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トッポさんのレビュー一覧

投稿者:トッポ

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本FUTON

2004/02/27 02:33

FUTONのかほり

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

  FUTON という文字、パリで見かけて、あれ? と思ったことがある。パリでも、FUTON は売られていて、しかも高級家具のアイテムなのである。もちろん、日本人から見ると、そこで売られているものが、FUTON なんだか bed なんだか、その区別はよくつかなかったりするのだが、和食ブームともあいまって(?)、そこそこ売れているらしい。
 
 この作品はそうしたこととはまったく関係なくて、田山花袋の古典、『蒲団』の改作を一つの軸とした快作である。もちろん、この快作が怪作たる所以は、『蒲団』をFUTONと解釈することからも見て取れる。一応主人公と言えるのは、デイブなる日本文学を専攻するアメリカの大学教授。バツイチなのだが、ハーフのエミという自分の学生と付き合っているうらやましい、いや、けしからんやつである。そのエミが、他に若い日本人留学生ユウキとも付き合っていて、こいつを追っかけて日本へ行ったエミを追っかけて日本へ行く、という次第で、この小説は動き始める。一方日本には、エミのひいおじいさん・ウメキチ95歳が運動の中心になる。ボケてしまっていて、イズミが介護をするが、その友だちのケンちゃんがボーイフレンドなんだが実はガールフレンドである、という中での運動だ。そして、折々、デイブによる「蒲団の打ち直し」がこの運動を計るかの如く、あるいは小説の渦巻きを強めるべく介入してくる…と、なかなか目まぐるしい。しかし、この複雑な運動・渦動を破綻無く動かしていくあたり、「大型新人」というに相応しい。高橋源一郎氏のご推挽ももっともであろう。

 ところで、この作品、登場人物が生粋の日本人でも「ウメキチ」とカタカナで書かれる(「蒲団の打ち直し」部分を除けば、登場人物が、日本的表記で現れる箇所は、気づいた限りでは、一箇所)。これが、「FUTON」と繋がっていることは、読み進むにつれて気づくことになる。この物語、或る意味では、越境の物語とは言えまいか。デイブというアメリカ人が日本文学という異文化を研究している、その彼が、ハーフの女学生と仲良くなる、それを追いかけて日本へと太平洋を越えてくる、日本では、現実と夢幻との境界がぼやけたおじいさんを、女性を愛する女性や男性的な女性が介護をし…。「蒲団の打ち直し」が、『蒲団』を先生の妻の観点から(デイブという男性が)書き直す試みだという点で、この越境的性格は確然とする。95歳で、大空襲を生き延びてきた人間という存在自体、過去から現在への越境者ではないか…。カタカナは、そうした「異」性を、と同時にそうして取り込まれて生かされかつ異化された(=同化された)香りを漂わせている…かもしれない。その香りは、「蒲団」ならぬ“FUTON”を抱きしめたときにもかぐことができただろうか?
 
 ま、そんなことはともかくとして、面白いです。

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紙の本川端康成 美しい日本の私

2004/04/25 16:49

旅への誘い

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 川端康成。
 言わずと知れた日本最初のノーベル文学賞受賞者である。これについては、以前から不思議に思っていたことがある。
 例えば、三島の作品であれば、外国語に翻訳されたときにも、基本的にはその作品の作品性(たとえば、『仮面の告白』がまさにその作品である所以)は十分に伝わるであろう。それは、私たちが、日本語で『カラマーゾフの兄弟』を読むときに、(きっと)作品の本質は変わっていない(だろう)と思って(むしろそんなことを考えもせずに)読むときに生起していることを、逆転させれば推測できることだ。しかし、川端の文学は、おそらくその風土性(本著の著者の言葉を借用)と切り離し得ないし、日本語ともいよいよ切り離し得ないだろう。「新感覚派」なる呼称の是非はともかくとしても、彼の表現の感覚性は、日本語の肌合いや構造と切り離し得ないように思う。にも関わらず、どうして川端(の文学)は、海外で高い評価を得ることが出来たのだろうか。本書は、まず評者がこれまで感じていた疑問に、間接的に答えてくれるものであった。
 この点、著者が、その問題をフランス(語)という日本(語)とは異なる発想を持つ言語の現場で、翻訳を通じてまさに身を以て経験されたこと、その経験を通しておそらく思索されたこと(あとがき)、これが本書の底を流れていると思われる。

 評伝、という性格による制約もあるのだろうか、著者は決して出しゃばることはない。そのことは、本書の文体によく現れているように思う。非常に読みやすく、明快である。変に流れを歪めるようなレトリックを弄することもなく、いわば、川端をして川端を語らしめようとし、自らは黒子に徹しようとしているかのようだ。
 これはもちろん、何らの理論装置も無しで作品と対峙しているということではない。例えば、「伊豆の踊子」や「雪国」を論じるときの、神話や伝承物語への還元の手続や、戦後の二つの方向性を論じるときの、無意識的なものへの参照など、昨今の批評手続の、いわば常道を踏んでおり、おかげで、川端文学の方向性・可能性は、非常に見通しやすくなっており、裨益されるところが多い。一方で、そうした理論が、既に十分に道具として熟してきていることを伺わせる、と言えようか。
 この点に関係して興味深かったのは、20頁に紹介されている川嶋至氏による『16歳の日記』が虚構か創作か、という論争があったこと(1969年)が紹介されているくだりである。筆者は特にここで何らかの論定を行っているわけではないが、「作者の死」後を生き、間テクスト性だの脱構築だのといった議論を経て、New Historicism が喧しい今日この頃、私たちとしては、おそらく最早このナイーヴな論争に意味を見出すことはできないだろう、という感想を抱いたことであった。批評の現在性を、図らずもここで反照的に感じ取ってしまったのである。

 後半、やや図式に依存しすぎている嫌いもなくはない。けれど、読後、再度『雪国』から『古都』への旅程を辿ってみたくなった。旅への誘いとして、好適であると思う。

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アインシュタインは、やはり天才なのか?

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 「相対性理論」…これは、物理学に憧れる文系人間にとって、「量子力学」と並ぶ難解かつ魅力的な理論の双璧であると思う。難解なものに、なぜか引かれてしまうのも、人間の性だろうか。そこにはきっと、自分には窺い知れないこの世界の、あるいは宇宙の秘密が隠されているような気がするからだろう。
 もちろん、「難解さ」にも色々な要素がある。単に、表現が下手なために難解めいている場合…これは救いがたい。魔法が解ければ、ただのがらくたである。一方、事柄が私たちの日常のことばに馴染まないために、それを考えること自体が難しく、結果、それを語る言葉が難解になる場合…これは、私たちが、自分のことばのあり方を変更しなければ、それを考えることが出来ない。「量子力学」などは、おそらくそうしたものなのであろう(と想像する)。「相対性理論」は、ちょうどその両極の間にある理論なのではないだろうか。「時間が遅れる」とか「空間が歪む」など、時間空間について私たちが持っている日常経験あるいは直観(と言っても、実はニュートン物理学的に構成されたものであるのだけど)には反する事態が、しかし日常語を用いて語られ、かくてそこにはパラドキシカルな風景が拡がることになる。そうして、私たちの「常識」を少しだけたわめて見せてくれる。ここに「相対性理論」が人を惹き付ける力の源泉がありそうだ。
 本書は、この「相対性理論」を、アインシュタインという若者(何となく老年のイメージが強いが、この理論の発表当時、彼は26歳だったことを再確認してしまうのは、引用される物理学史上重要なラブレター(!)のおかげである)がどのようなプロセスを経て形成していったか、を文献的に追って確認していくことを主眼としている。その筋を追うに当たっては、物理学と相対性理論に関して、(文系たる我が身には)ある程度の予備知識を持っていないと取り付きにくいところがあった。ここは著者ご自身の慫慂に従ってある程度「飛ばして」(p.21)いきたいところだが、そこを堪えてどうにか斜め読みででも、読み進んでいくべきところ。
 そうしてみると、少なくとも、自分があれやこれやの「相対性理論」入門書で読んだことのある話が、随分と違う観点から書かれていることに気づき、驚かされることになる。たとえば、「マイケルソン−モーレーの実験」との関係については、今まで聞いていたものと、かなり話が違うことに驚きを禁じ得なかった(p.78, 154)。たしかに「教育上の便宜」(p.78)で、「この実験結果を解決するためにアインシュタインは云々…」と、これまで語られていたところなのであろうが、一方では、科学者たちは、あまり理論の形成過程には関心をもたないのかもしれない、とも思う。
 そうしたことを考えると、閑却され、紹介もあまりされてこなかった(と思われる)理論形成過程に光を当てたという点に、物理学史の専門家による本書の意義はあるだろう。
 若干の難を言うならば、本書の成立が、筆者の専門論文数編を元にしたものであるためだろうか、やや、各章間のつながりが弱いところがあるように感じられる。逆に言えば、各章をある程度独立したものとして読むことが出来る、ということにもなるのだが、全体としての一つの流れを作ることが出来れば、より見通しやすい「一冊の本」になったのではないだろうか。
 ともあれ、理論形成のダイナミクスを垣間見させてくれるスリリングな一冊であったことは間違いない。

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自然が自然と問題になるのだ

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 メルロ=ポンティの『自然』講義記録が出版されて以来、後期メルロ=ポンティの思惟の裏面が明らかになってきた。とりわけ、晩年の遺著とされる『見えるものと見えないもの』は、実際には書物ではなく、未完の草稿、更には、(単なる)メモの集積であったがために、その意味するところを解読することは、とりもなおさず、解釈者の思惟と恣意との絡み合いによって果たされるしかなかった、とも言える。それが、この講義記録の出版によって、少なくとも、メルロ=ポンティがそうしたメモを書く向こう側で、どのような講義をしていたか、が見えるようになったわけで、誠に慶賀すべきことである(さらに他の講義メモも出版されてきているので、その面での研究は、今後も進展するのであろう)。

 この講義記録の解釈が半分を占める本書はしかし、単なるその紹介に終わるものではない。この講義記録を通して、晩年のメルロ=ポンティが志向し思考していたことを、出発点たる『行動の構造』にまで遡り跡づけていく作業を通して、却って、これまであまり表だって議論されてこなかった『行動の構造』そのものの解釈をも革新しているのである。そうすることで、メルロ=ポンティといえばなんたって『知覚の現象学』、という研究状況に、一石を投じたことが、まず第一の意義と言えるのではないか。

 次に、この力点の変更を通して、自然科学と哲学との関係を、再度結び直す視点を設定しようとしている、という点が、第二の意義といえるのではないだろうか。考えてみれば、フランス哲学の一つの特徴として、メーヌ・ド・ビラン、ブランシュヴィック、ベルクソン、ヴュイユマンなどにみられるような、科学との親密な関係(だからといって、いい関係とは限らないが)があったのだ。メルロ=ポンティも、いわばその伝統を踏襲しているのだが(『行動の構造』でも『知覚の現象学』でももちろん見て取ることが出来る)、このことを、再度想起させてくれる。その視点から、あるいは少なくとも、そのことも踏まえた上で、『見えるものと見えないもの』へと向かうべきであることを、教えてくれたのである。

 この観点からするとき、「肉」というメルロ=ポンティ晩年の鍵概念も、決して神秘的なものとしてではなく解釈することが可能になる、ということを主張する点において、最終章は本書のピークを成す。単に、メルロ=ポンティは当時の自然科学も無視していませんでした、などといった消極的な主張ではなく、まさにそこで進行していた−今もなお進行している−科学の地盤変動は、それが存在論へと写されたときにいかなる意味を持つか、こうした思惟の反映として「肉」の概念を解釈するとき、あるいは別の始元における存在概念が語られることになるのかもしれない。

 他にも、著者は、様々な問題に触れながらも、本書内で展開するにはいたらなかった諸問題が数多く残されている。著者の、今後の思惟活動を刮目して待ちたいと思う。

 なお、四つ星としたのは、編集上、誤植が結構あり、注の付け位置の問題と思われるもの、なども散見されたためである(初版に依る)。

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