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べあとりーちぇさんのレビュー一覧

投稿者:べあとりーちぇ

90 件中 1 件~ 15 件を表示

永遠に少女であることの難しさ

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大島弓子氏は不思議な作家である。この人ほど、視線が透明さを失わない大人も珍しいであろう。言うなれば少女の清澄な輝きと大人の女性のゆったりした思索を兼ね備えた稀有な人物なのである。

 13年5か月と1日共に暮らしたサバが他界し、寂しさを埋めるようにしてアメリカンショートヘアのグーグーがやって来て、後に元捨て猫のビーが家族に加わるあたりまでが1巻。その後元捨て猫で黒い長毛種ミックスのクロがやってきて、さらにホームレスのおじさんから託されたタマが仲間になるところまでが2巻。続きは雑誌『本の旅人』上で連載中である。

 1巻から2巻の間に大島氏を訪れた危機は、決して軽々しく考えられるものではなかったはずである。しかしその出来事はあくまでも淡々と語られる。大島氏にとって何より大切なものは猫との生活であり、あんなことはその合間に起こったちょっと大き目のハプニングでしかなかったんだよ、とでも言うように。
 その何より大切な猫たちとの幸せな生活は、垣間見る読者たちの心をも一時少女に帰してくれるようである。大島氏が愛する猫たちに、古びた家電に、世の中の風景に、日常のささいなエピソードに注ぐ温かなまなざし、猫たちとともに過ごす穏やかでゆったりとした時の流れは、「癒し」などという軽薄な流行言葉では到底表しきれない「救い」のちからさえ持っている。

 そして一方では大変なリアリズムをも兼ね備えているのが大島氏である。タマが大島家にやってきた時のエピソードなど、とてもここまでできないのが普通なのではないかと思うようなことばかり。さらに当初はタマの里親を探すつもりだったのが、やっぱりウチにおこうと決心するところは静かな感動に満ちている。動物好きならこういう行動こそ取りたいと思いつつ、諸々の事情で理想を追求できない人間としては、まったくもって降参である。
 大島氏と猫たちが、いつまでもいつまでも穏やかに幸福で暮らしてくれることを、心から願ってやまない。

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「その辺の坂道」を眺める目が変わります

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 タモリ氏を一言で表現するとしたら、「趣味人」という言葉がぴったりだ。毎週金曜日の深夜に放送されている「タモリ倶楽部」を観ているとつくづくそう思う。氏が興味をお持ちの分野がどれだけ広範囲に亘っているか、そしてまたそれらについてどれだけ深く理解しているか、垣間見る度に感服するしかない。
 本書はそういうタモリ氏の興味のひとつ「東京の坂道」について、微に入り細に入り書かれたものである。何でも某出版社の社長さんと設立した「日本坂道学会」なるものがあって、タモリ氏はその副会長なのだそうだ。もちろん会長は某社長さんで、実はお2人以外の会員数は未だにゼロというあたりが微笑ましい。

 江戸時代の東京についても非常に深い造詣を誇るタモリ氏から見れば、坂道というもの、江戸の面影を残す貴重な観察対象である。それぞれの由緒と風情があって、鑑賞対象としても魅力タップリらしい。ちなみにタモリ流坂道鑑賞ポイントは以下の4つ。

 1.勾配の具合
 2.湾曲のしかた
 3.まわりに江戸の風情を醸し出すものがある
 4.名前に由来、由緒がある

 そういう訳で、港区、文京区、新宿区を始めとした9つの区の、選り抜きの坂道37についてが事細かに記されている。それぞれのウンチクはまさに立て板に水、タモリ氏の嬉しそうな語り口が聞えてきそうで大変に読み応えがあるのだ。前述の4つの鑑賞ポイントを★〜★★★★★で表した「坂道実力判断」やウォーキングマップ、お勧めのルートと観光ポイントにお立ち寄りスポットも紹介されていて、読んでいるうちに「明日にでも行ってみようか」という気になること請け合いである。
 ルートガイドには編集部が概算で調査した総距離と所要時間も載っているのでお散歩計画も立てやすい。各区の章末には方向音痴な人でも安心な地図まで付いた至れり尽くせりの安心構成。

 巻頭文にあるように、開発の具合で道は変わって行くけれど、坂道はそのまま残っている場合が多い。それはきっと東京だけでなく、日本の他の地域でも同じような傾向があるのだろう。だとしたら、住まいの近辺にあるあんな坂やこんな坂、調べてみたら実は意外な由緒があるということも有り得る。
 一味違った「東京のデートコース」を企画してみるもよし、「日本坂道学会」3人目の会員を目指して近隣の坂道を研究してみるもよし。ついついその気になってしまうのは、本書にあふれる坂道への愛着にノセられるからなのだろう。

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紙の本スティル・ライフ

2003/06/30 14:06

耳の底に硬く澄んだ水晶の音が聞こえる

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この話の何がどう素晴らしいのか、的確な言葉で短く表現するのは難しい。けれど読んでみれば間違いなく何かきらきらした美しいものが、あなたの胸に降り積もって宿るであろう。昭和62年度中央公論新人賞および第98回芥川賞受賞の、決して埋もれさせ忘れ去ってはならない珠玉の名作。

 染色工場でアルバイトをしながら暮らす「ぼく」は、自分の外側に立つ世界と自分の内部に広がる世界との調和をうまく取ることができないでいる。自分の長い生涯を投入すべき何かを探し続けているのだが、それはなかなか見つからない。見つからないながらも特に焦るでもなく、淡々とアルバイトする日々を送っている。今で言うフリーターである。
 彼はある日職場で佐々井という男に出会い、話すようになる。佐々井は「ぼく」と同じフリーター生活をしているものの、「ぼく」が探しているような何かをもう既に見つけているような人物、ちゃんと世界の全体を見ているように思える人物である。
 佐々井と「ぼく」は、とある事情のために三ヶ月限定で同居するようになる。佐々井が話す言葉に「ぼく」は魅了される。三ヶ月が過ぎ、佐々井がまたふらりといなくなった後も、佐々井の語った言葉と彼の気配は「ぼく」の周囲に確かに漂い、「ぼく」の中で何かが変わるのだった——。

 作中に散りばめられた叙情的で美しい文章を、いとおしむようにできるだけゆっくりと読んでほしい。夏の夜、星空の下で宇宙に想いをはせつつ紐解くのが相応しいだろう。同時収録の「ヤー・チャイカ」も合わせてどうぞ。

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紙の本ねこの肉球完全版

2003/11/01 18:08

幸せな、あまりにも幸せな一冊

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本屋に行くとついつい、買うつもりもないのに面白い本を見つけてしまい、本棚の前で呻吟することになる。先日もそうだった。文春文庫PLUSの「ねこの肉球完全版」。家人がラグビーの本を探したいというので何となく付いていき、「今月はもう本たくさん買っちゃったから見るだけね」と思いながら書架の谷間を流していたら、「目が合ってしまった」。

 平積みの表紙の写真、そして帯のあおり文句。「ぷにぷにふにふに」だって。こ、これは…。気が付いたら手に取ってレジに突進していた。
 中身はタイトルに違わず、ええいこれでもかとばかりに肉球があふれている。大人猫の肉球、子猫の肉球。子猫の肉球はまるで蝋細工のように繊細だ。白い猫か黒い猫かによって肉球の色も個性的に違う。ピンクだったりチョコレート色だったり、まだら模様の肉球も珍しくない。

 肉球の色や模様のデータ(なんと家猫1000匹分以上)を集めて分析した結果の「肉球占い」は、当たり前という気もするが、世界初の試みだそうな。この占い、肉球の色や模様により猫の性格を8種類のタイプに分類するものである。梅干し、わさび漬け、らっきょう、ピクルス、たくわん、千枚漬け、ぬか漬け、キムチ。それぞれ特徴、全体運、(人間との)愛情生活、ラッキーアイテム/プレイス、相性の良い/悪い猫タイプが判るのだが、ものすごく的を射ているような射ていないようなビミョーな納得感は人間用占いと同じである。
 コラムも面白い。例えば「肉球の表記にも派閥があって、にくきゅう派、ニクキュウ派、ニクキウ派などそれぞれがこだわりを持って各自の表記を主張している」とか。天然危険物である肉球のための「肉球版・やってはいけない」とか。肉球文学で紹介されていたコレットの『牝猫』などついつい読みたくなってしまう。なぜか漫画好きには猫好きも多いようなので、諏訪野チビ猫やマイケル、果てはニャロメまでが登場する「超有名なあの猫(ヒト)の肉球裏事情」コーナーも楽しめるだろう。
 
 むさぼるように1回ざっと読み、ソファにひっくり返ってじっくり再読しながら悶絶した。自然に顔が崩れてしまう。可愛すぎる。この愛らしさ攻撃はもはや犯罪的。やっぱり猫は魔物なのである。
 重度の猫アレルギーでさえなかったら、誰が何と言おうと猫飼っちゃうんだけどなあ。膝の上で昼寝してもらったり、朝食を催促する猫に顔をふみふみされたり、ちょっかいを出して猫パンチを食らったり、そういう幸せは一生味わえないのだと思うと時々泣きたくなる。世の中にはアレルギー科に通いつつ猫を飼う剛の者もいらっしゃるそうだが、そこまでの根性のない筆者は、せめて写真集で傷心を癒すことにしよう。

 それにしてもあまたいる動物の中で特別に猫は、ぬいぐるみの可愛らしさがホンモノに比べて段違いに劣るのはなぜだろう。犬もそうだが猫には負ける。やっぱり猫とは生きて動いてこその魔物なのである。

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万年ペーペー君は表舞台より静かに退場

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1978年に記念すべき第1巻が出て以来、驚くべき高水準を保ちながら延々と続いてきた名作中の名作もとうとう30巻を数えた。米ソ両超大国の対立と冷戦、ベルリンの壁とソ連の崩壊、欧州連合の成立などなど、世界の激動を乗り越え乗り越え少佐や伯爵は活躍を続けている(途中かなりの休眠期間もあるけれども)。彼らの辿ってきた長い道のりを思うと、作者ならずとも思わず感慨にふけりたくなる。
 青池保子氏が表見返しで「現世が物騒なら、漫画には楽しい題材を選ばねば」とおっしゃっているが、永いファンとしてもぜひ今後とも「エロイカ・シリーズ」を読み続けたい。このシリーズでさえネタにできないほど恐ろしい世の中にはなってほしくないと、キナ臭い世界情勢に冷や冷やするここ数年である。

 この巻の前半は「ビザンチン迷宮」のPart3(完結編)である。元KGB工作員「大鴉」が凍結させたテロ工作とは何か、「宝剣」の果たす役割は何なのか、ハッサンたちの真の狙いは何かなどなど、すべての謎が明らかになる。毎度のことながらストーリーが入り組んでいて、前の巻を復習しないと理解不可能だったのだが、エロイカファンとしてはその歯応えがやはりこたえられないのである。
 シリーズの魅力である「世界の(割とマイナーな)名所巡り」も楽しめる。前シリーズのメテオラから今回はカッパドキア、ギョレメ、シャンルウルファなどトルコの名勝地を知ることができる。世にも珍しい少佐の女装も出てくるし、ミーシャ・少佐・エロイカのじゅうたんを巡る駆け引きも笑えるのである。エンディングに意外性はないが、「これでわれわれの任務は終わったのだ」のセリフには、やっぱりホーッとカタルシスを感じることができた。

 本編よりも楽しみだったのは後半の「Z・VI−ファイナルストーリー」である。少佐の部下26人の中で一番の新入りのZが、少佐に怒鳴られ実戦で怖い思いをし、毎回ボロボロになりながら任務を遂行していくこのサイドシリーズは、コミカルでポジティブな「エロイカ」ではあまり出て来ない情報部員の悲哀をメインに描いたものだった。
 「モデルかホスト」と評されつつ根は超真面目なZ(本名はもちろん出て来ない)。冷戦が一応の終結を見た時、彼の役割もまた終わった。あれからZはどうしているのかな…という読者の心配に応えて、本作品は99年に実に16年ぶりに雑誌に発表されたのである。当時読み損ねたため、単行本収録を今か今かと待ち続けた筆者にとって、同様のドジを踏んでしまった読者たちにとって、今回の収録は待ちに待ったものである。
 任務のディテールは様変わりしたけれど、Zの一途さ真面目さにはまったく変化がない。相変わらず体当たりのZは、任務終了時にはやっぱりボロボロのヨレヨレになっている。けれどもシリーズ初期と違い、今回はファイナルに相応しい微笑ましい幕切れとなっていて安心できた。Z君、長い間、大役をご苦労様。これからは本編の隅っこで、先輩や少佐たちに挟まれて右往左往している姿を垣間見て楽しむことにいたしましょう。

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神格化のヴェールを脱いでも輝かしい「フォッシル・ウーマン」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 忘れられない本がある。小学校何年生の時だったか、クリスマスの朝、1歳下の妹の枕もとに置いてあったヘレン・ブッシュ氏の『海辺のたから』。自分の本を読み終わったら取り替えっこして2冊分楽しむのが姉妹の習慣だったのだが、この本には、もらった当の妹よりも筆者の方が夢中になってしまった。
 世界で初めてイクチオサウルスの全身化石標本を発見した13歳の(『海辺のたから』では11歳)メアリーは、筆者にとっては英雄だった。学研の「科学と学習」を愛読していた理科好き少女に、彼女は「科学する姿勢」とは小さな疑問も疎かにしない好奇心と、日常のたゆみない地道な努力に支えられているのだということを教えたものだった。結局あれからン十年経った今も、『海辺のたから』は筆者の手元で大切にされている。

 そして本書は19世紀イギリスに実在した地質学・古生物学者(彼女は生涯いかなる学会にも所属できなかったが、あえてこう表現する)のメアリー・アニングに関する世界初の本格的伝記である。化石に興味があってメアリー・アニングの名を知らなかったらモグリ、と言われるほど有名な彼女だが、その功績にも関わらず公式の記録はほとんど残っていない。
 その理由はメアリーが女性で、貧しい階層の出身で、きちんとした初等教育を受けることさえできなかったからである。父親を亡くした後、彼女は洗うがごとき赤貧を多少なりとも何とかするために、地元で産出する化石を掘り出してはみやげ物として売った。「食うために」化石発掘に携わったメアリーは、お偉方の学者たちからは一段低い者として扱われがちだった。最初のイクチオサウルスの全身標本にしても、頭の部分を最初に見つけたのは兄・ジョゼフだったからという理由で、メアリーは死後100年も経ってから「世界初のイクチオサウルス発見者」という称号を剥奪されることになる。

 当時メアリーと交流した人々の残した手紙や、メアリー本人の数少ない直筆の書類からは、ちょっと信じられないような地質学・古生物学への深い造詣が読み取れる。最適なタイミングと最適な土地に産まれついたラッキー・ガールだったとは言えるかも知れないが、それにしても独学でここまでたどり着いたメアリーの研究心には恐れ入るしかない。
 論文を発表することこそできなかったが、彼女は化石を観察して分類するだけではなく、太古の生き物と現存する生物との解剖学的な差を調べるために、イカやエイを自分で解剖することさえ試している。コプロライト(糞化石)の重要性についても、彼女はかなり早くから注目していた。それらの観察が実に的を射ていることは、「お偉方」たちが自分の研究成果として発表した論文からも明らかである。最晩年の彼女は、「生物の変移」について触れている。これは突き詰めて考えるとダーウィンの『進化論』にさえ行き着く先進的な意見だったのだ。

 一般的には11歳と誤解されているが、わずか13歳で「クロコダイル」を掘り当てた貧しい少女とか、科学にその身を捧げたフィールドワーカーとか、メアリーは多分に神格化されて語られることも多い。筆者のメアリー像もそんな感じだったが、本書によればどうしてどうして、彼女はそれだけではなかったようだ。膨大なデータの積み重ねから得た知識を武器に、階級的に遥か離れたお得意たちと丁々発止と渡り合い、「商品」の学術的価値を積極的に売り込んだ。自分の説をさり気なくセールスの手紙に添えたりもしている。
 したたかで生真面目で、自分の不遇についてもかなり不満だったらしい。そんな彼女の姿に幻滅するどころか、筆者はますますメアリー・アニングに惚れ込んでしまった。本書からは学者としての、人間としての、生身の姿が垣間見える。「いつかライム・リージスへ行って、メアリーの化石を見てみたい」という子供時代の憧れの気持ちも、久方ぶりに発掘されたのである。

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『指輪物語』を読み返す時は、ぜひ手元に

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ひとつの指輪を放棄する長く困難に満ちた旅の途中で、ふと自分が(というよりはフロドや馳夫やガンダルフたちが)いったい中つ国のどこいらへんに居るのか、判らなくなって混乱したことはないだろうか。子供の頃の筆者は、文庫各巻に掲載されている地図と本文を首っぴきにしながら、それでもしょっちゅう迷子になって困ったものだった。
 フロドたちの足跡が判る詳しい地図があったらなあ。ずっとそう思っていたものだったが、それは他の人も同様だったらしい。そして本書の著者バーバラ・ストレイチー氏は、思いが嵩じて実際に地図帳を作ってしまった。子供の頃に本書が出ていたら良かったのにと思う。邦訳されるまでに20年以上もかかっているとは、実に残念なことだ。

 本書には、フロドが1418年の9月23日にホビット庄を出発し、翌年10月30日にホビット庄に帰ってくる長い旅路のすべてが(それから後日談と、2年後のフロドの旅立ちも)詳細な地図の上に日付とイベントメモ入りで記されている。その数、中つ国全体図も含めて51枚。50の章に分けられた旅路の各ルートは、ストレイチー氏が『指輪物語』本文や関連書を研究した末にはじき出したものである。例えばこんな感じで。

>>(トールキンの図ではホビット庄と水の辺村は4マイル離れているが)
>>私はホビット村と水の辺村を近づけて描いた。というのは〜中略〜ビルボは
>>これを10分で走りきっている。したがって、もし4マイルだったら、
>>すばらしい世界記録を樹立したことになる。彼の足の短さを考えれば
>>なおさらであろう。

 もちろんストレイチー氏は可能な限り『指輪物語』本文に添った分析を試みているし、実際、どうしても解釈困難な場所はほんのわずかだったそうだ。トールキン氏の描写が首尾一貫していることには少々驚かされる。なにせストレイチー氏は本文を読み解いて、月の満ち欠け表まで付けてしまったほどである。1日かそこらの狂いはあるものの、中つ国の満ち欠け周期は地球と同じ「29と1/2日周期」を当てはめることができる、というのだ。よくもそこまで数えたものだ。
 また日本語版では、ストレイチー氏のイベントメモを補強する詳しい解説と、巻末に地図索引もついている。本書だけを再読しても、フロドたちの旅が目の前に髣髴とするようである。

 原著書が出版された同じ年には、トールキン世界解説の決定版とも言うべき『「中つ国」歴史地図——トールキン世界のすべて』の原著も出ている。『シルマリルの物語』や『ホビットの冒険』まで網羅しているので、詳しさと幅広さの点ではこちらの方が勝っているのだが、ページ数が本書の2倍(お値段は2倍以上)あり、ちょっと手元に置いて気楽に参照するというわけには行かないかも知れない。
 そういう理由で、筆者はむしろ本書の方がお気に入りである。贅沢を言えば、いっそ思い切ってソフトカバーにして、価格と重量をもうちょっと減らして欲しかった。そうすれば副読本としての機動性がもっと高まったと思うのだが。

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帰ってきた「明るい貧乏、楽しい貧乏」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 森永あい氏の出世作「山田太郎ものがたり」のサイドストーリー集。本書に興味を持つということは、本編である「山田太郎ものがたり」を知らないはずはないが一応解説すると、放浪癖のある画家の父ちゃんと没落名家のお嬢様で病弱な浪費家の母ちゃんという2大トラブルメイカーをいただく、太郎を頭に7人(のちに3人増えて総勢10人となる)きょうだいの汗と涙と笑いの窮乏生活を、太郎を中心に描いた大ヒットコメディ漫画である。

 美男美女の父ちゃん母ちゃんの子供たちは、マトリョーシカ人形のようにだんだんちっちゃくなりながらも、揃いも揃ってよく似た美形ばかり。しかも父ちゃんの母校である名門・私立一ノ宮高校での特待生待遇を勝ち取れるほど頭脳明晰で、さらに環境に磨かれるためか、今時珍しいほどの家族思いないい子たちである。ただしそこはやはり別々の人間であり、それぞれの個性は微妙に違うのだ。
 個性の違いが際立つ思春期以降のエピソードが語られた上の子たち5人で言えば、
・太郎…山田家のピンチをその創生期から舐めつくし、骨の髄までサバイバル生活が染み込んでしまった苦労性の長男。
・次郎…苦労背負い込み放題の兄を身近に見すぎたため、その責任感の強さからちょっとピントのずれた可愛いボケっぷりまでそっくりのナンバー2となった次男。
・三郎…上ふたりに比べて何となく要領が良くマイペース。風来坊父ちゃんの気質を受け継ぎ、どんな場面でも憎めないお得な性格の三男。
・よし子…欲しいものがあっても言い出せずにひっそり憧れているような健気さがあり、自分がしっかりしなくちゃという意識も強い大和撫子な長女。
・五子…アグレッシブに貧困生活からの脱却を図る野心的な性格で、玉の輿も狙っている。ガサツ一歩手前のサバサバさが格好いい次女。
 こんな感じであろうか。

 本書にはそんな上の子たちのうち次郎、三郎、五子のその後と、角川ティーンズルビー文庫の外伝に収録されたエピソードが収められている。どのお話も、大笑いしながらもほのぼのとあったかい気持ちになれる。風来坊父ちゃんの「山田和夫ものがたり」だって、あの父ちゃんならこんなぶっ飛んだエピソードも有り得るよな…なんて妙に納得してしまう。お隣に、こんな楽しくて可愛い一家が住んでいたらどんなに素敵だろう。きっと思いっきり応援しちゃいたくなるに違いない。

 「山田太郎ものがたり」を原作に台湾で作られたというドラマ「貧窮貴公子」(すごいタイトルだ…)を一部収録した特別おまけDVDもついている。タロちゃんファンなら見逃す手はない。もし万が一今まで「山田太郎ものがたり」シリーズを知らなかった方がいるとしたら、それは人生のちょっとした損失とさえ言えるだろう。本書をきっかけに、ぜひまとめ読みしてしまいましょう。

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紙の本残像に口紅を

2003/06/29 22:05

現実が模倣し得ないほどの虚構性とは

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 筒井康隆御大の著書のうち何が一番好きかと尋ねられたら、筆者は迷わず本書を選ぶ。
 文庫版では判らないが、かつて中央公論社から出ていた単行本版は、途中のとんでもない場面から先が袋とじにされて立ち読みできないようになっていた。「ここまで読んでもういいやという場合、袋とじを破らないまま中央公論社まで持参すれば返金する」という挑発的な文言がそこには書かれていた。『中央公論』に連載されていた時も、かつてない実験作ということで鳴り物入りの扱いを受けていたように記憶している。

 だが実験的かどうかなど、本書を語るうえでは何の意味も持たない。
 筒井御大を髣髴とさせる中年の作家が、虚構内存在としてとある作法に則り小説を書く。その作法とは、1節ごとに一つずつ日本語の「音(おん)」が消えてゆくというもの。音が消えるに従って、その音を含む言葉が消えてゆく。「パ」が消えればパソコンが、「に」が消えれば日本酒が虚構内世界から消えうせるのだ。
 消えてしまったものは記憶の中にのみ存在し、だからこそ美しく儚く懐かしい。序盤の魅力はそういった懐古的なもの、人が誰でも思い当たるような甘い朧な思い出の描写である。

 そしていよいよ音がどんどん消え、普通の自然な文章をつづることが困難になってからが読みどころとなる。主人公は4割がた音の消えた言葉を駆使して恋した女性と愛を交わし、さらに創作の方法論を講演し、半分以下まで減ってしまってから自らの半生を語り始める。ままならない文章は時にたどたどしいながらも、思いもかけない説得力で子供時代を表現する。訥々とした語り口が哀しみと痛みを醸し出し、なんと残りの音が12にまでなってもなお回顧は試みられる。この場面はまさに圧巻、息苦しいまでの迫力とすごみがある。一度読んだら決して忘れられないだろう。
 言葉に興味を持っていて万が一未読なら、ぜひとも手にとってみてほしい。

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紙の本ガセネッタ&シモネッタ

2003/06/26 11:21

わたしの常識あなたの非常識

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 あるいは国家首脳が集って世界の行く末を決める会議で、あるいは世界的な企業が莫大な金額の取引をする時、のるかそるかを決めるのが通訳であることは珍しくない。重大なシーンのキーパーソンである通訳者は、責任の重さゆえに容赦なくのしかかるプレッシャーを笑い飛ばすために駄洒落と下ネタの達人となる!?

 思わず爆笑してしまうエピソード満載の本書。しかしそのキモは、人と人とが何とかして意思疎通しよう、相互理解しようと願う切なる思いを誰よりもよく理解している米原氏が、他者を少しでも理解するために何が必要なのかを語る、その言葉である。

 育った国や文化が違えば当然モノの見方も変わる。日本で当たり前であることが他国では通じないことはザラにあるだろう。世界各国の常識非常識にあまねく通じていれば話は少しは楽になるが、そんな芸当はとても不可能。ならば次善の策は何かというと、たぶん、自分の認識にできる限り余白を持つように心がける、ということなのだ。
 自分の常識に凝り固まっていては、他の国や他者を理解することなどできない。柔軟な思考をし、認識に余白を持つためには批判的精神と複眼思考が欠かせない。そのふたつを獲得する非常に有効な手段が外国語の習得であるが、日本の現状ではそれが怪しくなっている。
 英語一辺倒の「国際化」を憂う米原氏の言葉には、実に重い説得力がある。

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紙の本メドゥサ、鏡をごらん

2004/06/09 08:41

目覚めても目覚めてもまだ悪夢の中に居るような

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最初のページを開いた時から、きっと誰でも漠然とした違和感を覚えるだろう。どこかが、何かが、フツウの本と違う。その感覚は正しい。すでにそこから、本書の仕掛けは動き始めているのである。
 主人公は「私」。婚約者の父親である作家・藤井陽造が変死し、彼の残した謎の言葉「メドゥサを見た」について調べるうちに未発表の原稿の存在に行き当たる。遺品の創作ノートから石海という土地が深く関係していると知った「私」は、調査を続けるうち、次第に不可思議な出来事に巻き込まれていく…。

 ストーリーについてこれ以上詳しく触れることはできない。物語そのものが、小説の作りそのものが、本書に張り巡らされた一種のトリックの鍵になっているからである。生前の藤井陽造が語った「人は平均して何人の死に関わるのか」という意味深な言葉、食い違う記憶、消えてしまった1日。眩暈に似た感覚の中で読み進め、すべての謎が解き明かされるかと固唾を呑んだ瞬間、どんでん返しのように読者は迷宮に突き落とされる。あとは夢と現の狭間をさ迷い歩くばかり。
 全体の雰囲気としては、岡嶋二人名義の『クラインの壺』と通じるものがある。『クラインの壺』が好きな人なら、間違いなく本書も気に入るはずだ。本書はある意味さらにパワーアップしているので、うっかりすると乗り物酔いを起こすかもしれないが。

 実はこの『メドゥサ、鏡をごらん』を読むのは今回が初めてではない。講談社刊行のノベルスで、間違いなく過去に読んだことがあるはずなのである。それがどういう訳かストーリーをさっぱり覚えていない。これほどキョーレツな物語もそうはないというのに。
 何年か前ノベルスを購入して読み、大変に怖い思いを味わった。あんまり怖かったので本を手元に置いておくのが辛くなり、知人に譲り渡したのだ。その時の「怖かった」という感情だけが残り、ストーリーのディテールは記憶から消されたらしい。
 そういう訳で今回再読した時は、ページをめくる端から「あ、ここは確かに読んだことがある」と追体験する奇妙な感覚と、それなのにラストがどうだったのかさっぱり覚えていない(ある朧気な予測は感じつつも)…という、実に内容に相応しい不安定な気分でいっぱいだった。うっかりナイトキャップとして読んだら、夜中に汗びっしょりで飛び起きるほど怖い夢を見た。

 井上夢人氏の十八番であるところの「自分は本当に自分なのか」、「自分の体験は正真正銘の現実なのか」が無闇と効いている本書。筆者のように、自我の足元がグラついている人間にはタブーだったかもしれない。特に寝しなには。
 一息入れて寝直す時、確かに記憶通りノベルスは誰かに譲ったことをどうしても確認せずには居られなくなり、つい本棚漁りをしてしまった。あげたはずのノベルスがもしも棚に収まっていたら絶叫モノだぞ、やめろ! とアタマの中でもうひとりの自分が窘めているのだが、どうにも衝動が抑えられなかった。

 この件に関しての記憶は確かで、本棚の井上夢人コーナーに『メドゥサ、鏡をごらん』のノベルスはなかった。それでやっと人心地ついてベッドに戻ったのだが、到底安眠どころではない。おかげで翌日は寝不足である。
 まったくもって自業自得なのだが、それにしてもこういう怖さを書かせたら井上夢人氏は天下一品である。そして死ぬほど怖い思いをしつつも、また読みたくなっちゃうのが始末に負えないのだ。足元が崩れるような感覚を味わいたかったらぜひ読むべし。ただしくれぐれもご注意を。寝る前だけは避けた方が身のためです(セツジツ)。

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紙の本雲雀

2004/05/17 23:58

シトー派修道士の墨染めのような禁欲的な美しさ

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 佐藤亜紀氏ほどの実力者を「新人」とカテゴライズするのはどうだろう、と思ったのだが、それでもファンとして嬉しかった「芸術選奨新人賞」受賞作『天使』の続編である。「王国」、「花嫁」、「猟犬」、「雲雀」の4短編から成り、「王国」ではカールとオットーのメニッヒ兄弟が、「花嫁」ではジェルジュの父、グレゴール・エスケルスが主人公として描かれている。周辺の人物を描くことにより、『天使』を通じての主人公、ジェルジュ・エスケルスを浮き彫りにするというオムニバスならではの凝った作りである。

 ハプスブルク帝国の崩壊はすでに止め処なく、ヨーゼフ=フェルディナント大公は市井の1個人と成り果てた。しかしそれでもなお、機会あらば自分の政治的生命を引き延ばそうとジェルジュの取り込みを図る大公殿下。その足元でウィーンの掌握を狙い、それ故どうしてもジェルジュとは相容れないディートリヒシュタイン。退位した二重帝国最後の皇帝カール1世は復権を狙ってクーデターを企む。枢密顧問官スタイニッツは病を得、オーストリア諜報組織の事実上の切り盛り役はジェルジュに降りかかる。メニッヒ兄弟がかなり「使える」人材であることが救いではあるが、相変わらず「テーブルの下で足を蹴り合うような」陰湿な小競り合いの連続に、ジェルジュの気苦労を思ってついほろりとしてしまった。
 『天使』ではロクでもない父親だという印象の強かった自称男爵グレゴールにも「花嫁」のようなエピソードがあったのかと思うと、それなりに微笑ましいような感慨深いような気持ちが沸く(ロクでもない男なのは変わりないが)。結局のところグレゴールも、佐藤亜紀流の熱い男たちの一人だったのだ。大それた悪事を働くことはできず、自分の欲望に忠実で、照れ屋で純情でどこかしら可愛気が残る男たち。『天使』と「花嫁」でしか彼の人生を垣間見ることはできないが、できればもっと彼の物語も覗いてみたかった。

 『バルタザールの遍歴』や『戦争の法』に比べると、『天使』や本書の語り口は極めて抑えた透徹したものになっている。気の滅入るようなリアルさで描き出される「感覚」の描写は時として偏執狂的でもあり、絢爛豪華な「佐藤亜紀節」のファンである筆者としては少々面食らったものだ。あの色彩に満ち溢れた文体を、佐藤氏は捨ててしまったのだろうか、と。
 しかし『天使』や本書を繰り返して読むうちに、これもまた紛れもなく「佐藤亜紀の世界」なのだと納得した。オペラのアリアのような華々しさはなくとも、ミサの詠唱のような緊張感に満ちたシンプルな美がここにはある。うっかりすると読者に不親切極まりない、極限までディテールの説明をカットした語り口もその美しさを際立たせるのである。
 第一次世界大戦前夜から1930年あたりまでのヨーロッパ地図について詳しく知れば、ジェルジュ2部作の背景にいかに多くのことが設定されているかを知ることもできる。「こんなに調べてあるのだよ」ということを微塵も本文に出さないあたりも憎らしいほど見事な筆力で、恐れ入って平伏するしかない。参りました! というのが実感である。佐藤亜紀ファンなら必読の書と言えよう。

 『天使』では絶大なる「感覚」を備えた青二才だったジェルジュも、本書では三十路を越えて右往左往するばかりでもなくなった。ジャブの応酬の末に予定調和な落としどころを探る、という陰険な小競り合いに飽き飽きして、彼はついに自分の人生を取り戻しにかかる。抑圧を振り捨てたジェルジュはいかにも自由で、生き生きとして、色彩を取り戻したようにも見えて嬉しい。
 どことなく死の香りをまとって舞い降りた天使は、本書で雲雀となってどこへとも知れず飛び立った。もう戻ることはない。行く手の空に幸いあらんことを。

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紙の本不実な美女か貞淑な醜女か

2003/06/26 10:23

認識論にまで踏み込む必読のコミュニケーション論

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 例えば「君のつくる味噌汁を毎朝飲みたい」という陳腐なセリフがあるとする。登場人物と彼らの置かれた状況によって、このセリフは時に「結婚してほしい」というプロポーズを意味する訳だが、もしもそれに気がついてくれない女性だったらどうなるだろう。
 外国の女性だったら、「私を賄い婦にしたいのだろうか」とムッとしてしまう可能性だってある。

 人物Aの内なる概念aが、人物Bに伝えられ概念bとして認識される。概念bが概念aと近ければ近いほど意思疎通は成功。ただしそれって結構難しいことかも知れない。思っていることが通じなくてイライラした経験、誰にでもあるだろう。
 同一言語内で行なわれてさえ難しいこの作業を、通訳者は異なる言語間で、しかも非常に限られた時間の中でやってみせなくてはならない。ほとんど離れ業である。

 そんな離れ業を日々こなす通訳者の苦労話や失敗談を、時には愚痴っぽく、時には爆笑モノのエピソードを交えて紹介してくれる。目的は依頼者同士の的確な意思疎通。しかし次から次へと現われる難問題。それは時間的制約だったり、通訳作業をよく判っていない依頼者だったり、駄洒落だったり人名・地名だったり、時には8種類もある「該当する単語」だったりする。言葉の意味を正確に訳したら大誤解を招くこともあるし、微妙な人称代名詞の使い分けが意味を正反対にしてしまうことも。
 時には依頼者に殺意さえ抱くこともあると言いながら、それでも「通訳という仕事を面白く思い、愛している」と米原氏は断言する。その魅力は達人たる氏の説得力あふれる筆致により、あますところなくわたしたちにも伝わってくる。

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世界最高の辞書に捧げられた、ある天才の数奇な一生

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 『オックスフォード英語大辞典』、略称OED。英語についての世界最高かつ最大の辞典の編纂が開始されたのは1950年代、初版が完成したのは1928年であった。実に70年以上、人の一生とほぼ同じ歳月をかけて編まれたことになるこの辞書には、2人の人物が深く関わっていた。
 ひとりはOEDの編纂主幹であるジェームズ・マレー博士。もうひとりはOEDの作成に最大級の貢献をした篤志協力者のウィリアム・チェスター・マイナー博士。17年もの間に亘ってOEDの編纂に関する細かい問題について手紙のやり取りをしていたが、彼らは1891年になるまで直接会ったことはなかった。辞書作成への精力的な貢献にも関わらず、またオックスフォードへの度重なる招待にも関わらず、マイナー博士はクローソンというバークシャーの小さな村から出ようとしなかったからである。それは一体何故なのか。

 世界最大の辞書を語り起こすにはやや意外ながら、物語はロンドンのスラム街、ランベス・マーシュで1872年に起こったある殺人事件から始まる。そこから2人の主人公・マレー博士とマイナー博士の生い立ちや経歴、「英語辞典」そのものの歴史、OEDの編纂計画などなど、外堀を埋めるようにじっくりと続くのである。
 過去の英語辞書編纂の歴史とか、特に用例に関するこまごまとした豆知識は、興味深いがやや冗長に感じられるかもしれない。しかし当時の知識階級の人々にとって、完璧な英語辞典の編纂がいかに不可能に思える事であったか、それでも何とかして作らねばならないと痛感することだったか、エピソードを1つひとつ読んでいると見えてくるような気がする。

 『ガリヴァー旅行記』で有名なジョナサン・スウィフトも、「英語とは何かを厳密に決める」必要性を説いた1人らしい。余談だが、先日読んだ富岡多惠子氏の『ひべるにあ島紀行』では、スウィフトが生涯で最も大切にした女性・ステラとやり取りした手紙で使われる、恐ろしく崩してほとんど暗号のような奇妙な英語が印象的だった。なにせ「girl」が「dallar」になったり「conversation」が「tonvelsasens」だったりするのである。
 そんなスウィフトが「could'nt」が活字になっていると言って目くじらを立て、「厳格な綴り字法と正しい発音法」を熱望しているというのだから、あの手紙は何だったのだろうとちょっと可笑しくなった。ステラへの手紙は、あくまでも私的な微笑ましいものだったのではあるが。

 閑話休題。「完全な英語辞典」への困難な道のりを示すエピソードと、2人の博士の人生が、やがてOED編纂という一大事業で交差する。読んでいると、陳腐な例えではあるがクロスワードパズルをだんだんと埋めて行く時のような充実感に浸れることだろう。
 マイナー博士の必死の貢献からは、自分の生きた証を残したいと願う、誰にでも覚えのある切ない思いがにじみ出ていて胸に迫る。また、現代なら彼が受けられたかもしれない待遇と、そのような待遇を受けていた場合はおそらく辞典へのモティベーションが起こらなかっただろうという残酷なジレンマ。マイナー博士が何を思って生きたのか、読了後も長い間考えずには居られなかった。
 各章の扉には、その章を象徴する単語のOEDの定義が載っている。最後まで読んでからもう一度その定義を読み返せば、改めて感慨深いものを感じるはずである。

 「物語」ではあるが、綿密な取材と裏付け資料によってほとんど「ドキュメンタリー」とも呼べそうな本書。OEDという「化け物」と2人の主人公たちの人生が絡み合うドラマはまさに圧巻である。
 リュック・ベッソン監督、メル・ギブソン主演で映画化の話が出ているそうだが、こちらの完成はずいぶん遅れているらしい。重厚な素晴らしい映画になるだろうが、まずは原典を当たるべし。

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紙の本ああ、恥ずかし

2003/12/15 17:49

「よかった。私だけではなかったのだ」…実感!

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 穴があったら入りたい! こんな記憶、脳から削除してしまいたい! そういう恥ずかしい失敗をやらかしてしまった人は多いだろう。それはどうやら有名人の方々も同じらしい。作家やイラストレイター、女優という華々しい肩書きをお持ちの70人もの女性たちが、「どう? こんなドジ、恥ずかしいでしょ?」とばかりに失敗談を披露しまくってくれるのが本書である。
 酒の上の失敗、仕事場での失敗、早合点に勘違い。誰にでも覚えのある可愛いドジから、いくらなんでもそれはちょっと人間としてどうだろうか、という超弩級なものまで各種取り揃っている。「覚えがある」例としては、学生時代の冬場、コートの下に制服のスカートを穿き忘れて登校しちゃいましたのドジ。そんな人たちが自分自身の他にも居たのか…ということには、安堵するやら少々つまらないやらとフクザツな気分だった。

 他人の不幸は蜜の味、ではないが、ひとさまの失敗談ほど笑えるものもないのもまた事実だったりする。しかもそれがメディアでよく見かけるヴェテラン女優だったり、著名な文学賞を受賞した作家だったりベストセラー作家だったり、誰でも知っているアナウンサーだったりスポーツキャスターだったりするのだ。そしてさすが有名人、ドジのスケールが壮大な方々が実に多い。悪趣味極まりないが、友人の失敗談を肴に笑うのとはカタルシスが違う。
 読みながらその女性の顔を思い浮かべ、「えっ まさかあの人が?」というギャップに愕然とするも良し、「あの人ならやりそうなことかも…」と得手勝手に納得するも良し。自分と似たような失敗談につまされてしみじみするもまた良い。書き手に対する親近感が一気に深まることこの上ない。

 本書の良いところはそれだけではない。知らない書き手の失敗談に大笑いすれば、自然にその人の作品にも興味が持てる。食わず嫌いで素通りして来てしまった各種クリエイターの著作や出演作を「面白そうかも」と思うきっかけになる。今まで縁のなかったジャンルへの足がかり、これはある意味貴重である。言うまでもなく、本書と同じような「笑い」ばかりを求めてはいけないのだが。

 愚かにも筆者は、本書を電車の中で読んでしまった。派手に吹き出しそうになるのを堪えていたら腹筋が痛くなった。1度、どうにも堪えきれずにブハッとやってしまった。山本文緒さんの「創作沖縄民謡の青春」での、「えてらはいはい…」のくだりである。隣に座っていた女性がびっくりしてこっちを見ているのが判った。「いや、これが大層面白いんですよ、どうです、あなただってここ読んだら笑っちゃいますよ」と自己弁護したい欲求を抑えるのが大変だった。
 後から考えたら、これだってちょっとした「恥ずかし体験」である。ミイラ取りがミイラになる、本書はそういう意味では危険な書物なのである。ご注意を。

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