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ばってんさんのレビュー一覧

投稿者:ばってん

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宝塚歌劇団の座付きオーケストラ宝塚交響楽団は様々なブルックナーの交響曲の日本初演を行っていたのをご存知ですか?

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ん?宝塚交響楽団?もしかしてアマチュアオーケストラですか?って思う人が殆んどかもしれません。一方ブルックナー・マニアの方なら、「あぁ~、あの宝塚交響楽団ね、フフフッ・・・」ってなっているかも。ブルックナーの交響曲1番と4番とテ・デウムの日本初演は宝塚交響楽団。そう、あの有名な宝塚歌劇団の座付きオーケストラがこの宝塚交響楽団です。戦前の西日本で活躍していたクラシック音楽のプロオーケストラは専らこの宝塚交響楽団でした(大阪フィルの前身の関西交響楽団が設立されたのは1947年)。

宝塚交響楽団を率いたのは1886年オーストリアのリンツで生まれた指揮者・作曲家ヨーゼフ・ラスカ。1923年に初来日したラスカは1926年の宝塚交響楽団の第一回定期演奏会に至るまでにどのような事が起こったのか。ラスカは宝塚交響楽団をどのような指導・指揮をしたのか。1935年にモスクワの音楽大会に日本代表として出席したラスカは日本政府から再入国禁止を告げられてしまいます。日本への再入国を拒否されたラスカはたった一つのトランクと彼の作品の楽譜だけを持ってウィーンに戻りました。ユダヤ人ではないラスカは1942年9月にナチのゲシュタボに数回連行、そして同年12月に収容所送りになりました。幸運な事にアメリカ軍によって収容所は解放されて再びウィーンに帰還しましたが、ラスカは二度と日本へは戻って来ませんでした(1964年78歳でラスカはウィーンで死去)。時代と戦争に翻弄され、一時は生命の危険すら危ぶまれたラスカの人生について、そして戦前の日本のオーケストラは一体どんな様子だったのかを知る上で貴重な一冊です。巻末にはラスカが日本滞在中に残した著述、”日本の音楽”、”日本におけるヨーロッパ音楽と日本音楽に対するその関係”の2点が載っています。こちらもとても興味深いです。

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指揮棒を指などに誤って刺してしまった指揮者って結構多いんですね、アブナイアブナイ。

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指揮者関連の本はやはり音楽を中心に語られるのが殆ど、ってかそれが普通ですが、この本は指揮棒の長さや材質、指揮棒無しで指揮する事の良い点や悪い点、思い入れたっぷりに自分の指揮棒との出会いについて、ハイティンク、アシュケナージ、レヴァイン、ブーレーズ、エッシャンバッハ、Sirコリン・デイヴィス、ハーディング、マズア、アルブレヒト等世界で活躍する39人の指揮者がひたすら指揮棒を中心について語っている一冊です。
ニューヨークのメトロポリタン・オペラのティンパニー奏者リチャード・ホロヴィッツさんやロイヤルコンセルトヘボウの事務局のヘンク・ウンメルスさんが作る指揮棒が一番よく出来ている!!!と語る指揮者が実に多いのにはビックリ。
指揮棒を指などに誤って刺してしまった指揮者って結構多いんですね、アブナイアブナイ。その事があってか『それにしてもなんとも気の毒なジャン=バティスト・リュリ』と何人もの指揮者が呟いているのが興味深い。

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実に大変な一冊に巡り合ってしまった

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1943/11/17(水)18:00
1943/11/18(木)18:00
日比谷公会堂
バッハ マタイ受難曲 BWV244
日本交響楽団
ジョセフ・ローゼンストック
成城合唱団(chor.)

1943年(昭和18年)、その前年にはミッドウエー海戦に敗れすでに敗色濃厚な戦争真っただ中。この演奏会の約一か月前の10月21日には第一回出陣学徒壮行会第1回が大雨の明治神宮外苑競技場では行われたそんな時期です。日本中が戦争一色だった昭和18年にマタイ受難曲全曲の日本初演が一体何故出来たのか(マタイ受難曲抜粋は1940年4/10に取り上げられています)?そんな疑問を持ち続けていた中で見つけた一冊がこの『戦中の「マタイ受難曲」―成城学園・ヒューマニズムの光彩』。読み進めていてまず感じたのは「これは実に大変な一冊に巡り合ってしまったなぁ」と。演奏会の準備段階や練習の期間中でもお構いなしに男性の楽団員や合唱団員たちが次々と赤紙招集されていく。既に戦地に赴いた楽団員や合唱団員たちも大勢いて、戦死した同僚もいる。また多くの戦地の同僚は一体今どこにいるのか、生きているのか戦死してるかなど、内地に残って練習しているメンバーは殆どわからない。そんな中でマタイ受難曲の練習は続いていく。戦地に赴く前にマタイ受難曲が聴ける事の喜びを語る方の言葉が心に突き刺さる。「来月はマタイ受難曲の公演の由、小生本年十二月入営することになり、恐らくは最後の音楽会になろうと思って居ます。バッハの傑作で聞き終えることが出来れば、何も思い残すことがありません。熱演を期待しています。」(朽木茂一)
平和な時代に住む我々にとっては到底想像できない環境下で昭和18年の秋にマタイ受難曲が演奏されました。記録が残っていないようなので、正確な情報か不明だそうですが、マタイ受難曲の演奏会は恐らくラジオ生中継されたようで、はるか南方の戦地で日本語訳で歌われたマタイ受難曲を聴いた日本兵がいるかもしれません。

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