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ミゾさんのレビュー一覧

投稿者:ミゾ

3 件中 1 件~ 3 件を表示

新自由主義を批判する

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ホームレス」とよばれる人たちを、バブル崩壊後に駅構内や公園でよくみかけるようになったという経験ならば多くの人がもっているだろう。社会福祉を専門にする著者は、90年代に入って日本の都市部で急増し始めた「ホームレス」について、地道なインタビュー調査を行っている。本書はその調査資料を豊富に紹介しながら執筆されている。
 本書が問題とするのは、「ホームレス」それ自身ではなく、「ホームレス」を通じてみえてくる「ホームレス」を生産・再生産するような現代社会の構造と価値である。というのも著者がみるところ、「ホームレス」とは決して本人の自由な選択の結果出現するのではなく、労働市場や社会保障制度の仕組みといった現代社会の構造に規定されて出現するものだからである。以下、本書を要約しよう。
 最初に「ホームレス」状態を定義するための理論的考察が行われる。社会に一本の貧困線を引き、それより下層の状態を「普通」の貧困であるとすれば、「ホームレス」状態とは、もちろん「普通」の貧困とも共通点があるが、それだけでは捕捉できない特殊性をもつ。その特殊性とは社会から排除されているということである。そのことを導出するために、著者は本書の副題でもある「生きていく場所」という概念を準備する。「生きていく場所」の「場所」とは、「ホーム」や職場といった物理的・地理的概念であるだけでなく、人が生きていく上で取り結んでいく家庭での家族関係、地域での住民関係、職場での労働関係といった社会的関係における個人の位置=位相を指す概念として使われている。そして「ホームレス」状態とは、(1)「ホーム」を喪失しており、その結果、(2)人目にさらされやすい「可視的」な貧困であり、(3)社会=「生きていく場所」から排除されている、そうした状態のことであると定義される。また、「生きていく場所」は競争と変化の渦中にあるが、現代社会とはこの競争と変化が激化した時代であり、その中で「生きていく場所」の「確保事態がますます個人の責務に委ねられ」(本書24頁)ている社会である。そして「ホームレス」の出現はその結果であるというのが著者の認識である。
 エピローグでは、今後の望ましい展望が示される。90年代後半から日本でも行政側の「ホームレス」対策として「自立支援」といった方針が打ち出されてきている。その内容は、「労働自立」モデルと「福祉自立」モデルの2つに類型化されているが、ここでの「労働自立」とは、一般労働市場への参入が想定されており、「ホームレス」の人々がすでにそこから排除されてきた人であることを考えれば、これは現実味に乏しいと著者は判断している。それに替えて著者が提案するのは、労働か福祉かという排他的択一を止揚して、「半就労・半福祉」といったあり方を模索するなど、「ホームレス」の人ではなく「われわれ」の社会の既存の枠組みの方をこそ変更することである。
 さて、感想を述べよう。著者は日本社会の実体面とイデオロギー面の双方で観察される、<諸個人を市場経済のプレイヤーとして主体化する>という昨今の変化こそが、「ホームレス」を生産・再生産している最大の要因である、という認識を示している。評者がみるところ、これは理論面で、市場経済のロジックが全面化すると逆説的にも市場経済自体が機能不全に陥り、そこから落ちこぼれてしまう人を産出してしまう、とする最近の金子勝らの議論とも無理なく繋がるものである。こうしてみると、昨今の新自由主義的潮流に対し具体的批判をした著作として本書を評価することができるだろう。

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紙の本近代の労働観

2001/05/16 17:23

労働への関わりを再考する

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者の専門は社会哲学・社会思想史である。本書での問題はあくまでも「労働観」であって、そこでは客観的な労働の技術的構成がどうであるかといったことが問題なのではなく、労働の当事者が自分の労働をどのように主観的に解釈しつつ生きているかが問題であるとされる。この問題構成が他の労働関連書から本書を分けるポイントでもある。著者がルイ・アルチュセールの議論を日本へ紹介した第1人者であることを考えれば、著者のいわんとする「労働観」の「観」とはアルチュセールの使う意味でのイデオロギー(個人の世界に対する想像的=鏡像的な照応関係の表象)であるといっても大過ないだろう。実際、本書での主要な分析対象は近代での「労働」をめぐる言説なのであり、著者が本書に課した基本テーマは近代の労働観の特異性を明らかにし、それを批判的に検討することとなっている。以下、本書を要約しよう。
 近代的労働が登場してくる前史を振り返ると、近代に入り、農村から都市への流入人口が第1に国家の行政的観点からみて、潜在的犯罪者として現れ、特定の場所に収容される。しかし第2に宗教的慈善の意図から彼らは排除の対象としてではなく、矯正の対象として扱われる。収容所は「矯正院」あるいは「労働の家」と呼ばれ、強制労働を課すことによって怠惰を克服し、労働規律を養成することが目指される。そのため第3にそれは工場としての経済的機能も持っていた。つまり近代初期に「労働」は行政的配慮と宗教的慈善と経済的利益とが交差する結節点として立ち現れる。こうして近代的労働はその前史を振り返ってみるならば強制労働としての性格をその本質とする。
 では、そうした性質を持つ近代的労働に対し、近代人はどう関わってきたのか。アンリ・ドマンは1920年代に労働者の労働に対する主観的感情を聞き取った調査に基づき、「労働の喜び」論を展開している。ドマンの「労働の喜び」論とは、(1)労働には本質的に喜びが内在しているが、(2)現実の社会的条件はその喜びの発露を阻害しており、(3)よって喜びを阻害する外的な社会的条件を改善し、喜びを生み出す本来の労働の姿を取り戻すことが課題となる、とする論として著者は整理する。そしてこれを近代の労働観の典型例とみなしている。そもそも著者は奴隷的強制労働が近代的労働の本質的性格であるとしていた。そのため著者はドマンに代表される近代の労働観、つまり「労働の喜び」論とは結局のところ労働が隷属労働としてある事実を想像的=鏡像的に乗り越えようとするブルジョア・イデオロギーにすぎないと判断している。
 以上の議論をふまえて著者の提言がなされる。第1に、近代の労働観では「労働はそれ自体喜びを生み出すもの」とされてきた。しかしそれはブルジョア・イデオロギーにすぎないのであって、労働は本質的に隷属的な性格を持つ。ゆえに真に目指されるべきは労働時間の短縮である。第2に、労働の喜びに関して言えば、それを放棄するというのではなく、喜びの機制である他人からの承認欲望を私的なものから公的なものへと質的に転換することが課題となる。以上が本書に込めた著者のメッセージであろう。
 さて感想を述べよう。理論面では、シャルル・フーリエの扱いに疑問が残った。フーリエに対する言及がいかにも舌足らずで、フーリエに対する著者の理解が明らかになっておらず、これでは読者は本書全体の中にフーリエをどう配置すればいいのかわからない。フーリエを著者がどう評価するのかはとても興味ある点であって、次の機会に著者の見解を聞かせてもらいたいと一読者として期待する。また著者の具体的なメッセージに関し、従来は「時短」派と「労働現場での解放」派に分かれることが多かった労働に対する提言だが、著者は両方を同時に追求すべきだとしている。これは重要な提言として受け止めたい。

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疑問符残る女子学生への応援歌

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 著者の専門は労働経済学である。本書で課題となっているのは、新しい経済学の提起ではなく、変わりゆく家族に対して経済学の側から分析のメスを入れることである。具体的に本書が取り扱うのは労働市場、雇用システム、社会保障制度などの変化であり、それらを通じて夫婦関係や育児のあり方がどのように変化していくのかという問題である。本書を要約してみよう。
 市場は経済が変化したという情報を価格=シグナルで各経済主体に伝達する。経済そのものが女性労働者を必要とするようになったという情報は女性の賃金上昇をシグナルとして各経済主体に伝達される。日本の経済社会は、産業構造の変化(就業者のなかの女性就業者の割合は、第2次産業で2〜5割、第3次産業で5〜6割)や、労働需要の質的変化(知的労働者の需要増大、女性の高学歴化)を経験しており、経済が女性労働者を必要とするものに変化していると著者は判断している。この変化は女性の市場賃金上昇として現れ、それが既婚女性を労働市場に引き出す。この傾向はとりわけ1985年以降明らかになる。経済社会の客観的変化によって日本でも他の先進国と同様に既婚女性の就業増大は避けがたい趨勢だというのが著者の基本的見解である。
 では、働く女性の増加は女性の生活様式をどう変えるのか。アメリカの経験では、女性が雇用者としてより深く労働市場に関わるにつれ、ライフサイクルの選択も、結婚や育児か、仕事かという二者択一から結婚も子どもも仕事もという両立型の選択へと変化してきた。これに伴い、女性の年齢別就業パターンも、M字型から台形へと大きく変化した。
 こうしたアメリカの状況と比較すると、働く女性が増えているとはいえ日本の状況はやはり異なる。調査では、理想では「結婚し子供をもちながら働く」ことを希望し、現実では「結婚あるいは出産退職後、再び働く」ことを予想する女性が最も多い。このギャップの原因を追及すると、日本の労働市場の構造的問題に行き着く。他の先進国と比べて日本の労働市場の特殊性は、女性の労働市場ではなく、男性の労働市場の側にある。その指標の1つが男性労働者の勤続年数の際立った長さである。
 日本では、長期雇用を前提に転職を抑制するような雇用慣行が形成されてきた。若い時点で会社が内部的に教育訓練投資をし、長期的な熟練形成と生産性上昇により賃金は年功によって上昇する。こうした長期的に帳尻があう制度では、短期勤続の可能性の高い労働者(女性労働者)は熟練形成の枠から外される。こうして同じ組織のなかで性による分業体制が生まれる。家庭ではそれと表裏の関係で性別役割分業が固定化される。
 ところで、日本的な長期にわたる雇用慣行は、そもそも成長が持続でき、下広がりの形で中高年と若年の比率を確保できるという条件下で経済合理性をもつ。そのため利潤よりも成長が追求され、銀行借り入れでの資金調達が選択される。こうして日本的雇用慣行と間接金融とが有機的に結合する日本的経済モデルが形成される。
 しかし金融市場の自由化進展などによって企業は行動様式の変化を迫られ、長期的雇用慣行も影響を被る。そこでは市場を調整役とし、家や世帯ではなく、個人を単位にした雇用形態が増加する。夫婦間の固定された分業は弛緩し、女性の社会進出が進展し、夫婦共働きが普及するだろう。以上が本書全体の要約である。
 感想を述べよう。女性の社会進出にとって強力な阻害要因としてあった日本的経済モデルは構造改革を迫られ、労働と市場との関係が緊密化する方向のなかで、女性にとっては社会進出を果たすチャンスが到来したというのが著者の本書での主要メッセージである。しかし市場メカニズムの全面化によって果たして著者の考える理想的な女性の社会進出が実現するのか、著者のメッセージはいささか楽観的にすぎないかという疑問が残る。

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