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森岡正博さんのレビュー一覧

投稿者:森岡正博

9 件中 1 件~ 9 件を表示

紙の本時間は実在するか

2003/05/23 19:09

「時間」に興味を持つすべての人のための必読書

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「時間」とは、いったい何なのか? これは、多くの人が、一度は考え込んでしまう謎であろう。ふと気がついてみたら、もう何時間も経っている。ふと気がついたら、もう青春時代は終わっていた、なんてこともある。時間は、無慈悲に過ぎ去っていく。だが、時間が過ぎていくとは、いったいどういうことなのだろうか?
 このなぞに、非常に面白い角度から迫ったのが、入不二基義さんの『時間は実在するか』だ。日本にはオリジナルな哲学がないと、いままでさんざん言われてきたが、そんなことはない。入不二さんのこの本は、自分の頭でとことんまで考え抜かれた独創的な哲学書だ。本の前半では、マクタガートという哲学者の時間論をていねいに解説して、その欠点を洗い出し、後半で壮大な入不二時間論とでもいうべき仮説を提示している。「時間」に興味を持つすべての人のための必読書である。
 「時間」には、二つの性質があると言われてきた。ひとつは、一九九〇年の次には一九九一年が来て、そのあとには一九九二年が来る、というような客観的な前後関係だ。世界を観察する人間とは無関係に、客観的に連なっている時間とでも言おうか。これに対して、もう一つの性質は、あるできごとが遠い未来からやってきて、いまここで現実のものとなり、やがて過去へと去っていくという、時間の流れのようなものだ。この時間の流れは、けっして客観的には捕まえることができない。いま目の前にあるできごとも、次の瞬間には、過去へと去ってしまうからだ。
 「時間」のもつこの二つの性質は、矛盾するのではないかと考えられてきた。それに対して、入不二さんは、この二つの性質が、たえずお互いに依存しあいながら運動を続ける点にこそ、「時間」の本質があるのだと考える。そこから導かれてくるのは、「時間」を支えているところの「無でさえない未来」「この今の現実性」「現在だったことのない過去」という次元である。この魔術的な概念装置によって、入不二さんは読者をどこへ連れていこうとしているのだろうか。哲学的興奮を味わえる一冊である。

初出:信濃毎日新聞

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「私とは何か」という問いに、正面から解答を与えた書

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本は、哲学の永遠のテーマである「私とは何か」という問いに対して、正面から解答を与えたものである。西洋の哲学者の受け売りではなく、自分自身のことばで考え抜かれている。これは、ほんとうの意味での哲学書だと言えるだろう。
 まず、「私」はどこにいるのかを考えてみる。「私」は脳の内部にいるのか。しかし、いくら自分の脳を解剖してみても、「私」はどこにも発見されない。私が見たり感じたりしているこの世界のなかには、「私」は存在していないのである。
 では、「私」はこの世界の外側に存在していて、この世界を遠くから見下ろしているのだろうか。そういうふうに考えた哲学者はたくさんいたが、では、世界の外側にいる「私」が、どうして世界の内側を見ることができるのかという難問が残ることになる。
 中島さんは、「時間」の秘密が分かれば、「私」のことも分かると言う。たとえば、自分が見たことや、したことを、即座に忘れてしまう人間がいたとする。その人間は、はたして「私」というものを持っているのだろうか。中島さんは、ノーと答える。そのような人間は、目の前を通り過ぎていく様々な光や、映像や、音などをただ次々と体験しているだけであり、それらを体験しているところの「私」というものは、この人の人生にはまったく登場しないのだ。
 そもそも人間の人生に「私」というものが登場するのは、自分のしたことを振り返って、「ああ、あのときに、自分はあんなことをしていたな」と思い出すときである。過去の自分を振り返るその瞬間に、振り返られた「過去」というものと、それを振り返っている「いま現在」というものを、一気につなぐ何ものかが立ち現われる。これが「私」なのだと中島さんは考える。過去を振り返ることを原点に置いた、新しい哲学である。中島さんの主張がほんとうに正しいのかどうか、議論が必要だ。

初出:信濃毎日新聞

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紙の本障害学の主張

2003/05/12 18:42

なぜ障害者のほうが、社会の都合に合わせなければならないのか

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 障害をもった人たちが、いまの社会のなかで生きていくのは、まだまだきびしいことである。本書にも紹介されているけれども、電車の隣に座った人に「きたいない」と言われて席を立たれたり、喫茶店で出ていくように言われたりする。
 障害については、いままではおもに医療やリハビリテーションの専門家たちが考えてきた。身体に障害があるのだったら、訓練によって人並みに動かせるようにして、いまの社会に適応してもらうという試みがなされてきた。
 しかし、よく考えてみれば、なぜ障害者のほうが、社会の都合に合わせなければならないのだろうか。障害者は、いまのままの自分の身体や心を、肯定してはいけないのだろうか。自己肯定したうえで、社会の側の都合との折り合い点を探すべきなのではないだろうか。
 このようにして、障害をもった本人の存在を肯定し、その視点から「障害者」と「社会」の関係を考え直していこうとする学問として「障害学」は誕生した。本書は、日本の障害学の最近の成果を、まとめ上げたものである。新進注目の書き手がそろった、タイムリーな一冊であろう。
 立岩真也は、「障害者は生産ができないではないか」という声を吟味し、たしかに何もできないよりは、何かができたほうが望ましいとは言えるのだが、それをすべての人間にまで当てはめるのは間違っていると言う。もし仮に私が何かをできなかったとしても、私のかわりに誰かがそれをやってくれる仕組みが、無理なく社会のなかに組み込まれていればいいわけである。であるから、「できるほうがいいに決まっている」という考え方は、ダメなのだと結論する。
 倉本智明は、身体に障害をもつ男たちのセクシュアリティについて興味深い考察をしている。障害をもつ男性が、「男」としての自己肯定を得るために、「エッチな俺」「女性を征服できる俺」になろうとするケースが少なからずあり、彼らは過剰な男性性を引き受けなければならないという困難に直面するのではないかと言うのである。新鮮で切実な問題提起が随所に見られる書物だ。

初出:信濃毎日新聞

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ビートルズを裏でささえた名プロデューサー、ジョージ・マーティンの自伝

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いい音楽は、ミュージシャンの力だけで、できるのではない。陰の立て役者として、プロデューサーの力も大きいのである。本書は、あのビートルズを裏でささえた名プロデューサー、ジョージ・マーティンの自伝だ。彼が、いかにしてビートルズの音楽世界を作り上げていったのか、その秘密が余すところなく描かれている。  
 ジョージ・マーティンは、クラシック畑から出発した人物だ。レコード会社に就職してからも、クラシックの録音を担当していた。彼はまた、無類のエンジニアであり、ステレオ録音のテクニックを開発する先陣に立っていた。彼は、あるとき、ビートルズの売り込みテープを聴き、軽い気持ちで売り出してみることにする。ここから、伝説は始まった。
 当初のビートルズは、音楽技法のことなどほとんど分かっていなかった。ジョージ・マーティンは、彼らに音楽技法の基礎を教え、彼らの持ってきた原曲を編集し、密度の高いヒット曲へと変えた。
 ところが、ビートルズの吸収力はすばらしく早かった。いつしか、ビートルズ自身の編曲のほうが、マーティンを上回るようになる。かくして、マーティンは、純粋にレコードの音作り作業に没頭できるようになった。
 その結果、名作『サージェント・ペパーズ』が誕生する。このアルバムで、ビートルズとマーティンのコンビは、可能な限りの実験をする。たとえば「ストロベリー・フィールズ」は、キイの異なる二種類の録音を、機械的に処理してつなぎ合わせたものである。
 「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」では、この曲を四度に分けて録音し、それらを少しずつ間をずらしてつなぎ合わせて編集した。注意深く聞けば、そのずれを聴き取ることができるそうである。
 ドラッグをやるビートルズのメンバーと、ドラッグ抜きのプロデューサーが、この名作を生み出した、とマーティンは語る。音楽を演奏することの至福にひたっていたビートルズと、音の響きを録音することにいのちをかけていたマーティンの、不思議な出会いが緻密に記された本である。一九七九年原著であるが、いま読んでも古さは感じさせない。

初出:信濃毎日新聞

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春画を知りたい読者が最初に手に取るべき好著

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 江戸時代の春画を、そのままのかたちで鑑賞することができるようになった。それは、われわれがよく知っているポルノやビデオなどとは、ずいぶん違った世界である。本書で、白倉さんは、春画のおもしろさと不思議さを、コンパクトにまとめて見せてくれた。春画を知りたい読者が、最初に手に取るべき好著だ。
 白倉さんは、江戸の春画と、現代のポルノは、まったく別物であると考える。たとえば、春画には「レイプ」というものがほとんど描かれていない。そこにあるのは、男と交わって恍惚にひたる女の姿であり、男女の関係はきわめて対等に描かれているように見える。
 描かれる男たちの姿も、華奢で美形が多く、絵柄だけを見たのでは、どちらが男でどちらが女なのか分からないものも多い。それは、美しい女同士の性愛のようにも見える。初期には裸の男女が描かれていたが、しだいに着物を着たままの姿が好まれるようになり、春画はファッション雑誌の機能を果たすようになる。また、男女の交わりの近くで子どもや赤ちゃんが遊んでいる図柄も描かれる。ここでは、子どもと大人の分離線もまた、あいまいである。
 春画のモチーフとしては、大人の女が、美形の若い男を誘惑して交わるというものも多い。それが極端になると、女装した若い役者と交わる姿となる。女が、振り袖姿の若い男との性愛を願望するのは、なぜなのか。
 白倉さんも指摘しているが、江戸の春画に描かれる性愛の姿は、現代の爛熟した性愛によく似ている。ビジュアル系バンドの男たちに熱いまなざしを送る女性ファンの姿を、ここに重ね合わせてみることも可能だ。
 だが、同時に、性愛の負の側面もまた、現代と類似している。春画では、男の性器は極端に大きく描かれ、男の視線は挿入にのみ向かう傾向がある。回数もまた重視される。白倉さんは、これを「春画に見られる男根主義」と呼ぶ。そして、春画には男の幼児性があらわれているかもしれないと言う。
 いずれにせよ、現代の風俗と比較して読むとき、いろんなヒントを得ることができる貴重な資料が、本書にはあふれている。

初出:信濃毎日新聞

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クローン人間

2003/05/23 19:03

海外と日本の現状を的確にレポートした本

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 世界には、クローン人間を作ろうと躍起になっているグループが、少なくとも三つある。そのうちのひとつ、ラエリアンという団体が、クローン人間を作成したと発表した。しかし、生まれた赤ちゃんが、ほんとうにクローン人間だという証拠がなかなか示されないものだから、彼らの発表はいま疑いの目で見られている。
 ところで、そもそもクローン人間とは何なのか? それを短時間で理解するためには、粥川準二さんの新著『クローン人間』を読むことをおすすめする。海外と日本の現状を的確にレポートしたこの本によって、われわれは、クローン研究の実状と、その問題点をリアルに認識することができるはずだ。
 粥川さんは、クローン人間に関する大きな問題点を指摘する。それは、われわれの「優生思想」だ。自分のクローンの赤ちゃんを作りたいという人々は、自分と同じような血筋がほしいと思っていたり、殺人者の子どもを養子にはしたくないと言うことすらある。ここにある「優生思想」を見過ごすわけにはいかない。
 さらには、クローン人間に反対する人々の中にも、同じような「優生思想」があるのだと言う。たとえば、いまのクローン技術で赤ちゃんを作ると、先天的な障害児が生まれる危険性が高いから、クローンには反対すると主張する識者がいる。しかし、そのことばを裏返してみると、その識者は、「先天的な障害児はこの世に生まれてこないほうがいい」と言っていることにはならないのか。これは、あからさまな「優生思想」なのではないか。
 粥川さんは、クローン技術のほんとうの問題は、クローン人間を作るかどうかというところにあるのではなく、移植用臓器の作成などのためにクローン技術が使われていくことにあるのだ、と強調する。自分の身体の細胞を取り出して、クローン技術で卵に移植し、自分と同じ遺伝子をもった肝臓や神経などを作ることができるのだ。しかし、そのためには、大量の卵を女性から取り出さないといけない。そのときに、おびただしい「女性の道具化」が起きるにちがいない。これは、実は相当深刻な問題点なのである。

初出:信濃毎日新聞

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安曇野の豊かな自然に囲まれた、四年間の不思議な生と死の軌跡

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 長野県立こども病院に、重症の新生児が運び込まれた。脳はほとんど働いておらず、「脳死」と言ってもいいような状態だった。その赤ちゃんは「陽菜(ひな)」ちゃんと呼ぶのだが、意識もなく寝たきりのまま、医療スタッフの適切な治療と、両親の献身的なケアを受け、四年間生き続け、そのいのちを全うしたのであった。本書は、母親が書き記した、その記録である。
 人工呼吸器につながれたまま、親のことばにも反応を返さない赤ちゃんに対して、たえずはっきりと声をかけ、誕生日を祝い、七五三を祝う両親とスタッフの姿については、この本を読んでいただくしかない。たとえ脳が働いていなくても、身体の細胞のひとつひとつが生きているかぎり、この赤ちゃんは生きているのだという確信がそこにはある。
 病院の中で子どもと四年間を過ごすうちに、母親の生命観も徐々に変わっていき、陽菜ちゃんが亡くなったときには、「医療の敗北ではない。医療の完遂だった」と考えるようになる。冷たくなった陽菜ちゃんを自宅に連れて帰り、妻と夫のあいだにはさんではじめて家族一緒に寝る。氷のように冷たい手を握って、それでも幸せだったという母親の言葉に、私は何とも言えない真実を感じる。
 しかし驚いたのは、陽菜ちゃんの状態についてだ。実は、瞳孔の固定、平坦脳波、自発呼吸の消失など、成人向けの日本の脳死判定基準を見事に満たしている。それでも、四年間も生存を続けた。いま子どもや赤ちゃんのための脳死判定基準が専門家によって提唱されているが、それに照らし合わせたとしても、陽菜ちゃんは臨床的な脳死と判定されてしまうのではないだろうか。
 おそらく脳死状態にあるだろう陽菜ちゃんは、大好きな主治医の前ではうんちをしない。先生が「じゃ、またね」と握手をして出ていったとたんに、顔を真っ赤にしていきんで、モリモリモリとうんちをするのである。そんな陽菜ちゃんを囲んで、一喜一憂する家族とスタッフたち。安曇野の豊かな自然に囲まれた、四年間の不思議な生と死の軌跡である。闘病記にありがちな湿り気を極力排した、魅力的な文章が光る一冊だ。

初出:信濃毎日新聞

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フェミニズムと倫理学が交差する場所に「身体」がある

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 フェミニズムと倫理学が、いま急速に接近している。その二つが交差する場所こそが、私たちの「身体」だ。たとえば、代理母や体外受精は、「産む性」である女性の身体を抜きにしては語れない。買売春や、セクシュアリティなどもそうだ。
 本書を読むと、いま何がほんとうに問題なのかが浮かび上がってくる。一〇本の論文が収められているが、そのなかで最も衝撃的なのは、浅野千恵さんが書いた「性暴力映像の社会問題化」という文章だ。
 浅野さんは、女性をほんとうにレイプしたり虐待したりしているように見えるアダルト・ビデオを取り上げる。そういうビデオに出演した女優たちは、将来、深刻なトラウマを背負ってゆかねばならないはずなのに、ビデオを消費する男たちは、この問題を頭の中から消し去っている。
 浅野さんは、それに加えて、新しい論点を提出する。それは、このようなビデオを見てしまった視聴者が受けてしまう心的被害である。このような問題意識を持つに至った背景には、浅野さん自身の体験がある。彼女は、調査や議論のためにこの種のビデオを繰り返し見るのだが、その結果、虐待シーンや暴力映像がいきなりフラッシュバックしてきたり、ふとしたときに心臓が苦しくなったり、突然恐怖や怒りにおそわれたり、人間不信に陥ったりした。
 性暴力映像は、出演した女優だけではなく、それを見てしまった女性や、見させられた女性に対しても深刻な被害を及ぼす危険性があるのだ。浅野さんによれば、性暴力映像の問題を訴えていた女性が、自殺してしまった。その女性の手記を読むと、彼女自身がその映像によって精神的に追いつめられ、孤独と絶望に沈んだことが記されている。浅野さんは、その女性の自殺の背後には、このトラウマがあったのではと推測している。男性たちにはまったく認識されてこなかった問題が、いま明らかにされた。
 このほかにも、河口和也さんは、同性愛者への暴行が、なぜ本来の意図を超えてまで執拗に行なわれるのかを分析し、この社会に潜む同性愛嫌悪の深刻さを浮かび上がらせている。二論文ともに必読である。

初出:信濃毎日新聞

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人間の真の自由と自律の原理を探る

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 ミシェル・フーコーが死んだのは、もう一五年も前のことだ。しかし、彼の影響力はますます大きなものになってきている。
 フーコーによれば、人々を支配する権力というのは、政治的な力をもった独裁者から一方的に降りてくるものではない。権力というのは、われわれ一般人がうごめいている日常生活の隅々で自発的に発生し、われわれの考え方や行動を草の根から縛る「匿名の権力」なのである。このような分析は、この社会に蔓延している何とも言えない「息詰まり感」を見事に説明してくれる。
 しかしながら、このような分析になじんでしまうと、われわれはいったいどうすればいいのかが分からなくなる。この状況を変えたいと思っても、権力はつねに匿名のままわれわれを監視し続けており、社会全体に張りめぐらされた権力のシステムから逃れるすべはどこにもないように思えるからである。フーコー自身も、晩年にはそのことを考えていた。
 本書は、その限界を突破するためにフーコーが行なった講義である。システムによってがんじがらめになった人間たちを解放するかもしれないものは、意外にも、自分で自分のことを配慮しようとする倫理だとフーコーは言う。それは単に言行一致を心がけると言った内面倫理だけを指すのではなく、地位も実権も持たない位置から、危険をかえりみずに自由な発言(パレーシア)を仕掛けていく勇気をも指すのだ。
 この種の倫理については、古代ギリシアからローマにかけての思想家たちが、幾度となく語ってきた。フーコーは、現代社会の根本問題を解くために、古代哲学を読み解き、そこに人間の真の自由と自律の原理を探そうとする。
 彼が紹介する古代の逸話やその分析は、きわめて具体的で、とても面白い。ディオゲネスとアレクサンドロス大王との生命を賭けたやりとり(パレーシア)は、哲学者の本来の姿を彷彿とさせる。私を殺すのか、それとも真理を知るのかと王に向かって迫るディオゲネスの姿に、晩年のフーコーは、みずからを重ね合わせていたのではないか。不思議な迫力を持った本である。

初出:信濃毎日新聞

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