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  3. 野沢菜子さんのレビュー一覧

野沢菜子さんのレビュー一覧

投稿者:野沢菜子

32 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本アニルの亡霊

2002/01/29 01:23

それでも陽は昇る

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 かの「イギリス人の患者」、オンダーチェの新作は、これまた重い内容を詩的に軽やかな文体で綴った物語である。作者の故国であるスリランカが舞台。内戦に明け暮れ、一夜にして村が一つ消滅、つまり住民全員行方不明あるいは虐殺などということが珍しくない社会。人があまりにあっけなく殺されていく。そんななかでも、恐ろしいものは心の片隅に蓋をして、眼の前の仕事だけに神経を集中しながら人は生き続ける。
 故国を長らく離れていた女医アニルは、勤務先のジュネーヴ人権センターからスリランカに派遣される。虐殺が絶え間ないのに証拠は一つも挙がらない、それを調査に赴くのである。遺跡から見つかった骸骨は、どうやら最近殺されたものらしい。身元が特定できれば立派な虐殺の証拠となる。相棒に指定されたのは現地の考古学者サラス。政府高官と繋がりを持つ、謎の部分の多い知的な男である。危険の多いスリランカでの世渡りのすべを心得ている彼と、兄の男名を取り上げた勝気で西欧流の考え方の染み付いたアニルとは、事毎に対立する。これに、サラスの弟、腕のいい医者であるが、子供の頃から優秀な兄に劣等感を持ち性格破綻気味のガミニ、殺された妹夫婦の娘と森で暮らすサラスの盲目の師、勤務先の学校の生徒たちと共に妻が行方不明になった仏師といった人々が絡む。
 道路に男が磔にされていたり、晒し首があったり、という環境の中、ついにアニルは骸骨の身元を突き止める。だが、アニルの西欧流正義感は、サラスが現実から超然と逃避することで保ってきた微妙なバランスをかき乱し、サラスの知恵でアニルは国外脱出を果たすものの、サラスは拷問死体となって病院のガミニの元に姿を現す。野戦病院さながらの人手が足りずに看護婦までメスを持つ病院で機械的に作業にあたる日々を送りながら自分のうちの空虚をごまかしていたガミニは、様々な確執のあった兄の遺体に精一杯の処置をほどこし癒そうとするのである。
 これまた死んだ心を抱える仏師が、サラスのシャツをまとってサラスの亡霊を背に、復元された仏像の開眼を行なう場面で物語りは幕を閉じる。こんなすさまじい状況でも、ここは彼らの祖国であり、彼らはそこで生き続けるのである。
 時には1ページほどの短い場面がフラッシュバックのように挟み込まれる。詩的な言葉で綴られた様々なエピソードのなかから、やがて絶望的な状況を懸命に生きる人々の姿が、スリランカという国が立ち現れる。最初は少し読みにくいかもしれないが、読後に残るイメージはすばらしい。こういう作品をここまで『読める』ものにしてくれた訳者の力量もすばらしいと思う。

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紙の本わたしのおじさん

2004/10/24 12:44

誰もがみんなそこからきて、誰もがみんなそこへいく

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

わたしたちはみんな、あちらからこの世へやってきて、しばらく暮して、またあちらへ帰っていく。喜びや悲しみやなにやかや、いっぱい詰まっているようでいて、こちらで暮す年月は、あんがい短いともいえるのかもしれない。あちらから見たこちらって、どんななんだろう。

「こちら」ではないところで、「わたし」はコウちゃんという男の子と出会う。かけっこしたり、しりとりしたりして、遊ぶ。おなかがすくと草のしるをすう。コウちゃんの家もあって、そこにはコウちゃんのおとうさんとおかあさんもいる。「わたし」はそこで、ご飯をおよばれしたりする。
湯本さんの描く「あちら」は、あったかくて、懐かしくて、なんだかじわっと涙がでてきてしまう。
湯本さんの「あちら」には、「一粒一粒がふっくらした」時間が流れている。そのなかで、コウちゃんは「わたし」にいろんな話をしてくれる。
「あちら」には、ときどき「こちら」の悲しみや苦しみが影を落とす。そうすると、景色が変わる。でも、そんな悲しみや苦しみも、「あちら」の不思議な力でほどけて癒される。

わたしは宗教を持たない人間で、どんな天国も信じてはいないのだけれど、こんな「あちら」があったらいいな、と思う。あってほしい。

植田真さんの挿絵が文とぴったり寄り添っていて、とてもいい。いちど読むとずっと心に住みつく、不思議な本です。

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近藤康太郎さんという人

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

数年前、朝日新聞に近藤康太郎さんという記者がいる、と音楽好きの友人が教えてくれた。音楽にはあまり関心のない私だが、その友人に薦められて読んだ「リアルロック」には、文章の切れ味といい、感覚の鋭さや思考の斬新さいい、うなってしまった。以後、朝日紙面の凡庸な記事の中で、たまに文章がピンと立っているものがあるな、と思うと、それが近藤さんの筆になるものであることに気づくようになり、すっかりファンになってしまった。

この本、著者名に気づかなければ、タイトルを見て「ああ、またアレ系の焼き直しね」と思って、手にも取らなかっただろう。このタイトルはぜったい近藤さんのセンスではないと思うし、内容を正しく表してもいない。題名で誤解して読まない人がいるなら(ま、そういう人は少数派かもしれないが)、あまりにもったいないことである。

近藤康太郎さんという人は、高みから見たいかにもな物言いや型にはまった思考とは無縁、いつも自分の肌で感じることを大切にして、それを咀嚼して自分の言葉で語る人である。そういう近藤さんがアメリカ駐在のあいだ、通常の特派員としての業務の傍ら、広大なアメリカを駆け巡ってフツーのアメリカ人の日常に入り込み、その細部から直に感じ取ったことを綴っている。9.11の現場やその後のアメリカ社会の動向を目撃することになったために、そこからの鋭い考察も興味深い。しなやかですこぶる真っ当なバランス感覚で、エリート・ブッシュのエリート嫌いや9.11で名を上げたジュリアーニ市長の息苦しい管理主義、得手勝手な正義を押し付けるアメリカ流ご都合主義の傲慢さをズバズバ切る。騒音には平気なのに体の接触を極端に嫌うアメリカ文化を「相手との接触を避ける戦争スタイル」へとつなげ、多種多様なアメリカ社会がすわというときには奇妙に一枚岩となってしまうのは、乱闘は必ず全員参加というアメリカの「男の子文化」のせいではないかと推測する。面白がって読んでいると、アホでマヌケなアメリカ人?なら、日本はどうよ?と、返す刀で日本の読者もずばっと切られてしまう。アメリカから、ひいては日本についても考えさせられる知的刺激に満ちた本です。

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紙の本目白雑録

2004/08/05 14:26

日々の悪口?

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 金井美恵子さん、というと「天才少女がそのまま年を重ねた」というイメージ。もちろんいまだ天才のままである。世の中のバカが鼻についてたまらないこの天才「元」少女は、ズバズバと、鋭くて頭のいい毒舌でもって、作家を、評論家を、政治家を、世の中を、鮮やかに切って捨てる。そんな金井さんのエッセーの毒を一度味わうと、もうその味を忘れられない。
 読めば読むほど、ほんとうに頭が良くて感性が鋭くて知識の豊富な人なのである。そして書き方にも生き方にも独自の確固たるスタイルを持っていらして、それがまたひどく素敵。2チャンネル言葉なんかもちゃんと取り込んで、しかもそういうのの使い方のツボがちゃんとはまっている。世の中を斜に見つつ、見過ごしてはいないって感じがして、こういうところでも感心してしまう。
 小説も、この人のものはすべておすすめだけれど、こういうエッセーもいい。なにしろあちこちに素敵な悪口が満ち溢れていて、くすくす笑いがこみ上げてくること請け合い。ちょっとした刺激がほしい気分の時には、是非どうぞ。

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紙の本ミドルセックス

2004/05/06 13:28

叙事詩の(女)神が語るアメリカ現代史と移民の歴史

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 天才ユージェニデスが、またもとびっきり面白い本を生み出してくれた。欧米の書評を読んで邦訳が出るのを楽しみにしていたのだが(原書で読むのはかったるそうなので)、期待を大幅に上回る作品!
 語り手は女の子として生まれてカリオペと名づけられて育ち、現在はカルと名乗る独身男性。ギリシャ系アメリカ人である。トルコ領のギリシャ人集落で生まれ育った祖父母の家系には、女の子として生まれたのに思春期に男になってしまう奇妙な子供が時々現れたという。代々幾重にも血縁関係が結ばれてきた小さな共同体の業かもしれない。トルコとギリシャの戦いによって村は壊滅、大虐殺の最中、嫁いだ従姉妹を頼って渡米を決めた姉弟は、新世界への移住を契機に自分たちが秘めてきた思いに素直になろうと決め、夫婦となってしまう。がしかし、近親相姦の罪と穢れた血への恐怖は、以後姉の心を苦しめ続けることとなる。そして、今や夫婦となった姉弟は、デトロイトの従姉妹の家に落ち着いて新生活をスタート。次第にアメリカ人になっていく。やがて従姉妹夫婦には女の子、姉弟の夫婦には男の子が生まれ、年月が過ぎ、いまだ罪の意識におびえる姉の不安をよそに幼馴染のハトコ同士は恋仲となって結婚、その第二子として生まれるのが、語り手のカリオペなのだ。
 ちなみにカリオペはミューズのひとりで、叙事詩と弁舌を司る。これがもう、しゃべるわしゃべるわ、まだ遺伝子のうちから祖父母の禁断の恋を本人たちの頭のなかに潜りこんで披露し、赤ん坊の自分の周囲にいる人間たちの心の奥を読者にさらけ出し、長じてからも、事故死する父親の死亡直後の目に映るものまで語ってくれる。語られるのは人々の心の襞ばかりではない、彼らが生きるその時々の時代を、カリオペは語る。山奥で養蚕を営んでいたギリシャ人が禁酒法時代のアメリカに移住し、自動車産業で働き、酒の密売をやり、不況で打撃を受け、近隣の黒人との軋轢を経験し、ブラック・ムスリムの勃興を目にし、世界大戦を経て、黒人暴動、カウンターカルチャーの時代へ。移民の歴史、アメリカ社会の歴史を、叙事詩の女神カリオペは見事な話術で織り上げる。
 そして、あのユニセックスでなんでもありの時代に思春期を迎えたカリオペは、同級生の女の子に心引かれる自分が男であることをついに知ることになる。自分のなかの「女の子」について、自分の心を奪う周囲の女の子について語るカリオペの語り口は、この作家のデビュー作「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」を思い出させる。思春期の男の子の目から見た「女の子」というものを、美しさも汚れも謎もなにもかも、あれほど鮮やかに描いた作品はない。
 かくして、懊悩の末カリオペはカルとなり、ギリシャの村に代々伝わってきた業は、繊細で洗練された悩める現代人の姿をとって世界を転々と(カルは外務省に勤務している)することになるのだ。
 ずっしりと中身の詰まった、極上の物語! とにかく読んでみてください!
 

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光と虚無の旅

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 作者は、島尾敏雄、ミホ夫妻の息子さん。稀有な大作家の父と、同じく作家でもある鋭くて激しい母の「死の棘」の家で育った子供時代のことは、「月の家族」など、これまでの著書にいろいろ書かれている。写真家となって、同業の賢く優しい潮田登久子さんと出会い、お嬢さんのまほさんとの三人家族の穏やかな日常を写真や文でほっこりと綴りながらも、この人の目はいつも虚無を見つめているようなところがある。目の前の幸せの先にある滅びを見越しているかのような。子供時代の傷がそれだけ深かったのだろうか。
「やさしかったおかあさんに、どうして今ごろになって逢いたくなったのでしょうか」と、この本の前書(カマチガキ)は始まる。「表面上はどうということのない生活だったはずなのに、長男の私と、口がきけなくなるまでの衝撃を受けた妹は、悲しみを抱き続けてしまったのです」と作者が語る悲しみの、たぶん原因であるはずの「おかあさん」に。その妹さんは確か一昨年だったか、亡くなられた。「過酷な精神的抑圧のために言語障害になったままだった妹も、訳もなく好きだったのに。悲しくて私の心の底はぐちゃぐちゃになっていて、今の気持ちは、彼らが晩年を過ごした名瀬にはあまり帰りたくありません」と作者は書く。
 東京から、その奄美へ。子供時代の引越しばかりだった暮らしを、作者はたどる。暗い日々のうちにも、子供らしい喜びの光が筋になって差していた、まだらな景色の子供時代を思い起こしながら。目的地の奄美では、とびっきり明るい陽光と自然のなかで、今は年老いた美しくかしこい「おかあさん」が、一人っきりで、「一羽の小鳥と一匹の犬と庭の草木を相手に生きています」。
 ストレートかと思うと晦渋になる不思議な文章を写真に添えて、記憶の旅は続く。奄美や奄美の人々を語る文章は踊るようで、この人の人生に差す陽光は奄美から発しているのだと思わせられる。でも、陽光の向こうには常に虚無が口をあけている。文章や写真を味わいながら読み終わると、人生のやるせなさが胸に沁みて、しーんとせつなくなる本である。

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紙の本ハイスクール1968

2004/03/08 16:51

良心的知識人の孤独

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 久々に本を読んで泣いてしまった。あの1968年をくぐりぬけた犬彦少年の孤独に胸をつかれて。周囲の大半は「世の中」のことなんか知らん顔で、大勢に逆らおうともせず自分第一に生きている。世の流れに逆らってみようとする一部のものも、立派そうでエラソーな借り物の言説の元にたむろして、反体制派というマイナーな体制を形作るだけ。頭がよすぎて物事の本質が見えてしまい、しかもそれから目をそらすには心がまっすぐすぎる人間は、どうしたって孤立してしまう。でもこれは、どの時代にも、自分の頭でものを考え、自分の言葉でしゃべり、物事と真摯に向き合わないではいられない本当の意味での良心的知識人が抱え込まざるを得ない孤独なのではないだろうか。
 本当に何かが起こりそうだったあの1968年。高校生までが「世界」のことを考え(あるいは考えている振りをし)、難解な文学や映画や音楽がたとえ理解されなくとも敬意を集め、朝日ジャーナルを読むことがかっこよくて、「金持ち」であることがちょっと恥ずかしいことだったあの時代の終焉を一人で見つめた犬彦少年は、以来、どんどん成金になって、芸術が市場原理に取り込まれて堕落し、軽薄短小がもてはやされ、マジメが冗談になり、金になるもの、金を儲ける人間に価値があるとされるようになった日本の社会で、常に明晰な頭脳で物事の本質を見つめて、借り物でない思考で真摯な批評を展開してきた。その原点が1968年にあったことがよくわかる。
 私は犬彦少年の一学年下。地方の県立の進学校で、周囲から浮いてしまう自分を自分でも扱いかねるように苛々しながら、ビートルズやストーンズやドアーズを聞き、セリーヌに心をかき乱され、サドやバタイユやシュールレアリズムの作家たちを読みふけっていた。本書に出てくる固有名詞はどれも懐かしく、『時代』の雰囲気がもわっとよみがえってきてジーンとしてしまう。実際になにが起きていたのかは露知らずに、従来の社会枠をぶち壊し、教師という権威を引き摺り下ろす紅衛兵の姿に、窒息しそうな「体制」に風穴があいたような痛快さを覚えていたっけ。ベトナムの状況に心を痛め、何もできない自分に劣等感を抱いていた。当時、こんな思いでいた高校生が全国にたくさんいたんだろう。ちょっと羨ましいのは犬彦少年が東京にいたこと。話に聞いて憧れていた場所へ、彼はどんどん行っているんだもの。映画だって、レンタルビデオがなかった当時、トンガッたやつは地方じゃなかなか見られなかった。
 あの時代を知らない若い人にもぜひ読んでほしい。明晰に物事を把握できて自分で考えられる頭とまっすぐな心を持っている若者は、いつの時代も同じ孤独と向かい合うことになるだろうと思うから。きっかけはさまざまであっても。人間の本性は変わらない。歴史はいつも繰り返す。
 

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紙の本スパイたちの夏

2003/08/05 23:53

生きるせつなさ

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 人生も終わりに近づいたスティーヴン老人が、忘れることのできない少年時代のとある夏の思い出と向き合うべく、当時住んでいた場所を訪れ、回想が始まる。忘れることはできないものの直視するのはつらいその思い出を、老人はどうやら封じこめてきたふしもあるようだ。
 親友にしてもらえてありがたいとでもいうように、スティーブンがまばゆい思いで見上げていたキースという友は、正統的なイギリス少年の美しい容姿をもち、高慢で冷酷。スティーブンは常にその顔色をうかがい、意をむかえようときゅうきゅうとしていた。キースの家は裕福で、父親は厳しく、母親は美人で優しい。スティーブンは友とひきくらべて、自分自身についても自分の家庭についても、どこか気後れするものを感じていた。
 ある日キースが言い出した、自分の母親はドイツのスパイなんだという一言から、夏休みの少年たちの秘密のゲームが始まる。時は第二次大戦たけなわ。街にも戦争が影を落とす。キースの母の謎の行動を監視するうちに、スティーブンは大人の世界の秘密を知ってしまう。近所の女の子がスティーブンに接近してきたことでキースとの関係には亀裂が入り、やがてスティーブンの行動がきっかけで、秘密の世界は酷い結末を迎える。
 とはいっても、当時のスティーブンには自分のしてしまったことの意味がどこまでわかっていたか。自分の行為がもたらした悲劇の哀しみは、人生経験をつんだ今のスティーブンにこそしみじみとわかるのではないだろうか。取り返しのつかない過去。哀しい愛。生きることにつきまとう苦しみ。スティーブンは成長するに従って、あの夏のできごとの意味を心の奥底で重くかみしめてきたことだろう。
 最後に、読者には新たな衝撃の事実が明かされ、物語すべてが最初から別の色合いを帯びて浮かび上がる。そして、哀しみはいっそう濃くなるのである。
 精緻なレースのように編み上げられた繊細で美しい、そして切ない物語である。

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紙の本夜のヴィーナス

2001/01/28 02:03

足の指がむずむず

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日常をすぱっと切ってみせて、切り口から人生の摩訶不思議、奇々怪々をのぞかせてくれる好短編のかずかず。ややくたびれた中年の男女の「業」みたいなものを漂わせた話が多い。ユーモラスな語り口の中にひやっと恐いものが潜む。
 いちばん強烈な印象だったのが「茸類」。山奥で椎茸栽培を営む子無しの中年夫婦。夫婦仲はひどくいい。しーんとした自然に囲まれた夫婦だけの日々。林の中でポコポコ生えてくる椎茸。24時間共に暮らす夫婦の楽しみは晩酌。ある夕、ふと妻は口を滑らす。この足の親指をあんたに切り落としてもらったら、どんな気持ちがするだろう。夫はつうっと立って出刃包丁を持ってきて、妻の足の指を……
 これを読んで以来、足の指の付け根がむずむずする。男女のエロスの奥に潜む「魔」を見事にとらえた一編です。

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紙の本狂気

2004/11/08 20:47

狂気は真実をあぶりだす

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学問一筋で、その学識の高さが海外でも評価されている山寧大学の詩学の教授が脳卒中で倒れ、教授の娘の婚約者でもある愛弟子が病床に付き添う。
ちょうど天安門事件の起こる寸前。北京のざわめきが、遠く離れた田舎の大学にも伝わってくる。だが、語り手である愛弟子は、敬愛する教授と同じく学問の道を究める覚悟で、愛しい婚約者と北京で暮す日を夢見つつ北京大学の大学院入試を目指して猛勉強中。
大学内の派閥争い。無学な党書記が教授連の命運を握る不条理。農村の唖然とするような貧困。そんな中で生きる人々の抜け目のなさ。共産主義政権下ではお馴染みの光景を背に、脳卒中の後遺症で頭の状態がおかしくなった教授は弟子に本音をぶちまけ始める。
教授は、文革を生き延びた世代である。命より大事な蔵書を焼かれ、下放されて長い年月労働を課せられた経験を持っている。そのあいだにどうやら妻には男ができたらしい。教授自身、若い女性相手に不倫の経験があるようだ。裏切った妻への呪詛。好色なヒヒ爺のような言動。党へのへつらい。愛弟子が耳を覆いたくなるような「真実」を、教授はさらけ出す。なにより弟子の心を貫くのは、学問の道を歩んでもただの「事務屋」になるだけだ、この国では、学者などまな板の上の肉と同じ、好き勝手に切り刻まれるだけだ、という教授の言葉だ。
将来の道に疑問を持ち始めた弟子が懊悩する一方、時代は天安門へと突き進む。

狂気に駆り立てられた教授の真実の言葉が、社会の狂気を、時代の狂気をあぶりだす。鋭い言葉で丹念に描き出された中国の現状。だがそのうち、ふと思えてくる。これは中国だけじゃないぞ、と。組織というもののおぞましさ、いやらしさ。そこで生き抜こうとする人間の下劣さ。そんな中で学問を目指す人間が俎上の肉塊と成り果ててしまうのは、なにも共産主義政権下だけの話ではないのかもしれない、と。
教授の吐く狂人の真実の言葉を辿るうちに、「学問」ってなんだろう、という気さえしてくる。芸術至上主義と現実との間の深みが見事にあぶりだされていて、鳥肌が立つ。ハ・ジン、恐るべし。

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紙の本メロウ

2004/11/05 10:15

日本語のたどり着いた、ひとつの究極表現

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登場するのはエドにパトリシアに巨乳軍曹にアダムにイブに息子のポチ(このネーミングの抜群のセンス! アダムにとって、息子なんかポチでいいのです。そしてもちろん、このオイディプス的三角関係から人類は始まるのでした)、ノラ猫の刑事に伝書鳩サム。そしてはじける言葉のイメージ、イメージ。語られるのは『愛』。キーワードは、たぶんケツかな。

巨乳とケツの違い『巨乳は顔に近い。それがポイントだ。巨乳はつねに顔とセットになっている。ひとつの顔とふたつの巨乳。おれたちはこれらをひとまとまりのものとして見ることができる、つまり巨乳の持ち主はまぎれもないその顔であることがわかる。しかし一方、ケツは顔から遠い。そしてつねに顔と反対方向を向いている。首をねじって後ろを振り向いたってなんになる。顔が巨乳に対してするように舌を出してケツを舐めることができるというのか。ケツは孤独だ。どうあがいたって誰のものかわからない。それがケツなのだ』

とまあ、こんなステキな語り口で、哀しい愛のストーリイが綴られる。ペカペカの、現実臭をとことん脱臭したイメージだけの背景の中で、語られる愛はなぜかリアル。愛のエッセンスとでも言いましょうか。

拾い出してとっておきたくなるようなステキな言葉がいっぱいの、ステキな語り口の、オシャレな本です。いかにもドゥマゴ文学賞。レインボー・ストライプの装丁もオシャレ。日本語の作品のたどり着ける、ひとつの究極かも。この感触は、翻訳するのがむずかしだろうなあ。とことん日本語を楽しめます。

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紙の本ケルベロス第五の首

2004/11/03 19:55

すべては揺らぐ

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難解な作品、と聞いていたので、ちょっと構えて読み始めたのだが、最初の数ページではやくも物語世界にがっちり取り込まれ、あとはもう夢中で読み進む。面白い!

まずは地球の植民惑星の広大な館で弟と暮す少年の物語。部分的にうんと進んだ科学を使って妙に荒廃した社会を営む、地球人の末裔たちの世界である。だがまずこの「地球人の末裔」に疑義が投げかけられる。地球人の植民によって滅んだとされる先住生物には姿形を変える能力があり、実は今の住民達はこれすべて、姿形ばかりか中身までそっくり地球人をコピーして自分達は地球人の末裔だと思い込んでいる先住生物ではないかという説が提示されるのだ。
少年の父は遺伝子操作に長け、改造女性を使って売春宿を営んでいる。この世界では、子供や奴隷の売買は普通。使用目的別に改造された人間達が売買される。やがて少年は自分が父のクローンであることを知る。父もまたその父のクローン、代々そうやって「命」をつないできたのである。父は失敗作を売ったらしく、少年は市で自分と同じ顔をした奴隷を見る。少年と弟を養育するのは曽祖父の頭脳をそっくりシミュレートしたロボット。感情まで備えているようだ。そこへ、地球から人類学者が訪れる。だが彼は本当に地球から来たのだろうか? 奇妙で残酷なゴシック調の世界で、少年のアイデンティティーはどこまでもとらえどころがない。

第二部はこの人類学者が採取した(あるいは創作した?)伝説。第一部でほのめかされた星の成り立ちが語られる。これまた、夢魔の世界に引きずり込まれるような、揺らぎに満ちた物語である。

そして、囚われた学者の手になるらしい手記を中心とした第三部。ここでも、結局定かなものはなにもない。彼は本当に地球から来たのか? 謎は謎を呼ぶばかり。

私とは誰か、から始まって、民族全体のアイデンティティーが、ついには存在というもの自体が揺らぐ。語り手の語りから始まって、定かなものはなにもない。人格、記憶、全てが蜃気楼のようにとりとめがない。過去も現在も未来も、全てがゆらゆらと揺れ動く。眩暈がするような物語世界である。
深読みすればどこまでも深読みできるのだろうが、ストーリーのみを楽しんでも十二分に面白い。というふうに、この作品をどんな読者にも楽しめるようなものにしてくれた訳者の力量に、敬意を表したい。

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紙の本ペンギンの憂鬱

2004/11/03 18:06

憂鬱症のペンギンと孤独な青年の物語

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この作品、なにしろ「ペンギン」が効いてます。これが犬や猫やクマなら、こんな味わいは出せなかったでしょう。白黒で、声はほとんど出さず、人間と同じ直立で、ヨタヨタ歩きの、あのペンギンならではの世界です。
ソビエト崩壊後、社会規律が崩れ果てたキエフに暮す、恋人と別れた、冴えない作家志望の青年が主人公。ややこしそうな外の世界にはあまり感心を持たず、動物園から放出されたペンギンとひっそり暮している。群から引き離されたペンギンは憂鬱症になるのだという。孤独な青年と憂鬱症のペンギン。互いに依存しあう「ほとんど親戚のような、愛情はなくても思いやりはある」という関係である。

これという作品をものすことができない青年に、新聞社から追悼文を書かないかという話が舞い込む。これはという人物をリストアップし、予め追悼文を用意しておくのである。やってみると本人もなかなかと思う出来栄え。仕事は順調にスタートし、生活は安定する。気のいい警官の友人ができ、ペンギンを連れて一緒に氷上ピクニックに出かけたりする。
新聞に追悼文が載るような人物は勿論有力者であり、そういう人物にはたいてい脛に傷がある。編集長の指示通り、そういう傷をもさりげなく盛り込んで、青年は追悼文を生産する。やがて、知り合いになったヤバそうな世界の男に頼まれて、その4歳になる娘を預かることになる。ベビーシッターとして20歳の娘を雇い、ペンギンも含めた擬似家族の、けっこう幸せな日々が展開する。ペンギンに目をつけた用心棒稼業の男から、葬式に参列を頼まれたりするようにもなる。青年が追悼文を書いた覚えのある有力者たちの葬儀である。青年の給料は300ドルなのに、ペンギンは葬式に出るたび(棺の傍らに佇むペンギンは評判を呼び、需要は高まるばかり)1000ドル稼ぐのである。

だがしかし、きな臭い外の世界が青年を脅かし始める。こうしたストーリーの常として、青年は徐々に不条理な世界に追い詰められ、破滅へと向かう。だが最後にはどうやらつるっと破滅から逃れられそうだ。どうやって? ここでもペンギンが主役です、とだけ言っておこう。

とてもしゃれた上質のエンターテイメント。ソ連崩壊後の不条理な政治の世界に翻弄される青年の物語、ということなのだろうが、そんなことは無視しても、とにかくめちゃくちゃ面白く読める。これを読めば、あなたもきっとペンギンを飼いたくなるでしょう。

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紙の本ニューヨークの古本屋

2004/09/02 10:51

ニューヨークが遠かったころ

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ニューヨークがうんと遠くで、あちらの新聞や雑誌を購読するにはバカ高い金がかかり、海外旅行がまだまだ贅沢だった頃、常盤新平さんという窓を通じてニューヨークを見ていた人は多かったのではないかと思う。
私がそもそもニューヨーカーという雑誌を知ったのは常盤さんのお書きになったものを通じてのことだし、アーウィン・ショーも無論、常盤さんに教えていただいた。
「常盤さんのニューヨーク」は、頑固に一貫している。すべての中心であるともいえる万華鏡のようなニューヨークのなかから、常盤さんはあくまで御自分の興味の範疇にあるものだけを丹念にすくいだして、それをすっきり並べて読者に見せてくださる。この本もまたそういう一冊である。
過去何十年かにわたる折々のニューヨーク行が綴られる。行けば必ず本屋や古本屋を巡って、お好きな作家の(トレンドの新人作家などを追うことなく、あくまで常盤さん好みの)本を探される。現在のニューヨークの中に昔のニューヨークの面影を重ねて、興味深い話を読者に聞かせてくださる。
読み終わって、改めて時代の移り変わりを思った。今や、NYタイムズもニューヨーカーも、ネットでけっこう読めてしまう時代である。情報はあふれている。だが、お若い頃に古本屋で手に入れた雑誌などからこつこつご自分なりのニューヨークを掘り下げてこられた常盤さんの該博な知識を思うと、情報量が多すぎるのも考え物だという気もする。すぐにつかめてしまうニューヨークよりも、常盤さんのニューヨークのほうが遥かに魅力的に思えるのだ。
最初、通訳代わりに同行して、人嫌いで有名な当時のニューヨーカーの名編集長と会えるように段取りしたりして常盤さんを支えてきた、英語にも堪能で有能な「彼女」が、やがて奥様となられる過程などもさりげなく織り込まれていて、常盤新平という作家の身辺の移ろいもうかがえる。
そっけなく淡々としているのに味わいのある文章も、いつもながらいい。

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紙の本その名にちなんで

2004/08/01 14:33

人生、そして家族

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(※論旨の展開上、書評の後半部で本書の最終部分まで詳しく触れられています。
  本書未読の方はあらかじめご承知おきください。bk1編集部)

うまい!の一言につきる。なんの変哲もない移民の家族の物語で、大きな事件も起こらなければ、奇異なエスニック風味やマジックリアリズムがまぶされているわけでもない。人が生きていく平凡な日常が静かに語られていくだけの物語なのに、読み始めるとやめられず、読後にはなにか深いものが心に落ちてくる。「人生」や「家族」、人が生き、親から子へと血が受け継がれていくことにまつわるもろもろの普遍性が心に沁みる。これは決して「彼ら移民」の物語ではなく、こうして生きている「私たちみんな」の物語である。
 アメリカの有名大で学ぶアショケと見合い結婚してベンガルからやってきた若妻アシマは、すぐに妊娠して子を産む。アショケはかつて列車事故にあい、持っていたゴーゴリの本のおかげで一命をとりとめた経験を持つ。生まれた男の子の名前を記した祖母の手紙が届かず、若夫婦はとりあえず息子を「ゴーゴリ」と呼ぶことにする。
 アショケはボストン近郊の大学に職を得、家も購入。娘も生まれる。一家はベンガル流の生活様式を維持し、故郷の親族に代わるベンガル人コミュニティーを大切にしている。ゴーゴリは学校ではアメリカ人、家ではベンガル人という二重生活に二世らしい不満を抱きつつも、優秀な学生として成長、イェール大入学で家を離れるのを契機にニキルと改名、ずっと嫌ってきたゴーゴリという名を捨てる。
やがて建築家となってニューヨークで働き始めたニキルは裕福なアメリカ娘と恋をして同棲。洗練された彼女の家族とは対照的な自分の両親を疎ましく思うようになる。そんなとき、アショカが急死。突然の父の死は、ニキルの心を家族のもとへと引き戻し、ガールフレンドとは別れることに。やがて、母親に勧められて会ったベンガル人二世の女性と恋に落ちて結婚。だが、妻の浮気が発覚して離婚となる。母アシマは家を売ってインドとアメリカ半々で暮らすことを決意。思い出の家での最後のクリスマスの日、ニキルは昔亡き父にもらったゴーゴリ短編集を見つけて読みふける。
 最初アシマの視点で始まった物語は、ゴーゴリへと引き継がれる。その名がニキルと変わったあとも、家族からはゴーゴリと呼ばれ、地の文では(本人の意識では)ゴーゴリとニキルが混在している。この二重性が彼のアイデンティティーの二重性を巧みに示唆している。語りの視点が登場人物の間をひょいひょい移ろうのも、物語に深みを増している。
 最後まで読むと、途中ほとんど姿を消していたアシマが、ぐっと存在感を持ってくる。ぽんと異郷へ放り込まれたベンガル人の少女が、ずっとサリーをまとってインド料理を家族に食べさせながら、なんと逞しく強くなったことか。子供二人を立派に育て上げ、たくさんの友人を得て自分なりのコミュニティーを作りあげたアシマは、今、思い出の家をさっぱりと売り払って新たな生活を始めようとしている。最初のページと最後のページの間に挟まった時間と人々の変化。それを作者は描きたかったのではないかと思う。人が生きるというそのことを。人生は偶然の連続である。「何はともあれ、そういうことが重なって、ゴーゴリという人間ができあがり、どんな人間かを決められた。予習しておけるようなものではない。あとになって振り返り、一生かかって見つめ直し、何だったのかわかろうとするしかない。これでよかったのかと思うようなこと、まるで話にならないことが、しぶとく生き残って最終結果になってしまう」とゴーゴリは思う。そうだ、そうだ、私たちみんな、そんなふうにして、親から子へと、いるものやいらないものを引き継ぎながら、生きていくのだ。

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