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中村びわ(JPIC読書アドバイザー)さんのレビュー一覧

投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー)

655 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本虚無への供物 新装版 上

2004/07/06 14:18

時代と犯罪の関係を意識しながら、美しく幻想的に、しかしいびつでバロックに提示された特別な存在感ある小説。

13人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 東京創元社から全集の形でも刊行されているが、ずっと分厚い1巻として出ていた講談社文庫版が2巻になって登場した。どこの文庫も、文字を大きくするための改版が進んでいるから、その流れに沿った改訂には違いないだろうが、この2004年という年は、どうやら作家・中井英夫にとって節目の年らしい。

 2月29日が『虚無への供物』刊行40周年の日であったそうだ。そして15年前の6月、中井英夫は終の棲家と考えていた世田谷区羽根木の地から離れざるを得なかった。私事で恐縮だが、羽根木は隣町。中井氏の散歩道だったところを私は始終うろついているらしい。
 50年前の1954年9月26日、青函連絡船「洞爺丸」が転覆した。1155名もの犠牲者が出た国鉄最大の事故であり、タイタニック号に次ぐ海難事故ということになる。ギュンター・グラスが『蟹の横歩き』で扱った大戦中のヴィルヘルム・グストロフ号転覆——ナチス・ドイツが伏せていたため9000人もの犠牲者を出したというのに知られざる事故だったから、それが史上最悪の海難として、洞爺丸は3番目の規模である。青函トンネル着工の直接の引き金となったこの事件を舞台に、水上勉が『飢餓海峡』を書いているが、『虚無への供物』もこの事故を背景としている。
「ザ・ヒヌマ・マーダー」と作中人物に名づけられる連続殺人事件が、ゴシックな屋敷のなかで展開していくわけだが、そもそも主要登場人物の氷沼蒼司・紅司兄弟の両親は、洞爺丸沈没事故で両親を失ったという設定である。その「ザ・ヒヌマ・マーダー」の幕が切って落とされる日付が1954年12月10日。黒天鵞絨(ビロード)のカーテンそよぐ下谷・竜泉寺のゲイ・バア「アラビク」から始まる。
 加えて言うなら、物語が始まったのと同じ日付の1993年に、中井英夫はみまかった。——ドラマティックなものに引き摺られてしまうのは、私だけではあるまい。
 
 アンチ・ミステリーという形をとって『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』とともに推理小説の3大奇書として挙げられる本書である。本格派推理小説にふさわしい複雑な謎解きを収斂させていくことではなく、逸脱させたり破綻させたりを平気でやってのける作品の魅力については多くの人が語っているので、ここでは触れることを遠慮する。
 注目したいのは、そのようにアンチ・ミステリーという形をとったことの根にあったものである。

 冒頭、バア「アラビク」の立地についての話を少し振ったあとにすぐ、作者は1954年という年の陰惨な事件の数々に触れている。連続殺人事件の物語を始めるに当たって、その年の殺人件数の異常な多さに触れ、さらに二重橋圧死、第五福竜丸、黄変米、そして洞爺丸の諸事件を挙げ、それをあっさり「新形式の殺人が次から次と案出された年だからでもある」(11P)と裁定している。 
 高度成長前夜の50年代は、松本清張が『日本の黒い霧』でも表わしたように、GHQの思想統制などにより、インテリ層にとっては何とも暗澹たる閉塞感に満ちた時代だったろう。それを『虚無への供物』という言葉ですくいあげ、全篇にその時代の空気を漂わせたこと——これは戦後日本文学のひとつの大きな収穫ではないか。

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紙の本シュナの旅

2002/01/08 11:01

「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」の原点と言える宮崎駿のコミック絵本。オールカラー147ページとは何とも贅沢、しかもこのお値打ち!

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 チベットの「犬になった王子」という民話が元になっているという。宮崎さんがアニメ化を夢見ていたけれど、地味な企画ゆえ商業ベースでは実現できないとあきらめていた。声がかかって1983年にこのような形にまとめたと作者あとがきに詳しい。
 余談になるがそのことを考えると、旧ソ連で地味ながら質の高いアニメが何本か作られていたことは、作家にとっても私を含む観客にとっても何たる僥倖だったのだろうかと思える。
 カバーに刷られた解説には、「宮崎駿のもうひとつの世界」と書かれているけれど、「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」といった宮崎作品を、驚異や歓びをもってくぐり抜けてきた今の私たちにとって、この作品はそれらアニメの原点という印象であり、決して異色の作とか別世界という感じは受けない。実際この物語の主人公あるシュナは「もののけ姫」のアシタカを彷彿させる。

 このレビューの見出しで「コミック絵本」なんていう言い方をしてしまったけれど、表現形式がまさにコミックと絵本を足したようなスタイルになっているので、イメージを喚起しやすいと思ったのだ。マンガのようにコマ割りになっている。が、一番外側の白枠はあまり設けられていない。つまり絵柄が「断ち切り」になっているものが多いのだ。見開きいっぱいの画面も沢山あるので、そういうのを見ると絵本のようでもある。また、吹き出しがきわめて少ない。本文が口承伝説の語りのようだから地の文がほとんどで、「〜と言いました」と述べる代わりに吹き出しが僅かに使われているだけなのである。
 ジブリファンにとってはスタイルのことなんてどうでもいいかもしれないけれど、「この形式だからできていることがある」と私には思えた。そして、こんな形式だというのに絵は動いているのである! そう見えてしまうことの不思議…。

 物語は、氷河がえぐった谷底の貧弱な土地にある小さな王国に始まる。時ははるかな昔か、あるいはずっと未来のことだったか…という。宮崎アニメファンにはおなじみの設定で想像しやすいと思う。
 王国の後継者シュナは、旅人がもたらした実りの粒を携え、その生きた種を求めて旅立つことを決意する。生きた種は金色の殻に包まれ、その黄金の穀物が豊饒の波となってゆれる土地が西のかなたにはあるのだという。旅の途次、シュナはうわさに聞いていたグール(人喰い人種)らしきものに行き会い、さらに人身を売買する都城に迷い込む。そこで心惹かれる姉妹に出会って救い出したいと願う。

 表紙の絵は、そこのシーンに関連している。とても大切な場面だけれど、獣にまたがった雄々しいシュナが黎明をバックに疾駆する…なんていう正攻法が、表紙としてはやはりすんなりしてインパクトがあるとは思った。
 40代前半の若い宮崎さんの頭にすでに広がり始めていた宇宙が、さーっと幕を開けていくような快作だ。本を読む習慣のないティーンエイジャーに入り口として手渡すにもよさそう。
 この本、私は地元の書店で美しくディスプレイしているので目に留まり衝動買いした。『白い犬とワルツを』の例もあるけれど、ふだんは見ないアニメ文庫の棚にささってたって出会えなかった1冊。書店員さんの気持ちの熱さがうれしかった。

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美しい風景や動物・植物に囲まれ、古くからの季節の行事を大切にし、家族とともにある喜びに感謝する−−自分の幸福を繊細に描き出し、人と分かち合おうとする絵本。価値観が合えばギフトに素敵です。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 TV番組「王様のブランチ」で紹介されて以来、もう1冊同じ作りの絵本『喜びの泉』とともに大いに売れたと聞いている。

 1915年に米国北東部ニューイングランド地方で生まれ育ち、今もそこで暮らし続ける絵本作家ターシャ・テューダーの生活が、これらの絵本とともに紹介されて、この人の生き方自体が一つのブームを形成している。この2001年の夏休みの間には、横浜のそごうデパートで、暮らしぶりを紹介し原画を展示する催し物も開かれている。

 ガーデニング、キルト、カントリー風家具、カントリー風キッチン小物など、女の人が家にいて、日々をいかに楽しく充実して過すかということが流行するなか、その気分にぴたり添うものとして、ターシャの世界が現われたわけである。

 1月からの各月、見開き2画面ずつで、家族や村の人びとと楽しんだ年中行事が紹介されている。孫娘がおばあちゃんに、ママがわたしぐらい小さかったときのことを話してと乞われて教えてあげるという構成になっている。たぶんターシャ自身の少女時代の様子が中心だろうと思う。

 新年のパーティー、クリスマスシーズン最後の日のゲーム、聖バレンタインデーのカードやプレゼント、ワシントン誕生日のパイに劇、3月のメープルシロップ作り。イースターの卵の木の飾り、家で飼う小動物たちと喜ぶ春の訪れ、5月の花祭り、リンゴの花の下でのティータイム、聖ヨハネの祝日の大がかりな人形劇。
 7月に入ると独立記念日があって、爆竹の音に始まり、家族はごちそうをカヌーに積んで島へピクニック。8月にはママの誕生日があり、夜開かれたパーティーで、小川を流れてバースデーケーキがやってくるという演出。9月の労働者の日は人形たちのお祭りで、すべてが人形サイズ。
 10月はリンゴジュース作りに大騒ぎのハロウィーン。感謝祭を経て1年分のろうそく作り、そして最大の行事・クリスマスがやってくる。

 子どもたちが着ているもの、食べ物や食器、建物や家具、畑や庭、作業のための道具など、描き込まれすぎない程度にリアルに再現されており、見ていて楽しい。民俗学的な意味もあるのではないかと思う。

 絵本としての美しさ、魅力で特徴的なのは、ユニークな飾りケイだ。絵のすべてが飾りケイに囲まれている。花や葉、小さな動物、ベリーにリボンといったモチーフが四季の恵みを演出している。それとともに、このケイで囲むということがターシャの思いを象徴しているようにも感じられる。それは、冒頭に添えられたイェーツの言葉にうたわれている。

−−そこは、美しいものがいつまでも美しく、喜びが知恵であり、時が永遠をうたう国なのです。

 この絵本には、確かにターシャの生活のなかで得た幸福への感謝の念が封じ込められている。それは神や人びと、自然や物すべてに向けられている。  

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紙の本恐竜

2002/09/03 11:02

親は人込みが苦手、子は電車や車に酔う——で、幕張メッセに赴くことなく、この図鑑で手軽に済ませる中村さんちの恐竜博。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 30年以上前、私が買ってもらった旺文社の図鑑は、たしか全6巻ぐらい。「動物」「植物」「魚」「昆虫」「鳥」「気象・宇宙」といったところが各巻の内容だったように記憶する。ここ数年、子どもたちが好きなものの知識カテゴリーのなかに「恐竜」という1ジャンルが定着したことについては、羨望混じりの感懐がある。
 本書の8頁「カンブリア紀の海にいた生き物たち」の項に「澄江(チェンジャン)動物群」のコラムがある。1984年7月に、中国の学者が未知の動物を含む化石を次々と発見した。それはカンブリア紀に爆発的に現れて広がった生物たちの貴重な記録だったそうだ。
 30年のあいだに、古生物に関する発見と研究は日進月歩で展開してきた。よくは分からないが、おそらく、それを支える穴掘りの技術や、骨から様々な情報を読み取るレーザー技術などが同様に発達してきたことも大きな貢献なのだろう。また、人類の関心が地球環境に向いてきた事実も、古生物学への興味の底流にあることと思う。

 予想を上回る入場者数を更新しつづけ、会期延長もされた幕張メッセの恐竜博は9000平方m規模。「この地球(ほし)には、まだまだ不思議が眠っている」という素敵な惹起文句にその広さがふさわしいのかどうかは知らないが、解明されていない恐竜の生活や習性を新たに発見するチャンスが、これから子どもたちにも十分に残されている——可能性の広がりは、この183ページの図鑑を入り口にしてもしっかりと感じ取ることができる。
<21世紀こども百科>という視覚に訴えるユニークな事典シリーズの姉妹編として、この巻を含む最新図鑑NEOシリーズの発刊がつづいているが、第1期だけで何と全16巻が予定されているということ。人気が高くてよく売れている「恐竜」のほかに、いろいろなジャンルでそれぞれに情報の充実があるわけだ。昔子どもだった私たちも、子どもに便乗してその恩恵にたっぷり浴させてもらうことにしよう。

 内容の構成はオーソドックスになされている。
 まずオリエンテーションとして、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀といった恐竜の生きた時代や進化に関する知識が紹介されたあと、恐竜とはどんな動物なのか種目分けの基準が説明されている。それに従って、以下でいろいろな恐竜が並べられていく。
 中生代の主な動物が竜盤目の(1)獣脚類(2)竜脚形類と、鳥盤目の(3)装盾類(4)鳥脚類(5)周飾頭類の5種類に分けられ、さらに翼竜や首長竜、魚竜などの「恐竜以外の動物たち」の項も設けられている。これより古い動物については、別巻刊行が予定されている。
 と、漢字のグループ分けで書いてもピンとこない。(1)ではスピノサウルス、アロサウルス、ティラノサウルス、オビラプトルなどの仲間が登場する。(2)ではブラキオサウルスほか、今回の恐竜博の呼び物である世界最大のセイスモサウルスを含むディプロドクスの仲間などが出ている。
 ステゴサウルスやオンキロサウルスは(3)で、イグアノドンは(4)、トリケラトプスは(5)——有名なものを拾っていくと、そんな具合である。

 特色は、何と言っても描きおろしのイラストの豊富さだ。恐竜イラストレーターの実力派・山本匠をはじめとする画家が気合いの入った仕事をしている。特に背景もついた絵が素晴らしい。「ロスト・ワールドを見てきたの?」という感じのリアルさがある。
 巻末の世界の恐竜博物館一覧や、学名も含む索引などの資料も便利である。

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紙の本ふたりはきょうも

2002/07/16 11:47

この巻の最後に収められている「ひとりきり」というお話は、何十ぺん読んでも飽きない。そしてラスト3行の魔法のことばで、必ず目を熱くさせられる。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 全部で4冊ある<かえるくんとがまくん>シリーズ20話のうち、どれが一番好きかを考えたとき、その判断には大いに迷ってしまう。
『ふたりはともだち』のなかの「おてがみ」は、国語の教材として採択されたことがあり、ふたりのキャラクターの面白さが存分に発揮されたお話だ。『ふたりはいっしょ』の「はやくめをだせ」は言葉のやりとりと連続する行動の楽しさが捨てがたい。その次に収められた「クッキー」も同じ魅力にあふれており、子どもの一番の興味「食べ物」を素材にした童話はやはりわくわくするなあと思う。同じ本の最後に収められた「がまくんのゆめ」は息子のリクエストが最も多いお話である。
 季節色がよく出ている『ふたりはいつも』のなかでは、「アイスクリーム」の絵がおかしくてたまらないし、「おちば」のすれ違いにはいつも作者のユーモアに対する才気を感じさせられる。

 しかし、どれかひとつということになると、シリーズ4巻めである本書『ふたりはきょうも』のおしまいに収められた「ひとりきり」をやはり挙げたくなってしまう。ローベルは、この作品を「決め打ち」と覚悟したのだと思う。それは3行の結びに読み取れる。
 抜き書きしようかどうしようか迷うところだけれど、この3行というのは、がまくんとかえるくんのお話を知らない人や、この「ひとりきり」のお話を知らない人には、何てことのない、さりげない記述だと思う。だから、引用しておこう。
——ふたりきりで すわっている かえるくんと がまくんは、しんゆうでした。
 そのうち原文を確認しておこうと思いながら、ついつい忘れてしまっているのであるが、少年の魂を抱きつづける詩人・三木卓さんの絶品の翻訳により、この童話シリーズが素晴らしい原作に加えて新鮮な息を吹き込まれ、長く読みつがれてきたことを象徴する部分であると思う。

「余計なお世話」「本の紹介の禁じ手」だとも自覚しつつ、「ひとりきり」のあらすじもまとめてしまう。心地よい響きとリズムに仕上げられたこの童話のテキストは、どうせ実際に触れてもらわないことには、その魅力を感じ取ることなどできないのだ。
 かえるくんの家を訪ねたがまくんは、玄関ドアに「〜でかけています。ひとりきりになりたいのです」という自分宛ての手紙を発見して、憮然とする。ぼくと友だちなのに、どうしてひとりきりになんかなりたいんだろうと受け止めるのだ。あちこちさがすと、かえるくんは川のまんなかの島にすわっている。
 彼をどうにか励ましたいと思ったがまくんは、ランチを作り、バスケットに詰めて持っていく。かえるくんに叫ぶがまくんのセリフがまた、いい。
「ぼくだよ。きみの しんゆうの がまがえるだよ!」
 でも、遠いので声はかえるくんには届かない。がまくんは、かめに頼んで島に連れていってもらうことにする。かめは、ひとりっきりになりたいひとは放っておいてあげればいいのにと言い、言われたがまくんは、もしや自分の至らなさのせいで、かえるくんがひとりになりたいと思ったのかと危惧する。
「〜おねがいだから また ともだちに なっておくれよ!」と必死で叫ぶがまくんは、かめから滑り落ちてしまう。持参のランチは、びしょぬれになってしまい…。

 「存在」して「感じる」ことの素晴らしさ——それを何度も教えてくれるお話である。
 

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ポルトガルの海は世界の涯てに広がり、ペソアの詩は人間の精神の涯てに広がる。複数の異名を持ち、それぞれの人格に詩作をさせた特異な詩人の作品選集。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ペソアの詩には、入れ子構造の箱を開くようにして出会う人が多いかと思う。
 すなわち、須賀敦子という優れた文学者がアントニオ・タブッキという独特の雰囲気を持つ小説家を紹介してくれ、そのタブッキという作家が、このポルトガルの詩人の研究者でもあり、『フェルナンド・ペソア最後の三日間』という小説も書いていたという流れで辿り着くケース。
 あるいはまた、ノーベル文学賞に顕彰されたジョゼ・サラマーゴというユニークな世界観を持つ作家が『リカルド・レイスの死の年』という小説を物しており、そのレイスが、ペソアの異名のひとつであるという流れで辿り着くケースなど。

 本書は1985年に出された初版本の65篇の詩に解説とあとがき、そこに21篇の詩とあとがきを付して刊行された増補版である。「続巻」とまではいかないが、重版の予定がなく初版在庫切れで新刊流通ルートから姿を消していく海外文学の本が多いなか、この「増補」は訳者にとっても読者にとっても珍しい僥倖なのだと思う。
 その初版本のあとがきに引かれたR・ヤーコブソンの言葉が、この特異な詩人を読み継ぐ価値を十全に伝えている。
「(18)80年代に生まれた一群の偉大な世界的芸術家たち——たとえばストラヴィンスキー、ピカソ、ジョイス、ブラック、フレーブニコフ、ル・コルビュジエなど—
—の一人としてフェルナンド・ペソアの名もあげなければならない。こうした芸術家たちの特徴がすべてポルトガルのこの詩人に凝縮されてあるのだ」

 外国語で書かれた詩を、原語に当たらず十分に鑑賞することができるのか。この疑問は、「俳句の良さは外国語なんかにうまく翻訳されっこない」と答を出すのと同じ理屈で、ポルトガル語を解さない読者としては触れたくない問題ではある。
 しかし、語の意味の連なりや二重三重の掛け言葉、韻の踏み方といったもののすべてが理解できなくとも、こなれた日本語に置き換えられた詩片に触れるだけで、この詩人がいかに人間の意識の極北に達していたのかは分かる。
 21世紀初頭の今このとき、20世紀前半に複数の自己を生きて創作をつづけた詩人の言葉は、突き抜けた虚無の境地とも言うべきところから、読み手である私の元へと響いてくる。
 虚無に覆われ尽くすのがイヤだからこそ、抵抗のため、真理に近づかんと本を介して古今東西の知識を求める。だが、もはや上昇や発展をしていかない社会にあって、しかも年を重ねていくということは、これはもうどうしようもない虚無を底辺に抱え込んでいるわけである。進化や成就ばかりが人類の求めていくべき価値ではないし、勝ち負けというスケールで勝ち組に入ることが即、個人の幸福につながるわけではないと頭では分っていても、それでも尚虚無はつきまとう。
 たとえば本名ペソアの手になる詩片にこういう部分がある。
「知識はあまりに重く 人生はあまりに短い/ぼくのなかへ這入れ おまえたち/
ぼくの魂をかえよ おまえたちの軽やかな影に/そして連れ去れ このぼくを」
 そしてアルヴァロ・デ・カンポスの一節。
「いずれにしても 存在することが疲れるというなら/そうであるなら 高貴に疲れよ」
 

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紙の本香水 ある人殺しの物語

2003/08/14 14:01

シュールでグロテスクで残酷。80年代ドイツ最大のベストセラー。映画化されるって、パゾリーニやホドロフスキー作品のように?丸尾末広か花輪和一がアニメ化してもいいが。

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 18世紀のフランスに天才肌のおぞましい男がいた、という紹介が最初のパラグラフでなされる。何の領分においてかという説明として「香りというつかのまの王国に」とそのパラグラフは結ばれる。つづいて当時の町、ことにパリがいかに悪臭に満ちていたかの記述があふれ出してくる。
 昔のヨーロッパでは入浴の習慣がほとんどなく、人びとの体臭がすごいがために香水というものが発達してきたとか、トイレや下水道の整備がされていないから疫病がまたたく間に広がったという聞きかじりの話を思い出しながら読み進めていると、最初に紹介された天才の酷い出生が語られ始める。
 
 文庫版でわずかに6ページの第1節。「げっ、キモい!」という人と「こりゃすごそうだ!」という人が、ここですっぱり岐かれることと思う。見かけだおしではなく、クライマックスにはそれに見合った盛り上がりがあり、結末にもそれに相応しい幕切れが用意されている。ヒートアップしていくだけなのだから、覚悟の決め時というものだろう。
「孤児のグルネイユは生まれながらに図抜けた嗅覚を与えられていた。真の闇夜でさえ匂いで自在に歩める。異才はやがて香水調合師としてパリ中を陶然とさせる。さらなる芳香を求めた男は、ある日、処女の体臭に我を忘れる。この匂いをわがものに…」
 カバーのあらすじで、ある種の方向性や面白さを嗅ぎ取る人もいると思うが、これはあまりに慎ましやかでおとなしすぎる案内というものだ。

 全体は大きく3部に分かれている。
 第1部の舞台はパリ。主人公グルネイユの生まれと育ちの異常さが、成長してのちの悲劇の一因となることが語られる。読者にとっては、シュールな虚構物語を頭に構築していく上でスムースな導入だ。生まれ育ちに加え、異常に発達した嗅覚と特異な体質がグルネイユを香りの世界へ導き、香りを通して世界を認識させていく様を描いている。物語にとっても必要欠くべかざる土台。
 自分の鼻や分析・記憶に対する自信の獲得が、自分は何者かという成長期の自己同一性獲得に結びつく。それゆえ何を目的に、何を欲望して生きていくべきなのかが徐々に露わになっていく。
 第2部は7年もの歳月が流れるというのに、ごく短い。彼はひとつところに留まり修行僧のように過ごす。修行僧のように心の平安を得たのち、自らの決定的な欠落を発見する。その発見が、これまでにない全く新しいタイプの香水作りの動機になる。
 第3部は、彼のなかの猟奇が全開する祭典の場である。猟奇的ではあるが、グルネイユはレクター博士のような根っからの「悪漢」ではない。ターゲットに向かうときの集中力、そのための禁欲や美学には共通するところがあるものの…。

 語りの上手さに舌を巻くし、香水の知識を得られたり、時代の雰囲気に浸ったりというだけでもよく出来た小説だ。しかし、何よりもスリリングな楽しみがある。それは、禁じられた欲望をグロテスクに昇華させていくことの面白さを求めながら、自分のなかの卑しい欲望、危ない欲望を刺激するのが許されることだ。読書という行為のなかだけであるならば…。

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紙の本ふたりはいっしょ

2002/07/16 10:48

「家庭」のことを背景に出さない。「きみ」と「ぼく」の楽しく豊かな世界だけにこだわったこのシリーズは、すべての子どもに平等に開かれた秀逸な童話だと思う。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 息子のいろいろな友だちが家に遊びにやってくる。サンバを口ずさみながら踊りだしてしまう子や、日に1回は電車を見ないと落ち着かない子、登校拒否気味だが美しい絵を描くという自己表現手段がある子、ミュージシャンのお父さんのようになりたくてピアノの即興演奏を習っている子…。わずか7歳にして、個性というものはこうまで開花しているのかと感心することしきりである。
 親の庇護を受けている幼少期であるから、家庭環境や保護者の精神状態などが、それぞれの子どもに見事に具現化されている。自分のうちのことは棚に上げて「なるほどねえ」とついつい興味深く観察してしまう。わが子もどこかで観察されていることだろう。

 家族のトラブルが多い現代社会において、子どもたちが置かれている状況というのはなかなかにシビアである。だが、そのシビアさに無頓着な人も結構いる。入学式の祝辞でPTA会長が「お母さん」という言葉を連発した。ムッときた私は、翌日早速、校長宛てに苦情の手紙を書いた。「片親しかいない子だっている。子育ての晴れがましい記念日に、わざわざそういう話を出さなくてもいいだろう。寓話で語れ」というのが主旨である。
 このサイトを見る人のなかには、「読み聞かせ」に興味をもっている人、仕事やボランティアでそのような機会を持つ人もいると思う。「家族」というのは、確かに子どもの本の世界において欠かせない重要なテーマではあるのだが、くれぐれも扱いに注意してほしいと願う(何かえらそうな言い方だけれど)。

 夏休みのはじめ、そのような事情を抱えた子も伴い、海辺の友人宅に転がり込むつもりでいる。読んだ本のタイトルを8冊書くという宿題が出ているから、5日間の日程で、それを片づけさせてやりたい。かばんに何の本を詰め込んでいこうかと考えたとき、真っ先に思いついたのが、このローベルの<がまくんとかえるくん>シリーズである。
 ローベルの本は、『ふくろうくん』にしても『どろんここぶた』にしても、奥深いところで人間存在の意味を感じ取らせるような内容の話が多い。それを平易な言葉で、且つ楽しいエピソードで表現する。見事な寓話である。
「君がどんな状況に置かれているのであれ、自分を信用して大切にして生きろ」という作者のメッセージを強く感ずる。そして、この<がまくんとかえるくん>では、「友だちとのつながりをエネルギーにして、日々にささやかな幸福を見つけつづけよ」という思いを受け止める。

 シリーズほかの『ふたりはいつも』『ふたりはきょうも』『ふたりはともだち』同様に、5つのお話が収められている。「よていひょう」は、朝起きて一日にすることを書きつけたがまくんが、それに従って行動しようとするのに、予定になく風にメモを吹き飛ばされてしまい困ってしまう話。落ち込むがまくんを救ってくれるのはかえるくんである。
「がまくんのゆめ」は、舞台狭しと活躍する自分と、それを席で見守る観客のかえるくんのファンタジー。がまくんが名演すればするほど、客席のかえるくんが小さくなっていってしまい、がまくんは大いに焦る。究極の選択を迫られるがまくんは夢にうなされるが、その枕辺にはちゃんとかえるくんが立っていてくれるのである。
「ローベルの本を繰り返し読んでさえいれば…」——私はいつもそう思っている。

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絵本画家にして糸紡ぎ、機織り、裁縫、料理の腕がプロ並み。読書家で園芸家。家族や自然とともに、その素敵な女性を支えたものは「言葉」だった。

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ラルフ・ウォルドー・エマーソンという人の「心に平安をもたらすことができるのは、自分しかいない」という言葉が巻頭に添えられている。それを見て、私はとても意外な感じがした。
 ああ、ターシャ・テューダーという人は、そういう人だったのか…と。

 すべてにおいて恵まれた人のように感じる。生まれてからニューイングランド地方の美しい風景のなかで暮らし続け、あたたかな家庭に恵まれ、自然の恵みに感謝しながら、絵を描き創造的に家事に取り組む。そんな人の心にも、上記のような言葉が必要な、ギリギリに追い込まれたような日々があったのだろうか。

 ターシャの楚々とした日々の生活の営みが、喜びや幸福につながっていくところばかりを見せられていた気がして、その内面の闇の存在に思いが及ばない。しかし、どういう種類のものかは分からなくても、きっとそれは存在するのだろう。人として生きるからには、そういうものからまったく無縁ではいられないのだ。この美しい言葉と絵で充たされた絵本も、そのような葛藤の産物なのだろう。

 まえがきにもあるように、喜びと心の平安は、かんたんに得られる人もいるけれど、そうでない人もいる。後者のような人のため、支えや憧れをもたらしてくれるのが本書である。オスカー・ワイルドやソロー、シェークスピア、コールリッジ、ワーズワースにヘンリー・ジェイムズ、ユゴーなどの小説、戯曲、詩から引用された言葉に、ターシャの絵が添えられている。言葉は抽象的で暗示的なものが多いから、この言葉についた絵がこういうものかという嬉しい驚きに満ちている。

 絵は、子どもたちの愛らしい一瞬の仕草をとらえたものであったり、ひとふさの花であったり、季節の景色であったりする。始まりも終わりもなく、1冊としての流れもさほど気にかけなくていいようだ。任意のページを広げて、そこに広がる言葉と絵のコラボレーションで広がる世界にひたればいいという作りになっている。

 引用された文章のなかには、私も確かに読んだことがあるはずなのに、そんな言葉があったのだろうかというものがあった。最近は、本の全体をとらえようとするあまり、その本のなかに、自分のためにとっておく言葉を見つけだそうという読み方が不足していたように思う。

 好きな音楽のあるフレーズが繰り返し思い出されるように、好きな本の一節が繰り返し思い出されるような本の読み方って必要なのだ。ターシャという人は、そのためにじっくりと深く、作家が言葉に宿した魂を読み解く人なのだろう。そして、その魂を絵に表現し直すことができる、たぐいまれな人なのである。

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百年分を一時間で

2001/07/30 13:29

この毒舌で偏屈な頑固じじい−−男女や人生の機微に通じ、感覚を研ぎ澄ますことを怠りないからこそ、そう在れる貴重な存在。至宝のような語り口で社会主義や流行歌、スポーツの100年などを知る楽しさ!

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 こういう毒舌で偏屈で頑固なじじいを私は誰よりも信用する。愛する。こんなじじいがご近所にいてくれたらなあと夢想する。好物の茶菓を手にいそいそと日参して、「邪魔だ。忙しいんだから、けえってくれ!」とか何とか言われながら、「まあまあまあ」と、一週間にいっぺんぐらいは上がりこんで話を聞くのだ。 
 そんな設定で本文が構成されているのが本書。
 まだ読んでいないのだけれど、これに先立って『誰か<戦前>を知らないか』というチャーミングなタイトルの本も出ていて、そのときから、若い世代の聞き手たちが章ごとのテーマに基づいて山本翁のお話を伺うという作りになっている。

 飾りなくぽんぽんと出てくる語りを起こしたものだから、読みやすいことこの上ない。知識が心もとない若い聞き手に突っ込みを入れたり呆れたりしながらも、正確で豊富な知識を丁寧に授けようという愛情がぬくい。名調子が楽しい。実際、その応酬に思わず吹き出してしまう箇所がいくつかあるのだけれど、それは若い聞き手に自分を重ね合わせたところから出てくる自嘲的な「参ったな」という笑いでもあった。

 聞き手はどうやら、翁が主宰するインテリア専門誌『室内』の編集者たちである。ポカもあるけれど、みんな結構物知りの人たちばかり。翁を相手に善戦しているところもあって心強い。

 政治や経済に真っ向から言及することは避けられている。それは、ポケットのなかの1000円札からこの100年の天下国家を察してもらおうという翁のイキな計らいである。
 で、一番力を入れて取り上げられているのが社会主義。社会主義には正義があるが、資本主義には正義がない。護憲として憲法を不磨の大典にしている。正義のためには何をしてもいいからと革命家は実は資本家からお金をもらっていたなど、独特の斬り込みがされている。

 ほかに扱われているテーマが「流行歌」「オリンピックそのほか」「就職難求人難」「花柳界」「芸人」「奉公人」「株式会社」「文士」など。

 商業主義のオリンピックなどおしまいだから、参加することに意味があり政治介入もなしというクーベルタンの憲章通りのものになる「子供オリンピック」に改め、親が弁当持参で見に行くようにしては…とか、日本人は木戸銭を払って寄席に笑いを買いに行った。そんな国民ほかにいません。日本の英雄豪傑は、全部講談で覚えた。あなた方が物を識らないのは、講談が滅びたからです…という具合に、荒唐無稽ではなく、現実の社会の落ち度を解析した上でのユニークな見識や発想にハッとさせられる。

 気持ちよく叱ってくれる。成長しろよ、学べよと暖かな気持ちをかけて忠告してくれる。ご本人もそれに照れがあるから、時には勢いよくぴしゃりと来て、相手に油断をさせない。
 この懐かしくたくましく支えとなってくれるじじいが見当たらなくなってしまったから、説教されるように物を教えてもらいたくて、私たちは翁の本にそれを求めるのだ。

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砂漠の囚われ人マリカ

2001/04/20 12:48

現代のモロッコで起きた政府高官一家の「監禁事件」──想像を絶する悲劇の人生。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 モロッコでは発禁、フランスでベストセラーになったのをはじめとして、米英独などで大反響があったという本の翻訳である。

 ホロコーストもベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件も経験した現代社会で、邪悪な個人や集団による陵辱により人生を犠牲にせざるを得なかった女性の自伝としては『女盗賊プーラン』が最近の日本で話題になった。
 この本も、人間の持つ深い淵である「悪」の実体を生々しく描きだしたという点において、もっともっと読まれていいのではないかと思う。

 モロッコの軍部の高官の娘であったマリカは、裕福な幼女時代を過ごしていた。国王や二人の妃の友人であるママについて王宮に参内した彼女は、小さな王女の遊び友だちにと請われムハンマド五世の養女となる。ラクダや象までいる動物園、海外から取り寄せた映画、バカンスに数多くの使用人といった贅沢三昧の生活だが、閉鎖的でアラビアンナイトのハーレムそのもの。マリカは11年たってようやく自宅に帰ることができる。

 家族との生活を楽しみ、奔放な若者カルチャーに触れたマリカだったが、父のウルフル将軍が時の王・ハッサン二世暗殺クーデター未遂の首謀者だったとして、砂漠の村へ追放される。
 そこから20年もの監禁生活が始まるのである。当初は大型の旅行トランクに詰めた好きなものに囲まれ家庭生活を送るような幽閉だったが、城壁から監獄へと移され、食べ物も衛生状態もすべてがどん底になっていく。

 最後に行き着いたビル・ジュディドの監獄では家族がバラバラに閉じ込められる。
 囚われた当時2歳半だった末弟、6、7、14歳の妹たち、13歳の長男、17歳のマリカは青春時代を奪われる。
 ネズミやさそり、ゴキブリがはいずり回るベッド、腐った卵や肉、それすらもなくなると限られた粉や豆を調理した食事、生理用品もなく、差し入れられた教科書も奪われ、紙もペンもおもちゃもない生活。家族は順番に病気にかかり生死の線をさまよう。

 隠し通したラジオの音が各部屋に届くように知恵をしぼって情報を集め、マリカの創作した壮大な物語を心の支えにした家族にも、互いに助け合って自殺を試みる絶望の日が訪れる。
 しかし、その淵から這い上がった子どもたちは、道具もないのにトンネルを掘り進め、脱出に成功する。

 外国大使館や友人を訪ねてもなかなか力になってもらえず、国内を放浪した結果、ようやくフランスのマスコミに連絡がとれ、道が開けてくる。
 が、真の自由を獲得できる日は、まだまだ先なのであった。

 マリカが監獄で絶望と闘っていた1983年に私はモロッコを旅行して、近くをバスに乗って通っていた。
「人類の恥」とも言うべきこの事件に、背筋が凍りつき鼓動が早くなって、言いようのない恐怖を感じた。
 何もできないに等しいけれど、看過することだけは許されない事実であると思う。人間の奥底に潜むものと闘うために知っておくべきことが書かれた本である。

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春の日の陽だまりのように心地よい「くんちゃん」の絵本。入学準備の園児、新一年生向きです。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 売場面積の大きい書店、絵本にくわしい係の人がいるお店でないとなかなかお目にかかれないのが、この「くんちゃん」のシリーズです。
 簡素な造本、7冊あるシリーズのどれもが二色刷りという地味さが手伝って、図書館でも見落とされやすい扱いです。

 お話は、幼い子どもに身近な生活童話。みどり豊かな森のなか、季節感たっぷりに展開される生活の場面が、べったりした生活感をともなわず、さりげなく表現されているので、とてもしゃれた印象です。

 私は7冊の中では、この『くんちゃんのはじめてのがっこう』がとても好きです。
 英語版ではどうなっているんだろうと考えてしまうぐらい、翻訳が練られています。「くんちゃん」という名前だって、元は「BUZZY BEAR」なのですから、その置き換えがいかに優れているかがわかるのですが、このお話では、初めて学校に行ったくんちゃんが文字や数を覚えるという設定で、それらがうまいこと日本語に溶けているので見事です。

 初めての授業で指名されそうになって怖くなったくんちゃんは、教室の外へ逃げ出して窓から中をのぞいています。でも、
「入ってきなさい」なんて、先生はしからないのです。
 くんちゃんの名前を黒板に書いて、「だれか くんちゃんの
[く]で はじまる ことばを しっていますか?」とたずねます。すると、窓の外からくんちゃんが「くま、くるみ、くまんばち!」と我慢できずに叫びます。
 作家が作り出した素敵な場面を、よくもこんなにリズミカルでぴったりな日本語にできたな…と感心して、息子になりかわって翻訳者にお礼を言いたい気持ちです。

 このお話のすぐれている点はまだあります。子どもが大好きな繰り返し話が、2ヶ所にわたって効果的に出てくることです。
 一つめは、初めて学校に行くくんちゃんが、学校までの道で、みつばちやこうもり、ビーバーなどに出会うたび、「ぼく、がっこうに いくんだよ」と教えてあげるのです。
 二つめは、先ほどの、くんちゃんの[く]で始まることばの前に、おんなじ新一年生のハリエットの[は]とス−ジーの[す]で始まることばが先生から問われるのです。

 カリキュラムがいじられて、教育を取り巻く環境がどんどん変化するなか、先生たちはとてもこんなのんびりとした学習時間を演出できないでしょうが、授業のなかみを楽しくして生徒が学びたくなるような雰囲気を作ってあげられるといいのだろうな…などという余計なことも考えてしまいます。

 当たり前でささやかな日常の大切さを再認識させてくれるのが、くんちゃんの絵本シリーズの良さだと思います。
 黒い線のペン画と、茶色の色鉛筆だけで描きだされた絵は、お話同様、何とも言えない暖かさで幸せな気分を運んでくれます。

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紙の本赤い高粱 正

2003/12/20 21:55

現代社会という狭い通風口のなかを這って前進している。時にうずくまりつつ…。突然、背後から襲ってきた爆風に吹き飛ばされ、出口から外に出されてしまう。莫言の文学とは、そのようなものだ。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 国際映画祭で高い評価を受けた「紅いコーリャン」の原作である。本書と続編の2冊が他の出版社の現代中国文学選集シリーズに所収されていたが、絶版になっていた。名作の誉れ高かったものの、巻末に添えられた訳者あとがきがどうも気乗りしないで書かれている風で、図書館で何回か手にとっては読まずにいた。
 本書には、稿が改められたあとがきが添えられた。ここ20年ほどの作家の歩みと内外の評価について分かり易い解説がされ、莫言文学の特徴について興味深い分析がなされている。さらに、張競氏による充実した解説も付けられ、作品を堪能したあと、改めてこの作家が描いているものの偉大さを確認できるようになっていた。

 訳者による興味深い分析とは、莫言の史観である。「わたしの心には、歴史などというものはない、伝奇があるだけです」という作家の言葉を引き、普通に言われるところの「歴史」は、莫言にとっては祖父母や両親、村人たちに語られ、記憶のなかに根づいている「民間の伝奇」の集成ということになると指摘している。
 カバーや帯の紹介を参考に書けば、この物語は、赤い高粱畑が炎のようにゆらめく高密県東北郷に生きた血と土に彩られた一族の凄烈な、それゆえに荒唐無稽なサーガである。
 1939年の抗日戦争から始まる。語り手である「わたし」の父が少年ゲリラとして参戦する日から、山積みの死体、犬やロバへのリンチ、そして人間へのリンチといったむごい場面が展開し、それと並行して「わたし」の父の特異な血の交配の背景が明らかにされていく。
 今、荒唐無稽という言葉を使ったが、おそらく物語の多くは実際にあったことに基づいている。鬼子兵と呼ばれていた日本兵に対し「わたし」の祖父が行った死体への陵辱について、わざわざ註が設けられている。その部分が醜悪でリョサの小説に類似があると指摘した友人に、「祖先のやった事は、功績も過ちも消したり、隠したりしてはならないのだ」と作者は答えたという(248P)。

 解説者である張競氏の解説で再確認できた偉大さとは次のようなものである。
「『赤い高粱』が人々を驚かせたのは、自然人のような生である。それも、現代人にとって眩暈するような強烈な生き方だ。目の前に展開されているのは、近代的な意味体系によって支配された世界ではなく、自然な意志のもとでの、素朴な村落共同体の中での生と死である」(322-323P)
 短篇集『白い犬とブランコ』の感想を書いたとき、最後に「生の区切られた時間だけが、小説的真実として、ただ生き生きとうごめいている」と私は書いた。本書で犬猫のごとく野合し、切り刻まれイナゴのように体液を垂れ流し、落下した果実のように朽ちていく——赤い高粱畑のなかで——そのような人びとの「爆風」を思わせる荒々しい言動と猛々しい激情にも、理性や品位、倫理にコントロールされるものはほとんどない。
 人間が人間として自分を認める時の、あるいは人間らしいプライドをもつための道具であるそれら理性、品位、倫理から人間を描くのをやめたとき、無統制や暴力に対する不安や畏れが多少なりとも作家にはあったはずである。それを飛び越え、自然の一部にしかすぎない人と家族の営みを書く勇気をもって初めて、可能になる表現の美しさがある。そう教えられながらこの小説を読み通すと、現代という息苦しい通風口の外に出て、新鮮な空気を胸一杯吸わせてもらえるのである。

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紙の本はなをくんくん

2003/02/16 14:36

これだけ素晴らしい絵本を手にすることができたなら、あとは心を込めて読むだけで観る人たちを別世界へ連れて行ける——本の持つ底力を認識させられた。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この絵本との出会いは、もう20年近い昔にさかのぼる。
「とにかく売れる本を作れ」と上の人間にこづかれながら、本の価値とは何だろうかを自問自答し悩みつづけた新米編集者時代に出合った1冊なのである。

 モノクロームの絵であることに、まず驚かされた。
「若いお母さんたちが喜ぶように、赤や黄色など派手な色を使え」と言われていたし、実際カラフルな本が売場にも図書館にもあふれていた。ところが、この本は表紙を開けると白黒だけの雪世界が広がる。ネタバレで恐縮であるが(でも、絵本の価値は一目だけでも見なくては分かりっこないんだし)、最後の14画面めになって小さな黄色の花が現れる。
「ああ、これは『天国と地獄』じゃないか」と感激した。
 黒澤明監督の代表作のひとつ『天国と地獄』は、原作がエド・マクベインの87分署シリーズ『キングの身代金』で、『はなをくんくん』の邦訳が出された1967年(米国での出版は1949年)の4年前に制作されている。誘拐犯を追う見事なサスペンスの白黒映画だが、その終盤、犯人逮捕に結びつく煙が高い煙突から湧き上がるシーン。煙だけが赤に彩色されているのである。
 そのシーン効果を最大に引き出すためであるかのように、モノクローム世界が控えている。ただ1箇所だけに現れた色に、受け手が感じ取るものの大きさ——偉大な作り手たちが選びとった禁欲的でいさぎよい表現に深い感銘を受けた。

 2月の初旬に参加したお話会で、「まだまだ寒いけれど、春を待つ気持ちを皆で味わいたいから」と、この絵本を選んだ。読みきかせのベテランの人たちには、すでに定番としてレパートリーに入れられている1冊である。
 赤ちゃんから小学校高学年までさまざまな年齢の子たちが集まる場所だと聞いていた。ちょっと事情のある場所で、心にゆとりを持つことが難しいお母さんたちもいる。

 ストーリー展開はシンプルである。雪深い森のここかしこで、野ネズミやクマ、カタツムリ、リスたちが静かに眠っている。ふと、目を覚ました動物たちは、はなをくんくんさせて、その香りの元はどこだろうと次々に駆けていく。絵本の技法としてごく基本的、だからこそとても大切な「くりかえし話」のパターンだ。
 大勢の人たちの前で読んでいると、「ちょっと間がもたないんじゃないの」と思うぐらいに文字の量は少ない。だけど焦ることなく落ち着いて読めばいい。なかなか来ない春をじっくり待つ気持ちで、最後の画面の愛らしい花のことだけを思い浮かべる。観る人たちが「この絵は、よーく観た」と満足の表情を浮かべるまで、ただ待つことを忘れてはならない。安易にページを繰ってはならない。
 最近読了した本のなかに、「本を読むということは、書き手を今の時代に甦らせること」といった内容の印象的な記述があった。私はその日、作家がいきいき甦って本の世界に大勢の人たちを誘う様子を見た。そして、自分がこれまで本から得てきたものを、確かにそこにいた人たちに注ぐことができたという実感に満たされた。いささか大仰ではあるが、本の持つ真価というものは、このような私たちのささやかな営みによって時空を超えて残り行くものなのだと知らされた。

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紙の本ラヴ・ユー・フォーエバー

2002/05/19 00:37

自分は不肖だという自覚のある息子たちへ告ぐ。母の日か、お母さんの誕生日か、クリスマスには、枯れてしまうお花ではなく、いつまでも枯れることないこの絵本をプレゼントにしさえすれば…。泣けるベストセラー。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1997年の秋に発行されて、その年のクリスマス・ギフトの目玉としてブレイクし、ロングで売れつづけている1冊だ。
 脈々と受け継がれていく親子の絆をテーマにしているから、
「もうすぐ赤ちゃんが生まれることになりました」と連絡があった知人に、近々プレゼントしようかなあと思っている。

 長い時が流れている本である。
 お母さんが生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこしてあやしている場面で始まる。つづいて、表紙の装画と同じ絵が現れる。みどり児を抱いたお母さんが銀河を漂っている。閉じたように見えるひとつの系としての生命が、太陽系まで、そして銀河系まで、さらにその先まで広がっていく…という存在の不思議を象徴するかのような表現である。
 宇宙への広がりは、空間としての広がりばかりではなく、時を超える広がりをも感じさせる。私たちのDNAに刻まれた太古の記憶、手のなかの子に託される未来からの記憶。
 この清澄な絵に、「アイ・ラブ・ユー いつまでも アイ・ラブ・ユー どんなときも わたしが いきている かぎり あなたは ずっと わたしのあかちゃん」という詞が添えられる。

 お話は、2歳になったやんちゃ盛りの子の悪戯シーンに展開する。ページをめくると再び夜になり、子の寝顔を確かめながら、抱っこして詞をうたう母の姿がある。
 次は9歳。ゴールデン・エイジとも呼ばれる発育発達段階にさしかかった子どもの姿だ。ゴールデン・エイジというのは神経の発達がほぼ完成し安定をみる年齢で、あらゆる物事を即座に習得することができるとされている。ここでは、ちょっと反抗したり、悪い言葉を使ったりする男の子が描かれている。
 そして、寝静まった子を抱いて、例の歌をうたう母の姿。
 夜ふけの歌は、はじけたティーンエイジャーになっても、独立して隣町に住む大人になっても、つづく。

 暴力に走る小1の子どもに悩むお母さんに「ぎゅっと抱きしめてあげれば…。そして、あなたはかけがえのない子なんだ、と口に出して言ってあげたら」と言ったら、「キモい」との返事。
 始終ベタベタしなくてもいいのだと思う。子どもがそれを欲しているタイミングを見逃すことなく、いくつになっても、抱きしめてあげることが母親の役目ではないか、と私は思う。
 スキンシップが欠如しているから、自分の存在をアピールしたいから、子どもは暴力に訴えて信号を発しているのではないか。
 そのお母さんにもこの本を贈りたいが、人づき合いは難しい。

 夢のなかに遊びながら、母親に抱かれて育った子どもは、老いて病床にあり、歌もうたえなくなった母親を抱いて揺らしてあげる。「ぼくが いきて いるかぎり あなたは ずっと ぼくのおかあさん」と口ずさみながら…。

 画家・梅田俊作氏が新境地を開いた画業だということを書こうとして紙幅が尽きた。この本の成功は、たゆたうように銀河に浮かぶ母子の表紙絵とタイトルのレイアウトではないかと考える。
 大勢の前での読み聞かせは、やめた方がいい。私は息子がお母さんを抱っこして帰宅したあと、まだ生まれたばかりの自分の赤ちゃんを抱っこするまでの3画面、声を出して読むと詰まってしまう。こみ上げてくるものと戦うような気分になるのだ。

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