サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 親譲りの無鉄砲さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年4月)

親譲りの無鉄砲さんのレビュー一覧

投稿者:親譲りの無鉄砲

45 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本日本会議の研究

2017/04/17 19:11

「戦後レジームからの脱却」の正体

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

第1次の時は、教育基本法改正、防衛庁の省昇格、第2次では「戦争法案」強行採決や、平成の治安維持法「共謀罪法案」審議入りを推し進めるなど、数々の右傾化路線を主導し、憲法改正をも視野に入れている安倍政権の正体とは何か?とずっと考えていた。母方の祖父が60年安保を強行採決した岸信介であることが、その淵源だろうとは思っていたが、しかし、父方の祖父は安倍寛という戦前戦中の大政翼賛政権に背を向けて無所属を貫いた気骨ある代議士だったことを考えると、単に「血統」の問題ではない。
 安倍政権は「特定の思想信条」を強く共有する集団による「お友達内閣」であり、これは歴史の長い自民党政権のなかでもかなり異色の特徴、と前々から言われていた。彼らの共通項が、昨年頃から一般にも名前を聞くようになった「日本会議」という組織。本書は、その正体をまとまった形で一般の国民に初めて広く知らしめた、ある意味歴史的な書なのだ。そして、最近政権を揺るがせている一大スキャンダル「森友問題」においても、著者のその取材力のすごさを国民に印象付けたという点で、凡百のジャーナリストや作家には真似のできない現象も巻き起こしている。
 本書によると、安倍政権のほとんどの閣僚が「日本会議国会議員懇談会」に所属していることがわかる。それと同時に、「教科書議連」、「神道議連」といった集団とも重複して所属している。昔の自民党政権というのは、もっと多様性があり、派閥間でバランスを取って閣僚ポストをシェアしていた。それがなぜ、いつの間にこのように単色化してしまっているのか?1997年発足した民間団体としての日本会議本体には、いくつかの系統があるが、その本流「日本を守る会」が、数多の宗教関係者を含む保守派論客たちを一見緩く、しかし戦前日本の戦争をしやすい国のかたちに戻そうという一点で連帯させ、手始めに「元号法制化」を短期間に成功させたあたりから、右派勢力を強力にまとめて行ったという。その有象無象の集団を有能な羊飼いのごとくうまくオーガナイズいった事務方のプロが、70年安保当時の反動右翼学生運動家、安東巌、椛山有三、伊藤哲夫ら元生長の家信者一群なのだった。(現在の生長の家とは袂を分かっているが、その創始者・故谷口雅春の反・日本国憲法主義に共鳴しており、著者は、彼らを生長の家原理主義者と呼んでいる。)彼らは実に事務能力に長けている、という著者の指摘は興味深い。そしてなんと、自民党の改憲アジェンダとは、生長の家原理主義者たちの改憲アジェンダそのものを引き写したものであり、彼らが策定したタイムテーブルに従って、安倍政権は粛々と改憲への道を進み、国会解散日程なども決めているようなのである。成長の家原理主義者は極右草の根運動を主導するのみならず、自民党の影のシンクタンクの様相さえ持っているのである。カルト如きがなどと侮れない。結局は、安部内閣とは、自ら考えることなく、単に神輿に担がれているだけの、極めて反知性的な政権であるということも、本書を通じてばれてしまった。つまり、必ずしも純粋に祖父の岸信介の遺志を継いでいるわけでのないのだな。
 ところで、安倍政権の正体とは、極右思想の集団・日本会議の神輿に乗った反知性主義政権だ、ということまでは、本書を通じてよく理解できたのだが、しかしなぜ、今の世においても、日本の極右思想が国家神道を基盤にした天皇制主義にまた安易に直結するのか、というところがよくわからない。その辺りの社会・集団心理学的な解明もどなたか今後展開されることを期待したい。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

僕はチェルノブイリを知らない

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

歴史教科書でも何でもよいが、「1986年にチェルノブイリの事故が起きた」というような記述があったとしたても、それはチェルノブイリのことを何も伝えていないに等しい、ということに我々は気づかなくてはならない。
 僕はチェルノブイリのことを知らない。いや、知っているつもりではいた、この本を読むまでは。一々詳細かつ客観的な事故経過が頭の中に入っていなかったとしても、そういう情報の断片は他の本を読めば辿ることができる。事故後間もない壊滅的な状態の原発に入り込んだ果敢なクルー(撮影部隊)がいて、その時のショッキングな映像を数年後に見ることもできた。しかし、逆にそれら(文字情報と映像)によってわかった気になってしまった。ディテールのよく作りこまれた映画を観た、といった薄っぺらな感想しか自分の体内から絞り出すことが出来なかったにも拘らず、だ。そこに気づく必要があった。
 「チェルノブイリの事故のようなことは、最新鋭の科学技術の粋を集めた日本の原発には当てはまらない」当時の日本の政府、学者・技術者、財界人やそれを取り巻くマスコミたちの声を伝えた原発関係報道は、そう口を揃えた。確かに彼の国の原発は、巨大コンピュータで一元集中管理されているわけでもなく、事故後の対応についての対策や周知徹底もなかった。だが311後、彼らは、フクシマについて「津波さえなければこういう事態にならなかった、二重三重の安全対策をのり越えた想定外のことが起きてしまった」と異口同音に口にした。彼らは僕と同じようにチェルノブイリのことを何も知らなかった。
 多くの兵がアフガニスタン侵攻に参加しその後チェルノブイリにも行った。放射能除染、治安維持など多くの仕事が彼らを待っていた。志願者もおり強制的に彼の地に連れて行かれた者もいる。ある兵士は、戦場から戻ったら戦争は終わりだが、チェルノブイリから戻ったら、それからが始まりだ、と証言する。チェルノブイリで着ていた衣類は全部ごみ箱に捨てたが、息子にせがまれて帽子だけはくれてやってしまう。その子は2年後に脳浮腫を発症した。女の子をナンパしようとした別の帰還兵は、あんたの子を産みたいとは思わない、あんたはチェルノブイリ人よ、と差別的言葉を浴びせられてしまう。サマショールたちは、今も線量が高いにも関わらず、「我が家」に住み続ける。他の選択肢はない。国内紛争を避けたタジクの難民が、彼の地にたどりつき、誰のものとも知らない空き家を終の棲家と決め込んでいる。
 名もなき、しかしチェルノブイリと真剣に向き合わなければならない膨大な数の人たちの声を、スベトラーナ・アレクシエービッチは丹念に採集して、織り上げていく。それは生きる人の声であるが、そこには彼らを取り巻く死者の嘆きも通奏低音のように響く。彼女は、チェルノブイリとはそれまでなかった新しい形の戦争だという。原発事故が起きその数年後にソ連は崩壊した。それらは別々の事象ではない。そして人はソ連崩壊のことは気にするがチェルノブイリのことは語りたがらない、知ろうと思わない。だから、この証言集は読み手にその無知を指摘してやまぬ。これは、国や形態を越えてなお続く戦争へのレクイエムであり、地球人への警告の書だ。チェルノブイリは終わっていない。1986年の出来事ではなく、チェルノブイリは今もそこにあり今後何百年何千年にわたって続いていく。そしてその変奏曲はフクシマにも受け継がれた。最後の一人の死者の声が聞こえなくなるまで、僕はその織り上げられたタペストリーの前に跪き、祈りをささげ続けるしかない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本武家の女性

2017/02/17 00:11

栗林忠道も読んだ名著(たぶん)

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

山川菊栄の母、千世は幕末期の水戸藩士(水戸藩校弘道館教授も務めた儒学者・青山延寿)の娘であった。瓦解後一家で上京し、千世はお茶の水女子大学の前身・東京女子師範学校の第一期生となった。高い教育を受けた千世が、娘・菊栄に及ぼした感化とはどんなものだっただろう?そんな想像を逞しくさせるのが本書である。
 まず、水戸家中の武家の婦女に関わる日常、慣習、文化、歳時などについて、平易な語り口をもってその雰囲気をよく伝えている。歴史的資料として一級の価値がある。例えば、千世が稽古に通ったお裁縫の師匠の旦那である石川という老藩士は、サービス精神旺盛で、少女たちを楽しませるために、夜具を着て関寺小町を踊ったり、興が乗って人物評を始めれば、「何のあの古着屋が」などと吐き捨て、権勢を誇った藤田東湖も形無しの陰口を叩いたり。非常に魅力に満ちた人柄が伝わっている。このような巷の人々の息吹が伝わる例は、本書において枚挙がない。時代の空気を伝える意義深い証言でもある。
 しかし、この聞き書きの中で特筆すべきは、やはり幕末の水戸藩の特殊な立場にあるといえるであろう。常府とされ参勤交代の負担はなかったものの表高に比べ低かったと思われる実高を背景とする逼迫した藩財政、幕政に対し江戸表で良くも悪くも強烈な個性を発揮した藩主斉昭、藩主不在の中で進められる国許の政治。国許の実権を佐幕・開国派の諸生党が握り、追い落としを食った攘夷派が筑波で挙兵した事件は、天狗党騒動と呼ばれる他藩を巻き込む大事件に発展した。慶喜への嘆願空しく天狗党は福井で降参、科刑は苛烈を極めた。その後、時代の波は、攘夷運動より倒幕運動へと転換、維新に際し負け組となった諸政党藩政は、今度は天狗党残党たちの復讐の餌食となった。この復讐の連鎖は、人材を磨滅させた。攘夷の震源地だったにもかかわらず、水戸出身者は国家の要職を得ることがなかった。最も悲劇的な側面は、男たちの争いの巻き添えを食った政治には無縁だったはずの女性たちだった。例えば、武田耕雲斎の一門は、女まで首を刎ねられた。その後、諸政党の家の女も同様に暴力の餌食になった。この書には、耕雲斎の妻の辞世の歌が添えられている。
 かねてみは なしと思へど 山吹の 花もにほはで 散るぞかなしき
これは、太田道灌にまつわる逸話が書かれた常山紀談にある歌
 七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき
を本歌としている可能性が高い。水戸藩では女性の教育に冷淡な家風であったが、なかなかどうして、耕雲斎の妻女は立派な教養人であったことがこの一事からも判る。この歌の採録を決めたのは、千世の話を聞いた菊栄である。このあたりからも、母千世の感化が、娘菊栄の婦人運動への目を開かせる素地にあったような気がしてならない。
 ところで余談だが、この「散るぞかなしき」、太平洋戦争の硫黄島守備の軍司令官・栗林忠道の辞世の歌
 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
に不思議に呼応している。この歌が女々しいと判断されたためであろう、大本営発表は、「散るぞ口惜し」と改竄した。梯久美子氏の著書「散るぞ悲しき」では耕雲斎の妻の辞世には言及していない。しかし私は、刊行が昭和18年であることと合わせ、栗林忠道は本書を読んでいた可能性が高い、と考えたい。菊栄と夫は社会主義者だったが、本書執筆に際しては柳田國男の薫陶も受けており、反社会的な書物とはみなされなかった。栗林は、幕末の水戸藩家老の妻女が味わった無常をわが身に引き寄せたのだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

クリシュナムルティから仏教を探る

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

クリシュナムルティの紡ぎだす言葉は美しい。私も、その美しさに惹き込まれて、何冊も彼の本を読んだ口である。いずれの本においても、彼が説き続けたことは非常にシンプルである。囚われることなく思考をみつめること、ほぼこれに尽きる。しかし、あまりにシンプルすぎて、その先におとずれるであろう変容の実体(恐らくは多くの読者が宗教的な解脱や悟りと想定するであろうもの)が何ものであるか、わからない。思考を見つめるその方法も漠然として掴めない。
 なぜ彼は変容の実体や方法論を意図的に語ろうとしなかったのか? それは、変容に対して何らかのイメージを持ってしまえば、即ちイメージするという思考に囚われてしまうことになるから。その危険性を注意深く避けるために、その変容が何であるかを、彼は容易に語ろうとはしなかった。また、方法についても、一人ひとり異なりうるわけで、それを教条化した凡百の宗教指導者たちと同じ轍を踏むことをよしとしなかった。しかし、ヒントは、対談する相手とかわす言葉の中にしっかりあることに、今更ながら気づいた。つまり、あの会話の中身こそ、瞑想に誘導していくそのプロセスそのものだったのである。ということは、彼はずっと、瞑想の中に対話を行い、瞑想の中に瞑想を語り、相手や聴衆ひいては読者を瞑想に導こうと苦闘してきたわけだ。(苦闘という表現は適切ではないのだろうが。)彼は、座禅のようなスタイルから入る瞑想を否定する。外界の雑音に煩わされるのは瞑想の妨げにはなるので、目を瞑る等はあってもよいかもしれない。しかし、それは印を結んだり形に囚われたりするものでもないのだ。それを飽くことなくくりかえし繰り返し語り、会話の中で実践してきたのだ。シンプルなのになんとわかりにくいことか。しかし、それは仏教にしても同じことだ。ブッダ入滅後、多くの覚者となった弟子たちは残っていたにもかかわらず、彼が説いたことはただちに仏教という宗教形態をとるや否や変質してしまったのだ。恐らくは、ブッダ存命中のときにあっても、弟子たちの誤解を解き切ることすらできていなかったのかもしれない。だから、クリシュナムルティは、仏教、キリスト教、イスラム教等一切の既存宗教を否定したのだ。
 一方、仏教学者ラーフラ氏は、彼の立場から、クリシュナムルティの説く言葉がブッダのそれとほぼ同じ内容であることを指摘し続ける。クリシュナムルティに闘いを挑んでいるかのようだ。クリシュナムルティは否定する。自分は「仏教徒」の崇拝するブッダではないのだ。でも、説いている内容は、驚くほど近い。逆に歴史的時間の中で歪められてきたテーラワーダ仏教の中に伝承された「ヴィパッサナ瞑想」の正体(ブッダが真に教えたところの)が、今に伝わる足の裏の感覚を知覚し言語化し続ける「エクササイズ」などではなく、クリシュナムルティの語り続けた瞑想そのものであることが明らかになる。なお、クリシュナムルティ自身が図らずも隠し通せなかった、大乗仏教経典の説く不二法門における「維摩の沈黙」に対して示した共鳴には、正直驚いた。こんなに「無防備」なクリシュナムルティを初めて知った。やはり沈黙の中に真実があるのだ。(クリシュナムルティが変容の中身を語らぬ理由がここにある。)大乗だの小乗だのという分節化に大した意味はないのだ。クリシュナムルティの言葉を上っ面だけ舐めたのでは彼の真意を誤解する。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本貧乏物語 改版

2016/05/28 01:00

ピケティの「21世紀の資本」に先立つこと百年前の書

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

河上肇は、所得・資産格差の問題に真面目に取り組んだ我が国の大先達経済学者ですが、なかなか楽しめました。名著です。今話題のピケティの視点が決して目新しいものでないことがわかります。ピケティの場合は、近年、大量の各種統計や各国国税等のデータにアクセスできるようになり、かのアプローチが可能になったわけで、時の利を得ているわけです。それにしても、当時の社会構造からして既に、貧富格差を拡大しつつあることを、データを駆使して実証的に証明しているところは、その先駆性に脱帽です。
 河上は、その問題となっている貧富格差解消のためには、富者は贅沢を慎め、と結論づけています。それは、富者向けの贅沢品生産が圧迫して、貧者のための生活必需品の生産力がそがれてしまい、これが貧富の格差を拡大してしまうから、というものです。これは江戸時代の贅沢禁止令のセンスに近く、現代の経済学の常識からすると受け入れがたいものです。当時のような、モノのない時代なら、格差問題の解消のために富裕層は贅沢を慎め、という主張にも何らかのリアリティを伴った説得力があったのかもしれません。まあ、その部分は、現代においては、明らかにそぐわないとした上で、それでもこの瑕疵が、この本の高い価値を貶めるものでは決してありません。巻末の大内兵衛による解題を読むだけでも楽しいです。
 なお、宇沢弘文氏は本書に大いに影響を受けた、とのことです。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本天に遊ぶ

2017/05/29 23:48

引き算の文学

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一編あたり原稿用紙10枚以下という制限を設けた短編集。最初に「観覧車」を書き上げたとき、うきうきした気持であった、と吉村昭は本書あとがきに書いている。短編集のタイトルには「天に遊ぶ」とつけたが、それは、「これらの短編を書いている折の私の心情そのものであった。天空を自在に遊泳するような思いで、書きつづけた」からである。
 吉村は、長編の名作も多数ものにしているが、いずれの場合も、彼の文章は端正で、贅肉がそぎ落とされた文体を以てしているのを特徴とする。自ずと短編との相性も良いのであろう。しかし、10枚以下の短編となると、これは大きな制約であると考えるのがふつうである。そこを「天空を自在に」と表現するところに、彼の本分があるような気がする。あえて書こうとしなかったことや、当初書こうとしたが結局は省略せざるを得なかったことなどが、逆に読者において、自由に想像を掻き立てたり、余韻を味わわせたりする効果があることも、吉村は十分意識していたはずである。だから、本書によって、読者も「天に遊ぶ」気持ちを十分堪能できるであろう。
 彼の歴史小説のファンである私の個人的な見方からすると、「鰭紙」「頭蓋骨」「梅毒」あたりには、共通のモティーフがあり、なおかつ、吉村本人の感性も正直に述べられており、好感が持てる。そこには、歴史の「大きな物語」からはこぼれ落ちてしまうけれども、「事件」の構成上ゆるがせにできない「細かな事実」を丹念に追及する、老練な刑事のような吉村の姿勢がある。一方、梅毒持ちを「疑われた」関鉄之介(桜田門外の変の首謀者の一人)の子孫や南部藩を襲った天明の大飢饉(けかち)のときに人肉食をして生き延びたと村の古文書に書かれた女の後裔である旅館の女将さんに対して、主人公が感じる同情心やうしろめたさという形で、「人情派刑事」吉村も表れている。その両方が、端正な吉村の文学を支えている。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

万人の万人に対する闘争

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

評者は、2012年刊行の国枝昌樹著「シリア」を必読文献だと思っている。ただし、その後のシリア情勢に大きな変化もあった。化学兵器使用疑惑、イスラーム国の台頭、ロシアの本格介入に伴う空爆、ホワイト・ヘルメットの登場等。本書は、我が国指折りのシリア研究者がこれらを網羅した、up to dateな内容のシリア情勢解説書。しかも、公正さを期そうと努めた細心の意図が汲みとれ、好感が持てる。論点は国枝氏のそれに近い。
 シリア内戦を「アサドの独裁政治」対「国内の民主化勢力」のように単純に図式化する報道や解説は適切ではなく、「民主化」、「政治化」、「軍事化」、「国際問題化」、「アルカーイダ化」の五つの局面の複雑な絡み合いを解きほぐすことが必要、と著者は繰り返し主張する。しかも、初期の諸外国の対応は、反体制派への外人兵士等の武装援助であり、「内戦」という呼称自体も厳密性を欠く明らかな内政干渉であった。本書の解説は、新書の限られた紙幅にも拘らずこの五つの局面を押さえることにより難解な情勢を鮮やかに読み解く。シリア情勢に関心のある読者はぜひ手に取ってお読みいただきたい。以下は、著者の主張そのものというより、評者の読後感的備忘録の様なものである。
 「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国に突如巻き起こった「民主化運動」をアサド政権は極度に警戒していたが、その初期対処については確かに誤った。それにより、米国を筆頭とする諸外国は、「アサド政権の残忍性」を喧伝し、あけすけに言えばアサド政権転覆の正当化につながるような主張を繰り返した。その結果、彼らは「反体制派」と呼ばれる勢力の支援にまわったのだが、その指導者の多くは「ホテル革命家」と呼ばれる連中で、局面の流動化とともにいち早く国外脱出をしてしまった。おまけに「反体制派」は一枚岩ではなく、「反体制派」間の抗争も本質的な人道危機を深めてしまった。米国等は正義の穏健な反体制派対残忍な政府軍の図式の下に、素早くアサド政権転覆を図りたかったようだが、武装闘争である以上、その「穏健さ」には欺瞞があった。逆に、反体制派のアルカーイダ化進み、国際テロ組織として邪悪視されているイスラーム国が最大の反政府軍、という状況を西側諸国は作ってしまった。また化学兵器使用疑惑を煽り、本格的な直接武力介入のチャンスも窺ったが、国連の調査結果ではむしろ反体制側の使用が強く疑われるケースが多く、その目論見は失敗した。ロシアの本格介入(アサド政権を直接支援)により、イスラーム国の勢力は弱まり、一番カオス的な状況だった最大の商業都市アレッポを政府軍が奪還するに至り、潮目は劇的に変化しつつある。西側メディアは、アレッポ東部の25万人の市民がシリア・ロシアの無差別爆撃に抵抗している、と報じたが、降参してシリア政府によりトルコ等への人道的な脱出猶予措置で同地を去った反体制派とその家族は高々3万5千人だった。残留した多数の市民は、アサド政権の延命を許容しており、逆にイスラーム過激派により人間の盾として拘束されるという人道的危機に見舞われた実態があった、と強く懸念される。また、一部英雄的に称揚されたホワイト・ヘルメットも、その作為性が強く疑われるべきいかがわしい組織と感じる。主流メディアの偏向報道が世界の見方を大きく歪める実例として、強く記憶に留める必要があると感じる。なお、クルディスタン自治組織ロジャヴァには未来があるのではないか。シリアに和平がもたらされた暁には彼らに民族自決権を与えなければいけない時代が来るように感じる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本原節子の真実

2017/05/16 17:21

大女優の素顔

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

原節子は、日本人離れした美貌の中に、生来の内気さとそれを乗り越えるかたちでにじみ出てくる芯の強さの両方をもつ、という稀有な個性ゆえに、戦前・戦中・戦後の日本の社会を映すシンボル的女優となった。特に戦後の開かれた民主社会で進出することが期待された新しい女性像は鮮烈だった。著者は、あとがきの中で、原節子とは日本そのもの、と述べている。ただし、その燦然たる印象とは異なり、映画出演の期間は27年と予想外に短かった。一方、私生活を世間に知られることをかたくなに拒んだ女優でもあった。従って根拠のないデマや「神話」も多々生まれた。その中でこれは間違いなく「正しそうだ」というエピソードを著者は丁寧に掘り起こした。好著である。
 原節子の女優としての才能を見出しその才能を知らしめる最初の作品を世に送ったのは、アーノルド・ファンクではなく、山中貞雄だった。(河内山宗俊)
 原節子と小津安二郎は恋人関係にはなかった。
 それとは別の秘められた恋愛をしていたことはほぼ間違いない。
 義兄熊谷久虎の存在は良くも悪くも彼女の考えや行動をかなり拘束した。もちろん、それと同時に姉夫妻に世間から守られた部分もあり、彼女自身がそれをよしとした側面がある。原本人は、熊谷の映画監督としての才能を高く買っており、彼の演出による「細川ガラシャ」の映画化を望み続けた。しかし、膨大な製作費、熊谷の撮った映画が興行面で軒並み失敗している、等の理由によりその企画が実現することはなかった。
 なお本書は、熊谷が、火野葦平の自伝的小説「革命前後」で描かれた敗戦間際一部の人たちが考えた九州独立国化計画に首謀者的な役割でコミットしており、これにあの鈴木安蔵も関わっていたという事実には驚いた。
 彼女には、役どころに共感できないと満足できる演技ができない、という信念に近い考えがあり、それゆえ、脚本段階でオファーを蹴ることも多かった。これが不器用な女優という間違った印象を周囲に与えたようだ。業界内でさえ、同様の誤解をもつ者も少なからずおり、自らまいた種とはいえ、映画界そのものは彼女にとって必ずしも居場所の良い場所ではなかった。ただし、キャメラを離れると、飾らない態度で後輩の女優や女性スタッフ(結髪等)には親切に接しており、彼女らからは好感を持たれていた。
 彼女の自然消滅的な形での映画界引退は、年齢的にも次第に役に恵まれなくなってきていた現状に加え、強烈なライトを当てられ続けた女優の宿痾ともいうべき失明に近い視力の低下が大きな要因であったであろう事、さらには、キャメラマンでもあった実弟が自身の出演している映画で悲劇的な事故死を遂げたことも彼女を追い詰めた可能性があった。軍国時代の戦争協力に対する反省の念も確実にあり、引退への後押しにもなったかもしれない。
 本書は、原節子を描きながら、近代日本を見事に活写した。映画産業や古の名画の説明のくだりでは著者が端からの映画マニアだったわけでもないということも透けて読めたが、逆に言えば、本書を執筆するに当たり直接彼女に関わらない同時代の歴史事実に対する調査を相当の努力をもって行ったことも窺い知れた。
 さて本書ではあまり好意的に描かれていない黒澤明についてだが、個人的には、「わが青春に悔なし」における彼女の演技が強く心に残っている。本書を読んで、改めて、彼女が真砂を演じる「羅生門」も観てみたい気がした。京マチ子の妖艶さとは一味違い、映画全体の印象も異なったであろう。蛇足だが、本書に何回か登場する名キャメラマンの名は、宮島義男ではなく宮島義勇が正しい。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本シリア アサド政権の40年史

2017/05/16 14:53

日本人の知らないシリア

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

元シリア駐在大使によるシリアの昨今の混乱について詳しく解説した好著。2012年の刊行で、それ以降の情勢については触れられないが、それでもシリアの現状を判断する上で極めて有用な情報を提供している。チュニジアに端を発する「アラブの春」以降、北アフリカから中東にわたる諸国で反政府勢力の武装闘争と政府軍によるその掃討戦が激化、シリアも御多分に漏れなかった。難民も一千万人規模といわれている。はたしてそれは、我々日本人が普段耳にするように、アサド政権の独裁的な圧政が原因なのか?著者は疑問を投げかける。
 本書はまず、中東の民族の十字路といわれる歴史的にも地理的にも極めて複雑なシリア情勢に対し、父ハーフェズ・アサドが政権を奪取して以降の親子40数年間のアサド政権の流れを俯瞰する。中東諸国には、宗教的信条の上でも、日本人には理解の難しい国内問題や対外関係があるが、シリアはどちらかというとアサド父子による世俗的政権を民衆に受け入れてきたので、本書ではイスラム教関係の説明は大幅に省いている。但し、政権を支えるバアス等結党以来の不倶戴天の敵ムスリム同胞団との確執は丁寧に記述する。またゴラン高原を奪ったイスラエルとの確執を始め、パレスチナ難民に対する深いコミット、やはりイスラエルによる直接的な被害を蒙っているレバノン(この国はシリアの干渉なしに自立政権を維持できない。ヒズボラの拠点。)との関係、イラク以上に米国が敵視するイランとの深い関係等を詳述する。また第3次中東戦争以降、米国が強くイスラエルを支援し、中東は混迷を深めるようになる。トルコとの関係も不安定だ。2000年に軍人出身の父の死により、比較的リベラルな政権を目指すバシャールが大統領を継ぐと、自由化路線へと積極的に改革推進し始める。国内外に問題を山積した政権運営はアサド父子でなくとも困難なものだっただろう。国内に反政府活動を行う勢力がおり、現政権が親米的ではないのは確かだが、米国が主張するような独裁政権と決めつけるのは明らか一面的すぎるようだ。その先の判断は、読者一人一人にゆだねられるしかない。ちなみに、本書出版後のシリア情勢について評者の観点から若干補足しておく。
 反政府軍側の武力闘争が激化、政府軍もこれに応じ、エスカレートしていく中で、2013年8月頃から米政権は政府軍が化学兵器を使っていると警告するようになる。日本のメディアもまた、アサド側が化学兵器使用に踏み切ったとして、そのハードエビデンスを確認することなく、その非人道性を強く非難した。一方、MIT教授セオドア・ポストルらは、用いられたロケット弾の射程がせいぜい2キロメートルであり、政府軍の支配地域から被害を受けた東グータまでは届かないはず、として、反政府派の自作自演であることを強く示唆し、国際社会も次第に米政権の主張を怪しむようになっている。2015年秋、米国はシリア政府軍が化学兵器使用でレッドラインを越えたとして、政府軍への攻撃を開始すると威嚇をしたが、ロシアはこれを米政権の言いがかりとして、反対にシリア政府の要請を受けて、反政府派支配地域の空爆を開始する。その後、反政府派主勢力の過激派IS掃討を米ロ共同で行うことになるが、主導権はロシアに握られ、米国のプレゼンスは失いかけている。なおロシアによる空爆の効果でISのようなサラフ主義者(ワッハーブ派)やムスリム同胞団らの勢力は弱まり、シリアに治安回復に関しては徐々に明るい兆しが見え始めている。シリア・ロシア側の一貫した態度に対して、米国の迷走ぶりは目を引く結果となっている。米政権はISに肩入れしていたかのようだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本1960年5月19日

2017/05/10 16:47

「1960年5月19日」は現在の民主主義機能不全状態を予言しているのか

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1960年5月19日深夜、自民党は単独で新安保法案を衆議院本会議にて強行採決した。岸内閣は院内に警官隊を導入、野党社会党の多数の議員を「ごぼう抜き」までして排除した。参院では未議決でも法案は30日ルールで自然成立、新安保批准となる。岸としては6月訪日予定の米大統領アイゼンハワーへの贈答の演出を意図したものであり、反対派にとっては絶望的な状況だった。しかし本当の国民運動としての安保闘争はむしろこの時スタートした。議会制民主主義を蔑ろにして数を頼み議論を尽くさない政権の横暴に大衆はNOの声を上げたのだ。その証拠に、その前の総選挙で自民が58%近くの票を獲得していたのが、この日を境に岸内閣の支持率が12%に急落、岸退陣を要求する声は58%にまで高まった(5月25日世論調査)。これまでも10万人動員の全国規模の運動等の実績はあったが、散発的な感は拭えなかった。しかし6・4ストでは460万人参加、6・15は580万人、自然承認後の6・22は620万人と規模は膨らんだ。労働運動を母体とした組織や全学連等出自が異なる集団間での統一行動は困難であるにも関わらず、試行錯誤のなか抑制的な行動を貫いた。にもかかわらず官憲側の実力行使に暴力的要素があったことも否めなく多くの血の犠牲者も出した。しかしこの結果、アイクは訪日中止、大衆の「声なき声が聞こえる」と嘯いていた岸政権は倒れた。
 本書は、この稀有な国民運動の記憶を後世にとどめるため、日高六郎、藤田省三ら複数の「当事者」らによって編まれた渾身の立体的ルポルタージュである。同時代体験の無い評者にとっては、序章で終戦から5月19日に至る15年の日本の議会政治を端的にまとめた部分が特に秀逸だった。警職法改正反対運動、砂川闘争と「統治行為論」を論拠とする最高裁判決等、当時の大衆や行政・司法層が何を感じていたのかが分からないと、安保闘争のディテイルを読んでもピンとこない。時代とともに習慣・価値観が異なってくるからだ。そのギャップを見事に埋めてくれている。それが57年前の事件が精彩を保っている理由であろう。組合運動などにも携わった事の無い町の商店の従業員や主婦などが、おっかなびっくり安保反対のデモに加わるといった経験談なども丹念に採集、海外のメディアがどのように日本の状況を見ていたのか等の国際情勢も鶴見俊輔が調べている。本書の発刊は運動の興奮冷めやらぬ1960年10月。6月の興奮がまだ生々しく息づく中、本著者らは強い使命感を持って緊急刊行した。この緊迫感は今の読者にも十分に伝わるだろう。それと同時に、本書に拾い上げられた多くの事象は、普遍性を持つ社会史学的なテーマとして検討価値がある。政治の細かい機微を熟知していないながらも大衆は、米国相手に戦争を起こした東条内閣の閣僚・岸信介が、今度は米国傀儡として戦後の民主化路線を破壊しようとするのをみて、確かに怒りの声を上げたのである。そして苦渋と挫折感に満ちながらも岸打倒は果たした。あれは何だったのか?今の我々こそが歴史のサイクリックなメカニズムを解明すべき時に来ている。
 訪日直前、米国統治下の沖縄を訪問したアイクは、「祖国復帰」「U2機は帰れ」の手厳しい沖縄人の拒絶と罵声を浴びた。訪日中止を決定づけた要素かも知れない。その構図は今も未解決の基地問題としてその本質は残されている。当時の社説等のマスコミ論調が親米的に退嬰化し大衆から離れた現象は今さらに顕著化している。岸内閣はNHKの報道姿勢も激しく牽制した。放送法を盾にマスコミを骨抜きにしつつ、奇しくも岸の孫は57年の年を経て共謀罪法成立や憲法改悪を目論んでいる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

搾取の構造をまず知ること

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

先ごろ読んだ玉木俊明著「ヨーロッパ覇権史」からは欧米覇権国(帝国主義国)による植民地支配におけるミクロ的視点からの描像がすっぽり抜け落ちていたことに若干のフラストレーションを感じていた私が次に手に取ったのが本書である。日本人の大好きな、しかしすでに少し食傷気味でもあるバナナが、どのようにつくられてどのように取引されて日本の食卓に乗るようになっているのか、その仕組みを余すところなく活写している。そしてバナナに特化にすることにより、却って、先進国(本書においてはアメリカ資本グループ)による新たな「植民地支配」の実態の基本的原理パターンを暴くことに成功している。(本書は実はアバカ麻の記述も多いのだが、これは外見がバナナによく似たバショウ科の植物であるし、また、戦前のフィリピンの経済においても重要な産品ということで、歴史的にも重要なアイテムとして、著者は多くの紙数を割いている。)
 ミンダナオ島のプランテーションによるバナナはほぼ日本への輸出に限定されて、さらに日本のバナナのほとんどのシェアを握っている。米資本の戦略による。従って、此処のバナナは日本人の嗜好に合わせるように作られている。実は、味覚的には濃厚でクリーミーな他品種のバナナの方がおいしいらしく、現地の人たちは日本向けのキャベンディッシュ種は食べない。しかも、味の良さよりも、輸送中の衝撃での外観的いたみや熟成の指標でもある外皮の黒ずみ等を日本人が嫌うために、まだ青いときに収穫して日本国内で追い熟させるなどのカスタマイズ化が図られているのである。従って、日本人に向けた強いメッセージ性が本書を貫くモティーフになっている。
 本書の発行は1982年といささか古い。従って、扱われているデータ類も、現状を知るには大幅なアップデートが必要である。しかし、搾取の基本構図はそんなに変わっていない。そこに、本書が古びない、名著の資質を備えている証拠があるといえる。本書公刊ののち「エビと日本人」などの類書もあらわれたが、後者も名著の誉れが高い。勿論、フェアトレード等のコンセプトなども標榜され始めている現在、数十年前と全く同じ状態というわけではない。しかし、衆人の注目の集まらないところでは、密かに或いは堂々と現地農家・労働者に対する経済的束縛や農園から安い労働力が逃げない手立て講じられているのだ。安い労働力といえば、「チキータ」は多くの囚人が労働作業に携わっている事実は注目に値する。同音異曲といえどもこのような話は今後も語り続けなければならないのだ。
 さらに近年は、西アフリカにおけるカカオ農園の労働搾取の実態、しかも極めて悪質で暴力的な労働環境に非難の声も上がり始めているところでもある。そういう実態を知ってしまうと、チョコレートを食べる気がしなくなる、という素朴な感想を漏らす人も多々出てくる。しかし、この流れでの不買運動は、まずは西アフリカの労働者の生活を最初に直撃するであろう事も考慮しなければならない。本著者も浅薄な「バナナ不買運度」など推奨していない。こたえは容易に見つからないが、まず、「みんなが真実を知ること」、これが真っ先に必要なことである。その意味では本書は十分に読者に対する説得力を持っているといえる。折しも、本年はTPP問題に翻弄された年であった。グローバリズムの名を借りた新しい形の帝国主義を良いものと単純に思い込んでいる(思い込まされている)人々があまりにも多すぎることも実感された。本書は今こそ多くの日本人に読まれるべき本だと痛感した次第である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本零の発見

2017/04/20 02:17

「夏の花」との共鳴

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昭和14年に刊行された息の長い名著。本書を読むのに、特に数学の素養はいらない、と著者は述べているが、対数とベクトル外積に触れた箇所は、高校数学以上を学んでいた方がやはりよいと思われる。ただし、そういう個別的な部分は、各人で短時間に調べることもできるし部分的に読み飛ばすのも可能でもあるので、大した問題ではない。
 この本、実は原民喜の名作「夏の花」三部作のひとつ「壊滅への序曲」の中で引用されている。(つまり戦前戦中から大衆向け啓蒙書として本書が高い評価を受けていたことが想像できる証拠のひとつともいえるわけだが。)そこでは、主人公が「零の発見」を読んで、ナポレオンによるロシア遠征時にフランス軍工兵士官として従軍したポンスレが2年ほどロシアの捕虜となったときに、ひたすら数学研鑽に励み、それが射影幾何学の発展に大いに寄与した、という本書冒頭のエピソードに強い印象を持つのだ。主人公にとって印象深いシーンとして。文学的な想像力を膨らませると、広島の原爆投下というのはやはり人類の歴史における一つの特異点(ゼロポイント)或いは、大きな都市が一発の爆弾で「無」に帰す(壊滅的なダメージを受ける)という暗喩が込められている可能性があり、やはり非常に印象深い箇所なのだ。
 ただし、本書前半部に述べられる「零の発見」とは、古代インド人たちがたどり着いた「空の思想」というようなものとは関係ない。すなわち、千数百年前に、インド人たちが考案しアラビア人たちが西洋に広めた10進法の位取り記数法における空位を表すものとして、○とか・とかのシンボルで他の1~9までの数字と同等の数字的取り扱いをしてよいことを発見した、ということ。これが実に実用性の高い発見だったのだ。そして偶々アラビア数字で0と記されるようになった習慣が現代に残っているわけだ。今の世に生きる我々からすれば、至極あたりまえで簡単なことのように思えるが、歴史的に見て千年以上なかなかそこに辿りつくことがなかったことから考えてみても、「零の発見」とは実に大きな知的な飛躍だったのだ。本来専門ではないはずの、古代ギリシャ、それから西洋を席巻したイスラム文化等の歴史が縦横に語られ、何とも心地よい読書体験に誘われるのである。後半は、「直線を切る」と題した、連続の問題。自然数の比のかたちであらわされる有理数に無限の美しさを見出していたピタゴラス学派の人たちが直面しなければならなかった無理数の発見とジレンマ、ゼノンのパラドックスをきっかけに大きさを持たない点太さを持たない線の概念が現れてから発達した抽象的思考の賜物「ユークリッド幾何学」、近代数学への道を切り開くことになるデデキントの切断等、一見雑多に見えるような話題が、実数の「連続」の問題として見事に連鎖していく語り口の妙味、まさに名著の誉れにふさわしいものである。不幸にも、評者はこの歳(現在55歳)まで本書の評判を知りつつ自ら手に取って読むことがなかった。浅学を恥じたい気持である。
 なお、数学の追求する抽象概念の世界(プラトン流イデアの世界に似たもの、例えば古代ギリシャ人が神聖視した有理数で構成される数体系)と日常的物理世界の違いについてデデキントの連続の定義が議を尽くしているかという問いが哲学の領分ではないかと考える結論には、例えば当時はまだ建設されたばかりの量子力学的な時空の離散性について、著者は何らかの思いを致していたのではないかという気もする。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本〈満洲〉の歴史

2017/04/14 01:11

五族協和という美辞麗句の空しさ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

類書に山室信一「キメラ」がある。これは名著であるがいささか歯ごたえがありすぎる。それに比べ、本書の歴史の語り口は軽快で読みやすい。「満州」入門書としてはお勧めだ。
 経済学者による歴史本とあって、軍国日本によって支配される以前の「経済的」キーアイテムが「大豆」であったことを明快に示唆。このポイントは重要で、他書ではあまり触れられていない。小規模の労働集約型農業しか慣れていない日本人が入植しても経験・技術において先んずる先住の中国人に優位する農業経済を築くことはできない。机上で企画立案することに慣れている役人の視点が行き届かないところだ。植民地経済政策論の大家・矢内原忠雄が満州視察後、日本人による入植が絶望的であると警告していた。しかし、こういう慧眼ある人の言葉に耳を傾けることなく、政府及び軍部は、満州を中心とする中国大陸における権益拡大が日本の経済に大きく資するもの、そして五族協和の美辞麗句をちりばめて、侵略を進めていくことになる。また彼らは、奉天軍閥の張作霖・張学良による政治を前近代的なものと貶めていたが、実態はもっと進歩的なもので重工業推進等の特徴もあった、と著者は強調する。もちろん自動車や航空機等、欧米のキャッチアップ段階のものであったが、奉天軍閥政治でもとにかく推進していた。つまり、満州の近代化は日本の助けなしにも着々と進み得た可能性が高いという事。一方、日本も中国との戦争が泥沼化しおまけに対米戦にまで踏み込み、経済成長どころではなくなった。満州において日本が進めようと目論んだ重工業化計画も、結局は絵に描いた餅にすぎなかった。
 ただし、石原莞爾が主導した満州産業開発5か年計画で示された統制経済はそれなりに目を引くものがある。ただし、彼らはこの計画を遂行する上で、日本が向こう10年は平和を維持する事が条件とみていた。石原は単なる戦争バカではなかったかもしれない。日本は226事件を契機に更なる軍国主義化と石原らの与する統制経済の道を突き進む。しかし歴史の皮肉で石原本人の謀略による満州事変のあと、二匹目の泥鰌を狙った武藤章らの狙った盧溝橋事件を皮切りとする日中戦争の泥沼に足をすくわれ、5か年計画は修正しながらもさらに予実が大きく狂うことになる。
 本書は、棄民として戦後困難な帰還の苦労を重ねた満州開拓民たちの悲劇にも触れる。詳細について記述した他の良書もあるので、本書をきっかけに多くの読者がそれらに読み進められることを望みたい。 日本の軍国化路線の蹉跌は、歴史修正主義者たちが政権を牛耳っている日本という今の国民にとって、等しく本当に耳の痛い歴史として真摯に学ばなければならない、と思う。そして今、勝者として君臨している世界の暴君・アメリカにもよく学んでもらいたいような気がする。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ことばの守り人

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

鶴見俊輔は、ことばを大切にする思想家であり、行動家である。ここでいう「ことば」とは文章言語のそれのみではなく身振りや映画、まんがといった「映像的」表現などの別の表現手段を持ちうるものも含む。些細な表現であっても、それ以前の誰もがやらなかったものなら、創造的な部分が必ずある。だから、あまり一般には見向きもされない、カウンターカルチャーあるいはサブカルチャー的なまんが作品、多くの評論家たちによって芸術作品としての価値を認められなかった表面的には「大衆映画的手法」を採った「振袖狂女」のような映画の批評等において鶴見俊輔は時代の先端を切って走った。先端表現者としての行動家・鶴見の矜持があったのであろう。本書にもいくつかのエッセイが収録されている「限界芸術論」はそんな鶴見の面目躍如たる著作である。いまでこそ、サブカル論等は華やかであるが、鶴見が挑んだ時は未踏の荒野の分野だったはずである。そんな彼の「ことばと創造」を切り口としたアンソロジーが本書である。編者は黒川創。
本書以外にも、「文章心得帖」等の著作を通じて、彼のことばに対する感性の鋭さは、世によく知られている。彼の論壇デビュー作といってよい「ことばのおまもり的使用法」は、鶴見を語る上では必須文献である。戦後間もなくの時代背景があっての論文ではあるが、時間を経た今でも色あせることがない。何度でも読み返したい。
 彼の論考の守備範囲は極めて広い。守備範囲の広さは彼の好奇心のありかによるものだろう。ゆえに、あえて意図的に「鶴見哲学」と呼ばれるようなものを構築しなかったように思われる。「普通」の評論家・哲学者が思いもつかないようなかたちで、日本文学の胎動を一つの方法で刺激したエトランゼ・小泉八雲を藤田省三、横光利一、木下順二、谷川雁、中野重治らを縦横に引いて疾走するかのごとく語ることによって、これに対比させる形で、戦中の「勅語」を中心にした共通言語の貧しさを自覚しえなかった日本人の言語空間における幼稚さをあぶりだした。
 そして、その奔流はとどまるところを知らず、身体表現を含む漫才、円朝、「アメノウズメ」一条さゆりにまで及ぶ。なお、「鞍馬天狗の進化」を読むとわかるが、戦中の貧しく息苦しい言語空間に閉ざされた文学者の中で、鶴見の視点からすれば、唯一に近い例外が大佛次郎であったようだ。大佛の「阿片戦争」や「乞食大将」、特に後者は、時代小説の姿を借りた自由主義者が言わば白昼を闊歩して行った、とまで書く。
 所収の「かるた」は、本人の少年期の記憶を頼りにその時の思いをその時味わった感性に忠実に日常的な言葉で再現する実践的な作品である。そこには、自然に形成されたみずみずしい少年の世界が平易な言葉で語られている。何よりもある一個の人間を成立させる思想、レーゾンデートルは、皆の心の中にある言語単位である多数枚の「かるた」というユニットで構成されており、その言葉のカードに呼応する形でイメージや記憶の単位が想起されるようになっている、そういうことを示そうとした意欲作であった。表現者・鶴見の一側面を表す作品であろう。「誤解権」という著作も、行動家・鶴見の基盤となっている思想の表れなのであろう。必読文献の一つである。そして、鶴見の著作のほぼ最後を飾る90歳のときの作品が「意思表示」という行動であった。末尾に全文引用して本レビューを終わることにする。
 ―今の私にどれだけの力があるかどうか、分かりません。しかしはっきりと、憲法九条を守る意思表示をしたいと思います。―

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本『コーラン』を読む

2017/02/28 02:13

極めてユニークなコーラン解説書

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、イスラーム研究第一人者井筒俊彦による一般向けの極めてユニークなコーラン(クルアーン)解説書である。1982年に10回にわたって行った市民セミナーの講義をもとに成書化したという。市民セミナーということは、対象は一般人向けということである。何がユニークかというと、この本全体で、「開扉」とされるコーランの第1章のみを綿密に読み解くことに集中している点にある。いやいや、1章をちゃんと解説されたら、入門としては十分だろう、と思いきや、この第1章の全文とは以下の7行の言葉にすぎないのである。

 慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において
 一 讃えあれ、アッラー、万世の主、
 二 慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
 三 審きの日の主宰者。
 四 汝こそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
 五 願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、
 六 汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
 七 汝の嘉し給う人々の道を歩ましめ給え。

何とここに、コーラン全編のエッセンスが凝縮しているというのだ。これは井筒個人の解釈ではなく、ムハンマドの言行録として伝えられるもの「ハディース」にも、「世界中の啓示の書(旧約聖書、新約聖書といったキリスト教関係文書を含んでいる)に含まれるエッセンスは「コーラン」に含まれており、「コーラン」自体のエッセンスは「開扉」の章に残りなく含まれている」と書かれている、ということである。だから、イスラーム教徒は、一日五回の礼拝に際し、この「開扉」言葉を唱えるのである。これはちょっと、大乗仏教の「空」の広大な思想を300字足らずの「般若心経」に凝縮して、ありがたいお経として多くの人が読誦するのに似ているな、と思った。
 勿論、字面上のみの解釈書として400ページ近くを割いているわけではない。例えば、「審きの日」という言葉がイスラーム教徒に惹起している終末世界観というものが、如何にイマジネーション豊かなものであるか、というような話は、イスラーム文化に疎い普通の日本人が文字だけ眺めてもさっぱりわからない。そのために必要な知識を十分に語って聞かせることで、聴き手に理解を深めさせようと、井筒は情熱を傾ける。十分なイスラーム文化理解の上でこういうテキストを読み込まないと、本当の「コーラン理解」には至らないのだ。その文化に溶け込んでいない人間にとっては「入門」こそが最も困難なステージなのである。この入門部分をいい加減にやっつけてしまうことほど空しいものはない。イスラーム研究第一人者である井筒の手引きでコーラン入門を本書によって果たす読者は幸せである。
 ただし、本書を読んだからといって、「コーラン」のすべてを理解した、と胸を張るわけにもいかないだろう。個人的には、本書を読んだお蔭で、はじめて、「コーラン」全編を通読しようかという気になった。なお、本書を読むにあたって同著者の「イスラーム文化」を予め先に読んでおくことを読者にはお勧めしたい。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

45 件中 1 件~ 15 件を表示