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レビューアーランキング
先月(2017年5月)

HATAさんのレビュー一覧

投稿者:HATA

4 件中 1 件~ 4 件を表示

何度でも、何年先でも、手にとってみたい

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ジャンルとしては、数多くの美しいカラー写真に、取材者のリポートと数字データを加えた「写真集」と「ノンフィクション」の 間、といったところだろうか。
bk1では“美術・デザイン・写真”のジャンルに入っている。
もちろん写真集として、申し分のない迫力と際立った個性を持っている。
何故、写真集を買うのかと問われれば、わたくしなら「見たことのないものを見てみたいから」と答える。
この本は、その要求に応えて余りあるものだ。

これは世界30カ国の「ふつうの家庭」をひとつ尋ね、「ふつうの生活」を写真とビデオに収め、聞き取り取材し、数字に代えられるデータのあらゆるものを集め、厳選されたカラー写真を中心にまとめ上げたものである。
「ふつうの家庭」を選ぶにあたっての基準やその方法、実際に取材に至るまでの苦労などは、本書に解説されている。
「“ふつうの家庭”なんて、どこにもないのだ」といった皮肉めいたご意見もあるだろう。
もちろん、とある国での一般的な生活状況を、たったひとつの家庭に代表させるなんてことには無理がある。
とりあえず、ここに収録されている日本の一家庭の様子を窺ってみて、それを普通と感じるかちょっと違うと感じるか、それをもって他の29カ国で取り上げられた家庭の「ふつうさ具合」を測る基準としてもよいだろう。
普通に対する認識のズレもまた、楽しめばよいと思う。

本書のメイン。このプロジェクトをこれまでの報道写真やただの記録資料から際立たせているのはなんといっても、各国の冒頭見開き写真だ。
家の中のあらゆるものを全て家の前に運び出し、家を背景に、家族もみな並んで写ってみる。家具も衣服も食器も電化製品もペットも家畜も何もかも。
「生活」をたった一枚の写真に凝縮してしまおう、というこんな直接的な(ばかげたとも言えるような)冒険は、あろうことか大成功をおさめている。
もの=material。そのひとつひとつが、一目にできることによってまたさらに、見事にその家庭の生活状況を語っている。
ベンツや日本車計4台や24人掛けソファーを持つクウェートの一家。
色鮮やかなキルトと敷物を何十枚も積み上げたウズベキスタンの一家。
砲弾を受け崩れ落ちそうなベランダにトマトやブロッコリーの鉢を並べたボスニアの一家の写真には唯一、家族以外の人間が写っている。自分の持ち場で銃を構える国連軍の兵士だ。長女の夫もまた、迷彩服を着ている…。

“著者”として記されているマテリアル・ワールド・プロジェクトとは、ひとりの写真家の呼びかけに応じたカメラマン、記者、学者など18人のメンバーから成る。
米、英、仏、南米、香港など様々な国の出身者であり、かつ、各々が世界中を縦横無尽に駆け回り、TIME、LIFE、News Week、Forbes、National Geographicなど、名だたる有力紙にその写真と記事を掲載し続けている最前線の報道カメラマン、記者たちである。
彼らが日常的に扱う題材は自ずと、現地での社会問題、環境破壊問題、そして内戦の現状などだったろう。
そんな彼らの経験と行動力に支えられたこの極めて特異なブロジェクトの成果が、子供から大人まで、より多くの人の眼に届いて欲しいと思う。
¥1,950という手頃な価格設定は、プロジェクトメンバーと出版社のそういった気持ちの表れだと理解する。

一番最初の取材だったという日本での日付が1992年だから、丁度10年が経つ。
世界地図が刻々と書き換えられるのと同様、ここに取り上げられた国々にも各家庭にも状況の変化があるだろう。
巻末の統計データなども現在有効ではないものが多いことは間違いない。
ただし記録とは、最新の情報でなければ意味がない、というものではないと思う。
1992年から1994年の世界の一部を記した明らかな記録として、今これを手に取ることだって十分に有効だ。
何より、とにかく、楽しめるのだから。

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紙の本夜を賭けて

2002/10/14 19:40

すべてを忘れさせないものにした一編の詩から

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「血と骨」を読み終えてくたくたになったところで、うっかりこの「夜を賭けて」を手に取ってしまい、またしても寝食忘れて没頭するはめに陥った。
こんな疲労の極地にありながら、心身ともに充足感でいっぱいだ。

物語が始まる前に、本作と同じタイトルの詩文が4ページに渡り収められている。
1958年作とあるから、昭和33年、著者22歳の青年時のものだ。
本作品を書き上げて初の刊行(NHK出版・1994)に至るより36年も前、まさに物語の舞台となったその時代そのときに、書き記されたものである。

その詩文に満ちているのは、若き梁石日の身体から溢れ出て止まらない熱、力、叫びと憎悪を直接的に書きなぐるような、それでいて幻想的で力強く、そして吐き気を呼ぶほどのグロテスクな描写である。
若い著者がそのとき何を見て何を感じていたかが、とにかくまっすぐに伝わってくる。
こんな詩を一度でも文字にして書き残してしまったら、当時の溢れ出る情熱を忘れることなど、一生できないだろう。

そうして忘れられることなく30年以上を経て改めて書き上げられたこの長編の物語は、まっすぐで不器用な人間たちが、その熱い肉体をぶつけ合ってひたすら生き抜こうとする闘いの物語だ。
執筆時にはおそらく50代半ばにさしかかっていたであろう梁石日の、ここでの筆致そのものは、実はもう暴力的でもないし暗黒的でもない。グロテスクだとも言えない。
血も汗も泥も脂も暴力もある。涙も嫉妬も悲しみも憎しみも死もある。
でもその描写は、すべての生ける人間のあるがままの姿に他ならない。
だからこそ、時に滑稽でもある。そのリアルなセリフや言い回しに思わず吹き出してしまった場面も少なからずある。
やり切れないほどちっぽけな死もある。怒りを抑えきれない理不尽にも出くわす。
梁石日は、それらを冷静にリアルに書き留めることができる年齢になっていた。
若き日に一編の詩に凝縮させたあの熱さだけはそのままに、一気に読ませる力強い長編小説に仕上げたのだ。

後半、在日コリアン界において悪名高き、大村収容所が出てくる。
現在は「大村入国管理センター」と名を変え、定員のほとんどを密航中国人が占めているという。その待遇はもちろん改善されているだろう。
梁石日は、かつてのこの「収容所」の内実がどのようなものであったかを、作家として、在日コリアンとして、もの言うひとりの人間として、記した。
この先封印され忘れられかねない「大村収容所」について、日本の歴史のこのような側面を伝え継ぐ小説のひとつになれば、とも願う。

梁石日が、生まれ育った大阪を舞台に戦後の在日コリアン"世界"を描くものを読んでいると、憧憬とも羨望ともつかぬむずむずとした感触に襲われてしまう。
確かにそれを目にし、その臭いをかぎ、泥にも火にも肉体を突っ込み、焼かれても沈められてもまた這い上がり、そうしてこの時代と場所を生き抜いてきた人間にしか描けないものだからだ。
それを羨望などと言ってみるのは、ばかげているだろうか。
憧れを感じるだなんておかしなことだろうか。
例えば彼らが夜な夜な忍び込み、"宝"の発掘を夢見たその果てしなく広がる廃墟の暗闇は、この眼にはひどく魅力的に映ったりはしないだろうか。
月明かりが、星の光が、眩しくさえ感じられるのではないだろうか。
たとえ泥と脂にまみれた生活の中でも、その荒廃の中に"生"のかけらが埋まっていると空想するのは、一瞬でもそこを輝きに満ち溢れた風景に見せてくれるのではないだろうか。
そんな体験を、この先たった一度でもできることがあるだろうか...。

本作品は、新宿梁山泊の座長である金守珍の監督により映画化され、2002年11月に公開される。
戦後の風景を求めて探し出したロケ地は、韓国南西部の群山という海沿いの町だそうだ。
まずはスクリーンに再現される集落の風景、くず鉄の埋まった広大な廃墟の風景を、この眼で見てみたい。

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最後の場所で

2002/10/12 23:01

若き著者と年老いた主人公を結びつけたもの

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

あとがきによると、著者は自らソウルに赴き、実際に日本軍に従事させられた元慰安婦の方々に直接取材をしたという。
当時を知らぬ世代が当時を生き抜いた証人の口から「証言」を聞く時、
ある者は胸を突かれ、顔をゆがめ、ただ涙を浮かべて、言葉を失うしかないだろう。
ある者はそれを記述することで、歴史の事実として先に残す仕事を引き受けるだろう。
そしてそのどちらも選ぶことができない者がいる。それが作家だ。
断じて言葉を失うことなどできず、事実として書き記すだけでは満たされない者のことである。

著者は当初、ひとりの元慰安婦の視点から語られる小説を書いていたが、数百頁も書いてから「女性たちが語った真実に触れてもいなければ、その深さにも近づいていない」(訳者あとがきより)と気付いたという。
結局それまでに書いたものをすべて捨て、まったく違う小説として新たに本著を書き上げた。
女性たちの視点では描ききれなかった「真実」とは「その深さ」とは、何だったのか?
そこへ到達するために必要とされたのが、日本軍兵として彼女たちに向き合うこととなった“同胞”ドクによって静かに語られる、この長い物語である。
物語の主題は、決して従軍慰安婦について、或いはそれにまつわる国家間の政治的問題についてではない。
あくまで、偶然にもそれを語らずには決着できないものとなってしまった語り手ドクの、人生の物語だ。

原題を“A Gesture Life”という。
「最後の場所で」という邦題は、本文中から引用されたものと思われるが、“そこ”に至るまでの長い長い時間も、さまざまな幾多の体験も暗示していて、静かで、穏やかで、ちょっと哀しげで、いいタイトルだと思う。
本文中にもほんの数回登場するこの言葉=gestureは、そこでは「体裁」と訳されている。
「体裁の人生」だなんて、厳しい日本語だが、ひとは常に何者かの視線を意識して生きているものだ。それに怯えることだってある。一方で他者の視線など、実は自分の内面にも深層にも届いてこないことも知っていて、安心している。
そして結局は「本当の自分をわかって欲しい」なんて感傷的に嘆いてみせて、やっぱり他者を求めるのだ。

語り手ドクは、何十年も前の戦地での体験を抱え込んでいる。冷静に冷酷に、その記憶の底辺にまでしっかりと踏み入ってゆけるほどに、抱え込んでいる。
悲しいのは彼が「いま」を生きており、新たな場所で新たな人生を手に入れることに成功し、日常を生きていることである。
どれほど残酷な記憶を抱えていても、日常を生きるためにはひとを求め、ひとを愛する。
自分の記憶などとは無関係にあるひとたちを、いま、愛さなくてはならないし、愛したいのだ。
そう語りかけてくるような著者の文体は、細やかな表現にもひっかかるところがなく、「美しい」文章にありがちな気恥ずかしい表現も、説教くささも感じない。もちろん訳者のセンスに依るところも大いにあるだろうが、こういった感性の確かさも好ましい。

30代半ばでこれを書き上げた著者は、自身の倍以上も年老いたひとりの男にそのジェスチャア・ライフを語らせ、それを成功させ、まるで人生のすべてを知り尽くしてしまっているかのようだ。
しかしジェスチャアそれ自体は、著者自身も、著者より若い読者も若くない読者も、誰しもが備えている。
それをうまく使えるか否かに、年齢も国籍も生い立ちも関係ない。
若き著者は、決して人生を知り尽くしているわけではない。
ただ、ジェスチャアを使いこなせるひとはとても少ないのだということを、知っている。
それこそが著者が持つ強度であり、この物語の始まりを導いたのだろう。

体裁によって手に入れられるものがる。体裁のために必ず失うものがある。
ひとを傷つけずに生きてゆけるほどには強くもなれない。
それでも、ひとは生きることを許されている。生きることを、まだ続けてもかまわないのだ。

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フル・ムーン

2002/07/10 03:41

確かに地球のものではない光

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レンズを通して光をフィルムに焼き付けるという、写真の持つ力強さと繊細な技をあらためて思い知る。

21世紀も始まりを迎えた今、精密なコンピューターグラフィックスに見慣れたこの眼は、これらの写真の精密さをまず疑ってしまう。
しかし、CGよりも精密で、CGよりも現実感が希薄。
CGのほうがきっと、もっとリアルに感じられるように描けるのだと思う。
大気の存在しない場所で、間違いなく地球上のものではない光をフィルムに焼き付けると、見たことのないその光は見たことのない影を浮かび上がらせる。

「神のような知覚能力を得た気分にさせてくれる」とは、後付のマイケル・ライト氏の弁。まさに。
神のような気分になるのに\4,700は安すぎませんか。

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