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ポカさんのレビュー一覧

投稿者:ポカ

56 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本思考の整理学

2008/02/13 00:26

アタマのなかは詰め込むべからず

31人中、31人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ひとつのことを考えていると、それに関わる情報がなぜか集まってくるものである。
なかなか前へ進めずに行き詰った感の私が、「整理すること」を考えていたら、本屋にこの本が平積みになっていた。
まさに飛びつきたくなるようなタイトル。
『思考の整理学』
きっとなにか大きなヒントがここにあるような気がして、レジに走る。

「頭は忙しくしてはいけない」
アタマの中に色々なものが詰め込まれて整理できないと、混乱ばかりして何もできなくなる。
突発的に、何かをやらなくてはいけなくなったとき、考えなくてはならないことや、やらなくてはいけないことなど、いろんなことでアタマがいっぱいになり、実際は、何も進まず途方にくれる、
などということを少なくとも何度かは経験しているだろう。
俗に言う「パニくる」という状況である。
アタマのなかに雑然と様々なものが入ってくるのに整理できない状態。
しかしながら、突発的な出来事でなくても
日常的にアタマが忙しい状態になってはいないだろうか。
慢性パニくり状態。
雑然とモノが散らかって収集できない部屋のように、アタマのなかも混乱しているのではないか。

まさしく、最近の行き詰っていた状態の私は、「頭が忙しい」この状態。
これでは前へ進めない。
アタマのなかを掃除しておかなくては。
常にメンテナンスをしておかなくてはならないのは、机の上の整理と同じ。
必要なものとそうでないものの分別をして、アタマの中の情報を精査していく必要があるわけである。
そのためには、自分の価値観をしっかりとさせておくこと。
その核となる部分がないと必要か不必要かの判断ができないのである。

考えること、忘れること
収集すること、捨てること
それらをじっくり寝かせること
そして、書いてみること

思考を整理していくことは、それ自体は実は単純なことで、
そうでないと、深い思考は出来ない。

まずは、思考のための準備の手ほどきを受けた感じで。
準備を整えたら、考える楽しさを味わいたい。
考えるということに、苦しみながらも楽しんでいけたらいいな、と
そんなことを思っている。

帯には「もっと若い時に読んでいれば・・・」とあったけれど、
もう若くはないこの年になってからでも読んでよかった。

1986年発売以来の超ロングセラーだけあって、時代に関係なく役に立つ。
というより、
今の時代だからこそ役に立つ内容に思えてならない。
多くの知識を記憶することは、思考ではない。
これからの時代は、記憶より思考の力が大事だ、と
記憶力の悪い私もちょっと気を良くしていたりするのである。

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紙の本佐藤可士和の超整理術

2008/01/25 00:24

私には「整理すること」が必要だった!

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

行き詰っていた。
色々なことに行き詰まった感があり、途方にくれていた。
なにがいけないのか、
なにからはじめればいいのか、
なにをすればいいのか、
なにも進まず、なにを進めればいいのかもわからなくなった。

そんなときこの本に出逢った。

出逢った途端、閃いた。
まだ読んでもいないのに、その白い表紙を見て思った。
わかった!と思った。

私には「整理すること」が必要だ、と。

読んでみて、やはり思った。
自分が把握しきれないものが溢れると混乱する。
机の上も、アタマの中も整理しなければならない。

まずは、モノの把握。
溢れかえる机の上のものを整理することからはじめた。
机の存在の根本は、作業すること。
たったそれだけ。当たり前のことだ。
なのに、それを見失っていた。
一番重要なこと、コトの本質を中心において整理する。

モノの用途と所在を把握すること。
そして、机の本質を取り戻すこと。

かなり苦労したけれど、机の真っ白い天板を取り戻したとき、
心のなかの霧がぱぁっと晴れたような気がした。
やりたいことが見えてきたような気がした。
ただ、机の上を整理しただけなのに、
気分が晴れやかになっている。
机の上を整理しながら、
モノの整理はもちろん、アタマの中も整理されていったのだと思う。

空間、情報、思考、全てが混沌としていてはなにも出てこない。
整理して、把握する。
自分の中で把握できることでしか、コトを進めることは出来ないと思う。
把握するためには、整理しておくことが必要なのだ。
整理するということは、その本質を見つけること。
外してはいけないものを見つけること。見失わないこと。
本質さえ中心においておけば、きっと迷うことはない。
とはいえ、モノであれ、情報であれ、思考であれ、
色々入ってくれば、また溢れて入り乱れる。
溢れて本質を見失ったのなら、また整理すればいい。
そうやって、メンテナンスしていくことが必要なのだ。

この本で、「整理する」という考え方のエキスを教えてもらえた。
だからといって、
可士和氏のようになんでもスカっと整理はできないだろう。
それでも、なんとか自分なりの整理をしていこうと思っている。

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考えることを止めるな。想像することを止めるな。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今、私たちにできることなど、なにもないのかもしれない。
私たちは、無力なのかもしれない。

しかし、危険な予感に対して、声を上げることはできる。
ダメだダメだ、と云うことはできる。

幸運にも、日本はまだ、自分の意見を言うことは自由だ(しかし、実をいうと、それについても少々の危機感はあるのだが)。
私たち一庶民は、ひたすら、この不安感を訴えるしかない。
どうしようもないかもしれないけれど、
自分の無力さに嫌になるかもしれないけれど、
ひしひしと肌で感じる、この不安感を、この体感を大事にしなければならない。
感覚を鈍らせてはいけない。
あきらめてはいけない。

私たちは、
ダメだ、ダメだ、と云い続けることしかできない。
だけれど、それを止めたらいけない。

死んでいく人たちの痛みを想像して、
戦場にいる人たちの恐怖を想像して、
それは、もう敵も見方もない。
民間人も兵士もない。
死なせてはいけないし、
殺させてもいけない。
戦場にいる人たちは、殺すも殺されるも紙一重。
どちらも不幸だ。
そして、
大事な人たちを失ってしまう人々の哀しみを精一杯想像して、
戦場にいない、戦争の仕掛け人たちに訴えるしかない。

こんなことを続けてはいけない、と。

私たちは、
全ての情報、知識、経験、想像力を結集して、
想像しなくてはいけない。
人々の痛み、
人々の苦しみ、
人々の哀しみ。

過去に大きな過ちをして、
大きな罪と哀しみを背負った日本だからこそ、
平和憲法を持つ日本だからこそ、
想像することができる。
声を上げることができる。

45人の作家がそれぞれに戦争反対の声をあげている。
次々によんでいくうちに、
考えるのを止めるな、
想像するのを止めるな、
そう云われているような気がした。

一番怖いのは、
思考停止に陥ること。
おかしいな、と思わなくなること。
不穏な空気を肌で感じられなくなること。

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紙の本犠牲 わが息子・脳死の11日

2007/10/17 22:53

死を急がせてはならない

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは、
脳死の状態になった息子との11日間の記録であるが、
肉親の死への記録というのに留まらず、
死に対してどう向き合うかということや、
または、脳死や脳死移植といところから命というものを見つめる
というような大きな視点へと広がっていく。

そのなかでも印象に深かったのは、
死を「人称」に分けて考える、ということであった。

死には三種類あるという。
ひとつは、一人称の死(自分自身の死)。
次が、二人称の死(ごく近しい人の死)。
最後が、三人称の死(第三者の死)。
これら三種類の死は、全く性質が違う。
自分以外の人の死においても
二人称の死と三人称の死とでは、全く違うものであると。
三人称の死では、夜も眠れないとか、
生活が全く変わってしまうような感覚というものは起きないだろう。
しかし、連れ合いや両親、兄弟、恋人など
人生と生活を分かち合った肉親との死別、
つまり「二人称の死」においては、
その喪失感や悲嘆、後悔において、
生活が一変してしまうような辛さを抱えなければならない。
どんな亡くなり方でも、残された者がそれを受け止めるには、
かなり大きな衝撃である。

肉親や恋人のような極めて近い人が亡くなったとき、
自然科学的な説明ではなく、
腹におさまるような物語をつくるより仕方がないのだと、
心理学者の河合隼雄先生のことばがあげられていた。
いくら死をまねいた病気や事故の状況や原因を完璧に説明されたとしても
イコール納得になるかというと、それはまた違うのである。
自分自身で、物語を組み立てていくことが、
自身の腹におさめるには不可欠であるのだということである。
ある程度の時間をかけてゆっくりと、
それぞれの物語をつくっていくということが
現実を受け入れていくという過程の中では、必要なことなのだ。
納得できる物語をつくり、その死という現実を腹におさめる。
そして、残された者たちは、
ようやく死という現実と折り合いをつけることができるのである。

死を急がせてはならない。

著者も、息子との11日間のなかで、
今起こっている現実を受け入れ、
息子の今までの人生を受け入れていくために、
必要な時間だったと言っている。
看取るためのゆっくりと流れる時間。

ゆったりと、といっても、
もちろん慌て動揺し、悲しみに暮れ、後悔し、
心の中は決して穏やかにはしていられないだろう。
それでも、時間が流れていく中で、
少しずつ物語をつくってゆき、
自分のなかでおさまるような物語をつくることができたとき
そこに、ゆったりとした穏やかな時間が訪れるのではなかろうか。
これは、急いではできないことである。
時間が必要なのだ。

私の場合も、祖母を亡くしたとき、
看取るまでの間、少しの時間を与えられた。
そのおかげで、看取る準備ができたように思える。
準備といっても、
段々に、心の中が人生の終焉の方向に向かっていく
という気持ちの微妙な動きなのではあるが、
それができるのとできないのとでは、
人が亡くなってからの立ち直り方に大きく影響するのではないだろうか
と、思った。

脳死の問題についても、
やはり納得できるかどうか、ということで、
その納得の仕方は、人それぞれ違って当然なのだろう。
問題は、医学的に「脳死は死である」とか「死ではない」とか、
そういう理論では解決しないのと思う。
人に決められて出す答えではなく、
自分たちで導き出すしかない答えなのである。

やはり、死は急がせてはならないのである。

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紙の本スヌーピーたちの人生案内

2008/02/16 12:16

答えはなくても案内はあります

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

谷川俊太郎氏の訳の『ピーナッツ』が好きで、
時折ぱらぱらと眺めています。
ココに登場するこどもたち、または動物たちは、
なかなか鋭いことを言っていたりします。

この本には、そんなエキスがたっぷりです。
生きることへの案内をしてくれます。
「こうしなさい」なんていう導きというよりは
「そんなこともあるけどまあ大丈夫さ」的なものなので
肩の力を抜いて聞くことができるのかもしれません。
それでありながら、
どことなく心に残って、
ちょっと勇気が湧いてきたり
明るい気持ちになったり
気持ちが軽くなったり
なかなか役に立つものかもしれません。
生きていくなかで、ちょっと道に迷ったときに
「こっちへ行ってみれば?」
と、道案内の役目をしてくれるかもしれません。

ピーナッツの面々だったら、
「まあ、だめだったら戻ればいいしね。」
なんて声も聞こえてきそうですけれど、
人生なんて実はそんなところかもしれません。
一発で成功したり、答えが見つかったり
生きていくということは、そんなことばかりではないから
あんまり根詰めずにいきましょうよ、と
そんな感じの道案内。

でも、そんなゆるい会話の中にこそ
本質があったりするような気がします。
大事なことというのは、
そんなに難しい顔をしているわけではないのかもしれません。

そんな人生案内なので
ぜひぜひガイドされてみてはいかがでしょうか。

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紙の本壬生義士伝 上

2007/10/23 06:31

時代の大きな流れの中で真っ当に生きた貫一郎

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

人というのは、時代に流される。
社会といのも、時代に流されていく。
そのなかで、一人一人の人間も流されていく。
全てが大きな流れに流されていく。
その流れに乗るも、逆らうも、
つまりはその潮流のなかでのもがきであるから
どちらも同じような気もする。

善悪などの人の価値観までもが、
そのときの立ち位置によって大きく変わってくる。
まさしく「勝てば官軍」で、
勝ったほうが善、負けたほうが悪。
正義や守るべきものや、行くべき道が
時代の大きな流れの中で混沌としている時代。

だからこそ、
違う角度から見ると、全く違った一面が見える。
別の角度では見えなかった違った光を放つ。
それは、いつの時代や社会でもいえることなのかもしれないが、
明治維新の大きな転換期であるこの時代においては
極めて顕著にあらわれることなのかもしれない。

維新の頃の日本について、
新撰組や薩長、そして幕府が語られるとき、
その語り手の立ち位置によって、英雄と悪者の語られ方が異なる。
薩長側からすれば、会津や新撰組は敵(悪)になるし、
会津、新撰組からすれば、薩長は敵(悪)になる。
薩摩と長州との間には、また別の関係があり、
幕府とのそれぞれの関係、
近藤勇や土方やそれぞれの人間、
そのひとつひとつの関係にひとつではない物語がある。

一方的ではなく色々な立場から語られているのが、
この物語に深みを増している。
色々な人に、吉村貫一郎を語らせて、
様々な立ち位置から多面的に見せてくれる。
一人の人物をその多面的に見せることによって、
吉村貫一郎という人物の
人としての大切なものを貫き通し、
いかに真っ当に生き抜いたかというところが、
じわじわと沁み入ってくる。
そして、
彼の周りに居た者、一人一人もまた、
真剣に時代を生きたひとたちであったことを
深く感じさせられる。

時代に流されて、誰もが諦めかけていた大切なもの。
家族や故郷。
吉村貫一郎という人物は、それを諦めずに大切に生き続けた。
その強さと優しさに涙が溢れる。

貫一郎が想い続けた、美しき街、南部の盛岡。
岩手山、北上川、夕顔瀬橋、下ノ橋・・・
今の盛岡と変わらぬ名前が多く出てきて、
見慣れた盛岡の街が、また違って見える。
あぁ、盛岡の風。美しき街。
この美しい故郷が、貫一郎を支え、この物語を支える。

読むなら冬、のような気がする。
物語をすぐ近くで見ているような感じがする。
静かな冬の夜におすすめしたい本です。

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紙の本ほぼ日刊イトイ新聞の謎。

2007/10/09 06:27

明るい一生懸命さを教えてくれるほぼ日の本

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ほぼ日刊イトイ新聞は、1998年6月にはじまった。
わたしが、ほぼ日を知ったのは、
1998年のNHK教育「未来潮流」という番組である。
ほぼ日のサイトが、スタートしてまもない頃だった。
その番組を見て、なんだか面白そうだな、と思って、
以来、ほぼ日との付き合いは続いている。
けっこう長い付き合いになっていたんだなぁ。

そしてその8年分のエキスが本になった。

わたしも、ほぼ日の読者として、
ほぼ8年の年月を経てきたわけなので、
思い入れの深いコーナーも数多くある。
時折、投稿してみたり(一度幼き日の写真が掲載された!)、
ちょくちょくお買い物をしたり(ほぼ日のハラマキと手帳は愛用品)、
わたしのほぼ日の愛用度は、けっこう高いのである。

そんな8年間の軌跡が、ぎゅぎゅぅ~っと詰め込まれています。
あぁ、すごい。

この本のなかにある8年は、
新しい表現の仕方、
新しいコミュニケーションのとり方、
新しい仕事のやり方、
様々な新しいことを開拓してきた歴史のような気がする。

仕事のやり方、というよりは、
仕事そのものをつくり出してきたのだと思う。
仕事としてなり得ないようなところから
全く新しい仕事のありようを創造したといえるのではないだろうか。

すべては、
徹底して楽しむ、徹底して遊ぶ。
そして、高いサービス精神。
中途半端ではなく徹底していること。
それを継続すること。
常に挑戦し続けること。

ほぼ日は、明るい一生懸命を教えてくれる。

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紙の本元素生活

2010/02/28 23:03

高校の時に閉めた蓋を少し開けてみる

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

スイヘイリーベボクノフネ・・・
高校のときの記憶はここまで。
全く覚えられず、ましてや、理解する等、夢の船。
ニガテ中のニガテで、全く見ぬフリをして生きて参りました。
そして本屋で見つけた『元素生活』。
ワタシの中の奥底の意識がそれを欲しがっていまして
今まで逃げてきた自分が、スイヘイリーベ・・・って思い出しちゃったみたいで
ついつい買って帰ることになりました。
元素のキャラがワタシのニガテな世界を払拭してくれまして、
元素たちがちょっと身近に感じられる世界なのでした。
ま、単純に暗記する必要はないというところが高校の時と大きく違うところで、
単純に元素のキャラを楽しめるのでした。
勉強という強迫観念がないというのは、なんと自由なのだろう!
気楽な気持ちは大事なんだと思うよ、きっと。
普段の生活を考えてみれば、
Mgが不足しているとかFe欠乏ですとか、
最近では健康診断のたびになにかと指摘されたりするけど、
MgとかFeとかCaって、元素だよね。
っていうか、私自身、元素でできてるんだよね?
と、肌身で実感しながら元素を眺めていると、
暗記するってことが大事なのではなくて、
元素で出来ている不思議や
元素の大切さと不思議さとすごさを実感することが
実は重要なんじゃない?と思えてくるのでした。
見て見ぬフリをして暮らしてきたけど、
自分の素となるもんだし、この世の中の素となるもんなんだから
ちょっと覗いてみようかしらん、と
なんだか興味がわいてくるのでした。
当然、暗記する気はないですけどね。

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紙の本パンの耳の丸かじり

2008/04/29 00:58

どんなときでもあれが食べたいしこれも食べたいのです

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

彼は、なぜにこんなに食べ物について書くことができるのだろう。
パンの耳をどうするか、とか
いちご大福がどうだ、とか
かけそばとうどんがどうだ、とか。
なぜそんなに食べるということを書き続けられるのだろう。
いつもそう思いながら
ついついまた手にとって読んでしまうのでした。
読んでみれば、またまた食べ物についての考察が目白押しで
今回もついつい夢中になって読んでしまうのです。

人は「食べる」ということを避けては生きられない。
だったら、食べることを楽しんでみようよ、ということだろうか。
しかしながら、単なる楽しむ、というにとどまらないように思えるのです。
あんなことやこんなこと、
ちょっと考えすぎのような気もするほどの食への考察。
観察とか実験的のような気配もある。
それが面白い。
読みはじめれば、
はぁ~、ほぅ~、へぇ~などと感心して、
その次には、
あー、カレー食べたい、そば食いたい
あれも食べたい、これも食いたい、
ってな感じになってしまっているのでした。

こんなに食べることについて考え続け、追求し続けるなんて、
これは、モノ好きなどというのにとどまらず、
これこそ「プロ」といえるのでしょう。
どちらかというとどうでもいいようなことなのだけれど、
云われてみればなるほど面白いことで、
社会問題とかの問題定義とかの視点ではなく、
どんなときでも
美味い、不味い、面白いということで、食べることを書き続けること、
こういう一貫性をプロというのではないかと、
本当にスゴイなぁと思うのです。

難しいことをしかめっ面で並べ立てられるよりも、
うまい、食いたい、と食べ物をこんなにずらりと並べられれば
イヤでも食について考えてしまうような気がします。
いつまでも美味しいものたべていたいし、
食べることを楽しみたいと思いますからね。

さあ、今日は何を食べましょうか。

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サービスということについての私の原点

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は、会社に勤めていた頃、
社員全員に配られた本です。
10年近くも前のことです。

「目からウロコが落ちました」
という社長の手紙がはいっていました。

今や、顧客主義とか顧客へのサービスとか
そのような認識は、当たり前に言われていますが、
その当時はまだそんなに当たり前というほどではありませんでしたし、
なにより私にとっては、この本が、「顧客第一」の元年でありました。
データを利用したマーケティングなど
お客さまに対するサービスの方法は数々ありますが、
それもすべては、
「お客さまのために役立つこと」が、原点です。
そのための方法であり、システムなわけです。
そして、
その結果、お客さまに認められた対価として、
自分たちに利益がもたらされる。
その考え方の基本さえぶれなければ、
システムを作り上げることや、
効率化を図ること自体が目的となってしまうような
本末転倒な間違いはおきないでしょう。
キレイごとかもしれませんが、
理念とはそのようなものだと思います。

私は、ある時期、がっちりとそのことを教え込まれ、
そのことについて色々と考えてみました。
それは、それから10年以上も経った今となっても、
私の身体の中に染み付いているような気がします。
きっとなにかしらの形で残っているのではないかと思います。

その原点、バイブルともいうべき本が、
この『サービスが伝説になる時』です。
ここまでするか?!
と思うかたわら、ここまでするからこそ、
単なるビジネスのためのサービスが「感動」になるのだろう
と思うのです。

生活をしていく上で、
私たちは、サービスをする側になったり、される側になったりと
サービスに無縁でいることはできないのだと思います。
サービスをする側であれば、
お客様のためになる自分でありたい。
サービスを受ける側であれば、
感動的なサービスに出会いたい。

そんなことを思いながら、日々暮らしていますが、
実は、そのどちらもなかなか難しい、
というのが現状です。

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紙の本いまどきのなべ

2008/01/29 00:13

鍋の楽しみここにあり!

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

わが家は鍋料理が多い。
鴨鍋、豆乳鍋、ピエンロー、ジンギスカン、パエリア、真っ赤な地獄鍋等々。
とにかく鍋率が高いのである。
そんなわけで、鍋道具も多い、と思う。
鍋は、土鍋、鉄鍋、ジンギスカン鍋、パエリヤ鍋、すきやき鍋など色々。
熱源もカセットコンロと卓上IHを使い分けている。
鍋なくして、わが家の食卓は語れない、というほどである・・・たぶん。

そんなわが家に、来るべくしてやってきたのが、この本である。

新たな土鍋を物色中の百貨店の食器売り場、
ちょっと素敵な土鍋の隣にあった。

一目見て、釘付け、である。

まずは、写真が美しい。
次に、使っている鍋、食器の道具がいい。
なんだかステキな予感がして、即購入。

写真がきれいだから眺めるだけでもいいか、的な気持ちだったのだけれど、
鍋の内容も、魅力的なものがズラリ。
一風変わっていて、今までやったことのない材料の組み合わせとシメの提案。
むくむくと、チャレンジ魂と食欲が湧いてきて、
まずは、ニラと豚肉の鍋をやってみる。
簡単でウマイぞ。
では、次に、白子のマーボー鍋。
こ、これは、うまいっ。
ではでは、次に・・・と、次々に鍋試しをする冬のわが家なのであります。
すべて制覇する勢いで、わが家の鍋率は、なおのこと上昇しているのでありました。
今までやってみたことのない組み合わせ、味付け、薬味、そしてシメ。
鍋の楽しみここにあり。
そんな本です。
お家の鍋事情がきっと豊になることまちがいなし!

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紙の本死にカタログ

2007/09/08 22:14

死について深刻になり過ぎず肩の力を抜いて考えてみる

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

人の死について考えると言うと、どうも深刻になってしまって
死ということばすらタブーな感じになってくる。

私も、ここのところ、人の死というものに向き合う機会が続き、
そのなかで、死ということをタブー視していることを実感し、
それは、あまり極端になるとよくないのではないか、
とつくづく感じたのでした。

そんなときに見つけたこの本は、
私がなんとなく薄ぼんやり考えていた「死」についてわかりやすく絵にしてくれていました。
深刻になり過ぎず、肩の力を抜いて「死」を考えられるのが良い。
あまりにも深刻になりすぎると、不安や恐怖やなんだかんだで
自分が混乱してしまって考えるドコロではなくなってしまうから。
作者も、漠然と考えはじめたときの混乱を表現していて、
その混乱ぶりがよくわかる。
だからあまり深刻にならないで考えるのがいい。

人はいつかは死ぬのです。

でも、なぜかそのことを忘れがちになっている。
確かに、今は医療の進歩によって、むやみに死んでしまうようなことは激減しているし、
それはそれでありがたいことなのだけれど、
いくら医学の進歩とはいえ、どこかで限界というものがあるわけで、
いつか寿命と言うものが訪れる。

その寿命も、私達にはどうにもできないところで決められていて
誰かと比べて、長いとか短いとか比べるようなはなしでもないのだけれど、
やっぱりもっともっと生きたい、生きてもらいたいと、際限なく思ってしまう。
それはそれで当然なのだけれど。
ただ、
どこかであきらめというか潔さが必要なのではないか、
などとも思ってしまうのです。
早々と生きるのをあきらめてしまうとか、
そういうことではなくて
人間はいつかは死ぬということをちゃんと心に留めておく、
というような意味で。

昔の人は、老いてゆくのと同時に、
自分の人生の終わりについて、どこか覚悟をしていたのではないかと思えるのです。
だから、色々なものがそぎ落とされて、だんだん穏やかな顔になっていった。
けれども、今の世の中では、
元気でいることが「良い」ことで、衰えるということは「悪」とするような風潮のような気がする。
そんななかで、
人はどこで終わりを覚悟すればいいのかがわからなくなっているのではないか。

そして、
衰えることに対する恐怖と同時に、
死ということを、考えるのも忌まわしい恐ろしいものにしてしまっている。

もちろん死ぬということが怖くないといえば嘘になる。
死ぬことが良いことというのとも違う。
けれども、誰もが向かっている道であることだけは間違いない。
だからこそ、もっと死ということを考えることで
生きている今を大事できるということにはならないだろうか。
死と生は切手も切り離せない。
死は、誰にも平等に訪れるもの。
だからこそ、極端に恐れることなく、
日ごろから少しは考えていたいと思うのです。
まだまだ縁遠いと思えるときだからこそ
考えておくべきことのような気がするのです。

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きっと明日、出会ってしまうかもしれない。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

はまりました。たまりません。ツボでした。あきらかにヘンな本です。
こびとっていっても、はっきり言って気味が悪いですし、かわいらしさのかけらもないのです。積極的ににんげんとなかよくなりそうもないし、かわいくもないけど、優しくもなさそうで、なんだか、ただ「そこにいるもの」みたいな感じです。たまに悪さするヤツもいるようで、なおにんげんの仲間とは言いがたい。
とにかく、役に立たなそうなんです。

なのに、そんなこびとの本が、こどもに大人気の絵本だってことで絵本のお店にありました。おまけに、気味の悪い小人のぬいぐるみも・・・。まちがいなく、こどもは泣くでしょ、そんなぬいぐるみ。
でも、こどもはこどもらしいものはきらいなんだ、とだれかが言っていたような気がするけど、おとながおもしろいっておもうのは、こどもにもおもしろいんだな。あえてこども用にしていないのがいいんだな、きっと、とひとり納得。

それにしても、ヘンなヤツらなんです。だけど、妙にその辺にいそうなリアル感がたまらんのです。桃を切って「カクレモモジリ」が出てきたら、卒倒ものなんだけど、出てくるのを若干期待してしまうような感覚を持ってしまうのです。
だから、いつか偶然見つけてしまうことがあるような気がするのです。そのときのために、どんな対処をしたら良いのか、この大百科が必要なのですよ。
ほんとに。

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救われない暗闇のなかの明るさ

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

世の中には理不尽なことが多い。
理不尽な事だらけだといってもいい。

この小説は、理不尽ななかでもこれ以上の理不尽なことはないという最高級な理不尽に見舞われた男の話である。

男の置かれた状況は、救いようのない絶望的な状況で、どこにも救われる道はないという状況。
もう後も先もないどん詰まりである。
彼はなにも悪くない、ただの濡れ衣なのに、である。
これ以上の理不尽はないだろう。
しかし、伊坂さんのすごいところは、その理不尽さを解決するというのではなく(理不尽なわけだから解決などするわけがないが)、そんな理不尽で絶望的ななかで、人間の温かみを描くことができるところである。
それも、命を張って助けに出るという積極的なものでなく、自分の守りたいものとリスク、その葛藤の中のぎりぎりのところで滲み出す優しさである。

人というのはそういうものだと思う。

自分の人生は、
今現在の家族や大切な人たちの人生も含んだものである。
そのなかで、いろいろなものを天秤にかけながら、選択をしつつ生きていく。
それが、苦渋の選択となることもある。
それでも、選ばなくてはいけない。
しかしながら、選ばなかった事へ対しても、それを切り捨ててしまうのではなく、なにかしらで少しだけでも関わることはできる。
人生、けっして白と黒だけではない。
白と黒だけではないことは、どこか救いがあるし、それが希望にもなるような気がする。

人と関わりあったこと。
それは、過去になってしまって、すっかり遠くなってしまっても消えずに生きている。
もう自分の中から消えてなくなってしまったようであっても、残っているのだ。
今の生活で、その頃の時間は遠く霞んでいるけれど、決して消えてしまったのではない。
その時間は確かにあった。
その霞んでいた「その頃」は、なにかをきっかけに甦る。
過去に自分の中に「あった」ことは、確かに自分の中に残っていて、今の自分があるための「なにか」として蓄積されている。
学校、家族、会社、近所、それぞれの場所でかかわりあってきた友達、親、同僚、先輩・・・
自分のなかにそれは確かに残っている。
だからこそ、その甦った記憶(癖や言葉や出来事)は様々なキーワードになっていく。

こんな理不尽で、最後もハッピーエンドとは言い難い物語なのに、独特の明るさがある。
きっと、人間は人間に絶望させられるけれど、人間の心に救われるのだ。
ものすごく重いストーリなのに、人の温もりが心地よい物語である。

そして、
この本を読んでから、私はビートルズばかり聴いている。

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紙の本東京夜話

2007/09/30 23:20

怖いながらも居心地のよい世界へようこそ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この世界に入り込むと
とても不思議な気分になる。

人も動物も物も街も
この世の人ではない人たちみたいなものまで
みんな同じレベルで
命があり、心があり、話をする。

そういうなかに入ると、
人間がとても無力であると、つくづく感じる。
人間だけが特別強いわけでも、偉いわけでもないと思う。

マグロやサケも
ダッチワイフも
犬も
池袋も
人間も動物も物も場所も
みんな対等に描かれている。

もしくは、
金持ちも
有識者も
浮浪者も
日本人も
外国人も
みんな対等。

日常のなかで、当然のように思われている
有利なこと、強いことが、全く無意味なのである。
権力やお金や年齢や地位や性別、国籍・・・
人間か動物か、この世のものかそうでないか
そんなこと全ての区別が取り払われてしまう世界のなかに
わたしたちは放り出される。

その世界は、私たち人間にとって怖いところでもある。
人間であることの優位性はないのだから。
けれども、平等というものはこういうものなのかもしれない。
平等というものは、危険も平等にあるものなのだ。

そんな世界にどっぷりつかっていると、
怖いながらも、居心地がよくて、
そんな世界のほうが本当のような気がしてくる。
人間だけが威張りくさっているような世の中は
嘘のような気がしてくる。

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