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先月(2017年1月)

GGさんのレビュー一覧

投稿者:GG

96 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本数学ガール

2007/08/31 23:38

ライトノベルと数学啓蒙のアマルガム。かなり珍しい本。

21人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「高校生以上向け数学読みもの」という、マニアックで、かつ読者を選ぶジャンルがある。そこでは、トピックとしてあるレベル以上の数学の話題を扱う。しかし、教科書・参考書のようにカッチリ展開するのではないし、お話として興味深い話を結果だけ物語るのでもない。つまり、語り口はカジュアルでも、数式や術語を使っての議論もきちんと行なって、証明をつけるべきところにはきちんと証明を与えるのである。

古くは小針あき宏『デバク数学セミナ』(学生社)(後に『数学123…∞』日本評論社として再刊)、新しくは古川昭夫『代数・幾何プロムナード』(SEG出版)、あるいはちょっとひねって野矢茂樹『無限論の教室』(講談社現代新書)等が挙げられるだろうか。

こういった書物の系列に新たな一冊が加わった。それが本書『数学ガール』である。

高校数学から何歩か踏み出した話題を扱うことは、上記の本にもあった。小針本では、双曲線関数が述べられている。古川本では、数列のつくるベクトル空間という大道具で、東大入試の漸化式を解いていたりする。『無限論の教室』は、可能無限と実無限の違いを論じるところから始まっている。

しかし、本書『数学ガール』にはこれまでの本には、全くなかった特徴がある。新機軸は、オイラーを崇拝するメタルフレーム眼鏡のミルカさん(ツンデレ系というのかしら)と、元気一杯のテトラちゃん(妹系??)という、二人の女子高生の存在である。二人の美少女に挟まれる形で、主人公の「僕」の数学が段階を追って深まっていく。母関数、テイラー展開、調和級数、分割数…等々。これら数学の展開に、ライトノベル・テイストを取り入れるという試みがなされているのである。

私の感想は、女の子の口調をいきいきと感じさせるということでいうと、小針先生に一歩を譲る感じである。今から40年も前にあの語り口を自在に操っているところが小針先生の凄さだ。本書の場合、物語の展開や女の子の台詞回しということでいうと、素人っぽい描写がちょっとつらい部分もないではない。しかし、それでも楽しく読むことができるのは、語られる数学の興味深さもさることながら、やはり美少女の魅力もあると思う。少し筆が拙いところが意図せぬ味になっているといえるかもしれない。

もっとアニメっぽい絵がついていて、ライトノベル専門レーベルの文庫でこの内容が出版されていたら、とてもアヴァンギャルドな感じだけれど、さすがにそうはなっていない。そうであったら、稲生平太郎『アクアリウムの夜』(角川スニーカー文庫)を遥かに凌駕する、ジャンル逸脱の奇書の誕生である。

すごく珍しい数学の参考書として、手に取る人のライトノベルへの親しみ方はおいて、数学好きの高校生・大学生初年度の読者に勧めます。こういっては何ですが、逆は不可。ライトノベルの平均的読者は、残念ながら本書の「数学」には弾かれてしまうでしょう。

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第4部、第10編「子どもたち」の魅力

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『カラマーゾフの兄弟』が二部構成の小説として構想されていたことは、よく知られている。本編4巻+エピローグで構成されるあの大長編の冒頭には、謎めいた序文がつけられている。これから語られる物語は、われらの主人公アリョーシャの13年後の「今」を描くために必要不可欠な、彼の青春時代の一エピソードに過ぎない。伝記は一つなのに、物語は二つである。あの大長編は、もともとは来るべき第二部のための壮大な予告篇として構想されていたというのだ。

だが、その二つめの小説は、作者の死によって永遠に失われてしまった。

本書はその失われた物語のプロットを、できるだけ作者の意図に沿って復元してみようという試みである。こういう作業はとても興味深いが、危険をともなう。並みの書き手では、結局のところ書き手の器に話が収まってしまい、さまざまな声の響きあうドストエフスキーのあの凄みが感じられなくなってしまうのだ。

その点、著者の亀山郁夫は今回の画期的な新訳のために全文をなめるように読み込んだ文学者なので、大いに期待が持てる。評者は新訳カラマーゾフ読了の勢いの消えないうちに本書を読むことができ、大きな満足を味わうことができた。

亀山続編構想の一番の特徴は、今まで多くの論者に採用されていた「アリョーシャが皇帝暗殺者となる」というドラマティックな展開を捨てたことである。しかし、本書の論証にもあるように皇帝暗殺(=父殺し)というモチーフそのものは、当時のロシア社会の現実から考えても継続させられたはずである。では一体誰が実行犯となるのか。そしてアリョーシャの役割は。

そのとき、鍵になるのが、第4部第10編「子どもたち」である。その昔『カラマーゾフ』を原卓也訳で初めて読んだときには、この第10篇は冗長な感じがして、正直言って違和感を覚えた。しかし、亀山訳で読み直した今回は違っていた。亀山先生のおっしゃる通り、ここには第二の物語への助走がはっきり感じられる。今は、まだ数えで13歳のコーリャ・クラソートキンこそが、第二の小説の要の人物であり、きっと皇帝暗殺実行グループの長になる。そこにスムーロフやカルタショフがどのように絡むことになるのか。イリョーシャの姉ニーノチカとコーリャの関係は…など、書かれなかった13年後を空想しながら少年たちのやり取りを読むことはとてもスリリングな経験だった。

諸家の論を参考にし、新訳のための綿密な読みに基づいた亀山オリジナル・プロットは本書213ページ以下に読むことができる。第一の物語と形式を同じくする4部構成12編+エピローグからなる綿密なシノプシスに感動を覚えた。『カラマーゾフの子どもたち』というタイトルも決まっている。

ベルナルド・ベルトルッチ監督『1900年』という5時間を越える超大作映画に、線路に横たわって、汽車をやり過ごすというコーリャのエピソードが引用されていることを唐突に思い出した。長尺の映画の主人公たちの少年時代のエピソードだが、映画のラストでもう一度引用される。そうか、ドストエフスキーだったんだ。

20年以上前に見た映画の意味が今になってやっとわかるというのも、よいものである。さすがドストエフスキー、さすが亀山訳と、妙な感動の仕方をしている。

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紙の本ソラリス

2004/10/19 20:05

待望の新訳。不思議な魅力を持つ名作。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

A.タルコフスキー監督『惑星ソラリス』(1972、ソ連)は、ハイブロウなSF映画の傑作としてよく知られている。原作は、ポーランドの作家スタニスワフ・レムによる本書『ソラリス』(1960)。日本では飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』(ハヤカワ文庫SF)が、1965年の初訳から長年読み継がれてきた。

この伝説的作品の新訳がようやく刊行された。もともと2002年に映画『ソラリス』がアメリカでリメイクされたときに、タイミングを合わせて出版されることが予告されていたから、2年あまり待たされたことになる。

沼野充義による新訳は、名盤とされる古いLPがリマスタリングでクリアになり、今までは聞こえなかった細かなハーモニーも聞き取れるようになった印象である。従来の版に親しんだ者もこの機会に再読する価値が十分にある。訳者による巻末解説も充実している。

もともと『ソラリス』は、主人公の心理学者ケルヴィンとその自殺した恋人ハリーとの再会の物語として多く語られてきた。ソラリスの海によって、ケルヴィンへの《お客さん》としてハリーが送られてくる。そのハリーをめぐるケルヴィンの葛藤が最大の読みどころとされてきた。心理小説としての側面に焦点が当てられてきたのである。

しかし、新訳の再読で、それは本来は違っていることを確認した。

巻末の解説にもある通り、作者レムの狙いはソラリスという絶対的な他者とのコミュニケーションの不可能性という思弁にこそある。つまり、SFという形式を使ってしかできない思考実験を十二分に行うことが、この小説のメインテーマなのだ。相当な紙数を費やして描かれるソラリス学に関する描写や、第8章「怪物たち」での海の作り出す様々な模様の説明がその証拠といえる。さらに架空の書物であるギーゼ『ソラリス研究の10年』の詳細が、著者ギーゼの性格描写とともに二十数頁にもわたって記述されていることなどに、思弁SFとしての質がはっきり現われている(183〜206頁)。

この思弁の部分は、実のところ、十分説得的な議論を展開しているとはいえない気もする。表面的な用語の難しさのわりに、実質的内容がないようにも感じられるのだ。しかし、にも関わらず、ある種の哲学書のもつオーラを本書も持っている。よくわからないけど、魅力があるのだ。

そして、全体としての難解さ(とそれに伴う読みにくさ)にもかかわらず『ソラリス』は甘いラブ・ロマンスでもある。ハードSF『ソラリス』のなかで、実はサイド・ストーリーでしかないハリーとケルヴィンの再会に、何故こんなにも魅せられるのか。何度も繰り返されてきたこの問に、また私もとらわれる結果となった。不思議な魅力をもった名作である。

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紙の本鳥類学者のファンタジア

2007/10/29 19:41

波乱万丈の音楽SF。大傑作。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ジャズ・ナチス第三帝国・SF、という三題話である。私はその仕掛けを知らず、その前に読んだ『モーダルな事象』が圧倒的に面白かったので、そちらからさかのぼる形で手にとった。こちらも『モーダル』に負けず劣らずの痛快作であった。長編ミステリの世界に浸る楽しみを満喫した。

メインとなる舞台は、1944年崩壊間近のナチス第三帝国の首都ベルリン。神霊音楽協会所有の城館で、ナチスドイツ帝国の存亡に関わる秘密の音楽会が催されようとしている。この音楽会にはただならぬ秘密が隠されている。この音楽会に巻き込まれていく、日本人女性ジャズピアニストの主人公の運命は…。

というような物語が、著者独得の寄り道の多い饒舌な文体で物語られていく。開巻、現代のジャズ喫茶(東京都国立市)でのセッションから始まった物語が、ナチス第三帝国へ舞台を移すタイム・トラベルの展開は、SFやミステリをある程度読みなれた者なら大丈夫。しかし、この物語を楽しめるか否かは、読者のSFリテラシーにはない。この小説の関門は、ジャズをある程度聞き込んでいるかどうかにある。プレイヤーの名前や歴史・理論などを聞きかじったことがあるかどうかが大きい。奥泉氏得意のオカルト理論も登場し、ロンギヌスの石だの、オルフェウス音階だのが出てきても、こちらはミステリーを読みなれていれば、小説の彩りとして味わうことができる。しかし、ジャズにまつわる部分は著者の筆がいささか「本気」なので、読者もちょっと心得がある方がよいと感じた。

簡単なチェックテストは、タイトルの鳥類学者である。これを英語に直して、オーニソロジーと読みおろして、「なるほど」とピンとくる人たちに向けてこの小説は書かれている。うかつなことに私自身は、末尾のサービス・トラックの部分まで来て、漸くタイトルに合点がいきました(遅すぎ)。

主人公の女性ジャズ・ピアニストの造詣も秀逸。池永希梨子、おんなバッパー「フォギー」なんて、カッコいいではないですか。本当は話が逆ですが、『バナールな事象』の主人公の一人、ジャズ・ヴォーカリストの北川アキのカメオ出演を楽しむこともできます。

あのジャズ理論講義の金字塔、菊地成孔『東京大学のアルバート・アイラー』(メディア総合研究所)と並べて読むという濃い読書がオススメです。両者をつなぐ鍵人物として、ピアニスト山下洋輔が解説の筆を取っています。

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紙の本幼年期の終わり

2007/11/19 20:31

父親小説の3つのアスペクト

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

SFオールタイムベスト作の一つ『幼年期の終り』が、古典新訳文庫の一冊に加わった。早速、早川文庫版で読んだ昔を思い出しながら手に取った。タイトルがダブルミーニングないしトリプルミーニングになっていると読めることに気づき、再読の楽しみを満喫することができた。

小説はまず、オーヴァーロード(最高君主)たるカレランをいわば「父親」とし、その「子ども」たる地球人類の行方をメイン・プロットとした長大な物語として読める。「父親」と「子ども」の対立、そして子どもの成長と巣立ちという古くからの物語が、SFという新しい皮袋に盛られ、独得のフレーバーであるセンス・オブ・ワンダーに満ちた展開で語られている。このストーリーラインを明瞭に意識させるためか、かつての邦訳は創元推理文庫版では、『地球幼年期の終り』と題されていた。

しかし本書が古典となった今では、SFというジャンルを振り返る材料として『SF、その幼年期の終り』として読むことができる。1953年にオリジナル版が出版され、1990年に第1章が大幅に改稿された本書が、ある種の古さを持っていることはやむないことだ。しかし、古びたのはSFガジェットの部分ではない。インターネットとなっているべき部分がファックスに留まっていることが古さなのではなく、本書の根幹に関わるセンス・オブ・ワンダーの質そのものが昔を感じさせるのだ。二〇世紀的というか、冷戦時代的というか、基本にある発展史観にノスタルジーを感じさせるものがある。ちょっと強引だが、『ALWAYS 三丁目の夕日』のようなと言ったら、話を混乱させてしまうだろうか。

さらに。読者である自分の『幼年期の終り』としても読めて、とてもスリリングな読書になった。現在の自分は、中学生・高校生の頃、あれだけ夢中になって読んだSFというジャンルにもう興味を持てなくなっている(本書を初めて読んで衝撃を受けたのは、高校一年生のときだった)。また、SFそのものが「拡散と浸透」を経て、今やジャンルとしての輪郭さえはっきりしなくなってしまっている。00年代のSFを語るとき、ライトノベルの存在や「萌え」との関わりは外せないのだろうが、それらは私には鬼門だ。

そんなあれこれを考える題材として、かつて本書に感動した同世代の読者および今はジャンルSFから離れてしまったかつてのSFファンに再読を勧めます。00年代の若い読者がどう読むのかは、ちょっと想像がつきません。

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数学における一般化の精神を味わうガイド付きツアー

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

新書版の数学書にはいくつかのタイプがある。数多いそれらの作品は、数学者の著者が専門書として著わした横書きのものから、広い読者を想定して数式をできるだけ使わずに縦書きで書かれたものまで、グラデーションをなしている。

前者の代表に、弥永健吉『数の体系 上・下』(岩波新書)がある。この内容が新書で出版されたという事実には驚くほかない。上巻の出版が1972年に対し、下巻は1978年刊行という出版ペースの悠然さにも感動する。それに対し、最近の流れである後者には、たとえば、根上生也『計算しない数学』(青春新書2007年)があげられる。

本書は横書き数式あり派の著作で、数学を数学として語るスタイルを採っている。お話として比喩的に数学を語るのではなく、トピックをうまく選ぶことによって、数学をそれとして体験させてくれる。横書き・数式ありではあるが、定義・定理・証明というあの伝統的なスタイルではなく、もっと自由に数学を展開している。

選ばれているトピックは、パスカルの三角形や等比数列の和公式、などである。巧みな誘導によって前者からニュートンの一般二項定理の成立まで連れて行ってくれる。導きの糸として用いられているのは、三位一体の図式である(「数学とは違うものを同じに見る技術だ」というポアンカレの言葉が遠くで響いているようにも思える)。さらに前者からは、禁則であるr=10の代入という荒業を使って、p進数の世界を垣間見させてくれる。これが著者の専門分野に近いようだ。

しかし、「数学を数学として」という方針は、時として読みにくさ、ページをくるスピードの遅さにつながり、結果として通読できず、挫折してしまうことにつながりかねない。その難点を救うために、コラムが挿入されていたり、数学者のポートレートが挟まれていたりしている。リーダビリティも高い。

あとがきで言及されている岡田暁生『西洋音楽史』(音楽教養新書の傑作)の数学版と考えるとよいのではないでしょうか。さらに増田直紀『私たちはどうつながっているのか』と並べて読むのもよさそうです。これらはすべてシックな装丁の中公新書なので、三つを並べると、昔ながらの教養新書の香りがしてきます。

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無限のスーパーレッスン

2007/10/07 19:47

すごくこなれている。ゲーデルってそんなことをしたんですか。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

-センセイ!質問してもいいですか。

うん。いいけど。ちょっと本をわきにやるから待ってね。

-なに、読んでるんですかぁ。見せてください。ふーん、横書きの本なんですね。数学の本にしては、会話が多いんですね。あっ、このゲーデルって聞いたことがあります。センセイの薦めた野崎昭弘『逆説論理学』に名前が出てきました。論理パズルはおもしろかったけど、このゲーデルさんやヒルベルトさんが出てくるところは、正直言ってついて行けませんでした。

いや、あの部分は確かに難しくて文章の巧みな野崎さんにしても十分にこなれてない感じだね。きっと著者としても満足に思わなかった記述で、だから10年後に新しい本『不完全性定理』(ちくま文庫)を書いたのだと思うよ。
ゲーデルは、20世紀を代表する数学者の一人で彼の名が冠された「不完全性定理」は、その名前自身謎めいた魅力を持っている。神の存在定理を証明し、晩年は毒殺を恐れて妻の料理しか食べられなくなり、ついには餓死したなどというエキセントリックなエピソードすら超一流の数学者の証しのように見えてしまう人だ。
ゲーデルに興味をもったならこの本をオススメだよ。何よりよいのは、会話体の文章がとても読みやすい。こういうタイプの無限論の解説書は、歴史をくだってきて「ラッセルパラッドクス」のあたりにくると、だんだん喩え話が内容に追いつかなくなることが多い。その点、この本はすごく上手なサンプルをつくることと読者代表の理想的な聞き手を配することで、すっきり読めて、数学的な内容も伝わってくるという理想的な記述がなされている。数学としてきちんと記述したい部分は、主となる会話体に対して囲み記事や付録に追い出しているところが心憎いね。おかげで、コーシー列の理解が一段深くなったような気がする。いや著者のキムラが、こんなに文章家だったなんて知らなかったよ。

-木村さんって、センセイのお知り合いなのですか。

いや、同じ年生まれなだけで全然面識はないよ。君はまだそんなことをしないだろうけど、本を手にとるとまず著者の年齢を見るんだ。同い年生まれだと、それだけでシンパシーを持ってしまったりしてね。この本だと、細かい味付けの部分でニヤリとさせられたりした。巻末のパラパラマンガとか、66ページの白戸三平『サスケ』からの引用なんて嬉しいね。鏑じゃなくて、四貫目のカブト割というのが正しいはずだけど…

-センセイ!そんなこと言われてもわかりません。

いや、ごめん。でもそういう遊びの部分も含めて、この本は本当によくできているね。大学の学部ではセミナーといって、学生が説明役を務めて教授や助手がその聞き役にまわってビシビシ発表者の学生をしごくという形式の輪読を行なうのだけれど、その理想化された形を見せてくれているという味わいもある。岬教授のような女性は残念ながら、そう簡単にはいないけどね。
 さて、それより質問だったね。ああ327か。これは立体の概形を掴むところが難しい問題で……。

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情報環境論集

2007/09/19 06:20

明快な見取り図

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『中央公論』誌に02~03年に連載され、各紙の論壇時評で評判を呼んだ「情報自由論」がようやく単行本として読めるようになった。本書の第一部に、初出時の形態そのままにそっくり収められている。続く第二部は「サイバースペースは、なぜ(空間というメタファーで)そう呼ばれるか」という10年前の仕事である。ポストモダニズムという思想が、60年代以降の世界の情報社会化の進行の中でどのように展開してきたが、主題となっている。

どちらもクリアカットな理論装置で現実をぐいぐい切って見せてくれ、評論の面白さを味あわせてくれる。

著者は、見取り図の設定とキーワードのコピーライティングに才能を発揮するタイプのようだ。第一部でいうなら、「匿名性と顕名性」という対立軸の立て方が鋭い。ネットサイトによく見られる「この商品をお買いになった方は、こちらの商品にも興味をお持ちです」というサービスに対する強い懸念を東氏が表明しているのを少し前に見たときには、その真意がよくわからなかった。しかし、本書第一部を読んでやっと主張の意味がわかった。「私たちは実は、ウェブサイトをひとつ見るごとに、自分の使用機種やブラウザの種類、そのサイトに入る直前にみていたページのアドレスなどの情報を相手のサーバに無防備に曝して」いる。ウェブの世界は常に自らのIPアドレスを明らかにしながら情報を入手する「顕名性」を持った世界で、それまで紙媒体での情報のやり取りとは全く次元を異にするのだ。

私には、世評高い第一部「情報社会論」よりも、第二部「サイバースペースは…」が興味深かった。第二部は、大がかりな解読格子でフィリップ・K・ディックを切開する試みである。それと知らずに読み始めた私は、思わぬところで斬新なディック論に出会って感嘆した。社会思想史を少しかじった者にとって、60年代末の左翼運動の敗北から70年代のカリフォルニア・イデオロギーの勃興をつなぐのは、ある意味「常識的」かもしれない。しかし、この動きをもっともハッキリ示すものとしてP・K・ディックを取り上げ、その作品世界に具体的に準拠して、論証を深めていくスタイルは(若書きのペダントリーに少々まごつくが)、80年代ディック・ブームの頃の読者たる私には強く響いた。「無限交替」(かけがえのなさの無さ)と「不気味なもの」(<私>の代替可能性に穴を穿つもの)というキーワードの立て方がここでも決まっている。

以下は余談。新しいワーディングによるクリアカットな理論的切断というと、私などはどうしても浅田彰という名前を意識してしまう。本を書かない浅田と、その浅田と縁の浅からぬ、多作家の東。ハイカルチャーの趣味審判者浅田と、ライトノベルの擁護者東。こうした対比は、東本人にとってはどうでもいいことだろう。しかし、そういうありもしない対立の通奏低音をこの本の裏主題として聞いたような気もした。

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どうでもよさの効用。眠る前に読む本として最適。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

眠ることは身心の健康にとって最も根本的なことである。その昔サリンジャーは、「エズミに捧ぐ」の末尾を次の語りかけでしめくくった。「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機――あらゆるキ――ノ-ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね」また、当代きっての力動精神医学者である中井久夫は「ストレスをこなすこと」という抑制の利いたエッセイの冒頭で眠りの力について述べている。

…というような、理屈の勝った話はどうでもよい。率直な話、眠りが大切なことはいわれなくてもわかっている。ではどうやって日常の雑事を忘れて、深い眠りを眠るか。それが問題である。

本好きであれば、眠る前に読むお気に入りの本の一つや二つは持っているだろう(私の場合、古くからのキラーチューンは、つげ義春の『海辺の叙景』である)。それぞれの持ちネタに、次の一冊として本書を加えるのはどうだろう。この座談会の「ユルさ」、「脱力ぶり」は、しなければならない浮世のあれこれをとりあえず脇において、今晩はぐっすり眠りたいというシチュエーションにぴったりである。

著者たちの結集の場である「本の雑誌」の読者は、当然本書の存在はよく知っているだろうが、『発作的座談会』などというナメたタイトルを初めて聞いた人にこそ、本書はよく利くのではないかと思われる。

ただし、著者たちの年齢構成及び出版年の古さから言って、おじさん向けである。40歳以上限定アイテム??

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アニメより面白いアニメ評論

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いやー面白かった。300頁を越える長編評論だが、巻措く能わずの面白さに、一気に読み通してしまった。

内容は、主に子供向けアニメの登場女性キャラクターの分析だが、補助線として偉人伝・伝記の世界の女性像についても章が割かれている。フェミニズム理論による、サブカルチャーのイデオロギー分析の書といってもいいだろう。まあ、扱われている対象や採用されている軽妙な文体からすると、こういう大仰な言葉は似合わないのだけれど。

アニメ世界を「女の子の国」「男の子の国」と大きく分けた上で、前者からは『リボンの騎士』『キューティーハニー』『美少女戦士セーラームーン』、後者から『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』が取り上げられている(別章で宮崎アニメ)。偉人伝グループからは、ナイチンゲール、キュリー夫人、へレン・ケラーというライン・アップである。

こんな組合せで果たして論が成立するのだろうかと心配になるところだが、巧みな筆さばきで説得的な評論が展開されている。「職場の花」としての紅の戦士(場合によりセクハラ対象)、「オトナの女」としての悪の女王、「理想の女」としての聖なる母といった類型の作り方と、それらへの当てはめ技術が見事。少々無理な部分もレトリックの力で読ませてしまう。乱暴な口調で合いの手を入れるタイミングの計り方が絶妙である。これってひょっとしたら、吉本隆明流?

サブ・カルチャー評論には二つの落とし穴がある。細部のデータにこだわるあまり全体の論旨が曖昧になる(円堂都司和『YMOコンプレックス』)、逆に理論偏重のためジャーゴンだらけになる(斎藤環『戦闘美少女の研究』)かの二つである。その点、本書は平明な文体で、読み物としても楽しい仕上がりになっている。

いまさら力瘤を入れて力説するのもなんだけれど、アニメ論・オタク論・80年代論に興味ある読者の必読文献。先週までの私のように未読の人はすぐに読むべし。

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紙の本昭和史 1926−1945

2004/03/28 19:05

こんな昭和史講義を待っていた。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「歴史探偵」半藤一利氏による昭和史講義録である。昭和前期の歴史の根底にある満州の意味からレクチャーは始まり、昭和20年の終戦にいたるまでが物語られている。一回の講義でおよそ一年を扱うぐらいのペースで、全17章500頁にわたって昭和初期の歴史が詳細にそして明快に論じられている。登場人物は多いが、注釈や印象深いエピソードが適宜入るので、スラスラ読んでいくことができる。

一例を挙げよう。二・二六事件の勃発を天皇が最初に知ったのは、鈴木侍従長のたか夫人からの通報によるものだった(たか夫人からの助けを求める電話が宮中の別の侍従に入った)。ここで半藤氏は仮説を立てる。たか夫人は昭和天皇が子供のころの乳母である。その乳母から、自分の最も近しい侍従長の襲撃を知らされ、昭和天皇は愕然とすると同時にものすごい怒りを感じたのではないかと。あの複雑な事件を手際よくまとめるだけでなく、こうした細かな点にも目配りした記述は大変興味深い。

本書は、平凡社の編集者4名を生徒に行なわれた講義をテープから起こしたものがもとになっている。文章はですます調で、非常に読みやすい。昭和20年というひとまずの結末はもちろん誰もが知っている昭和前期の歴史であるが、細かな事実の持っている力は圧倒的である。粛然とした気持ちで一気に読了した。

他ならぬこの時期の歴史をもう一度きちんと読みたい、と思いながらなかなか果たせずにきた私にとって、まさにぴったりの書物であった。半藤氏の著作では、以前に『ノモンハンの夏』を読んだのだが、こちらは予備知識の乏しい身には記述の目が細かすぎて少々しんどかった。その点、本書『昭和史』はまさに私が学びたかったことが過不足なく記述されており、とてもためになった。

よい本を読むと他の本でもっと勉強したくなくものだ。本書はまさにそういう種類の書物であった。

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目から鱗の落ちる明晰さ。大河小説を読むような興奮。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

400字詰め原稿用紙で2500枚のこの大作がテーマとしているのは「戦後思想とは何だったのか」という問である。この大きな問に答えるための方法として、1945年の敗戦から1960年代末の全共闘運動に至るまでの言説の歴史が、巨大な織物として描かれている。

問題意識は明瞭である。著者は、1945年の敗戦から生活水準が戦争前まで戻ったとされる1955年までの期間を「第一の戦後」と呼び、60年の安保闘争を経て60年代末の全共闘運動に至るまでを「第二の戦後」とする。このふたつの戦後には、大きな断絶がある。前者において戦争体験の記憶は右派にとっても左派にとっても生々しいものであったが、後者においては時間の経過と世代の交代により戦争が一種の抽象性をおびてしまう。したがって同じ言葉、たとえば「市民」が使われていてもその意味するところは全く違う。その違いを踏まえなければ戦後思想をとらえることにならない、というのである。

本文だけで800頁を越える分量は、この問題意識を徹底するために是非とも必要とされたものである。著者は、ある論文(たとえば丸山真男「超国家主義の論理と心理」)を論じるにも、その内容を要約するだけではなく、発表時の社会状況が実感をもって感じられるように描写し、著者がそのとき何歳でどのような境遇の中でそれを執筆したのかをも記述の中に盛り込んでいく。さらに言えば、読者についてもどんな境遇の下でそれを読んだのかということをも問題にしていくという方法をとっている。

読み進むにつれ、様々な断片が組み合わされて、さながら巨大なジグソー・パズルが完成するように戦後史がひとつの図柄として浮かんでくる。著者は素晴らしい筆力で、多数の資料を巧みに引用・配列して、戦後思想についての説得的な物語を作り出している。この手法が最も精彩を放っているのが、60年安保を扱った第12章である。読みながら評者は自分の感情が揺さぶられるのを感じ、驚いた。全体を通じて、大河小説を読むような興奮を感じた。

小説のような読みやすさの一因は、戦後思想を代表する何人かのスター論者の登場のさせ方にある。たとえば吉本隆明。彼はいわば悪役を振られているのだが、その悪役ぶりが実に堂に入っている(今風に言えば、キャラが立っている)。といって、吉本本人の書き物のように訳のわからない造語や口汚い罵詈雑言でそれがなされているのではなく、あくまで引用と冷静な記述からなっているところが心憎い。

専門家でない一般の読者の読みやすさに細かな注意が払われている点も好ましい。いつもはこうしたテーマを敬遠している人も、大長編小説に挑戦するつもりで読んでみてはどうだろうか。総合雑誌など普段は手に取らない人にこそ向けて、本書は書かれていると感じた。高価な本だが、それに見合うだけの充実した読後感が得られることは本書を評する多くの人が保証している通りである。

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紙の本アナーキズム

2004/05/11 21:10

抜群に面白い思想講談

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

定番中の定番として丸山真男『日本の思想』(岩波新書)、あるいはぐっと渋く竹内好『近代の超克』(冨山房百科文庫)など、新書は思想系のロングセラーを輩出してきた。そうした名著の系列に新たな一冊が加わった。

本書がそれである。政治思想上の異端「アナーキズム」をめぐる考察を、よく練られた構成と明快な叙述で一気に読ませる。前口上としての序章に続いて、俎上に載せられ解読・解説されていく書物は次の十冊。

1.『大杉栄』(日本の名著46)
2.竹中労・かわぐちかいじ『黒旗水滸伝』
3.鈴木貞美編『大正生命主義と現代』
4.滝沢誠『権藤成卿』
5.埴谷雄高『政治論文集』
6.勝田吉太郎『アナーキスト』
7.宮田登『ミロク信仰の研究』
8.鶴見俊輔『方法としてのアナーキズム』
9.松本零士『宇宙海賊キャプテンハーロック』
10.笠井潔『国家民営化論』

予備知識になしにこのラインナップを見た場合、1・5・6はともかくとして、2・9はマンガだし、4はあまりにマニアックで非常に読みにくい本が予想される。しかし、そこは希代の弁士浅羽通明、読者を片時も退屈させることはない。博覧強記を誇る著者であるが、学者・評論家の中には同程度の読書家ならば、きっと別にもいる。しかし、蓄えた知識をこれだけ歯切れよく、エンターテインメントとして展開してみせる語りの芸を持っている者となると、現代日本でも屈指の存在ではないか。難解な理路をまるで講談を聞くように解き明かしてくれる(張り扇の音が聞こえてくるかのようだ)。

個人的には、千年王国論に引きつけての笠井潔読解がとても説得的だった。

しかし——。話は面白いけれど、結局著者は何が言いたいのだろう、という気分が芽生えてくるかもしれない。そうした部分へのフォローは、終章のまとめとあとがきの部分できっちりなされている。浅羽本の初読者は、まず本書あとがきを読んで「臨床思想士」たらんとする著者の構えを知っておくとよいと思う。

同時刊行された『ナショナリズム』もとても面白い。シリーズとしての刊行を構想しているようなので、続編への健筆を大いに期待したい。

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60年代末東京エリート高校生ワールドへの招待

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読書家が自分の人生を振り返り、どんな本をどんな時期に読んだかを述べた文章は大抵面白い。少年期の著者が読み進めていく本のタイトルとその内容も興味深いが、思い出とともに語られる自己形成の過程にとても惹かれる。自分の読書体験と比較して、ありえたかもしれない別の自分を想像してみることが楽しい。

その意味で、『読むことのアニマ 子供部屋の世界文学』(筑摩書房)および本書『ハイスクール・ブッキッシュライフ』(講談社)は、どんな類書よりも面白かった。評者は、四方田氏のような超絶読書家ではなかったが、が、それでも赤い大判の箱入りの少年少女世界文学全集には小学校でそれなりに親しんだし、河出書房版世界文学全集と言われれば、あの独得の灰緑色の装丁をありありと思い出すことができる(ところで、少年少女世界文学全集の版元を四方田氏は講談社としているが、小学館が正しいのではないか)。著者はこれらの書物の中で、幼年期および十代の成長期に読んだ本のあれこれを長い時間を隔てて再読し、当時の思い出と再読時の感慨をともに語っている。

《好きな書物を読むことは心躍ることだ。だがさらに魅惑的なのは、長い歳月が経過して、心をひとたび忘却の河の縁に佇ませた後に、もう一度同じ書物を読み直すことである。》

著者は、本書を上梓した後に上の言葉を記している。ここに端的に述べられているように、ある種の経験を経た者にとっては、思い出すことの方が新奇なことよりも豊かに感じられる。過去の出来事への拘泥に、たとえばポルノグラフィ作家の誕生の秘密を見る著者の視線は鋭い。

なお、上の文はこう続く:

《この書物を書き終えたわたしは、今こそ、高校時代に行った読書以外の悪行の数々を、別の書物によって記しておくべき時期に来ている。》

そうして書かれたのが『ハイスクール1968』である。したがって本書を読み終えた読者には『ハイスクール1968』へ向かう楽しみが残っている。2冊合わせてどっぷり60年代末の世界に浸ることは、現在の文化状況への意外な通路(たとえば、押井守の主題)を発見することにもなり、きわめて刺激的だ。

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紙の本永遠の吉本隆明

2003/11/11 20:24

吉本より橋爪

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いわゆる思想書の読書を続けてきて、吉本隆明の存在はずっと謎だった。何人もの注目すべき論者から言及されているのだが、いざ読んでみると、これがほとんどの場合よくわからない。論旨が辿りにくく錯綜しているし、しばしばなされる論敵への批判はハッキリ言って口汚くげんなりさせられる。どこが一体戦後思想の巨人なのだろうと感じざるを得なかった。

そこへ、あの明晰をもって鳴る橋爪大三郎の吉本隆明論が出た。長年の謎が解明される違いないと直観して早速読んでみた。

編集者を前にした口述がベースとなっているので講義を聴いているようで読みやすい。切れ味のよい断定を交えた論理展開はいつも通りで、これで随分吉本がわかった気になれた。

本書は、四部で構成されている。
第一章 吉本隆明はどんな思想家なのか:その出発点の確認
第二章 吉本隆明の仕事を読んでみる:『共同幻想論』等主著の要約
第三章 吉本隆明はどう闘ってきたのか:80年代90年代吉本を評価する
第四章 吉本思想と橋爪社会学と:吉本から受け取ったものと自分(橋爪)の課題

するする読むことができ、懸案の謎も解くことができた。吉本は戦後世界という時代の徴を深く刻まれた思想家なのだ。およそどんな思想家であれ、時代性から自由になることはできないし、また思想家たるもの固有の時代性を引きうけてこそのものである。問題は、そこからどれだけ普遍性へ飛びあがれるかにある。吉本思想の射程が同時代を超えてどこまで及んでいるのかは、私にはよくわからない。しかし、少なくとも文藝評論という主要分野と、そのレトリックにおいて世代限定性を強く持っていることがわかった。あの啖呵に喝采でき、「原生的疎外」といった術語を素直に受け取れる者(多くは団塊世代だ)だけが、良い吉本読者になれるのだろう。

もう少しきちんと言うと、吉本はマルクス主義への態度決定が若いインテリゲンチャにとって死活的問題であった冷戦期の思想家なのだ。だからその時期に自己形成を遂げた知識層にとっては受け入れるせよ反発するにせよ重要な位置を占めていた。時代がややくだって80年代の大学生だった私にとっては発言の真意が掴めなかったということなのだと思う。

ソ連が解体してから既に10年以上になる。もはや冷戦期の戦後ですらない今、若い読者が読むべきは橋爪であって、吉本ではない。著者の意図には反するかもしれないが、私はそう感じた。

「吉本を死んだ犬のように扱ってはいけない」などと言いながら、再評価する若い人が出たりするのだろうか。あまりそんな気はしないのだけれど。

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