さがよく捉えられていると思う。
 貧乏であったり、孤独であったりするのが辛いのではない(そりゃあ貧乏でも孤独でもない方がいいんだろうけど)。
 日常を重しと捉えさせてしまう価値観というか、日常に埋没することを否定して、発信を強いる資本の論理やそのシステム、そういったものが日常を心地よく過ごすことを難しくしているのだ、恐らく。
(そう、いまや資本の論理は疎外してくれない(放っておいてくれない)のだ。隅っこで小さくなっている者にまで、その触手を延ばしてくる。かくいう評者もまたその論理に搦め取られ、こうしてあてどなく発信しているわけだ)
 そういった意味でいうなら、本書はその論理に対抗する局地戦でもあるのだ。
 ダントツの勝利を得られるわけでは当然ないが、ちょっぴり元気になれる読後感でした。

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紙の本内的体験 無神学大全

2016/10/08 19:13

目一杯に力強い熱い(厚い)一冊

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評者には実際のところはよくわからないが、キリスト教圏の人たちにとっては、
いろいろな(あらゆる?)価値を神が担保しているのだろう、恐らく。
そして愛もまた、神と不可分なのだ、恐らく。
神を後背に持つことによってしか、愛は感得できない。
(神のない僕(ぼくであり且つ、しもべ)にとって愛が理解できないのは当然なのだった)
本書の著者バタイユは神学の道へ足を踏み入れ、
その後、無神論、無神学へ「転向」した人であるから、
キリスト教の神の威力については評者などより、
よほど肌身で知っていたことだろう。
本書でバタイユのいう「交流=交感」は神抜きの愛、
つまり、愛を神から奪い返す試みのように思える。
そしてその試みが何故このような錯乱めいた調子になるのか?
それは恐らく、バタイユの不安が招いたものではなかろうか。
不安、神を追い払うことの、(神の)愛を失うことの。
バタイユの狂熱が迸るような文体は、
しかし神なき僕には喉につかえるような一冊でした。
読み応えあり過ぎます。

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日韓現代史の闇を照らし出す一冊

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町井久之は石原莞爾の「東亜連盟」思想の影響下から反共活動に従事。
 戦後、日本において民団と総連は代理戦争のような抗争を繰り広げ、数多の流血事件を惹き起こした。
 町井はその中にあって暴力で名を高めていく。
 そして力道山を通じて児玉誉士夫や大野伴睦の人脈に連なっていく。
 「東亜連盟」思想の持ち主であった町井は児玉の右翼思想と共鳴する。
 そして児玉たちを通じて日韓癒着の只中に入っていく。
 反共団体として出発した東声会は暴力団となり、実業家になりたい町井はやげて組を解散し東亜相互企業を設立。
 クラブやレストランを経営した。
 しかし組織の内実は暴力団に近かったようだ。
 町井自身は暴力一辺倒の人ではなく、在日差別に苦しみ、日韓の架け橋たろうと活動もしていた。
 その辺りの苦渋が本書に深みを与えている。
 ロッキード事件の捜査過程で児玉が右翼的発言とは裏腹に韓国からカネを引っ張っていたことを知り、袂を分かつ。
 事業家としては採算度外視の完全主義が成功を阻んだようだ。
 またその事業に韓国から不正融資を受けていたという疑惑もある。
 韓国での熾烈な権力闘争。そして韓国利権と結ぶ付く日本側の人脈。
 ロッキード事件がそもそもはこの癒着にメスを入れるためのCIAの謀略だとする畠山清行の説を思い出した。

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昭和維新試論

2016/02/27 18:53

昭和維新のナイーブさ

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「ともあれ、朝日(平吾・引用者註)の遺書全体を貫いているものをもっとも簡明にいうならば、何故に本来平等に幸福を享有すべき人間(もしくは日本人)の間に、歴然たる差別があるのかというナイーブな思想である。そして、こうした思想は、あえていうならば、明治期の人間にはほとんど理解しえないような新しい観念だったはずだというのが私の考えである。朝日というのが、いわば大正デモクラシーを陰画的に表現した人間のように思われてならないのはそのためである」(p.15-6)。
 平等という観念の発生。
 この平等という観念こそが、個的な私の幸・不幸や貧富の格差を陰画のように浮かび上がらせる。
 たとえば一揆というものは、恐らく食えないという具体に端を発している。
 それに対して平等という観念が生む差別に対する反発は、食う食えないのレベルとは別次元から発している。
 本書は、この大正デモクラシーを通過して現れたナイーブさを核心として、昭和維新の振れ幅を測るというような一冊であった。
 この時期の日本の転換に「明治日本から帝国日本への移行」(p.81)という視座が与えられる。
 これは世界(史)に登場した日本(明治日本)の世界化(帝国日本)ということでもあるだろう。
 戦争(日清日露)景気が経済を、資本制を強大化し、貧富の差を大きくする。
 金持ちはますます栄え、貧者は一層困窮する。
 個人の努力如何に還元しきれない何か、システム化されているという閉塞。
 また、明治日本も帝国日本も、同じく近代日本なのであった。
 だから、その核心は青年の思想でもあったのだ、恐らく。
 そこには、だから例えば、自己の不安が世界の破滅へと投影されてしまうような弱さがあったのだ。
 渥美勝の無能貧苦がどうして「高天原」を呼び寄せるのかという疑問の答えが、これであるだろう。
 実存が世界と直結してしまう青年の短絡。
(とはいえ、渥美勝が死の前に書き遺したメモは涙なくして読めない(p.18-9)。
 無能の慙愧ともいうべき惨めさが評者の無能さに沁みる。
 しかし何事も為し得ないという無能の自覚は、何事かを為すべきという青年の驕りでもあるのかもしれない…)
 このような貧苦無能は、平沼騏一郎までいくと影もない。共感もない。
 そして北一輝、
「何も彼も天皇の権利だ、御宝だ、彼れも是れも皆天皇帰一だってところへ持って行く。そうすると帰一の結果は、天皇がデクノボーだということになる。それからさ、ガラガラッと崩れるのは」(p.243)。
 一時の凝集。しかし遂に天皇(制)の呪縛から解き放たれることはなかったのだ。

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コンパクトにまとまった評伝

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時系列に沿って大川周明の軌跡を辿る。
 最後の章での東京裁判の件で、大川を尋問したヘルムの報告書が引用されている。
 その報告書の結論部分は大川の軌跡を邪悪な日本軍国主義者として簡明にまとめられてある。
 それは、そこまで読んできた本書全体に対するパロディ的・戯画的な要約になっていて思わず笑ってしまった。
 著者は狙ってやったわけではないだろうが、そこまで二百頁ちかい分量で好意的に描き出された大川周明像がわずか二頁で転倒されてしまうのだから吃驚である。
 これは皮肉ではなく、人の一生を一貫したものとして描くことの困難の現れだろうと思わずにはいられないのだ。
 本書によれば副題にある通り復古革新主義者として一貫した大川像が提示される。
 しかしアメリカ側が描くようにその人生は邪悪な日本軍国主義者として一貫した像をも結びうるのだ。
 これはシニカルにいっているのではなく、この落差や振幅の大きさこそが魅力になる人物がおり、大川周明の魅力も危険性もそこにあるのだろうと思う。
 本書の描く大川の軌跡に対して、評者が躓いた箇所は二点あった。
 ひとつは満蒙問題。
 これだけアジア重視で白人の植民地支配を弾劾する人物が中国朝鮮を植民地化することの帰結が見えなかったのかという事だ。
 これはひとり大川周明だけでなく、当時の日本人が持っていた中国朝鮮に対するコンプレックス(複合観念)のせいなのだろう。
 しかしこれは当の日本人以外に通用しない観念なのだ。
 それはもうひとつの躓き、対米戦争にしてもいえる。
 大川は対米戦争を回避すべく色々と工作する。
 しかしうまくいかず結局は戦端は開かれてしまう。
 そして戦争となれば、お国のために勝利を目指して戦うのみ、となる。
 これもまた大川ひとりの問題ではない。
 たとえば敗戦の日、反戦派の人にも涙する人たちはいたのだ。
 これは愛国心や愛郷心ではなく天皇という奇妙な凝集装置のせいであると評者には思われる(天皇には左右両派が燃える・萌えるのだ)。
 これは当の日本人以外にはわからない観念だろう(たぶんこの天皇の凝集力がナショナリズムやパトリオティズムであるなら、日本人以外にも理解されるだろう)。
 だから戦争回避に動いていた人物が一旦戦争になると、とことんやるんだと様変わりしてしまう内的必然性など理解されない。
 そのため、かえって戦争回避行動が偽善的なプロパガンダに過ぎないと見られてしまうのだ。
 しかし恐らく、大川周明にとっては戦争回避も戦争遂行も、どちらも本気であった筈なのだ。
 その本気を、ごく素朴にいうと、世界はもっとましなものになる筈だし、なるべきだ、というところに発していたのではないか、と評者には思われる。

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紙の本ヨーロッパ思想入門

2016/02/27 18:38

簡略にまとめられた概説書

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本書は三部構成になっている。
 それぞれ、ギリシアの思想、ヘブライの信仰、ヨーロッパ哲学のあゆみ、と題されている。
 類書と比較して特筆に値するのが、ヘブライの信仰と題された第二部で、ユダヤ-キリスト教の概説にも均等にページが割かれていることだろう。
 類書の定型だとギリシア哲学の後は中世哲学で、キリスト教に関してはアウグスティヌスあたりをネタにさらっと触れると、さっさとデカルト、カントへ移行するといった印象があったので、本書はその辺りの歴史的な位置づけが違って見えたのだ。
 ユダヤ-キリスト教の系譜が辿られて、終幕はレヴィナスという本ですから、主題的には倫理の側面に焦点があてられる。
 その書きぶりからも、読後感はどこか清々しいものがある。
 ところで、こうして思想の歴史というものを概観すると、人間の思索というものは四百年や五百年くらい平気で停滞したままなんだなと思える。
 生まれてこのかた停滞したままの頭脳を抱える評者としてはちょっと慰められるところがありました。
 ところで、その停滞の何百年かに一度くらい突出した点のような劇的変化が起こるように見える。
 しかし、そう見えるのも結局は系譜学的な遠近法が産み出すものに過ぎないのだろうか?

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紙の本豆腐屋の四季 ある青春の記録

2016/02/24 09:34

労苦の日々、響く詩心

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月に一度の休みすら、まともに取ることも出来ない、重い労働の日々。
 そんな中にあっても、歌わずにおれない詩心の深さ。
 本書に収められた歌や文章にきらめくように見出される著者の詩心のなんと濃やかなことか。
 家族、兄弟のいさかいと和解の絆。そして妻と子。
 小さな共同体。これを守り、愛すること。
「いったい、愛に発展とか進歩とかが必要だろうか?」(p.206)。
 このとき著者は自らの労働の日々においても、作歌においても停滞を恐れない。
 発展などしなくてもよいという。
 ここには“社会性”や“世間並”に食い込まれない力強い小宇宙がある。
 この小宇宙は狭いが深い。
 しかし社会や世間に閉じているわけではない。
 商売を営んでいるのだから。
 生活の重さが錨のように社会性や世間並へと流されることを防いでいるのかもしれない。
 本書は後に東アジア反日武装戦線“狼”のメンバーが手に取ることになる。
 そして著者と接点が出来、その邂逅は『狼煙を見よ』という一冊に結実する。
 後のそのような展開など、思いもよらなかったであろう本書の中で、著者は次のように記している、
「世の中が荒々しく激動していく日々にも、人々は豆腐を食べるだろう。私は黙々として豆腐を造り続けよう」(p.294)

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紙の本家計簿の中の昭和

2016/02/23 20:02

切実なお金の話

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著者が自らの家計簿をもとにして、その来し方を振り返る一冊。
 家計簿というリアルなお金の話だけに、人生を暮らしていくことの重さを伝えて、しみじみと打たれるものがある。
 著者は四歳の時に一家で満州へ移住。
 しかし敗戦、引揚で全てを失う。
 帰れといわれても、帰る故郷もない。
 国策に翻弄されて棄民。
 帰って来た東京は焼け野原。
 暮らしは立たず、著者の父は沖縄へ出稼ぎに。そして彼の地で亡くなる。
 長女の著者は家計を支えるべく十九歳から働き始める。
 つましい遣り繰りの断片が記されている。
 その生き方の、なんというか、真率さと、それをどこかはにかむような哀しさが胸にふつふつと迫る。
 著者は『滄海よ眠れ』執筆時にスタッフの人件費や調査費用に五千万を費やしたという。
 その費用をどう工面したのか。
 貧しい家計を支える中で、貯金し、土地を二箇所購入、ファンドや国債も買ったという。
 バブルの恩恵もあるが、その土地やファンドの売却資金を費用に充てたという。
 また心臓を患って失業すると、実家の二階をアパートに改装し家賃収入を得たのだそうな。
 この生活設計力!
 ただつましく貯金していただけなのかといえば、さにあらず。
 自分の“財布が大きくなる”のに合わせた出費で、上手に大胆に高額な品を買ってもいる。
 こういったお金の遣い方はどうやって身につくものなのか?
 あまりお金のことばかりいうと、品のない話に思われるかもしれない。
 しかし資本制下で生きる身の上にとってはお金は生活とも、人生とも切り離せないものなのだ。
 お金をどうするのか、それが人生ですらある。
 戦後、難民として焼け野原にあり、病弱でありながら家計を支えなければならなかった著者にとって、お金をどうするかということは真に切迫したものであったに違いない。
 そして移住した満州国の消滅という経験は、ペーパーマネーへの根底的な不信を著者にもたらしたのでは、と評者は推測する。
 お金を大胆に遣えるのは芯からペーパーマネーに縛られていないからだろう。
 お金は価値を入手する手段であって、お金自体には価値がない。
 そういうことかもしれない。
 だからよく遣い、よく運用すべき、なのだ。

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未来はない。だから、ないものに振り回されるな。

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本書は前半三分の一で方法論的見取り図が示される。
 そして「歴史哲学テーゼ」全編が収められ、後半はそのテーゼ一つひとつの注釈に充てられている。「テーゼ」は野村修訳。
 現在からみて、過去や未来は無い。
 しかしその「無さ」のあり様は違う。
 過去は想起しうるが、未来は端的に空無だ。
 卑近な例。人生において、将来どうなるのか、といった不安。
 しかし未来は未知であり空無である。
 そこからは何も引き出すことはできない。不安さえも。
 それでは現在をただ享楽すればよいのか。
 否である。
 ただ現在を享楽する刹那主義ではなく、私たちは過去を持つのだ。
 過去は直接的には無いが、そこには全てがある。
 現在は過去からの継続である。
 つまり現在に至る全てが過去にあり、そして未来に至るすべても過去にある。
 過去の豊かさを汲みだすこと。
 いずれ未来に結果する、未知の原因すらもが、過去にあるのだから。
 そう、まだ何の結果にも至っていない膨大な“何やかや”が、そこには日々その一瞬ごとに降り積もってゆくのである。
 刹那主義は過去の豊饒さから切れてしまう。
 それは現在を干からびさせるだけだ。
 そして空無の未来に振り回されるのは、現在を疲弊させるだけなのだ。
「[…]、かつての諸世代とぼくらの世代とのあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらは彼らの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にひとしく、〈かすか〉ながらもメシア的な能力が付与されているが、過去はこの能力に期待している」(p.55)。
 未来は後ろからやって来るのだ。

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紙の本歴史を哲学する

2016/02/23 19:50

歴史を記述することに関する哲学的考察

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平明な叙述で入門に最適の一冊。
 著者は歴史を「物語り行為(narrative act)の観点から捉えようとしている。
 歴史は膨大な事実の羅列・集積なのかというと、本書によれば、それは違うという。
 例えば神の視点のようなものを仮構し、膨大な事実の集積を視野に収めうる「理想的年代記」作者がいたとする。
 しかしこの作者には、“1867年に夏目漱石が生まれた”といった記述はできない。
 なぜなら、1867年に江戸に生まれたその男子が、後年、漱石と号し、高名な文学者になるとはその時点ではわからないからだ。
 つまり単なる事実が歴史的事実になるのは事後的な歴史記述によるのだ。
 膨大な事実の羅列・集積はただ、あったというだけのことなのだ。
 我々が歴史的事実を知りうるのは、歴史記述を通してのみなのだ。
 ちなみに著者は“神の視点”なるものがあったとしても、それは“永遠の現在”だろうという。
 膨大な事実の集積から歴史記述を為すためには、何らかの歴史解釈に基づいた観点から事実の取捨選択が行われる。
 歴史的事実が意味を持つのは、歴史記述を通して意味が与えられるからなのだ。 
 だから観点が変われば、同じ事実でも、違う意味を持つ。
 歴史が何度も読み直されるのは、その時々の現在において生じる新たな問題が新たな観点を要請するからだ。
 だから歴史の読み直しには終わりがないのだ。
 著者のいう「歴史の物語り論」とは、この歴史の読み直しに関する方法論ということになる。

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